拵えた理由 2
『あの……いきなり頼ることになるんですけど、しばらくの間ウミたちを泊めてはもらえませんか?』
茜さんと助け合っていこうと話してすぐ、俺は図々しくもそう切り出した。
説明は省略しつつも概要だけはしっかりと伝える。
友人が泊りに来ることになっていて、その間ウミたちをそちらにおいてはもらえないか。
助け合うという話をした手前、俺がいきなりこんなにも大それたお願いをすることに抵抗はあったが、ほかにどうすることもできなかった俺は茜さんに頼み込んだ。
茜さんは俺の唐突なお願いを二つ返事で受け入れてくれた。
正直かなり負担をかけることを理解していたので、受け入れられた瞬間何が起きたのかわからず硬直してしまったくらいだ。
かくして、例によって定期テストを目前にした俺たちはその例にもれず勉強合宿を始める運びとなった、のだが。
「今日はもう終わりにしよう」
「もう頭がオーバーヒートでデス状態」
「国に帰らせてください」
十数分おきに音を上げた健は気力も体力も使い果たして現在、夕食を準備する俺の視線の先で煙を上げていた。
「気分転換に手伝ってくれてもいいんだぞ」
ローテーブルの前。胡坐をかきながらもあお向けに倒れるという痛々しいほど疲労感をあらわにしている友人に声を投げてみるが、返事はなかなか返ってこなかった。
中空を見据えた健の脳はもはや言葉を理解するだけの余裕もないらしい。
たっぷり十秒以上の間を開けて、ようやく健はこちらを向くとうわ言のようにこぼす。
「晩御飯なんだ?」
「カレー」
「わーい、おふくろの味」
「お前のおふくろさんはここにはいない」
健につられて俺まで放心したような声音になる。
切り終わった材料、コンロの上に用意した鍋。それらを前に俺は不思議と自分を律していた。
慣れたはずの夕食の準備に緊張している自分がいた。
包丁を持っているわけでもないのに自分の手元が気になって、俺は意味もなく深呼吸をした。
「そういえば、ウミちゃんは週末になったら来るのか?」
「んぐぅ」
そんなタイミングで健がそう切り出したから俺は吸った息で喉を詰まらせてしまった。
固形化した空気が喉の奥で鉛のように存在感を放ち、生唾を飲もうとすれば目じりに涙がにじみほどの苦痛を伴った。
「来る予定はないぞ」
そんな相槌を返しまでに、どれだけの時間を要したのだろう。
喉奥の異物感を飲み下すそのひと手間が何十秒も続いた気がする。実際には一呼吸ほどの間だったはずなのに、ひどく長い間わけのわからない何かに苦しめられていたように思う。
「毎週来るわけじゃないしな」
毎日この部屋にいるから、そもそも来る来ないの話じゃない。
なんて、健にはそんなこと言えるはずもない。そもそもそんなこと言うつもりもなければすべてを赤裸々に語りたいという欲求があるわけでもない。
ウミは異世界から来た女の子だ。
妹だと紹介してはや二か月。いまさらそんなことを言って何になるというのか。そもそも健はそんな荒唐無稽な話を信じてくれるだろうか。常識を持った人間であればふざけているとしか受け取らないだろう。
「……健、パンが発酵する仕組みは?」
「努力」
あるいは俺の言葉を鵜呑みにしてくれるかもしれない。
自らの専門であるはずのパン作りに関しても素っ頓狂な答えを自信満々に口にするくらいだ。「実はウミは妹じゃなくてある日突然現れた不思議な女の子なんだ」と言えば「そうなのか?」なんて綺麗な目をして聞き返してくるのかもしれない。
なんだかそのほうがあり得る話な気がして、それはそれでいいのかもしれないと頭の端で考えないこともない。もしかすると白状することによって協力が得られることもあるのではないかと思わなくもない。茜さんのように。
けれど、俺はきっと健にだけはウミたちの事情を話すことはないという確信があった。
話したくない。と言ってしまえばそういうことだ。
健には普通の退屈な毎日を求めている。朝学校で顔を合わせて無気力な挨拶を交わしたり。休み時間だらだらとしゃべりながらパンをかじったり。放課後、また明日なんてややドライに手を振りあったり。時期が来れば一緒にテスト勉強をしたり。そういう高校生として普通の毎日を。
だから俺はきっと健にはウミの話をしない。ウミの妹も現れて今は三人で暮らしているなんて言う話も、その二人は今隣人の部屋にいるなんてことも。健には口にしない。
口にしてしまったら、俺が大切にしているそういう日常の一部が大きく変わってしまうだろうから。
欲張りな俺は、もともと持っていた日常も新しく手に入れた日常もどちらも手放したくはないのだ。
得意げな顔で俺の問いに答えた健は俺の言葉を待っているのかじっとこちらを見つめている。
それが少しくすぐったくて音を立て始めた油を意味もなく見据えた。
「多分ウミは来ないから、期待せずに待ってろ」
