仮初めの家族
帰り道を半分ほど歩くと靴の中は氾濫した
歩くたびに指の間を生暖かい雨が滑りぬけ、その不快感のせいで足元もおぼつかない。一歩ごとに靴がダメになっていくのを実感しながら俺は家路を急いた。
笹木パンの前、バイト先の前を速足で抜ける。
普段ならば自転車で通る道を駆け足で抜けるのは初めてのことではなかろうかと益体の無いことを考え、笑みが漏れた。
そんなことは無い。そもそも事の始まりはそれだった。
住宅街を彷徨い歩いていた十歳の女の子。彼女を担いでマンションへ向かったのは記憶に新しい。
彼女がいたから今日の出来事があったのだ。
彼女がいなくとも数カ月後までにウミが元の世界に帰還できなければ同じ様なことが起きていたとも考えられるが、捕らぬ狸の皮算用。意味の無いことだ。
何にせよ今日俺の身に起きたことは、二人目の異世界人イズミがいたから起きたこと。
もちろん彼女の存在を疎ましく思っているわけではない。そんなことを思い出してしまったのは、彼女がいたことで起きた出来事を快く思っていたからだ。
恐ろしかった。震えが止まらなかった。
情けないほどに声を震わせていた。
二度とあんな思いはしたくないと心から思える出来事ではあったけれど、俺は充足感を感じていた。
誇らしかったのだ、自分のために我が儘を言うことが。
自分勝手で甘えた考えだと卑下していたが、なぜか終わってみればそれはとても誇らしい事のように思えてきた。
きっと気分に乗せられ錯覚しているだけなのだろう。すぐに思い返すたびに息が詰まるような恥ずかしい記憶になる。
そうは思うが今はその充足感に浸っていたかった。
仮初めの家族が待つあのマンション。そこにつくまでは噛み締めていよう。そう思いながらしかし歩調は速くなる。感情というものは不可思議だった。
もう少しこのままと望んでいるのに、早くこの時間を終わらせたいとも思っている。
早くただいまを言っておかえりを訊きたいと。
靴の中をじゃぶじゃぶ言わせながら駆け足になった俺はマンションの前まで来ると傘を畳みながら吹き曝しの階段を上りだす。
体が上下に揺れるせいで傘のボタンもうまく止められず、俺はついぞバタついたそれを宥めることを諦めた。
靴底を滑らせながらも自室の前にたどり着き、ポケットを探る。
けれど右にも左にも探し物は見つからず、それから俺は今朝のことを思い出した。
鍵は家に置いてきたのだ。
忘れたまま家を出たことに気付きながらも横着してそのまま駅へ向かった。
そのことを思い出した俺はポケットから手を出して人差し指を立てた。
ドアの真横。小さなインターホン。
それをゆっくりと押し込むと、中から電子的な呼び出し音が聞こえた。
がしかし、応答はない。手持ち無沙汰に傘のボタンを留め空を覗き見ようとも受け答えもなければ足音も気配もない。
もしかすると見知らぬ客人が訪ねてきてしまったと思い警戒しているのかもしれない。ウミたちの存在を隠したい、などと相談を持ち掛けたことなど一度もないがわからなくもない措置と言えた。
俺も見知らぬ人が訪ねてきたら居留守を使う。電話に知らない番号が表示されればコール音が途絶えるまで無視を決め込む。
だから俺は名乗る代わりにドアに手の甲を向け叩いた。
「ウミ、開けてくれ」
少し間抜けにも思える声だった。呆けたみたいな緊張感も覇気もない声。
壁一枚隔てた向こう側に届くように大きな声を出したつもりだったのにそんな声が出て俺は無性に恥ずかしくなった。
気が抜けてしまっている。
それを自覚して口角を上げたのとほぼ同時、目の前から慌てたような音が聞こえた。
「アオイ?」
ドアを開く音と共に顔を出したウミは焦りと不安を顔に浮かべていた。
足音は一切聞こえなかったがもしかすると駆けてきたのかもしれない。心なしか息は荒く、額には汗のようなものが浮かんでいる。
「ただいま」
そんな彼女に呆れながら俺はそう告げる。彼女がいつかの夜に見せたのと同じ顔をしていたから。一人街を彷徨ったあの日の表情を浮かべていたから。
「あ、おかえり……」
ウミはうわ言のように返す。
見るからに拍子抜けした様子のウミに俺は呆れ返り朝と同じようにフードをかぶせた。
