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異世界へようこそ  作者: 澄葉 照安登
第四章 あれもこれもと手を伸ばす
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花も折らず実も取らず 6

 頬に伝わる振動で目を覚ました。

 胎児のように丸まった寝相のせいか妙に息苦しくて、目を開けるよりも先に大きく息を吸い込む。埃と汗のにおいが充満していて、あまりの不快感に咳き込みかけようやく目を開く。

 頭まで布団をかぶっていたらしい俺の視界には青白い光。

 それは自身の視界の端から漏れていて、体を半端に起こせばその光の割合が大きくなった。

 スマホを頬で押しつぶして寝ていたのだと気づいた時には、条件反射でその画面を確認していた。

 布団を蹴飛ばしつつ表示されたそれを脳が認識し始める。

『体調どうだ?』

 そんな短いメッセージの送り主はわざわざ考えるまでもない。

 俺は半分閉じた瞼をそのままに、上体をどうにか起こした。

『そっちはどうだ?』

 質問に質問で返すというのは不作法だろう。けれどわざわざ悪いままだと伝える必要もない。相手の心配を煽る事実を返すよりも、その場しのぎの嘘を送るよりもそういう俺の態度を向けたほうが健はきっと気が楽だと思った。

『こんな感じだ』

 すぐに帰ってきた返事には何枚もの写真が添付されていた。

 宿泊先と思しきホテルの写真、その内装と割り当てられたのであろう部屋。バイキング形式の夕食と列を作る私服姿の生徒たち。そのどれにも健の姿は写っていない。当然といえば当然だ。その写真を撮ったのが健なのだろうから。

 しかし、少しばかり安堵した。

 見れば写真に写った名前も覚えていないクラスメイトは健の向けるカメラに満面の笑みを返している。中には大きく前に突き出したピースなんて少しばかり前時代的なポーズをとる者もいる。

 別に心配していたわけではなかったが、それを見て心の荷がわずかに降りる。

 修学旅行中の予定をほぼすべて俺と組んでいた健が見た限りでは楽しくやっている。彼の人当たりの良さと懐の深さを鑑みれば俺が心配することなど一つもなかったのだが、罪悪感はあった。修学旅行当日にドタキャンをした形になってしまったのだ。そのせいでもし健が満足に楽しむことができていなかったら、と考えて不安に思っていた。

 しかしそれはものの見事に杞憂だ。写真の中に筋骨隆々のその姿はないものの、レンズの向こうを覗いている彼もその景色の中にいるのだと確かに伝わってくる。

 よかった、と思う。本当に心からそう思える。

「…………」

 ただ、それ以外にも思うことは確かにあった。

 俺はそれが胸の深いところに溜まってしまう前に大仰な溜息として吐き出した。寝室内は自身の発した熱と湿気のせいで軽いサウナ状態だ。布団はとうに蹴飛ばしていたが、ベッドの上にいるだけで背中や足の裏から汗がにじんでしまう。

 俺はシャツの胸元を摘まんでぱたぱたとやりながらベッドから足を下ろす。裸足の足の裏に百均の安いカーペットの感触。フローリングならば多少冷えていて気持ちよかったのだろうか。

 などと考え重い腰を上げようとした瞬間、寝室に控えめなノックが響いた。

「アオイ、起きてるぅ……?」

 耳打ちでもするような声音とともにゆっくりとドアを開いたのは碧眼の少女。黒い自称ローブをポンチョのように頭からすっぽりとかぶっている短髪の異世界人。

「あ、起きてる」

 ウミは俺の姿を認めるなりひそめた声をやめる。そんな彼女の手には湯気の昇るおわんとスプーン。

「今さっきな。……お粥作ってくれたのか?」

「うん。おなかすいた?」

「少し」

 言いながら歩みを進めるウミに向き直る。さすがに座っている俺と立っているウミとでは視点が普段とは逆転している。

 見上げる形になった俺は、もしかすると物欲しそうに見えたのかもしれない。ウミはにへへと笑いながら目線を合わせるように前かがみになりおわんを突き出してくる。

「食欲あるなら、よくなったのかな?」

「どうだろうな」

 言いながら俺は差し出されたおわんを落とさぬよう両手で受け取る。

「あっついな」

 おわん越しに伝わる熱に少し驚きつつ膝の上に乗せた。鍋を直接つかんだわけでもないのに火傷するほどの熱を感じてしまったのはおわんが安物だからか、あるいは発熱の影響で感覚が狂っているのか。

