花も折らず実も取らず 3
「これと似たようなやつがあればそれでもいいから」
差し出したスマホの画面には500㎖のスポーツドリンクの画像。ものによって疲労回復時、体調不良時に適したものがあるとネットには書いてあるが正直どちらも変わらないと思っていたので曖昧に説明をする。
「うんわかった」
それを受けたウミは何かを問い返すこともなくすぐに踵を返し玄関へと向かおうとする。
「いや待て、金まだ渡してないだろ」
「そうだった」
にへへと笑いながら踵を返した勢いのままに振り返る。まるでバレリーナみたいな回転の仕方をするが、当人はアスリートでもなんでもなく細身の女の子だ。
ウミはわずかに体制を崩してたたらを踏んだ。
「おとと」
「別に急ぐ用事でもないから落ち着け」
言いながら俺はジーパンの尻ポケットに手を突っ込む。顔を出した武骨な黒色の財布はやせ細っているせいもあって傷やしわが目立っている。
「これごと持っていけ。一応金の計算はできるな?」
「うん大丈夫」
同じ文字を使っていたわけではないらしいが、この数か月で小学生レベルの読み書きであれば問題なくこなせるようになっていたウミは細い指で似合わない男物の財布を摘まんだ。
「別に買いに行く場所はどこでもいいけど、近場で済ますならコンビニに行け」
そもそも朝早くからスーパーが開いているわけもないが、もしも何か問題が起きても店長が相手ならば安心できる。
「あとスマホも持っていけ。困ったら最悪その画像見せてこれくださいって言え」
それでもやや心配が勝ってしまった俺はスポーツドリンクの画像を表示させたままのスマホを差し出す。ウミはそれを落とすまいと両手を皿のように持ち上げたのでその上にそっと落としてやる。
薄っぺらいスマホは落下の衝撃もあってかウミの手をわずかに揺らす。
けれど落とすようなことはなく右手にスマホ、左手に財布を持った彼女はそれをしっかりと握り顔を上げた。
「わかった。行ってくるね」
「あ、待て何かカバン。それと着替えッ」
「ローブにポケットあるからいい。行ってくるー。あとお粥は食べててー」
俺が気にしたのは機能性のことではなかったのだが、ウミはぼろ布の内側に手に持ったそれらを突っ込むと足早に玄関へと駆けて行ってしまった。
あんなみすぼらしい格好で外に出ることへの抵抗感はないのかと呆れつつ、とはいえ追う気力もない俺は遠くに聞こえる施錠音とほぼ同じタイミングで息を吐いた。
二人きりになった。イズミの望んだとおりの状況は作ることができた。
今から彼女は何を語るのか。何を伝えるのか。
いい予感などはなくて、自分でこの状況を作ったというのに目を背けたくなってしまう。けれどそんなことをしていてはすぐにウミが帰ってきてしまうかもしれない。
俺は意を決して振り返る。
「イズミ、話って」
「にい、まずはベッド行こう」
「…………え?」
いきなり言われた俺は頓狂な声を上げてしまった。当然、あらぬ誤解をしたわけではない。何せ相手は十歳の女の子なのだ。いかがわしい考えなど浮かぶはずもない。
俺が頓狂な声を上げたのはただ単にイズミが心配のようなものを見せたことに驚いてしまったからだ。
手を掴まれ、半ば引きずられるような形で寝室へ。
それから彼女は体を大きく振って投げ飛ばすように俺をベッドの上に座らせた。
「おかゆ持ってくるから待ってて」
「いやいいよ。話のほうが――」
「ちゃんと食べないとダメ。ねえに言われたでしょ」
「いやそうじゃなくて、イズミやけどしそうだから自分でやるって」
「にいはイズミを甘く見すぎ」
言いながらイズミは手を放し一度寝室を出る。
甘く見すぎなどと言われてしまったが、俺はイズミが家事の類をしているところを見たことがない。普段からウミがすべてこなしてくれているからだ。夏には茜さんの部屋の掃除を手伝ってはいたがそれだけ。仮に彼女が家事の手伝いをし慣れていたとしても、配膳のみとはいえ背丈の小さな彼女を台所に立たせてしまうのは不安があった。
しかし、近頃の俺はイズミに強く出ることができない。ベッドに座らされてしまった俺は自身の不安が杞憂に終わってくれることを祈るばかりだ。
何度か鍋をたたくような音が聞こえた。派手な音が立たなかったことを考えれば、事件は起こらなかったとみえる。
