拵えた理由 3
インターホンを鳴らし居住まいを正す。
朝から着通しの学生服にはアイロンをかけたくなるようなしわが幾本も刻まれていた。
それを自分の指の熱でどうにか伸ばそうと試みるが、だらしなさの跡は付け焼刃の意識では正されてはくれない。無駄なあがきというやつだ。
けれど俺は何度もそれを指でつまんでのばし続ける。
俺はあまり身だしなみを期にするタイプではなかったが、隣人とはいえ女性の部屋に訪れるという緊張感のせいかそんな似合わない真似をして、しまいには髪の毛のハネなんかまで気にしていた。
「はーい? あ、葵君」
しかしそんな俺とは対照的に、インターホンを押してからしばらくして顔を出した茜さんは何の色気もないジャージ姿だった。
「どうも」
俺は見てくれ気にしていた自分が滑稽で胸中で笑みを浮かべると頭を下げる。
「こんばんは、二人のことが気になった? 上がってく?」
俺を一瞥するなり薄く笑んだ茜さんは、すでに俺を迎え入れるつもりなのかドアを開けた体制のまま半身をそらし玄関の奥へと促してきた。
しばしの逡巡。素直に甘えてしまうのもいいか、と思わなくもなかったが自室にいる友人を待たせすぎるのもよくないと思いその場で首を振る。
「いえ、おすそ分けを持ってきただけです」
「おすそ分け?」
茜さんはオウム返しをしながら体の向きをまっすぐに俺へとむける。それから俺の手元に視線を向け合点がいったとばかりに声を上げた。
「あ、カレー?」
「そうです。あんまり多くはないんですけど」
言いながら、俺はタッパーを彼女へと差し出す。食べ盛りの男子高校生の弁当箱としてもやや大きく感じられるそれを。
「いや十分すぎるよ。ありがと。そっちの分足りなくなったりしない?」
茜さんは薄く微笑むと軽い調子でタッパーに手を伸ばす。
手が触れるわけでもないのに彼女の手が伸びた瞬間に呼吸のテンポを乱されてしまった。
それは緊張以外に、少し感心してしまったというのもある。
何よりもまず先に好意を受け止めてありがとうと返すんだなと。
もしもこれが逆ならば、俺は先に恐縮しいったんは断りの文句を入れてしまったように思う。
そしてきっと気にすることはないと押し切られ、結局は受け取る。そんな様子が目に浮かぶ。
コミュニテーション能力の差だろうか。そんな風に自分をごまかす思考を作ってみてもひねくれ者の心は簡単には騙されてはくれない。
それが俺と彼女の人間性の差なのだということを痛感しながらこちらも笑顔を浮かべなおした。
「いえ、大目に作ったので大丈夫です」
「そっか。なんか気を遣わせたみたいでごめんねー」
「いやいや、むしろこっちのほうこそ。……あいつら迷惑かけてないですか?」
特に心配もしていなかったけれどこの時間を引き延ばすために俺は問いかけた。いや、彼女の申し出を断っておいて俺はまだ彼女のうしろにいるであろう二人に会おうとしていた。
「いいや、むしろ助かってるよ。ウミちゃん今晩御飯作ってくれてるんだ」
そのやり取り、というよりかはその時の茜さんの表情を見て少しだけ気持ちが軽くなる。
ウミに限って余計な負担をかけているとは考えられなかったが、もしも二人が茜さんに必要以上の迷惑をかけていたのならばという不安がなかったわけではない。しかし、もしそうなっていればきっと彼女はこんなにも優しくは笑っていない。笑いはしてもそのどこかしらに疲労がにじむはずだろう。
だから俺は安堵し、深く息を吐いた。
「あまり負担になっていないならよかったです」
そう言いながら覗き込むように開かれたままのドアの先に目を向ける。
「あがってきなよ」
そんな俺を見た茜さんは改めてそう提案する。
俺はそう言ってもらえるのをどこかで待っていたと思う。つい先ほど断っておいて何を、と自分自身に文句をたれたくなる気持ちもあるが、それが俺の体に染みついてしまった癖なのだ。心に染みついているといってもいい。
相手の気遣いを一度で受け入れることのできない天邪鬼な心が、多分いつだって俺を邪魔している。
「……顔だけ見ておきます」
あくまで茜さんに迷惑をかけていないか心配だからだ。と態度ににじませながら二度目にしてようやく俺は首を縦に振った。
茜さんはそんな俺の心情を知ってか知らずか、それでもやっぱり笑みを浮かべた。
「入んなよ」
わざわざ扉を押さえて俺が入るのを待っていてくれる。自分が誰かを招くときもきっと同じようにするのだろうが、いざ自分がやられると気遣いをひしひしと感じて何とも言えない気持ちになってしまう。
会釈とも言えない程度に頭を下げ、靴を玄関にそろえて脱ぐ。
茜さんが俺を見て「真面目じゃん」とか笑ったが真面目だからではなく慣れていないからいちいちかしこまった態度になってしまうだけだ。条件反射のようなもの。
「アオイ?」
そして茜さんに追い立てられるように短い廊下を超えるとすぐ真横から声が聞こえた。
その声に若干の安堵を感じた。
まだ丸一日も離れていないのに何をと思う。
