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異世界へようこそ  作者: 澄葉 照安登
第三章 変化した日常
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変わった意味 1

 以下、帰り掛けの健のセリフである。

「赤点は多分回避できた」

「四割は答案埋めたから四十点は固いな」

「間違いなく名前は書いたからゼロ点はない」

「イースト菌で脳みそ膨らまねえかな。それか筋トレで」

 何から何まで不安を煽ってくる要素しかなかったが、それも後の祭り。テスト最終日を終えた今となっては意味のない不安も根拠のない自信も気にするだけ無駄。ただ粛々と後日返却される答案と向き合うしかないのだ。

 吹きさらしの廊下で制服のポケットを漁る。連日健とともに帰宅していたからか妙な静けさを感じつつ、つまんだそれを鍵穴に差し込みドアノブをひねる。

 玄関の向こうには静かな部屋が広がっていた。

 ローテーブルだけの簡素なリビング。部屋の端に積まれた三つ折りの布団。昨夜のままラックに干しっぱなしになっている食器。

 生活感がないとまでは言わないがミニマリストという言葉が脳裏をよぎるその部屋はどこか寂しい。

 体の大きな友人がいることに慣れてしまったからだろう。あるいはもっと前から、一人でいることが特別なことになってしまっていたからか。

 どうやら自分以外の人影が視界の中にいるのが当たり前になっていたらしい。

 妙な静けさが落ち着かなくて、俺はカバンを足元に落とすと小さく息を吐いて踵を返す。

 向かう先は隣の部屋だ。もうアカネさんの部屋にウミたちを置いてもらう理由はなくなった。だから少しでも早く二人を回収してしまおうと思った。

 茜さん自身が今自室にいるかはわからないけれど、もしいなかったら後で改めてお礼でも言いに行けばいいだろう。

 俺は脱いだばかりの靴をつっかけ、ドアノブに手をかける。

 瞬間、焦りが出てたのか距離感を見誤り玄関脇に放置されていたビニール袋を爪先に引っ掛けてしまう。

 何をしているんだと自身に呆れつつ、いったいそれは何だったかと心当たりを探す。

 しかし、何かを買った覚えもない俺は首をひねりつつそれに手を伸ばすしかなかった。見ればその大き目のビニール袋は俺のバイト先で使われているものだ。

「あー、花火か」

 ようやく合点がいき袋の中を確かめる。思った通り、それはいつだか店長にもらった花火だった。

 ウミが近所を彷徨っていたあの日、埋め合わせに一緒に遊んでやれと店長に手渡されたそれの存在をすっかり失念していた。

 あの頃――と言っても先々月の話だが――実家に顔を出したりイズミを保護したりといろいろと精神に負担を強いるようなことが続いていたせいもあって花火で遊んでいるような暇はなかったのだ。

 俺は封の切られていないそれを袋から取り出し裏面を見やる。賞味期限のようなものの記載がないか確かめたかったのだが、そこには火のつけ方やら注意事項の記載しかない。梅雨の湿気で火薬がだめになっていたりしないだろうかと不安に思いつつも、俺はそれを元居たところへ戻した。

 気にしても仕方のないことだ。気にするにしたって今すべきことではないだろう。

 脱線しかけた目的意識を修正しドアノブをひねる。

 そして数歩の距離を早足で縮め、ためらいなくインターホンを押した。

 刹那、ドアの向こうから慌ただしい音が聞こえた。誰かが駆けてくるような音でもなく、いってしまえばそう、何かが落ちたような音。

 一瞬目を見開く俺だが、中からの応答がない以上勝手に入っていくわけにもいかない。

 首をひねりながら待つこと数秒。控えめに開かれたドアから顔を出したのは釣り目の女の子だった。

「こんにちは、アオイさん」

「ぁ、こんにちは」

 ミサキの控えめな挨拶につられるように返す。彼女が応対することを想定していなかったせいで少々ぎこちない挨拶になってしまった。

 そんな俺につられたのか、はたまた彼女自身の性質なのか赤髪の少女は焦ったように早口になる。

「あえっと、ウミに用事ですよね。待っててください」

「……用事というか迎えに来た。預かってもらうの今日までだから」

 天邪鬼な俺は彼女のそんな態度を見て逆に冷静になれた。そっけなくならないように、けれど変に馴れ馴れしくもならぬようにと言葉を紡ぐ。

「あ、聞いてます。でも、ちょっと待ってもらわないと……今掃除してて」

「掃除?」

 オウム返しをすればミサキは控えめに頷いてみせた。ちらりと視線を向けた部屋の奥からはひょっこりと茜さんが顔を出している。

「あー、葵くん。入って入って」

「あー……」

 主が手招きしている手前躊躇する理由はないのだが、困ったようなミサキの姿を見てつい視線で問いかけてしまった。ミサキとしては俺を招き入れるのは不都合があるように感じられたから。