果たして、寝室に戻ってきたイズミの手には鍋とスプーンが握られていた。
「いやそのまま持ってきたのかよ」
皿にでもよそってくれると踏んでいた俺は肩透かしを食らい反射的にツッコんでしまった。
そんな俺にイズミは少し不服そうだ。
「ちょうどいいお皿なかった」
「あー、食器の種類少ないしな」
我が家にあるのはもともと俺が使っていたプラスチック製のコップと百円均一で売っている茶碗と平皿。あとはウミとイズミのために買った茶碗くらいのものだ。一応カレーをよそえるような皿もあるにはあるが、それだと大きすぎると判断したのかもしれない。
決してそんなつもりはないが、文句を言ったような形になってしまったので俺は頭を下げる。
「悪い、やってもらってるのに。そのままでいいよ」
言いながらイズミから鍋を受け取る。決して大きな鍋ではないがお粥が入っているせいでやや重く感じる。それを置く場所も見当たらないので膝に下ろした。
「いやこれ熱いな」
ジーパン越しにかなりの熱量を感じてとっさに持ち上げた。触れただけでやけどをするとまではいわないが、そのまま膝の上に置いていれば低温やけどくらいはしそうなものだった。
俺は仕方なくそれを床に置いて背筋を伸ばす。
「食べないの?」
「猫舌でな、先に話をしよう」
気を使ったわけではないが先に要件を済ませてしまおうと思った。何やらイズミの様子もさっきからおかしいし。
俺の様子を伺おうとするその瞳は近頃見慣れてしまった鋭さをどこかに落としてきてしまったらしい。
睨まれるよりかはましだと言いたいところだが、それはそれで気になってしまう。先に食事をしてしまおうなどとはとても思えなかった。
俺をじっと見つめたイズミはそのまま一度二度と小さく呼吸を繰り返した。
深呼吸というわけでもなさそうだった。気持ちを作っているというそぶりでもない。ただ俺の表情を読み取ろうと必死になっているようだった。
「話したいことがあるんだろ?」
このまま時間だけを食いつぶしてしまうわけにもいかないので先を促す。
するとイズミは俺の目をまっすぐ見詰めてから、視線を落とした。
「ごめんなさい」
「……ん?」
一瞬脳が理解を拒んだ。耳に届いてはいたのでわずかなラグのあと、その言葉の意味を理解する。けれど、浮かぶのは疑問符のみ。
「なんで謝るんだ?」
てっきり俺はイズミに怒られるものだと思っていた。ねえの負担を増やすんじゃない、なんていう風に。
けれどいま彼女が口にしたのは謝罪の言葉で、それは糾弾からは最も遠いところにあるものだった。
彼女は一度下げた顔を上げ、まっすぐ俺を見る。
「イズミのせいでしょ?」
「いや何が」
「イズミがにいを困らせたからにいが風邪ひいた」
「…………」
違うと、すぐに言うことができなかった。それも原因の一つであることは明らかだった。むしろそこから起因したと言えなくもない。
そんな思いが表情に出てしまったのか、あるいはそんな表情を読み取る準備をしていたのか。イズミは鼻が触れるような距離まで近づけていた顔を離すと再び視線を落とした。
「ごめんなさい」
視線につられてわずかに首が垂れる。表情こそ乏しい彼女だが、そんな態度を取られてしまえばその胸中を察するのは難しくなかった。
俺は気休めにもならないとわかっていたが言葉を紡いだ。
「俺の体調管理がなってなかっただけだ。イズミのせいじゃない」
「嘘。イズミのせい」
「嘘じゃないって」
「そういうのいらない。ちゃんとわかってる。にいを困らせてたことも」
こういうところはとことん理詰めで話してくるイズミに歯が立つはずもない。いやこれは理詰めなどではなくどこまでも感情的なのかもしれない。最近でこそ怒りの感情をよく見せてはいたが、基本的に喜怒哀楽が顔に出ないからつい彼女は感情の乏しい女の子だと勘違いしてしまいそうになる。そんなことあるはずがないのに。
十歳の女の子だ。この世界で言えば小学生の女の子。
そんな彼女が感情的にならないわけがない。彼女よりも五年以上生きているはずの俺だってついさっきまで気が立っていた。八つ当たりだってしてしまった。
イズミだって同じだ。表情が乏しいから感情の起伏が乏しいわけじゃない。姉のことを第一に考えるからほかのことは考えないというわけではない。