「出来立てだから」

 そんなことをどこか得意げに言いながらウミはスプーンを手渡してくる。俺はそれを受け取り膝の上のおわんに乗せた。

「…………」

「…………」

「……アオイ、食べないの?」

「猫舌なんだ」

「ふーふーする?」

「子供扱いすんな」

 なんて言いながら少しだけいいかな、なんて思ってしまった自分がいた。

 風邪をひいて弱っているからだろうか。普段は感じられないウミの姉としての空気に甘えたくなってしまったらしい。

 情けない。少し体調がすぐれない程度で何を弱気になっているのだろう。

 体温調節のためにと吐き出す息は重たくて、それをただのため息なのだと自身で錯覚してしまうせいだ。きっとそうに違いないと思いながらおわん持ち上げ息を吹きかける。

「食べ終わったら呼んで、おわん取りに来るから」

「え?」

 そうしたのと同時、ウミが立ち上がったのを見て俺は声を上げてしまった。

 吹きかけたはずの吐息はおわんの淵にも届かず立ち上る湯気を揺らすこともない。代わりに膝に手をついたウミの瞳が動いていた。

「どうしたの?」

「あ、いや……」

 何でもない、とそう続くはずだった。

 けれど言葉はそこで止まってしまい、妙な空白が出来上がってしまう。

「アオイ?」

 不思議そうに俺の目を覗き込むウミ。俺は柄にもなくその目を見つめ返していた。

「あ、いや大丈夫かと思って」

「大丈夫って?」

 抽象的な物言いに首をかしげるウミ。疑問符を放ちたいのは俺だって同じだった。

 いったい俺は何を聞こうとしたのか。いったい何を不安に思ったのか。そんなもの自分に問いかけたって答えてはくれなかった。

 理由なんかない。それが答えだったのだから。

 けれど俺はあがくように言葉を探す。枕元、カーペット、天井にドア。どこを見ても何も浮かんできはしないがそうしなければいけなかった。

「イズミと二人で、大丈夫かと思って……」

「ん? うん、大丈夫だよ?」

 今更そんなことを気にしていたのか、と言いたげに首をかしげる。それもそうだ、平日俺が学校に行っている間はウミとイズミ二人で過ごしているのだから、そんな心配は今更というほかない。

「買い物とか、大丈夫か?」

「うん、困ったら自分で行けるよ」

 ウミがこの世界に来てずいぶん経つ。今でも漢字の読み書きは難しいらしいが、日常生活に支障がない程度には読み書きができるのだからそれを心配する理由はない。

「一人で出かけるのは大丈夫か?」

「うん、朝も行ったし」

 その通りだ。イズミと話すために厄介払いの形でウミを追い出した。買ってきてほしいものがあるからと。その時に俺は一人で外出させることに対して不安を抱いていただろうか。