「……あんまりスペースないですけど、どうぞ」

「じゃあ」

 しかし訪ねて来られた手前追い返すこともできないと考えたのだろう。しぶしぶといった様子のミサキに促され中に入る。

 そして玄関を抜けリビングとして使われている洋室に入った瞬間その理由を目にし、俺は眉を顰めてしまった。

 なるほど、確かに来客を招き入れるのを躊躇する気持ちもわかる。

 茜さんのリビングスペースには雑誌を始めとした書物がこれでもかというほど積み上げられていた。

 一週間前に訪ねた時とは違い乱雑に積まれているというわけではなく、神経質に塔になるように。

「大掃除ですか」

「うん、なんかウミちゃんが手伝ってくれるっていうから」

 一宿一飯の恩義といったところか。一宿でも一飯でもないがその心意気自体は立派なもので、ウミらしい申し出とも思えて納得してしまう。

「うち掃除は苦手なんだよね。するにはするんだけど、そのあとすぐ元に戻るからほとんど諦めてる感じでさー」

 そう解説する部屋の主に、俺は「はぁ」と気のない返事を返した。

 一週間前に部屋に招き入れられたときにそれはわかってた。

 物のない俺の部屋と比較するのもおかしな話だが、茜さんの部屋はそれなりにはひどいありさまだった。

 必要な生活スペースは確保されているようだったけれどそれ以外は物を置くスペースとして使われていた。いや、物というのも抽象的か。茜さんの部屋はいたるところに本が置かれていた。綺麗に整理されているわけでもなく乱雑に積まれた――あるいは放り投げられたそれらはわざわざ見ようとしなくとも目につくほど存在感を放っていた

「で、手伝ってもらえるってことで、せっかくだしって感じで今やってるとこー」

「なら、俺も手伝いますよ」

 言いながらあたりを見回し、書物の選別をしているらしい一角へ歩みを進めようとする。

「あー、でももう終わり近いし、あとはいらないもの捨てるくらいだからすぐ終わるよ」

「それでもお礼、にはならないかもしれないですけど手伝いますよ」

「ウミちゃんと同じようなこと言うね」

 ふいにそう言われ、どきりとした。

 たった数か月一緒に暮らしただけで影響を受けた、あるいは与えてしまったのかと思って。もちろんそんなことはなくてたまたま似通った言い回しをしただけなのだろうが。

 悪い気持ちはなかったがなんだか妙に恥ずかしくて、俺は早足に選別をしている一角へ向かう。

「…………何やってんだ?」

 その前になぜかその一角から離れたところでしゃがみこんでいたウミに声をかける。

 唯一の本棚の前。ぼーっと突っ立っていたテルテル坊主に。

「えっ、あ、あアオイ」

 飛び跳ねたウミは振り返りかけ一度止まると、手に持っていた本を後ろ手に隠してから振り返った。

「なに焦ってんだよ。サボってたのか」

「え、あうん。ちょっと気になる本があって」

「お前が手伝うって言い始めたって聞いたんだけどな」

「うんごめん。ちゃんとやる」

 言いながらウミは俺から半歩距離をとった。

「……なんで隠すんだよ」

「なんでだろ。にへへ」

 別にじゃれているつもりはないのだが楽しそうに笑うウミ。俺は眉を顰めて溜息を吐くしかない。

「言い出しっぺなんだから真面目にやれよ」

「うん、すぐやる」

 言いながら背を向けるとウミはごそごそと音を立てた。

 いったい何をしているのか、背を向けた俺にはわからない。けれどいつまでもウミにかまっているのも時間の無駄だと悟った俺は真面目に掃除をしているイズミのもとへと向かう。

