花も折らず実も取らず 7
「ウミ、留守番頼む」
修学旅行の一件から三日。制服に身を包んだ俺は床に転がったカバンを拾い上げながら黒い短髪の少女に声を投げる。
たった一日で完治した体調はもはや気に掛ける必要もない。アルバイトも休んでいたこともあって、疲労までもがすっかりと抜け切りこの数年で最も万全の体調だと言えるほどだ。
当然、そんな俺の外出を気に掛ける彼女ではないだろう。しかし、ウミは群青色の瞳を細め俺のそばへと寄ってくる。
「どうかしたか?」
俺の背後に立った彼女に疑問符を投げてみれば、ウミは相も変わらずにへへと笑って見せた。
「見送る」
「そうか……?」
珍しいこともあるものだと思った。
常日頃からいってらっしゃいや行ってきますのやり取りはしていたが、その会話はリビングですることがほとんどだった。ウミはいつもイズミの相手をしていたからだ。
珍しくイズミがべたつかなかったからだろうか。慣れない申し出にむず痒いものを感じつつも俺は玄関へと歩みを進める。背後からは、ウミの小さな足がフローリングを踏むぺたぺたという音が聞こえてくる。
その小動物のような足音に耳を澄ませながら、俺は昨日思いついたことを口にする。
「ウミ、提案なんだが」
「なに?」
背後にいる彼女の表情はうかがえないが、きっと小首をかしげているのだろう。その顔を脳裏に浮かべながら、俺は続ける。
「もし、異世界に帰ることになったらさ」
「…………」
「最後に旅行に行こう。イズミと三人で。修学旅行の費用分浮いた金で、その、最後に」
言い終わってもまだ、玄関にたどり着かなかった。
彼女の足音を気にかけながら歩いたせいだろうか、決して長い距離ではないはずなのにえらく時間がかかっていた。
玄関に脱ぎ捨てられていた靴に爪先を通すまでそれから二呼吸ほど時間に余裕があった。
「あんま贅沢はできないけど、軽い旅行くらいならできるから……っと」
言いながら、何を焦ったのか俺は靴に爪先をひっかけてからたたらを踏んだ。
気恥ずかしくて、俺は肩越しにウミを覗き見る。
「笑うなよ」
「笑ってないよ」
そう反論する彼女の口元にはにへへが張り付いている。だから俺は気に食わなくて玄関のドアへと手をかけた。
「行ってらっしゃい」
ドアノブをひねるよりも先に彼女にそう言われ、俺は一瞬動きが止まる。
「行ってくる」
言いながらドアノブを捻り外へ出る。ドアを閉めるために半身で振り返ってみれば、視線の先にいた彼女はまだにへへを顔に浮かべていた。
「なんだよ」
「何でもない。にへへ」
ずっとその表情をたたえたままの彼女に俺は気後れし、ため息を吐いた。
ウミは普段から笑顔が多い女の子だった。不安や心配も顔に出やすいが、形はどうあれ彼女は笑顔を浮かべることが多い。
だから今も彼女が笑っていることに不快感はないし、悪いとも言わない。
けれどなんだか今日の彼女の笑みはいつものそれとはどこか違って見えた。
どこか晴れ晴れとしたような、陽だまりで暖かさに身を浸すような、そんなものに似た何かを感じた。
もしかするとそれは彼女の中にある母性や何かがそう見せているのかもしれない。
風邪をひいている間、俺はずいぶんと情けない姿をさらしてしまった。一人は嫌だと、そばにいてほしいと、まるで幼子のような我が儘を口にした。彼女の手を取りもう少しだけ、もう少しだけと拘束し続けた。
そんな姿を見てしまったから、ウミの俺に対する認識が変わってしまったのかもしれない。
今まで頼りになる人間を演じてきたつもりはないが、それでも居候させている身としてそれなりの意地を張ってはいた。俺のすることなすことすべてに不安を覚えないようにと。
しかしあんな情けない姿を見せられては不安も覚えるだろう。この男を頼っても平気なのかと。自分たちのかける負担でこの男はつぶれてしまうのではと。そんな風に思われてしまうのではないかという不安はウミの手を取ったあの日からずっとあった。
しかし、こうも温かみのある目を向けられるのは完全に予想外だった。
イズミを見る目に似たものを感じる。
端的に言ってしまえば、ウミにとって俺は支えるべき相手になってしまったのだろう。今の彼女の瞳からは、年端も行かない息子がお使いに出かけるのを見送るようなどうしようもないほどの母性がにじみ出ている。
「じゃあ、学校行くから留守番頼むな」
気恥ずかしさから、気付けばもう一度外出の宣言をしていた。
「いってらっしゃい」
ウミは嫌な顔も見せず、ずっと満たされたような笑みを口元に称えて俺を送り出す。
俺は気恥ずかしさのあまり頬が紅潮していくのを感じつつドアを閉めた。
「失敗だったな」
風邪をひいていた時の自身の行動を思い返しそう呟けば、ドアノブがガチャリと音を立てた。
ウミが内側から施錠したのだろう。俺は鍵を出す手間がなくなり手持無沙汰になった指先を学ランのポケットに突っ込んだ。
十月一日。まだ冬服を着るにはいささか早すぎる。晴天の空はコンクリートだらけの街を熱し続け、現時点ですら目を細めたくなるほど。昼になれば夏が思い出したように戻ってくるのではないだろうか。
体が汗をかく準備を始め、背中にむず痒いものが伝う。
それを少しでも遠くへと押しのけるために、俺は学ランのボタンをすべて外してから歩き出した。




