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異世界へようこそ  作者: 澄葉 照安登
第二章 二人の異世界人
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モザイクの向こう側 4 

 濡れていた服を受け取ったタオルでどうにかして、リビングの四人掛けのテーブルに腰を下ろす。当然自分からそんな図々しいまねができるはずもなく、逐一立ち止まった俺を見て島崎さんが促してくれた。

 その後島崎さんは台所へ向かうと、和気あいあいと調理を始める。

 新婚夫婦らしい笑顔の多い会話。まだ結婚して一年だからその空気感も当然なのだろうと思いつつ俺はそれをただ眺めていた。

 島崎さんは時折俺のことを気にかけてくれていたが、母親は俺のことなど見えていないみたいに目を向けない。島崎さんから俺の名が出たりすればそれらしい受け答えはするが、俺個人の存在を快く思う努力をする気はないとその作り笑いが語っていた。

 しばらくするとせわしなく動いていた島崎さんがテーブルの前までやってきて真っ白な平皿を三つ並べる。

 そこに乗っていたのはハンバーグ。副菜としてなのか皿の隅には輪切りにされた焼きナスに粉ふき芋。店で出されるような盛り付けの仕方に驚き島崎さんを見れば、彼は恥ずかしそうに笑った。

 気合を入れてくれたらしい。

 俺は三人が席に着くまで無言でいた。ケチャップとウスターソースの匂いに生唾を呑みつつ何も返せないまま白米がよそわれた茶碗が来るのを待つ。

「いただきます」

 正面に島崎さん。斜向かいにはあの女。そんな位置取りで三人が席に着くと島崎さんが音頭を取り俺もつられて「いただきます」と呟いた。

「いただきます」

 それに合わせて母親がそう言ったのが意外で俺は一瞬の硬直を余儀なくされたが、視線を向けたところで彼女は俺に見向きもしないので黙々と食事を進めた。

 島崎さんも無言だった。何か聞きたそうに俺の顔をチラチラと見てはいたが、言葉を押し殺していた。

 食事中ということに気を遣ったのか。もしかすると俺が訪ねてきたという状況を鑑みて気楽な話題でないと察したのかもしれない。

 あたりさわりのない会話をして、それに相槌を打って。そんな食事の時間が流れた。

 俺自身、家族らしい一幕だと感じられるものだった。そう見える代物だった。内に秘めた感情さえ知らないままでいられれば、理想的な家族だと錯覚できたかもしれない。

 けれど俺その人工的に作られた上辺の会話が反っておどろおどろしいものに思えてならない。あると分かっているはずの恐ろしいものが隠されてしまうから、一層恐ろしく感じられてしまうのだ。

