帰れない異世界人 1
「異世界転生?」
ウミとの邂逅の翌日。学校から帰宅した俺はウミ宣言した。
「そう、異世界転生。ん? 異世界転移か? まあそういうことなんだと思うぞ?」
学ランをハンガーにかけながら何食わぬ顔で言えば、ウミは首を傾げる。
「それって、なに?」
「文字通り。別の世界に飛ぶことだな。トラックにはねられて死んで、別の世界で第二の人生を送る、みたいなの」
「そういう魔法があるの?」
「割とポピュラーな。数年前から流行ってるらしい」
フィクションの話だ。
言いながら授業の合間に小説投稿サイトで覗き見たそれらを思い出す。アニメもたくさんやっているらしいが、あいにくと俺の家にはテレビはないし、有料動画サイトに契約するような余裕だってない。というかそもそもデータ通信料も一番安いプランで登録しているから動画なんか見ようとすればすぐに動きがのろくなってしまう。
「ぽぴゅ?」
「何の鳴き声?」
ハンガーに学ランをかけ終え振り返る。それから背後の少女を見ればあどけなさの残った顔をコテンと傾げていた。
「まあ、そういう概念があるっていう話な。俺も詳しいわけじゃないけど」
言いながら寝室を抜けリビングスペースに向かう。昨日と同じくウミは俺の後をとてとてとくっ付いてきた。
「ってかそう言えば、ウミ今日昼ごはんどうした。いやというか朝ごはん食べたか?」
「あ、食べてない。えへへ」
今思い出した、なんて言いたげに笑うとウミの腹からごぎゅぅ、とか言う排水溝に水を流すときみたいな音が鳴る。俺は危惧していたことが現実となりしまったと思いながら、帰宅時にローテーブルに置いたビニール袋に手を伸ばす。
「悪い。家の中何も無かったろ。パンはちょうど切らしてたし、夜の分の材料使っていいとも言っとかなかったしな」
今朝がた、目覚ましにたたき起こされおぼろげな思考でウミに外出の胸を伝えたことを思い出す。
今日はあまり遅くならないからとりあえず待っていて欲しいと告げ、ウミもそれにぼやけた声で返し、俺は学校へ向かった。だから今日半日、もしやとは思っていたのだ。帰宅したらウミがいなくなっているのではないかという懸念と同じく、何も口にせずに俺の帰りを待っているのではないかと。
ビニールの持ち手に手を通し、中のものをあらわにするべくウミに向ける。
「とりあえず、パン買ってきた。好みとかわかんなかったからいろいろある。好きなもの食べてくれ」
「あ、いいの!?」
ウミはそれを見るなり子犬みたいなリアクションをした。そして再び浴槽の唸り声みたいな音が彼女の腹から鳴る。
「もちろん」
断る理由などなかった。こちらの配慮不足が引き起こしたことなのだから。
「ありがとう。じゃあ……」
きっちりと、そして笑顔でお礼を口にしたウミはビニールの中に手を突っ込む。それから総菜パンと菓子パンをそれぞれに手に持って見比べる。
「じゃあ、これ」
言いながらウミは右手に持ったツナとコーンのパンを見据え、逆の手に持ったメロンパンを袋に戻した。
「別に二つ食べてもいいぞ? というか食べれるならもっと食べてもいい」
遠慮があるのだろうかと思ってそう言えば、ウミは頭を振る。
「ううん、いい。多分これでけっこうお腹いっぱいになるから」
ウミはそう言ったけれど、その手に持ったパン一つで腹が膨れるとは思えなかった。
彼女のこぶしと同じ大きさのパン一つでは、朝昼と食事にありつけなかった彼女の体は満たされない。俺よりも明らかに小さな体であろうが間違いないだろう。
けれどウミがあまりにも屈託なく笑うから俺は「そうか」と返すしかなく、ビニールをローテーブルの上に置いて胡坐をかいた。
それからウミにテーブルの向かいに座るよう促し、座って向き合う。すっかり脱線しているが話の途中だった。
先ほどどこまで話したかと思い出し咳払いを一つ。
俺はたまの暇つぶしに利用しているそれらのいくつかの作品を頭に浮かべながら語った。