「何手伝えばいい?」

「紐で縛って。こっち全部いらないやつ」

「わかった」

 そっけなく、しかし聞いたことにはしかっりと答えてくれるイズミに頷きまとめていく。

 重ねられた本はほとんどが雑誌。ちらりと目に入ったものは刊行が三年前のものもある。

 定期購読している雑誌が何種類かあるのか、似たような系統のものばかり。どれもこれも俺のような男子学生には無縁なコスメやファッションに関するもの。

 まさに女性のための雑誌といったそれらに興味が引かれないこともないが、与えられた仕事を全うすることにだけ意識を割いた。

「それ終わったらこっちねえのとこに持って行って」

「いらないやつか?」

「ねえのほうに集めてるのはいるやつ」

「わかった」

 ならば紐で縛る必要もないのだろう。手元の雑誌を縛り上げるとイズミが指し示した十数冊の付箋がびっしりと張られた雑誌を受け取りウミのもとへ持っていく。

「ここに置けばいいのか?」

「うん、大丈夫だと思う」

 少し前とは打って変わってウミは真面目に本棚の整理をしていた。

「もう本読むなよ?」

 一応コミュニケーションの一環としてそんな小言を口にすると、一瞬ウミの視線が足元の雑誌に向いた。

 つられてみれば、そこには『意中の相手に的確なアプローチ』とでかでかと書かれた雑誌が置かれていた。それだけ重ねられておらず、ぽつんと寂しげだ。

 茜さんはそんなのまで読むのか、といらぬ詮索をしそうになってしまう自身をなだめつつウミに向き直る。

「さっき読んでたのはそれか」

「えっ、あうん」

 途端にまた焦りだしたウミ。年頃の女の子ならばそういったことを気にしても不思議はないだろうに何を焦っているんだと呆れつつ彼女のフードを摘まむ。

 そのまま無理やりフードをかぶせると彼女は「うみゃ」とか言う鳴き声を発した。

「読むなら終わってから読ませてもらえ」

 言いながらすぐに踵を返し、一人で本の束を縛ってまともめているイズミのもとへ戻ろうとする。

「あ、アオイ待って、これいらないみたい」

「ん?」

 言いながら突き出してきたのは今しがたウミの足元の落ちていた砂糖菓子のような言葉が綴られた雑誌。

「捨てていいってことか?」

「うん、アカネいらないって言ってたから」

「そっか。…………いらないならもらってもいいと思うけど、持って帰るか?」

「え、いい。いらない」

「あ、そう」

 興味があると思ってそう提案したのだが、ウミは冷たく言い放った。

 ならさっき掃除の手を止めてまで読んでいたのはどうしてなのかと問いたくもなるが、もしかすると少し目を通しただけで満足しただけかもしれない。

 俺はウミからそれを受け取ると今度こそ踵を返しイズミの元へ戻る。

 見たところ一番大変そうなのはイズミだ。ウミはいる本を本棚に戻して整理しているだけのようだし、人手もいらなそうだ。どちらかと言えば力仕事になりうるイズミのほうを手伝ったほうが効率がいいだろうと思っての判断だった。

「にい次これ」

「はいよ」

 戻るなりイズミに指示された雑誌の山に手を伸ばし紐でまとめていく。

 先日ウミは俺とイズミの仲を心配していた。もっと懐いてくれるといいと。

 しかしこうしてイズミと一緒にいてもウミが心配するようなことは何もないように感じる。やり取りを阻害してしまうようなわだかまりも感じないし、にいという呼び方はそれなりに親愛を込めてのものだと思っている。

 ウミに比べれば会話そのものは少ないが、それだって気まずくなるほどでもない。むしろイズミとであればこれくらいが適切な距離感なのだとすら思っている。

 お前の心配は全くの杞憂なんだぞと勝手に居心地の良さを感じながら、一人で本棚の整理をしていたウミに目を向ける。

 ウミは短い黒髪を揺らして時折首をかしげるようなしぐさをしながら本を並べていた。

「…………」

 その姿を見てふと思う。そういえばウミはあの雑誌を見て意味を理解できていたのだろうかと。

 ウミがこちらの言語を理解していなかったのは一か月近く前の話ではあるが、だからと言って完璧にこちらの世界の言語を理解できたわけではない。必要最低限、ひらがなカタカナを理解していれば何とかなるだろうと判断した俺はウミにそれ以上の学習を強いた覚えはない。

 だというのに女性向け雑誌を読んで楽しめたのだろうか。

 もしかすると丁寧にフリガナが振ってあったのかもしれないが、なんだか腑に落ちなくて視線の先のウミと同じく首をかしげる。

「にい、手止まってる」

「あー、悪い」

「ねえを見習って」

 相変わらずお姉ちゃんがすべてのイズミは先ほどまでサボっていた姉のことを見習えと言う。えこひいきも甚だしい。

 俺は苦笑いを浮かべ「はいはい」と受け流しつつ手元に意識を戻していった。


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