 きっと島崎さんが作ったハンバーグは美味しかった。けれど、浅い呼吸を繰り返しながら平らげたそれの味は記憶には残らなかった。

 温かい何かが喉を通り、体の中へと落ちて行く。それだけが体に刻まれる。

 食事を終えた俺は手を合わせるとすぐに食器を流しに片付けた。三人でそろってごちそうさまと呟いてから、輪を乱すことの無いよう小さくなって。

 あの女も島崎さんと自分の皿を片付けるために立ち上がりキッチンに向かう。見計らったように俺がキッチンから出てくるタイミングに合わせて。

 リビングに戻ると島崎さんと目が合った。一度立ち上がって島たせいで居場所がなくなったような錯覚にとらわれたが、彼と目を合わせたことで俺は再び元の席へと戻った。

 椅子を引き腰かける。それを合図に島崎さんはキッチンへと目を向けた。

「少しいいかな?」

 あの女は流しに立って皿洗いを始めようとしていたが、島崎さんが呼び止めると顔を上げた。

 そして一瞬のためらいの後、母は柔和根笑みを浮かべてそれに応じた。

 嫌味の無い笑顔。俺からすればあからさまな作り物の笑顔。けれど島崎さんは彼女のそんな一面を知らないから訝しむことなく妻の着席を待っていた。

 食事の時と同じく俺の前に二人が座る。

 重たい沈黙が時の流れを鈍らせる。俺は声を出そうとして、けれどどう話し始めればいいかわからなくて黙り込んでいた。

 委縮していた。そのただならぬ緊張感に、恐れおののいていた。

 そしてそんなとき、切り出したてくれるのはいつだって島崎さんだった。

「それで、今日はどうしたんだい? 理由もなく訪ねてきたわけじゃないんだろう?」

 作り物ではない柔和な笑み。包み込むような温かさをはらんだ言葉に俺は一層緊張した。

 恐ろしさは感じない。悪意も見て取れない優しい顔。だからこそ俺が今から口にしようとしている願いが傲慢甚だしいと自覚してしまう。

「一人暮らしのことかい?」

 そんな俺を気遣って、島崎さんは不安げに眉を顰めながら問う。

 確信していたのだろう。黙ってこの食事をとっている間に、もしくは俺がやってきた瞬間から。

 よほど切迫した事情でなければわざわざ訪ねてこないと、彼は身をもって実感しているはずだから。

「仕送りが必要ならそんな気を遣うことは無いんだよ? ほら僕こう見えて稼ぎはあるからさ」

 何も言わない俺に変わって島崎さんはそんなことを冗談めかして言った。

 いや、決して冗談ではなく事実だろう。でなければそもそも一人暮らしをしたいという我が儘を受け入れてもらえるはずがない。その我儘にかこつけいい部屋に住むことを条件として出したりするはずもない。

