花も折らず実も取らず 2
修学旅行欠席の連絡はすぐに終わった。
体調不良だということを伝えるなり担任教師は「わかった」と一言だけ返し、それから雀の涙ほど心配を見せた。
そんな見かけだけの心配など欲していなかった俺はすぐに電話を切り、何度目かもわからないため息を深く深く吐き出していた。
「アオイ、つらいなら寝たほうがいいよ」
「別にそうじゃない、ただ気持ちが少し参ってるだけだ」
本音が漏れてしまいウミは不安そうに俺に寄ってくる。
「アオイ寝てて。何か食べれるもの作るから」
「いやいい。たまには自分でやる」
ウミが来てからというもの。俺は彼女に甘えてしまっていた。近頃自分の手で料理をしなくなって久しい。健がこの部屋にやってきたテスト期間を除けばこの数か月俺は一度も台所に立っていなかった。
床に下ろしたボストンバッグを足で端のほうへと追いやり、台所へ向かう。
「アオイ、大丈夫なの?」
「体調自体はそんなに悪いわけじゃないと思う」
その言葉は嘘でも強がりでもなかった。
確かに頭は重い。吐く息も熱くて、視界だっていつもに比べればぼやけていて、ため息を吐くたびにその場に寝転がってしまいたくなる。
けれどそれは体の問題というよりかは、心の問題だった。
何度も吐くため息は体温調節のためのものではない。
胸と胃の間がひどく重たかった。よどんだ空気がたまっている感覚がある。それは何度息を吐いても出て行ってはくれなくて、自分のため息を耳にするたびに鉛のような何かが胃の上にたまっていった。
最悪な気分だった。もう何もかも放り出してしまいたい。そんな風に思ってしまう。
修学旅行に行けなくなったくらいで何を参っているのだろう。たかが学校の、それも半強制のイベントごとに参加できなくなっただけのこと。退屈な学校生活の刺激であることは変わりないが、その機会をたった一回失っただけのことなのに気を落としすぎだ。
自分に何度もそう言い聞かせる。
なのにそのたびに俺の心がそういう問題じゃないと子供のようにいじけて返す。いじけた子供は、理性的な言葉になど耳を貸してはくれなかった。
「アオイ、本当につらいなら休んでいいよ。私何か作るし」
「すぐに終わるから待ってろ」
挙句の果てにはそれを何の罪もない年下の女の子にぶつける始末。
ぶっきらぼう、というにはやや攻撃的な声音をぶつけられたウミはしゅんと項垂れ、とぼとぼと台所を後にする。
罪悪感のせいでさらに気が立ってしまう。八つ当たりもいいところだ。
俺はそれを同居人たちにぶつけてしまわぬように鍋を手に取った。
炊飯器の中に残っていた昨日の米を適当に鍋に入れ、冷蔵庫を開け卵を一つ掴む。体を反転させながら水道水も鍋にそそぐ。量は米が浸かるよりもやや少ないくらい。
分量なんてわからなかった。一人暮らしをしてから、いや生まれてこのかた風邪を引いたことなんてなかったのだ。おかゆなんて作ったことがないし、誰かを看病するようなことだってイズミの件を除けば全くのゼロだ。
けど、わざわざ調べようという気力なんて残っていなかった。
義務的に自分お食事を作るのならもはや味なんて気にならなかった。とにかく何かを食べて休んでいるという、体調が悪いのだという事実を自分に教えるためだけの行為だった。
コンロの火をつけ鍋を置く。体が思うように動かないせいでコンロと鍋が煩く鳴った。
しまったと思い俺は項垂れてキッチンを去ったウミを探す。あまりに乱暴な態度を見せておびえさせてしまうのも本意ではない。さっきはつい当たってしまったが彼女に非は何一つないのだから、不機嫌さをあらわにして彼女に気を遣わせるようなことはさせたくなかった。
「ウミ?」
しかし、そこに彼女の姿はない。キッチンスペースからリビングを覗くとき、死角になるような場所はない。ローテーブルも座布団代わりのクッションも敷きっぱなしの布団も。人を隠すには不十分だ。
だというのにそこにウミの姿はない。俺はうまく回らない頭をどうにか動かして寝室のほうへと目を向ける。
知らぬ間に寝室へ戻ってしまったのか。もしそうならば好都合だった。
そう思ったのと同時、見計らったように寝室のドアが開いた。中から出てくるのは当然二人の異世界人。二人ともいつもの通り寝間着代わりの黒いぼろ布をかぶっている。
「……何してるの?」
先に声をかけてきたのは意外なことにイズミのほうだった。
「お粥作ってる。すぐ終わるから、そしたらウミに朝飯作ってもらえ」
「そうじゃない」
努めて平静を装って、声音に鋭いものが混ざらないようにしたのだが、イズミはそんな俺の態度がお気に召さなかったらしい。
彼女はもはや見慣れた鋭い目つきのまま再び問いかけてきた。
「なんでいるの」
「なんでって、俺の部屋だし」
「…………」
「……風邪ひいて修学旅行は行けなくなった」