「本気で帰ってこないと思ったのか」
「ちょっと」
「そんなわけないだろ」
常識でも語るみたいに言ったウミに俺は嘆息した。
俺はもしかするとウミに嘘吐きのレッテルを張られているのかもしれない。彼女に嘘らしい嘘を吐いた記憶はないが、よほど俺の帰るという言葉を信じていなかったのか、ウミはまだ半ば放心しているみたいだ。
「夕飯までには帰れるって言ったろ。今まだ三時だし、不安に思うような時間じゃないだろ」
間抜けな同居人に呆れながらも諭す。
今の今まで何をそんなに怖がっていたのかと、自分に問いかけるように。
「……アオイ、なにかあった?」
すると突然ウミがそんなことを言った。
俺の顔をまじまじと、まるであら探しでもするみたいに念入りに。
「いや、別に何もないけど。なんだよ」
「なんか、嬉しそうだから」
ウミは人の感情を読み取ることに長けているらしい。気遣いと我慢が上手な人間には標準装備されているその能力は、ウミにも当たり前の様に備わっている。
胸中を見通された俺は一瞬目を見開き、それから笑みを浮かべた。
「何もない。けどちゃんと二人とも匿えるようにはしてきた」
「ほんと?」
「ほんとほんと」
不安げなウミに赤べこばりに頷きを返してやると、品定めの視線が向けられる。
それを見て、ウミも実は苦労してきたのではなかろうかと思うが、それを口に出す暇は与えてもらえなかった。
「ありがと」
ウミは安堵の吐息と共にそう吐きだした。
俺の顔を、目を見て冗談でも気休めでもないと理解してくれたらしい。
ウミにしては大人びた愁眉を開いたその表情を見て。俺はすぐに彼女が何を思ったのかを理解した。彼女はずっと、自分ではなく妹を思っていた。
だから自身のこれからに安堵するよりも先に、妹の身の安全が保障されることに対して胸をなでおろすのは当たり前のことだった。
「何してるの?」
いつまでも玄関でしゃべっていることを不審に思ったのか、部屋の奥からまだ馴染み切っていない女の子の声が聞こえた。
俺はウミとそろってそちらに目を向ける。
「ただいま」
「……おかえり」
無感動に返したイズミに俺は笑みを浮かべた。
思えばイズミにそう言ってもらうのは初めてだった。彼女がやってきてからもう三週間近くが経っているというのに、無口な彼女とは挨拶を交わす習慣が身についていなかった。
「なに?」
笑みを浮かべた俺を見てイズミは怪訝な目を向けてくる。
それがまた表情の乏しい彼女の新たな一面でもあって、俺は余計に頬を緩めた。
「いや、なんでも。……服でも買いに行くか」
もはや恒例とも言える儀式だった。ここで生活してもいいんだと明言するような行為。
「いい、服ある」
けれどイズミは淡々と拒否する。無表情がデフォルトの彼女からはまだ内に秘めた遠慮や気遣いというものを感じ取ることが出来ず、測りかねる。
「ウミにも一着買ったけど」
「一緒のならいる」
思い出したように呟けば姉にべったりな彼女はすぐさま応じた。
それが底抜けにおかしくて俺は小さく噴き出してしまう。
「じゃあとりあえず着替えてもらえるか? ジャージ貸すから」
そう促せばイズミはすぐに頷き踵を返す。姉と同じものを買ってもらえると思い心躍らせているのだろう。胸中を察することはまだまだ難しいが、それくらいのことは表情を読み取らなくとも理解できた。
俺はくすりと笑い傍らのウミにも告げる。
「ウミも着替えてこい。一人で留守番は嫌だろ」
「うん、わかった」
ウミはというと俺の胸中を察して遠慮を口にするよりも早く頷いた。
ウミと暮らした時間とイズミと暮らした時間は比較すれば一週間しか違わないが、それでも互いのことを理解し始めていると実感する。
それが心地よくてどんどん口角が上がり、しまいにはにやけて気持ち悪い顔になってしまいそうで気を引き締めながら開けっ放しの玄関を後ろ歩きで抜ける。
「……あっ」
耳に届いた雑音で俺は声を上げた。
今なお振り続けている雨。その空の彼方を見据えながら玄関脇を覗き見る。
しかし今まで一人で暮らしてきた男の家に予備の傘などという気の利いたものがあるはずもなく、雨を凌げる装備は俺の手のビニール傘一本だ。