 けれど俺はその一言を口にするまでにとても長い時間を要してしまった。

 この行為は甘えなんてかわいいものではなく、傲慢と呼べるものだと分かっていたから。

「…………」

 けれど、だからと言って言葉を噤み続けるつもりは無かった。

 いかにここが息苦しい場所であろうとも逃げ出す気などさらさらない。

 覚悟は決まっていた。

 ただ、それが声に変わるまでのラグが長かった。それだけのことだ。

 俺は背筋を伸ばし、深く長く息を吐く。

 そのただならぬ気配を察知したのか、島崎さんはぴたりと黙り込んだ。

 母親は無表情。島崎さんに目を向けられていない間は普段と変わらない態度で俺に接する気らしい。

 俺は呼吸を整えると声を発するよりも先に頭を下げ、それからはっきりと言った。

「家賃を、全額持ってもらえないでしょうか」

 その言葉に島崎さんは押し黙る。母はきっと舌打ちでもしそうな顔をしただろう。

 だからというわけではないが俺は頭を下げたまま続ける。

「ずっとというわけでなく一時的でいいんです。今年いっぱい、もっと短い期間でもいい。少しの間、家賃の全額負担をお願いしたいんです」

 真剣に頼み込んだつもりだった。

 決して軽い気持ちで頭を下げたわけじゃない。

 受け入れられなくて当然だと思いながら、それでもこれしかないと思って頼み込んだ。

 とんでもない我が儘を口にした。

「……葵君。とりあえず頭を上げて」

 けれど島崎さんはやはりと言うべきか、柔らかい声のままそう促してくれる。

 俺はゆっくりと頭を上げ、彼のことを見据える。

 頬が強張った。

 そんな俺に島崎さんは苦笑気味に言う。

「言っただろう。仕送りもする、家賃を持つのだって大丈夫だって」

 快く受け入れてくれるのは、わかっていた。

 彼はそういう人で、いつだって俺に何かをしようとし続けていてくれたから。

 島崎さんは、間違いなくそう言ってくれると分かっていた。

 しかし安堵はできない。俺が向き合うべきは島崎さんではない。島崎さんだけではない。

 視線をゆっくりと動かし、島崎さんの隣に座る彼女を見据える。

 これも分かり切っていたことだが、彼女は汚物でも見るような目で俺のことを見ていた。

 色の無い、冷たい、怖い目で。

 間違いなく否定される。真っ向からというよりは至極当然の文言で。

 そう思って肩に力が入った。

 しかし声は、思わぬところから飛んできた。

「けれど、いいかな」

 二つ返事で快諾してくれたはずの島崎さんは苦笑いを浮かべながら付け足す。

 申し訳ないを顔に張り付けながら俺を見る彼は言いにくそうに口をもごつかせた。

「理由、を聞いてもいいかな。そのお願いをしに来た理由を」

 予期していなかったわけではなかった。当然湧いてくる疑問だ。そう問われないことの方が不自然と思える問いかけ。当たり前の懐疑心。

 けれど、一度受け入れられ油断していた俺は言葉に詰まった。

 考えていたはずの言い訳も白紙に戻り、俺は押し黙る。

 それを見た島崎さんは困り顔のまま慌てたように早口になった。

「あいや、変な意味は無いんだよ。お金のこととかそういうのじゃないし、葵君のことを変に思っているわけじゃないんだ。他意はないんだよ。ただ理由を聞きたいだけなんだ」

 その先に、聞こえないはずの声が聞こえた。

 一人暮らしを始めてからお願いも我が儘も口にしたことが無かったのに、なぜ一年以上経った今になってそんなことを言い出したのか。

 嫌味を言いたいわけじゃないとはわかっていたけれど、そんな疑念を向けられて当然だと思っていたから幻聴を耳にしてしまった。

 テーブルの上を見つめる。ついさっきまで昼食が並べられていたそこにはもう何もない。幻でも見ていたのかと思うほど跡形もなく消えている。コップの結露の跡まで綺麗に。

 俺はまた一人息を吐き、心を落ち着けた。

 ことあるごとにそうしているのは、悪い思い出に負けないためだ。

 心を蝕んでくるそれらを一時的に忘れるための作業。

 それを終えると、用意していた言い訳が脳裏に蘇る。

 けれどそれは雑念に感じられて俺は再び息を吐いた。そして息を吸う間もなく話始める。

「今しかできないことが、出来たんです」

 受験を見据えて勉強を始めたい。そんな言い訳を考えていた。面談の話もあって、俺は高校二年生で、季節は夏。ありがちな話だから納得してもらえると思って用意した言い訳。

 けれどそれを口にするのは不誠実だと思ったのだ。

 見せかけの気持ちじゃ、付け焼刃の言葉じゃ何も伝わらない気がした。

「どうしても今じゃなくちゃいけなくて。もっと前にとか、また今度にとか、そういうことが出来ないことが出来たんです」

「趣味、ということかな?」

 顎に手をやりながら思案顔で呟く島崎さんに俺は頭を振った。

「今しか一緒に居れない人がいるんです。あとどれだけ一緒に居られるかも全然わからないけど、一緒に居たいって思える人が」

「あ、えっと。それは恋人、とかかい?」

 頬を赤らめながら苦笑いを浮かべる島崎さんに俺は再び頭を振る。

「ただ、一緒に居たくて。……ただそれだけの相手です。友達とか、恋人とか、そういうのではない……。でも、今だけなんです。だから、一緒に居る時間を減らしたくなくて」

 言いながら、本当に自分勝手な甘えた考えだと思った。

 二者択一を選べないから、どちらにも手を伸ばしたいから助けを乞う。今までさんざん目を逸らしてきた相手に、よくしてくれた、よくしてくれ続けていた人にここぞとばかりにたかる。

 浅ましい。こんなことを言って納得できるはずがない。こんな要領を得ない説明で聞き入れてもらえるはずがない。

 そう思ったけれど、胸中を偽る方が不誠実だと感じて俺は続けた。

「お願いします。少しの間でいいんです。その期間が終わったらすぐに言いに来ます。その後滞納した分はちゃんと払います。一人暮らしの間に支援してもらった分もちゃんと、全部返します。だから、」

 俺は膝の上でこぶしを作り、もう一度深々と頭を下げた。

「お願いします。どうかこの我が儘を聞き入れてください」

「…………」

 沈黙が訪れる。頭を下げたまま目を瞑っているから島崎さんがどんな顔をしているのかわからない。けれど真剣な顔をしているような気がした。

 俺の言葉を、思いを受け止め、吟味してくれている。そんな気がする。

 勝手に期待しているだけかもしれないが、そう思って言葉を待った。

 やがて、小さな嘆息と共に島崎さんは言った。

「言っただろう。家賃も持つし、仕送りだってするって」

 俺は腰を折った体制のまま顔だけをゆっくりと上げ彼の表情を窺い見る。

 島崎さんは、困ったように笑っていた。

「それに、これくらい我が儘なんかじゃないよ。そんなにかしこまることもない。家族なんだから、もっと簡単に頼りにしてくれていいんだよ。葵君は今まで僕らを頼らなすぎだ」