はぐらかそうと思ったわけではないが、いらぬコミュニケーションをイズミは求めていなかった。だから俺は彼女の疑問に端的に答えた。
「……なんで風邪ひいてるのに寝てないの」
「自分の分の飯だけ作ってる」
「ねえに頼めばいい」
「いつも頼りきりだからたまにはと思ったんだよ」
「わけわかんない」
俺は何もイズミとの関係を悪化させたいわけではなかった。当然ふざけたつもりもはぐらかしたつもりもない。ただ、俺自身何故むきになっているのかをうまく言語化できなかっただけ。
けれどイズミはそんな俺の態度がいちいち気に障るといった様子で、しまいにはさっきの俺同様いじけたようにそっぽを向いてしまった。
そんな妹のあとを継いでウミが話し始める。
「アオイ、治るまではベッド使って」
「そこまでしなくていい。いつも通り布団でも――」
「ねえの言う通りにして」
俺の意思は一切考慮しない。イズミはそんな風に言いたげだった。
「…………」
「……わかったよ」
あまりにもすごまれてしまうから、俺はそれを受け入れるしかない。
吐いたため息は煮えた鍋の表面をさらう。いつのまにかぐつぐつ言っていた鍋に卵を落とし、菜箸でぐちゃぐちゃに混ぜていく。
「あとアオイ。それも私がやる。やっぱり休んだほうがいいよ。顔赤い」
「それはコンロの前にいるからだろ」
「にいさっきからうるさい」
「…………」
一切の発言が禁じられているかのようだった。
イズミはさっきから俺に殴りかかってもおかしくない様子だった。
本格的に嫌われてしまったということか、あるいは心配がそういう形で出力されているのか。どちらにしても俺は溜息を吐く以外のモーションを取ることができなくなってしまった。
手招きをし、ウミを呼ぶ。半身をそらし鍋の前まで来いと促すと彼女は笑みを浮かべた。
「あと何すればいい?」
「なんとなく煮えたら醤油でも入れてくれればいい」
「なんとなくって」
「俺だって初めて作ったわらよくわからん」
「わかった、アオイ辛かったら寝てて」
「はいよ」
ウミに言われた通り、俺は敷きっぱなしの布団へと向かおうとする。
「にい、そっちじゃない」
重い足取りの俺の前に立ちふさがったイズミはびしっと寝室のほうを指さした。
「え? ああ、そうだったな」
つい数秒前に言われたことすら忘れてしまうほど俺は弱っているのだろうか。きっとそんなことはなくて、ただ修学旅行に行けないという事実が俺を蝕んでいるだけなのだろう。額に手を当てても、少し熱っぽいといった具合だ。
欠席を伝えたというのにそれほど悪くはない体調を鑑みて無理にでも修学旅行に参加するべきなのではと思い始める。思ったところでそれを許してくれる人はきっと一人もいないけれど。
「ウミ、寝ないとは思うけど寝室にいる。できたら呼んでくれ」
「持ってくから呼ばない」
「そうか」
言いながら寝室へ向かう。別にすぐにでも横になりたいわけではなかったが、俺がここに居座る理由がなくなってしまった以上そうする以外の選択肢がなかった。
数分でお粥はできるだろうしベッドに座って待っているだけだろうが、俺を嫌っているイズミと二人で今話す気にもなれなくて、俺は逃げるように寝室のドアノブに手をかけた。
「にい」
そんな俺を呼び止める声があった。
台所にいる姉ではなく、寝室に向かう俺のもとへやってきたイズミは今なお刃物のような目つきをしていた。
「…………」
どうかしたのかと問いそうになる。けれどそんな純粋な疑問すら彼女の神経を逆なでてしまうのではないかと思って口をつぐんでしまった。
そしてそれも、きっと彼女の神経を逆なでした。
イズミは俺をにらんだまま両手を伸ばす。その愛らしい仕草に一瞬抱き着かれでもするのかと思ったが、そんなことはここ数日の彼女との関係を鑑みれば考慮するに値しないことだった。
俺は反射的に驚きと恐怖で体をそらしてしまう。
「んッ!」
すると彼女は逃がすまいと俺の胸蔵を思いっきりつかんだ。
強引に引き寄せられた俺は体勢を崩し膝立ちの状態になる。膝に鈍痛が走る。
「アオイ!? 大丈夫!?」
ウミが心配して台所から顔を出すが、それが目に入ったのは一瞬だけ。イズミがさらに俺を引き寄せ、互いの鼻が触れ合うところまで顔を近づけてきた。
「いッ!?」
痛みにうめいたのもあったし、驚きに声を上げたのもあった。
けれどそのどちらも次の瞬間には困惑に変わった。
「にい、お願いがある」
イズミは鋭い目はそのままに――。
「ねえに聞かれないように話したい」
けれどばつが悪そうに眼をそらしながら――。
「にいと二人で話したい」
そんなことをわざわざウミがそばにいる状況で懇願してきた。
「…………」
俺は発熱の影響も相まって困惑するばかりで、表情一つ変えることができないまま台所から顔を出したウミにこう言った。
「あー、ウミ、ちょっと頼まれてくれないか?」
イズミの願いを聞き入れるために、俺はどうにか理由を作り出した。