けれど俺はどこかで不安だったのだ。もしもウミがいなくなったらと考えて、もしもテスト勉強に精を出している間になかったことになってしまったら考えて。
ウミがあの部屋にいないことにとてつもない違和感を感じていた。
俺が一人で、いやあのキッチンに俺が立つことにすら違和感があった。
過剰反応だと思う。けれど二か月にも満たない間に当たり前になってしまったのだ。ウミがあの部屋にいることが、ウミとともに食事をすることが。
だから夕食時、一日の終わりが近付くにつれて不安になった。
ウミがいないことに対する違和感が膨らみ続けていた。
我ながら情けない話だ。
「迷惑はかけてないか?」
「かけないようにするよ」
「そうしてくれ」
当然胸中を赤裸々に語るつもりなどなくそっけない言葉で存在を確かめるにとどめる。
それからどちらかと言えば不安の種であったもう一人の同居人に目を向けた。
リビングスペースの一角。そこには大量の本が無造作に置かれていた。蔵書や漫画の類ではなく、見たところ雑誌のようなものが、積まれているわけでもなく放り投げられたような形で山になっている。シルエットで言えば晩秋の落ち葉焚きに近い。
「…………ぁー」
一瞬見てはいけないものを見たような気がしなくもなかったが、かといって今更目をそらすわけにもいかずそのこんもりとした山の前にしゃがんでいたテルテル坊主に目を向ける。
二人目の同居人イズミ。ウミの妹にしていまだにまともに会話をした覚えのない女の子。
そんな彼女のことが預けるにあたっての心配の種であった。
自己主張をしないイズミが茜さんを困らせてはいないだろうか。そっけない態度で気を悪くさせたりはしないだろうか。
正直ウミよりも断然気がかりなことであった。
「…………ん」
そんな俺の来訪に気づいたイズミが俺に目を向ける。しかし胸中まで察することはできるはずもなく、彼女は挨拶もなく一瞥しただけですぐに目の前の赤茶色の髪に視線を戻してしまう。
「あ、こんばんは」
対してイズミの相手をしてくれていたらしいミサキは頭を下げて挨拶を口にしてくれる。
俺は俺で口も開かず会釈を返すだけで、今更ながらにイズミの心配をするのはえらく自身を棚に上げているのではないかと思い始めていた。
「二人ともいい子だよ。特にウミちゃん。マジで主婦かよって位料理の手際いいし、それだけじゃなくて気遣いもできるからねぇ。十四歳とは思えない」
「……そうですか」
背後から声をかけてくる茜さんに相槌を打ちつつ、俺は胸をなでおろした。
ウミが大人びているのはわかっていたことなのであまり心配はしていなかったが、どうやらイズミのほうも迷惑はかけていないらしかった。思うにイズミは借りてきた猫状態なのかもしれない。俺の部屋にいるときもそんな感じと言えばそうだった。
意思疎通が難しいところはあるかもしれないが、それが迷惑をかけることにつながっていないことを理解してようやく肩の荷が下りた。
「すみませんいきなりこんなお願いして。あの食費に関してはこっちで持ちますんで」
「あー、うんそれくらい気にすんなって言いたいとこだけど、そこはお願いね。さすがに倍近い食費になるとうちの生活費飛んじゃうから」
「すみません」
むしろ彼女に迷惑をかけているのは俺のほうだった。俺の一方的な我が儘でとんでもない負担をかけてしまっている。
俺はさすがにばつが悪くなりそっぽを向く。
「アオイ味見する?」
向いた先のウミはフライパンを傾けながらのんきに訪ねてくる。中身は回鍋肉だ。随分とこの料理が気に入っているらしく、つい先日もウミはこれを作っていた。もしかすると手軽に作れるから頻度が高いだけかもしれないが。
「いやいい。……友達待たせてるのでそろそろ帰ります」
茜さんに向き直り宣言すると彼女は「そっか。わかった」と言って道を開けてくれる。
俺は彼女の脇を通り玄関へ向かう。見送ってくれるつもりの茜さんは俺の後ろをついてきた。
「じゃあ、すみませんが一週間お願いします」
玄関で靴を履くと、俺は改めて深々と頭を下げた。
「ん、わかってるって。助け合いでしょ」
軽く受け入れてくれる茜さんだが、それに素直に首を振ることもできない。
これは遠慮がどうという話ではなく事実として重たい負担をかけてしまっているのだから態度も重くなってしまう。俺はたっぷり三秒頭を下げ続けてから顔を上げる。
「それじゃあ、あんまり待たせると悪いんで戻ります」
「ん、あんま不安に思わなくても大丈夫だけど、気になったらいつでも様子見に来な」
「そうします」
次からはきっと部屋にあがることはないだろうけれど、明日からもお裾分けと理由をつけてこの部屋の扉をノックするだろう。
そう思いながらノブを回し吹きさらしの廊下に出る。
今一度茜さんに向き直り会釈をしながらゆっくりとドアを閉める。
手を振る茜さんの向こう側からはひょっこりとウミが顔をのぞかせていたが、その顔を見ているといつまでも後ろ髪をひかれそうだったので俺はドアノブを見るふりをして目をそらした。