 俺は生唾を飲み込んで目に力を入れた。

 不思議な感覚だ。受け入れてくれるだろうと予想はしていたけれど、無性に嬉しかった。

 心のままに話して、それを受け入れてもらったからなのだろうか。ふいに涙がにじんでしまうほど、俺は安堵していた。

 そんな俺を島崎さんは困り笑いで見ていた。

「ほら顔上げて。頭下げ続けなくても」

「あなた、ちょっと待って」

 明るい声音で俺に話しかける声を、それ以上の柔らかな声が遮った。

 俺からすれば鼻につくほどのあからさまな柔らかさ。暖かさ。幼稚園児のお遊戯会のようにずさんに思える大根演技。

 その声の主は笑みを湛えて俺に目を向けた。

「葵は自分で社会勉強がしたいと言って一人暮らしを始めたのよ? あまり手を出し過ぎるのはよくないんじゃない?」

 大蛇に巻き付かれるようなおぞましい感覚に身をすくませた。背中を這いあがり首に絡まるそれは錯覚なのかと思うほどの拘束力を持っていた。

 ゆっくりと締め上げてくるその力は着実の俺の気力を奪っていく。

「それに社会勉強のためなんだから何か起きた時も自分でどうにかしてみるのも勉強の一つだと思うわ。過保護にし過ぎるのは成長の妨げになるんじゃないかしら?」

 俺を思っての言葉。けれど自分のエゴを押し通すための手段。

 それを理解していつもならば憤りがせり上がってくるというのに、今この瞬間は恐ろしさだけが俺の中に居座っていた。

「今までバイトを頑張ってそれで生活できていたわけだし、一度様子を見てそれでも無理そうならその時に考えて見るのもいいんじゃないかしら?」

 俺は具体的な説明はできない。

 異世界の同居人がいるからと説明すれば納得してくれた島崎さんにまで懐疑心を抱かせてしまうことになる。

 異世界人というのを伏せて説明するにしても、同居人がいるなんて言えばそのことについて詳しく話さなくてはいけなくなる。相手は誰だ、どんな人だと問われ、しまいには実際に合うと言い出されかねない。