 抱いていてもそれはきっと形だけのものだった。

 ウミのすることに対し不安を覚えることはもうほとんどなくなっている。

 ウミに何かを任せ、俺は自分のしたいことを優先する。そんなことができるようになっているのだから。

「それと……」

 俺はただ言葉を続ける。そうしている間に一つ、本当に心配なことが脳裏をかすめた。

 イズミの体調はどうかと。今朝は流しらが触れ合うほどの距離で言葉を交わしたのだ。そんなすぐに症状があらわれるものなのかはわからないが、心配と言えば心配だった。

 けれど、俺がそれを口にするよりも先にウミは小さな声で俺を呼んだ。

「……アオイ」

 そして普段とは明らかに様子の違う俺を見たウミは膝立ちになった。

 目線の高さが逆転する。

 まるで従者と主人。忠誠を誓わせるような距離感。けれど慣れ親しんだその距離感に俺は安堵した。

 ウミがこの場にとどまってくれたことにも深く安堵した。

「どうかしたの?」

 群青色の瞳が、俺の瞳の奥にある感情を覗き込もうとまっすぐに見つめてくる。

 そうされてしまうと俺は目をそらすほかない。今更胸中を悟られたくないなどと往生際が悪いことこの上ないが、もはやこれは習性のようなものだった。

「どうもしてない」

 逃げるように言えば、ウミは品定めでもするような視線を俺に向けた。

 けれどそれも一瞬で、彼女は俺の目をしっかりと見ながら言った。

「それならいいけど……。イズミのご飯待たせてるから戻ってもいい?」

「あ、ああ」

 ずきり、と胸が痛んだのはどうしてだろう。いやどうしても何もない。ウミの態度が冷たいと感じてしまったからだ。

 実際には普段とは変わらないのだろう。なにもおかしなことなどないのだろう。けれど俺は思ってしまったんだ。冷たいじゃないかと。

「じゃあ私戻るね。何かあったら呼んで」

「ぁ……」

 だから、気づいた時には彼女の手を掴んでいた。立ち上がりかけたウミの手は膝に乗せられていて、まるでその動きを抑えるかのように。

 そのためだけに出した手の平は、すぐに彼女から離れていく。

「アオイ?」

「……しだけ」

「ん、なに?」

「もう少しだけ、いてくれ」

「わかった」

 呆れられてしまっただろうか、俯いている俺に彼女の表情を伺うことはできない。けれど声音を聞いて判断するに、そんなことはないと思えた。それはもしかすると俺がそう思いたいからなのかもしれないけれど。

 膝立ちに戻ったウミは上目づかいに俺の顔を覗き込む。表情の変わらない彼女に言い知れぬ恐怖を感じるが、逃げる事もできなかった。

 ウミが手を伸ばしたからだ。

 何をされるのかとおびえつつも、俺はじっと待っていた。眼を瞑ることもせず、迫る手の平を追っていた。

「まだ辛い?」

 ひやりとした額の感触を認識するまでに時間はかからなかった。俺の様子を伺いみる瞳は先ほどまでよりもよほど近いところにあって、確かめるように額に触れる手の平がまるで撫でるように動く。

 熱を感じた。触れられた額に、近づけられた吐息に、そして目の奥に。

 俺は奥歯をかみしめた。よほど弱っていたのだろう。ただ熱を測るための行為を、頭をなでられていると錯覚してしまった。胸の痛みを癒そうとしてくれていると、そう感じてしまった。

「ねえアオイ」

 俺が何の反応も返せなかったからだろう。ウミは小首をかしげて見せる。

 しかしどうやらそれは返事を催促したわけではなかったらしい。言いにくそうに、彼女は続けた。

「シュウガクリョコウ、どうしても行きたかった?」

「…………」

 何といえばいいか少し迷った。おどけて見せるべきか、素直に心情を吐露すべきか。

 数舜の沈黙の末、俺は溜息を吐いて後者を選んだ。

「初めてだったんだ」

「初めて?」

 オウム返しをする彼女の手を離しつつ、俺は頷く。

「修学旅行、初めてだったんだよ」

 口にすると、苦いとすらいえない無味の記憶が蘇ってきた。それこそ目の前の少女と同じ年のころ、あるいは今リビングで姉の戻りを待っている少女と同じ年のころの記憶が。

「小学校の時も、中学の時も、俺はそのイベントだけは参加できなかったんだ。だから、今回が初めてで、楽しみにしていたんだ」

 口にしてしまえば、たったそれだけのことだ。楽しみにしていたからいけなくなって残念に思っている、悔しいとさえ感じている。それだけのこと。

「参加できなかったって、今みたいに?」

「いや、風邪を引いたわけじゃない。他の理由だよ」

 俺はウミを伺いみる。俺の家庭事情を知っている彼女を前に今更そんな気遣いなど無用だとわかってはいるが、それでもこういった話題を出すときはどうしても身構えてしまう。

 俺はうつむきながら切り出す。

「金銭的な余裕がなかったんだ。そのころはまだ俺と母親の二人で暮らしてたから」

 もっと言えば、母親のあの責任感や罪悪感に語り掛けてこようとする物言いのせいとも言えなくはなかったが、それを語るのも今更だし、何より蛇足になるので口には出さなかった。