「そっか」
落胆気味に肩を落とす健はまだ勉強の疲労が脳を蝕んでいるのか体を起こそうとはしない。それどころか瞼を閉じ外界の情報を断とうとしている始末。
対して俺は鍋に特売の豚肉を入れ飛び跳ねる油に目を細める。
料理の手伝いをしてもらいたいところだが、健の様子を見るに期待できそうになく俺はため息交じりに小さくこぼした。
「一人で準備するのも久しぶりだな」
口をついて出たその言葉に俺自身が驚いた。
それから、数刻前に感じた台所に対する妙な緊張感の正体も理解した。
近頃台所はウミのテリトリーだった。ウミがやってきた当初とは違い、彼女もこっちの世界の文化になじみ、今はもうコンロの火のつけ方がわからないなどと言うこともなくなった。
アルバイトを終え帰宅すると、ウミとイズミがローテーブルに夕食を並べて待っている。そんなことが当たり前になっていた。
必然、俺はあまり台所に立たなくなっていた。アルバイトが無い日でもウミが我先にと台所に向かうからおのずと任せる形になっていた。俺の役目はと言えば配膳くらいのもの。
思えば、久しぶりだった。
台所に立つのは。自分の手で夕食を作るのは。それらの準備を自分一人で行うのは。
ブランクと言うほどではないけれど手つきも少しあわただしく感じる。よく言えば新鮮な気持ち。誤魔化さずに吐露するならば不安を胸に抱いている。
今まで俺はどんな風に台所に立っていただろうか。
そんなことを考えながら料理の手を進めていた。
調味料の配置も、食器の置き場所も何も変わっていないはずなのに。何かが違う気がして落ち着かない。何かが致命的に足りていないという感覚が張り付いて剥がれない。
何かが足りない。
誰かが足りない。
寂しさにも等しい虚しさに似た何か。
それを自覚するたびに俺は無性に恥ずかしくなって。頭を空っぽにするため手を動かした。
肉に火が通り、次いで野菜を投入。じきににんじんと玉ねぎの色が変わり、水をおぼろげな感覚を頼りに鍋にそそぐ。沸騰するまでの間、いやに長い時間俺は無心でいた。
「なんか手伝うか?」
「ぉ、おお、そうだな」
だから突然背後から響いた声に驚き挙動不審になってしまった。
慌てて仕事を探し、おんぼろの炊飯器が目に留まる。
「そのうち米炊けるから、炊けたらしゃもじでほぐしといてくれ」
「わかった、力いっぱいやる」
「団子になるからやめろ」
そうして二言三言と会話をすると徐々に鼓動が落ち着きを取り戻し始める。
いったいなにをそんなに焦っているのかという話ではあるけれど、動揺してしまったのだから心を落ち着けなくてはいけなかった。
「脳みそのクールダウンは終わったか?」
「おう、何とか三点七度まで下がった」
「下がりすぎだろ。三十七だろ」
「俺のテストの点数だ」
「なんで誇らしげなの?」
本気で言っているのかふざけているのか、本当に頭がおかしくなっているのか判断がつかないやり取りを交わしつつ、俺は俺で平静を保つ。
「カレー出来たら、夕飯まで少し待ってろ」
「ん? いいけどどうしてだ」
「お隣さんにおすそ分けしに行く」
「おっ、主婦っぽい」
どうやら健はまだ本調子ではないらしい。声にいつもの覇気がない。大きな体に似合わずとぼけたような力のない声。二時間足らずのテスト勉強でこれほどまでに摩耗するならば、いったい普段の授業はどうやって乗り切っているのか。
そんなことを考えながら、自分の胸中に芽生えた感情から目をそらそうとする。
ただ俺は仮初の家族を預かってもらっている手前菓子折りの一つでも持っていかなければならないと思っただけ。あまりにも図々しいお願いを聞き入れてくれた年上の女性にたとえわずかであっても何かを返したいと思った、ただそれだけ。
なんて、心からそう言えたのならば健の主婦っぽいなんてつぶやきにも冗談を返せたのかもしれない。
後ろで炊飯器が電池の切れかけた目覚まし時計みたいな音を立てる。それに健と二人して反応を示せば、たくましい体つきの友人は俺に視線で問いかけてくる。
「団子にならない程度にな」
蒸らした方がコメはおいしくなる、なんて話をネットで見かけたことがあったが別にその中身はスーパーの安い無洗米だし気にすることでもないだろう。
俺はシンク横の水切りに立てかけてあったしゃもじを健に渡し、あとは任せたとばかりに炊飯器に背を向ける。
ぐつぐつ言う鍋を見つめつつ、壁掛け時計もない部屋の壁を横目で確認する。
夕食時にはやや早いころだろうか。カレーが完成するころにはもしかすると茜さんの部屋では夕食を取り始めているかもしれない。
茜さんのアルバイト事情もよくわかっていないのにそんなことを思いつつ、俺は鍋に視線とともに念を送る。
早く出来上がれ。
そんなことを思いながら、隣の部屋にいるはずの二人のことを考えていた。