 俺はこれ以上言葉を費やすことが出来ない。

 そんなことをすれば逆効果だ。だから、何も言えない。

 その事が悔しくて、テーブルの下でこぶしを握る。

 島崎さんも思案顔を浮かべている。完全にあの女のペースだ。

「今すぐってわけじゃないんでしょ葵? そうなるかもしれないから考えて欲しいって、そういうことよね?」

 余裕がないのか、ことを急いだのか、そいつはお決まりのその言い方を行使した。

 問いかけ、俺にすべてを語らせるそのやり口を。

 頷いてしまいそうになる。

 そうだ、頷かなくてはならない。

 言葉の端々から伝わってくる。俺が何をすべきか、どうしなければならないのかが。

 わかっている。今までずっとそうしてきたから。模範的な答えが頭に浮かんでいる。

 そう望まれていると痛いほどに理解できてしまった。

 浅い呼吸を繰り返すと、そこに震えた音が混ざり始める。

「…………」

 けれど俺は、頷かない。

 頷けない。頷くわけにはいかなかった。

 半端な気持ちじゃない。切実な願いなんだ。

 どうにもできないから。ジレンマに押しつぶされそうだからここまで来た。最後の希望に縋った。最も恐ろしいものに向き合う覚悟を決めたんだ。

 ここで引いては意味がない。

 頷いたら、その覚悟を裏切ることになってしまう。

 だから俺は唇を噛んで耐えた。

 それが気に入らなかったのか、彼女は一瞬笑顔をはがし冷めた目で俺を睨んだ。

 強要されている。わかり切っていた。だから俺は黙る。

 目はもう合わせられない。怖くて仕方がない。

「葵君どうだい? 今すぐ必要なのかい?」

 明らかに様子の変わった俺を見て、島崎さんがそう問いかけてくる。

 助け舟だった。それをどうにか掴もうとして口を開き声を出そうとする。

 けれど、言葉は出なかった。

 発声を忘れてしまった喉は強張り呼吸をするのがやっとだった。

「もし余裕があるなら様子を見てからでもと思うんだけど」

 何も言わない俺を見て島崎さんはそう続ける。

 けれど俺は何も言えないままだ。

 それでもどうにか声を出したくて唾を飲み込んだ。

 息苦しさに涙腺が刺激されえずきそうになる。その痛みに意識を割かれたこともあって、ほんの少しだけ喉の力が抜けたのがせめてもの救いだった。

 斜向かいの彼女は柔和根笑みを浮かべ、諭すような声音を保っている。

「葵。平気そうならもう少し頑張って――」

「母さん」

 そんな彼女に思いを伝えるために、そう呼んだ。この上なく震えた声で。

 その事に母は驚愕し、硬直する。

 その隙に俺は震えながら続けた。

「今じゃなきゃダメなんだ。俺の我が儘だって、そんなのわかってる。甘えた考えだって理解してる。でも、どうしても、今じゃなきゃいけない」

 喘ぐように息を吸って、母を見る。

「我が儘だってわかってる。一人暮らしをしたいって言ったのも俺だ。輪を乱したのは俺で、向き合ってこなかったのも俺だってわかってる」

 昼食を吐き戻しそうな思いだった。

 苦しくて仕方がない。恐ろしくて仕方がない。逃げ出したくて仕方なかった。

 けれど俺は息も絶え絶えに続ける。

「俺がふさぎ込んだのがいけないってわかってる。だから今回のことだって、簡単に受け入れてもらえないって、そんなのわかってる」

 母に問題があったことは事実だと思う。育児放棄も甚だしい、迫害と呼んでいい行いだった。洗脳に近い強要も日常茶飯事、間違いなく彼女にも非がある。

 けれど島崎さんからも逃げてしまったのは俺だ。手の伸ばしてくれた彼から逃げ出したのは俺だ。そのことを認識しないようにしていたのは誰のせいでもない。

 俺に問題はある。少しなんてものではなく大いに。

「それでも……」

 これだけは俺の心からの我が儘だから譲れない。

 俺が悪かった、だから素直に言うことを聞いて諦めるだなんて言えるわけがない。

 誰かに言わされた言葉ではない。俺自身の気持ちだ。

 偽りの無い本心。涙ぐむほどの感情。

 だから、

「受け入れて欲しいッ。これで我が儘は終わりにする。これだけでいい。これが最後でいい。だからお願いします」

 頭を下げる。テーブルに額が触れ、それ以上下げることが出来なくなるまで深く。

「お願い、します」

 人生で初めて、母に頭を下げた。

 母に初めて、感情を吐露した。

 母に初めて、何かを伝える努力した。

 ひどく不格好だっただろう。呆れるほど情けない。

 嗚咽の混ざった声は聴きとりにくく、言葉が正しく届いたのかもわからない。

 再び静寂が訪れた。

 頭を掻きむしるような雨音だけが聞こえる。誰も身じろぎひとつしない。吐息の音すら聞こえない。

 そんな気が狂いそうな時間が流れ、やがて一人が声を上げた。

 いつだって、先陣を切るのは彼だった。

「葵君がこんなに真剣に頼むってことは、よほどのことなんだよ」

 その声に顔をあげれば、島崎さんは母をじっと見ていた。

「滞納した分は遅れてでも払うって言っている。今しかできないことだって言っている。先延ばしにする問題ではないよね。今結論を出そう?」

「ぁ……ぇ?」

 母は放心したみたいに条件反射で相槌を打つ。俺が頭を下げたことによほど驚いたらしい。しきりに俺のことを横目で確認している。

 とうに頭を上げていた俺はそれを見て島崎さんに向き直った。

 彼も真剣な面持ちで俺をまっすぐに見ている。

 しかし目が合うと彼は人のいい笑顔を浮かべた。

「葵君。滞納だなんて思わなくていいよ。僕らは家族なんだから」

「…………ありがとうございます」

 俺は本物の家族に、今一度深々と頭を下げた。


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