口の端から漏れた笑み
玄関の向こうから足音が聞こえる。
ゆっくりと遠ざかっていく足音。私はそれに耳を澄ませながら自らの頬を揉み解した。
笑顔が引っ込んでくれない。三日前のあの日からずっとそうだ。アオイを見るだけで笑みが浮かんでしまって仕方がなかった。
答えが出たんだ。
ずっとずっと問いかけていたその答えが。
三日前のことを思い起こす。アオイが風邪をひいてシュウガクリョコウを諦めなくてはならなくなったあの日を。
アオイに手を掴まれた。自分とイズミの分の夕飯を用意するために寝室を後にしようとした私の手を、アオイはまるで震えそうになりながら、けれど力いっぱい掴んだ。
もう少しだけ一緒にいてほしいと、そんな風に言われた私は心の奥の何かが溶けていく感覚に浸っていた。
それは罪悪感だ。
私とイズミがアオイにかけている負担を思って、私はいつも罪悪感を抱えていた。
私たちのせいでアオイはいらない苦労を強いられている。背負う必要のない重みを背負わされている。今回のことも、私たちがいなければそもそも起きなかったことかもしれない。私たちがいなければアオイは頑張ってアルバイトをする必要もなく、疲労から体を壊したりしなかった。
もしかすると私たちがいなくても何かしらの問題が起きて同じようにアオイはシュウガクリョコウを諦めることになったのかもしれないけれど、それでも今回のことの原因を辿っていけばその元のところに私たちの存在があるのは明白だった。
そうやって今までもアオイにいろんな苦労を強いてきたから、私の中にはいつだって罪悪感とそこから生まれる遠慮が漂っていた。
それが今、私の中から綺麗に取り除かれている。
理由は単純。アオイが私の手を取って私を求めてくれたから。
アオイも私たちのことを――私のことを必要としてくれているのだと実感できたから。
一方的に与えられるのではないと、私たちは互いに一緒にいてほしいと願っているからそばにいるのだと理解できたから、私の心は今とても軽い。
思えば、私たちの関係は最初からそういうものだったはずなのに。いつからか私はアオイにただ甘えるだけで何も与えることができていないと思い込んでいた。出会ったばかりのころ、共に暮らすことを選んでくれたアオイが言っていたことをすっかり忘れていた。
俺は俺のためにお前を匿うんだ。
同情も気遣いもいらないと、私という存在を匿うだけで満たされるとアオイは言ったのに、その私たちの馴れ初めともいうべき言葉を私は忘れていた。
「アオイも、私を必要だって思ってる」
そう口に出してみたら、また口がにへへと言った。この笑い方はあまり好きじゃないのに癖になったそれはそう簡単には抜けてくれない。
いつからとかそんなことは思い出せないけれど、ずっとこの笑い方をしてきた。
確か最初は、何かを隠すための苦笑いだった気がする。
何を隠したかったのかは今はもう思い出せないけど、確かそうだったはずだ。
そう遠い過去を回想しようとして、私の意識は少し前までさかのぼった。
答えが出た。
二か月近く前の話。アオイがパン屋のお兄さんとお泊り会をしていた時のこと。
アカネの部屋にお世話になっていた私たちは恩返しという名目で部屋の掃除をすることになった。落ち葉の山のごとく無造作に積み上げられた本を整理するために。
あの時私は一冊の本を見つけた。それは私たちがいま最も必要としている一冊。
私が師匠の蔵から持ち出した、彼の日記。
後ろのページには三つの魔法が記されていて、そのうち一つを私は使用したことがあった。
異世界へ渡る魔法。
そう記されたページには見たこともない魔方陣が描かれていて、私は興味本位にそれを試し今に至る。
私がアオイに出会うきっかけとなった魔法だ。
みんなを巻き込んでしまった魔法が、そこには記されていた。
そしてその隣りのページ。今はアオイの寝室に隠してあるので手元にその本はないが、私はそこに記されていた文字列を鮮明に記憶している。
異世界から帰ってくるための魔法。
そこにも見たことのない魔方陣が描かれていて、その魔方陣自体を今ここで描いてみろと言われても私にはできないけれど、その文字だけはこびりついていた。
元の世界に帰るための魔法。私たちが探し求めていた魔法。
その存在を私は知り、見つけ、そして隠した。
ずっと自分に問いかけていた。なんで咄嗟にそれを隠してしまったのかと。なんでそんなことをしたのかと。
誰がどう見たっておかしな行動だった。私たちにとって必要なはずのそれを、私は見なかったことにした。
なぜ、どうして。そんなことをした自分が理解できなくて、私はずっと考えていた。
その答えが出たのは三日前。アオイに手を握られたあの日だ。
何かに怯えるようなアオイを見て、その大きさとは裏腹な頼りなさげな手の平を感じて私はようやく気付くことができた。
胸の奥に漂い続けていた罪悪感はもうない。けれどいまは代わりに別のものがある。
それは決して澱むことはなく軽やかに胸中を漂い、あるはずのない熱を錯覚させてくれる。そんなこそばゆくて暖かい。だからこそ気恥ずかしいもの。
私はその存在を確かめようと胸に手を当てる。最近は寝間着として使っているローブは使い込まれているだけあって生地が薄くて、手の平を乗せれば胸の音が指先を揺らしてくれた。
「うん」
それを実感して私はまた笑みを浮かべる。にへへなんて声の漏れる笑みを。
「やっぱり、そうだよね」
問いかけるまでもなく答えは返ってくる。私自身が先にその答えを用意していた。
確認のために呟いた言葉に音が返ってくることはないけれど、胸の音に耳を澄ませてみれば何か温かいものが吐息となって私の口から漏れ出ていた。
「そっかぁ」
にへへという声は私にだけ届いて消えていった。