彼女は自分の気持ちをうまく言語化できないから言葉にできなくて、表情だってうまく作れないだけの、そんなどこにでもいるただの幼い女の子なのだと今更ながらに理解した。
「ごめんなさい」
「いいよ。全部イズミが悪いわけじゃない」
その言葉は本心だった。いろいろなことが重なっただけなのだ。
イズミの態度に戸惑ってしまったこと、悩まされたことから始まりはしたがそれがすべてではない。バイトを少し増やしたこともわずかではあるが理由の一つ。ほかにも、いやきっとこれが一番の原因なのだろうことも一つ浮かぶ。
俺は楽しみにしすぎていたのだ。修学旅行というイベントを。
遠足前の小学生のように、寝つきが悪くなってしまった。眼前に迫った行楽に心躍らせすぎてうまく眠ることができなくなってしまったのだ。イズミに悩まされていたからだけではない。
「でもにい、ごめんなさい」
しかし、イズミは相当気に病んでしまっているようだった。半ば喧嘩中ではあるので若干ふてくされたような色は見えるものの、それでも彼女の胸中を支配しているのは後ろめたさだった。そういう相手に気休めは逆効果だ。いつぞやのウミもそうだった。生活に限界が来たあの時と同じだ。
なら、堂々巡りになるだけの気休めではなく、ほかのアプローチを仕掛けようと思った。
「…………じゃあ、一つ教えてほしい」
「なに?」
「イズミは俺の何が気に入らなかったんだ?」
「…………」
イズミに倣ってまっすぐ目を見つめれば、彼女は一瞬だけ目をそらした。
それからすぐに俺の目を見つめ返し、顔を近づけた。
「ねえには言わないで」
「わかった」
二つ返事で了承する。あくまで彼女の優先順位はウミが一番上で、そんな姉に嫌われるかもしれないという不安があったのだろう。
頷いた俺を見たイズミは一度視線を落とす。どうやら言葉を探しているらしい。俺は彼女の準備が整うのをじっと待っていた。
お粥の入った鍋から湯気が消えたころ、彼女はぽつぽつと語り始めた。
「にいのしたことが、ねえをいじめる大人に似てたから」
「いじめる?」
ウミからそんな話は聞かなかった。いやそれどころかそんな疑いの目を向けようものならばウミは不機嫌になるほどだった。
どういうことかと思い話の先を覗き見る。
「ねえはずっといい子って言われてて、だから何でもやらされた。いろんなこと頼まれて、お願いされて、ねえはそれに全部笑顔で頷いてた」
想像に難くない話だ。むしろそうでなくてはウミらしくないとまで思う。
イズミは続ける。
「それを、ねえは嫌がってたわけじゃない。けど、イズミはねえをそうやって使う大人が嫌いだった。ねえにあれやれこれやれっていう大人が、イズミは嫌い」
それからイズミは口元を引き結び、目つきを鋭くした。
「ねえのしたいことを聞こうともしない大人が嫌い。大人のどうしてほしいを押し付けようとするから、イズミは大人が嫌いになった」
「……それを俺に感じた?」
問うと、イズミはこくりと頷いた。
「にいは、ねえがどうしてほしいかを聞かなかった。気にかけてくれなかった」
「いや、大丈夫か聞いただろ」
「それは大人がねえに言うことをきかせるために言ってた。そんな風に言われるとねえは絶対頷くから」
「……………」
その通りだと思った。ウミならば、平気かと聞かれたら平気だと答えるだろう。どれだけ苦しい状況になっても、一人でどうにかできるかと問われれば大丈夫と笑って見せるだろう。そんなことたかだか数か月の付き合いがあればわかってしまう。
俺も最初から分かっていた。思っていた。
ウミは頼めば首を縦に振ってくれるだろうと。
そこで無理だということはないし、一人は寂しいなんて我が儘を言うとも思わなかった。
それはウミ自身の性格を知っていたから、こう言えばそう答えてくれるだろうという驕りが俺の中にあったのだ。
そう見えたなんて話ではない。
事実言うことをきかせようとするずるい大人になってしまっていたのだ。
だからイズミは俺を拒絶した。その男は姉に何かを強いると知ってしまったから。
いろいろなことが腑に落ちた。気持ちを利用するというのもそういうことだったのだ。
断れない言い方、断らない言い方をすることで彼女の責任感に働きかけた。今回のことに関して言うならば、居候の身あるという後ろめたさもそれを手伝っただろう。世話になっている身で恩人の頼みを無碍にできるはずもない。