「多分ウミは元の世界で転移の魔法か、あるいは召喚魔法みたいなのをやろうとしたんだろう。で、転移魔法なら成功して、召喚魔法なら失敗して、まあ昨日転移魔法がどうって言ってたから成功して、自分が異世界へ飛ぶって結果になったってわけだ」
「そうなの?」
「え、違うの?」
得意げに語った俺を見て、ウミはきょとんとする。
「……えっとだ。ウミはなんかの魔法を使ったらこの世界に来たんだよな?」
「うん。転移の魔法って書いてあった」
「そうだよね? 俺の記憶違いじゃなかったならよかった。でだ。何はともあれウミはこの世界にやってきたわけだが、その目的とかってあったりするのか? 例えばほら、勇者を探しに来たてきなそういうの」
「ないよ」
「……ないの?」
「うんない」
「あ、ないの」
きっぱりと断言されて、俺は落胆した。
昨日はいろいろと混乱していて脳が働いていない状態でのやり取りだったから何か聞き逃していたのだろうとそう思っていた。例えば私の住む世界を救ってくださいみたいなの。
けれど、彼女の断言を訊き。その曇りの無い瞳を見て俺は若干狼狽えた。
「え、異世界転移とかってそういうのが付きものじゃないの?」
「そうなの? 私初めてこの魔法使ったからわかんない」
「そうなの? え、特殊能力とかそういうの貰えないの?」
「? わかんない」
「俺を迎えに来たとか、そういうことではない?」
「うん」
往生際悪く問い直すが返ってくるのはさっぱりとした答え。何度問い直そうとも同じ声音で同じ言葉が返ってくるだけ。
俺は深く手間息を吐いて額を抑えた。
「……いや、うん。なんとなくわかってたよ。普通迎えに来るんじゃなくて呼び出すもんだよな。それに俺死んでないし。いやでも、最近流行ってたでしょ。何のとりえもないどころか生きる意味も見いだせないような主人公が特別な力貰ってウハウハするやつ」
あくまでフィクションの話。いろいろあって、生きることに何の希望も持てないなんて言う主人公が異世界で人生のやり直しをするというのがお決まりだった。
だから、そうなのかと若干の期待をしていたのだ。
空想と現実を混同していると言われればその通りなのだが、魔法なんて言うものを目の当たりにしたのだからそんな期待を抱いても仕方のない事だろう。ましてや俺はと言えば諸事情で大変な立場にある身。蜘蛛の糸が垂れてきたと歓喜するのも仕方のない事ではないか。
なんて、誰にも向けていない言い訳を脳内で並べ立て、それをため息をと一緒に吐き出す。
「じゃあ、ウミは何しに来たの? 観光?」
力なく問えば、ウミは「んー」と唸りながら首を傾げる。それから指折り数えるみたいに俺の言った言葉を反復していった。
「えっと、とりあえずここって私のいたとことは違う世界なんだよね? それでこの世界ではそういうことがよく起きてる、ってことだよね?」
「あー、それはちょっと誤解がある。起きて欲しいって言う願望を持った人がいっぱいいる」
一応釘を刺したのだがウミは首を傾げただけに留め思案顔で続ける。
「それで、そういうことがよく起きるから。アオイは私がアオイを迎えに来たって思った」
「いやそれも俺の願望なんだけど、まあいいや」
口をはさむのもなんだか億劫で、状況の整理をしているウミをそのまま傍観する。
ウミは首を左右に傾げながら、時折唸り声をまぜる。
「異世界転移って言う魔法がよく使われてるところだからアオイはあんまり驚いてなくて、私を泊めてくれて、私より状況をわかってる。…………ねえアオイ」
「なんだ?」
ひどくエッジのかかった声で返事をする。見ただけで年下とわかる少女に呼び捨てにされるというのは少し気になるところではあるが指摘はせずにおく。
暫し待つとウミは困り笑いを浮かべ、手元を隠すみたいに手を後ろに回した。
「どうやって帰るのか、わかる?」
「……は?」
素っ頓狂な声を上げる俺に、ウミはにへへと笑顔を浮かべた。
「私、帰り方わからないんだ」
「えお前本気で言ってる?」
「うん、ほんと」
どうしよう。なんて言いたげに笑う少女に俺は呆気にとられる。
半日以上彼女を放置して、ようやく判明した事実。
ウミは、元の世界に帰れないらしい。