「それにもしも修学旅行に行けてたとしても、何も楽しめなかっただろうしな。高校に入る前までは友達の一人もいなかったから」

 それは家庭環境の鬱憤のせいだ、と俺は思っている。実際はそんなことはなくただ俺の人となりのせいだということは重々承知だが。

 今よりも幼いころの俺は、周りの人間がことごとく恨めしかった。

 両親がいて、文句を言いながらも笑って過ごしている同級生が腹立たしかった。

 なんで恵まれているお前らがそんなにも不平不満を口にするんだと。親が口うるさくてうざったいだのと幸せ自慢のように笑顔で、不幸自慢のようにおどけた調子で言うそいつらが俺は大嫌いだった。

 そんな俺の心情が態度に表れていたのだ。中学を卒業するまで俺はいつも一人でいた。誰一人として俺に話しかけてくる者はいなかったし、俺もまた誰かに話しかけることもなかった。話しかけてほしいとすら思わなかった。

 そんな俺が興味のない土地に無理やり連れていかれて楽しめるとはずもない。

 修学旅行の大義名分は文化や歴史に触れ見分を深める事らしいが、実際のところ修学旅行の楽しみなど一つしかない。

 夜遅くまで仲のいい誰かと一緒にバカ騒ぎができる。それを楽しみにしているに過ぎない。

 楽しめるはずもなかったから、修学旅行に行けないことに対して不満はなかった。どうせ行けないだろうという諦観が先だったのかは今はもうわからないけれど。

 そんな俺でも、いやだからこそ。今回は期待に胸躍らせていた。

 仲の良いと思える友人ができた。費用のやりくりにはそれなりに苦労したが、どうにか賄うこともできる。楽しみにするなというほうが無理な話だった。

「最後のチャンスだったんだ。だから今回だけはってずっと楽しみにしてた」

 未来のことを語るのは好きではない。それはどうしたって明るい話にはならないから。希望など感じられず不安ばかりが積みあがっている。

 けれど、一つだけ決めていることがあった。

 高校を出たらすぐに働きに出よう。あの家から出て、母親から解放されたい。それと同時に島崎さんに今以上の負担を強いることがないように。

 だから、今回が最後だったのだ。学生という身分で無責任に楽しいだけの時間をむさぼることができるのは。

 最後のチャンスだったのだ。修学旅行というイベントを俺の中で楽しい思い出に昇華することができる最後のチャンスだった。

「どうしても行きたかった。学生の楽しみを、俺は知りたかった」

 ありふれた学校生活を求めていた。

 それは例えば誰かと定期テストの勉強をしてみたり、昼食を共にしてみたりといった些細なことから。修学旅行で意味もなく夜更かししてみたり、文化祭でげらげら笑いながら屋台を回ったりといった局所的な快楽だったり。

 特別なことなんていらなかった。ただ母親との確執に悩まされる苦しいだけの毎日ではなく、文句を言いながらも笑っておどけることのできる日々が欲しかった。

 ありふれた学生としての日常のすべてが俺は欲しかった。

「ウミたちのことを考えるなら、そんなの諦めるべきなのはわかってたけど、どうしても諦められなかったんだ」

 俺よりもさらに幼い二人の女の子を放置してまで叶えたかった。

 かといってウミたちとの生活を諦めたくもなければ関係が悪化するのも望んでいなかった。

 強欲に、すべてを求めていた。

 そんな醜いとすらいえるだろう俺を見つめるウミは膝に手をつき身を乗り出す。

「アオイ、寂しい?」

 小首をかしげた彼女の群青色の瞳には、苦虫を噛み潰したような男の顔が映っている。

「ああ、そうだな」

 その男は目をそらしながら、再び年下の女の子の手に触れた。

 先ほど呼び止めた時とは違い今度はおっかなびっくり、確かめるように。

「だからウミ。あと数分でいい、ここにいてくれ」

「うん、いいよ」

 にへへとはしなかった。

 ウミは真剣な面持ちで俺の目を覗き込んでしっかりと頷いて見せた。

 俺の弱弱しい手の平を、彼女が握り返してくれてから――。

 俺は黙って彼女の手を眺め続けていた。


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