そうやって、俺は話を切り出す前から彼女が首を縦に振るよう誘導した。意識的にそれをしたわけではなかったが、実際にそうなのだからそれを見たイズミからすればたまったものではないだろう。
姉の気持ちをないがしろにする大人たちとは違うと期待していた相手が、一番嫌なやり方で言うことをきかせようとしたのだ。
そう思えば、あの態度も納得できる。イズミはずっと姉を守りたかっただけなのだ。
「悪かった」
今度は俺が謝る番だった。どれだけ嫌な思いをさせていたのか。悔やんでも悔やみきれない。だってそのやり方は、そう、俺の一番嫌いなあの女と同じやり方だったから。
逃げ道をふさいで、頷くしかない状況を作ってから話し合いをする。
ああ、自覚してしまうとそれはなんて卑怯だろう。そんな方法をとっていた自分が気持ち悪くて、受け入れられなくて、すぐにでも腹を割いて悪いものをすべて取り出したい衝動にかられた。
「いい、イズミもうまく言えなかった。大人と一緒なら言っても聞いてくれないと思ったし」
諦めてしまうという気持ちも理解できた。俺がそうだったから。
ああ、なんてひどい。虫唾が走る。俺はあいつと同類だった。自分の希望を通すために、相手の気持ちに目を瞑ろうとした。瞑っていた。
「にいにもにいの気持ちがある。イズミはそれを無視しようとした。ごめんなさい」
「それは、仕方ないだろ。イズミにとってはウミが一番大切なんだろ?」
言うとイズミは頷いた。
「なら仕方ないだろ。それでいいし、文句もない」
「うん。でもだから、ごめんなさい」
「いやいいって」
また謝り始めてしまったイズミを押しとどめ、そろそろ話を終わらせにかかる。
いい加減ウミが帰ってきてもおかしくない。やましいことなど何もないが、イズミに頼まれた手前この会話をウミに聞かれるわけにはいかなかった。
喧嘩両成敗、なんて形で絞めに入ろうとする俺にイズミは続ける。
「そうじゃない。イズミはそれでも変わらないから。ごめんなさい」
「…………」
まだ話したいことがあるのだと瞬時に理解した俺は口を噤んだ。
俺の意図を察したのかイズミは語る。
「ねえが納得してても、にいに事情があっても。イズミはこれからも嫌なことになったら同じようにする。にいと喧嘩する。それは変えられない。だからごめんなさい。イズミはずっと納得できないと思う」
「いいよそれで。喧嘩しよう。俺たちは家族なんだ。喧嘩くらいして当然だ」
なにも俺は彼女たちの保護者になったつもりはない。今も前までと変わらず家族というものに幻想を抱いているから、そんなものを自分の生活に貼り付けたいからその関係性を求めている。保っている。
「うん。でも多分、そのうちにいのこと殴ったりしちゃうから。謝っておく。それで殴ってからもう一回謝る」
「お、おぅ、お手柔らかに」
まさか手が出るとは思わなかったので身構えてしまうが、それはイズミを怒髪天にしなければいい話だ。俺が気を付けるべき問題だ。
「それと、ねえは大切にしてほしい」
「気を付けるよ」
「うん。そうして。ねえはにいが好きだから、傷付けたら本当に殴る」
「あ、おう、そうか」
そんな風に言われ俺はたじろいでしまった。
イズミは親愛という意味で言ったのだろうが、好きなんて言葉を使われてしまえば意識もしてしまう。三つも年下の女の子を相手に何を意識しているのかわからないが、してしまうのだから仕方ない。
「ねえのこと、幸せにしてあげて」
「あー、う、ん」
重ねてそんな風に言われてしまえば、俺は何と答えていいのかわからなくなってしまう。
条件反射で頷きはしたが、覚悟らしいものなど持ち合わせてはいない。
けれどイズミはそんな情けない俺の態度をえらく気に入ったのか無表情ながらも頷きを繰り返していた。
それを最後にイズミは口にするべき言葉をなくしたのかしゃべらなくなった。
けれど俺たちの間に剣呑な空気はなく、必要に会話を迫られるような圧迫感もない。もしかすると家族としての距離感というのはこういうものなのかもしれない。
そう思ったら何かがじんわりと胸の奥のほうへと沁みこんでいった。
上手く息ができなくなってしまった俺は天井を見上げで大げさに息を吐きだした。