さすがに三人が入るのは無理がある。
二人ならばあるいはと思うがそれだって互いが互いを気遣い半端に雨粒を受けてしまう。
気持ちよく着替えてこいと送り出した手前今更延期にしようとも言えず悩む。
余計な出費になってしまうがコンビニかどこかで傘を買おうか。そんなことを思い顎に手を当てているとガチャリという音が聞こえた。
雨音の中でも鮮明に聞こえたそれはすぐ真横から響いてきて、俺は反射的にそちらに目を向けた。
「こんにちは」
「あー、葵君。こんにちは」
出てきた隣に住む女子大生。茜さんは数日前と変わらず寝起きのような目を細め柔らかく笑って応じた。
明るい髪の毛で少し棘のある印象を受けてしまいそうになるが、その柔らかい顔立ちのお陰でとっつきやすさが生まれ二の足を踏むことなくすんなりと挨拶を交わすことが出来る。
「茜さん、これからバイトですか?」
「そう。葵君も?」
「俺は今日バイトないんです。今出先から帰ってきたところです」
「あー、そうなんだ。オフなのに雨って嫌だよね」
「そうですね」
そんな井戸端会議でも億劫に感じられる言葉を交わした。ご近所さんとの会話としては、悪くないものではなかろうか。なんてを思いながらより一層充足感で身を満たす。
そんなことをしている間に我が家の姉妹がやってきて俺を呼んだ。
「アオイ、準備できたよ」
「にい、できた」
「はいよ。じゃあ、そうだな」
条件反射で返事をしながら二人が玄関から出てくるのを確認する。
当たり前のように靴を持っていなかったイズミはウミに促され俺の使い古しの靴を履かされている。
それが何だかおかしくて噴き出せば、目を丸くした茜さんが視界に入った。
彼女は呆気にとられたように二人を見て、それから俺に目を向ける。
「隠し子?」
「そこは普通に妹って聞きましょうよ」
笑い交じりで言うあたり明らかに冗談ではあるのだが、あまりに的を外されてしまった俺は苦笑いを浮かべた。
「冗談に決まってるでしょ。三人兄妹なんだね」
「そんなところです」
当然茜さんに異世界人の居候ですと説明するはずもなく無難な答えを口にする。
そして話が茜さん先導の元広がらないようにこちらからもお返しとばかりに兄弟姉妹の話題を振る。
「茜さんは妹とかいるんですか?」
「あー、えっとそうだね。一人いるかな」
言いながら茜さんはちらと自分の家の扉を確認する。
もしかすると一緒に暮らしているのだろうか。もしくは今遊びに来ているとか。
そう思いながらつられて茜さんの部屋に目を向けると折よくそのドアが開いた。
「茜さん、ちょっと聞きたいことが……」
そんなことを言いながら出てきた女の子は茜さんよりも先に俺と目を合わせて固まった。
赤みがかった茶髪の、釣り目の女の子だった。あまり茜さんとは似ておらず、もしも茜さんが彼女と同じような顔立ちをしていたのなら俺はあまり茜さんと親しくなれなかったのではないかと思える、一見して性格のきつそうな女の子だった。
「あ、こ、こんにちは」
しかし、さすがは茜さんの妹と言うべきか。見た目で人は判断できない。
茜さんの妹は挙動不審にも思えるほど慌てた様子で頭を下げる。声が上ずってしまったあたり緊張しているのだろうか。もしかすると人見知りなのでは、と思いながら俺も俺でどもりながら「あ、こんにちは」とか言って応じる。
「アオイ?」
それを見たウミは不思議そうに俺の視線の先を覗き見る。開け放たれた玄関のドアからひょっこりと顔を出す。
「あっ」
すると、ウミが驚いたような声を上げた。
「え?」
それにつられて頭を下げ続けていた茜さんの妹が顔を上げる。ゆっくりと、自らの感覚を疑うような不自然な動きで。
緊張した面持ちだった彼女は顔を上げきり、ウミと目を合わせると目を見開いた。
「ウミ?」
「サキだ」
二人して理解しあったみたいに名を呼ぶ。
茜さんの妹――釣り目の女の子は信じられないと言いたげに。
ウミは街で知人を見かけたみたいに驚愕も歓喜もない飄々とした態度で。
そんな様子を見ていた俺は助けを求めるように茜さんへと目を向け、
「え?」
「え?」
彼女とそろって素っ頓狂な声を上げた。




