モザイクの向こう側 1
翌朝。買い置きのパンで朝食を済ませた俺は早々に部屋着から普段着に着替え外出の準備をしていた。
ジーパンを履き半袖のシャツを着て一つ息を吐いた俺は何もない机の上を見つめている。
湿度のせいか露出した腕にまとわりつく温度が俺をその場に押しとどめようとしてくる。何者かの手によって強引に引き留められる、そんな感覚。
「…………」
普段の俺なら、今までの俺ならきっとそれに屈していただろう。重くなった足、削がれた心、恐怖を煽る記憶。それらに当てられ昨日の結論をそのままに引っ張り出してしまったように思う。
どうせ意味の無いことだ。そう一人で納得して諦めてしまっただろう。
けれど俺はそれを振り払った。不思議と力みは無く、外出の準備が終ると思いのほか心持ちは軽かった。
「貴重品だけでいいか」
何の気なしに呟いて、ポケットに財布とスマホを突っ込むとリビングへ赴く。
「……どこか行くの?」
当然、着替えを済ませた俺を見たウミはそんな質問を投げかけてきた。
俺は特に構えるわけでもなく「ちょっとそこまでだよ」なんて玉虫色の答えを口にする。
するとローテーブル前から立ち上がったウミが俺の元までやってきて小声でこんなことを口にした。
「帰ってくる?」
「当たり前だろ」
昨日の話を引きずってしまっているらしい。それもそうだ。あんなにも感情的に、自棄になったように二人を匿ってやると豪語したのだ。経済状況的にそれができるはずもないのは十二分に悟られていたうえで。
ならば、二人しか暮らせないのであれば自分を犠牲に。と考えたウミならば今度は俺が自己犠牲を行おうとしていると誤解することも当然のことかもしれない。
俺はどこまでも気を遣ってくる仮初の家族に噴き出しつつひらりと手を上げる。
玄関まで行くと、久しぶりにウミが俺の後をついてきた。小鴨のような行動を見て余計におかしくなってしまった俺は靴を履き替える前に振り返った。
「すぐに帰ってくる。昼には無理かもしれないけど、夜には帰ってくる。遅くならないからそんな顔するな」
「わかった。待ってる」
そう言うと、ウミは不安そうにしながらもコクリと頷いた。
会話が正しく成立している。
昨日も同じように気遣いの言葉を口に出来ればよかった。当たり散らすみたいな俺の言動はあまりにも浅ましい。俺が悩んでいる間ウミはずっと不安だっただろうに、それをくみ取れずにあんなに語気を荒げてしまった。
申し訳なく思ったから、自然と俺は彼女の背後に手を伸ばした。そうした瞬間、ああこれは俺の照れ隠しなんだと自覚してそっぽを向いた。
ウミは不安げな顔のまま何をするのかと俺を見上げている。何もやましいことをするつもりは無かったがじっと見つめられてしまったからだろう、俺はその目から逃れたくて思いのほか手に力を込めてしまった。
いつかのように彼女の寝間着兼部屋着と化したぼろ布のフードをかぶせる。
前の時と同じように少し乱暴なかぶせ方。
優しくない、不器用で粗雑な触れ方だった。
「アオイ?」
ウミもその時の再現をするみたいにきょとんと俺を見上げその行動の意味を問いかけた。
あの時と同じように力を込めてしまったというのに、ウミは体制を崩すこともうめき声をあげることもなく不思議そうに俺を見上げている。
そんな彼女に悪かったと昨日のことを謝ろうとしていたはずの俺は、しかしまったく関係の無いことを口にしていた。
「ウミ。俺たちはなんだ?」
それは前の時に比べれば驚くほど柔らかい声音だった。
昨日の後悔も影響しているが、それ以上に今回はウミも答えを理解してくれていると思ったからかもしれない。
二度目の問いかけの答えは、彼女から口にしてくれると、そんな予感があった。
「……期間限定の家族?」
その思惑通り。ウミは不思議そうにしながらもそう答えてくれる。
自分で口にするのとは違う満ち足りた気持ちになりながら、俺は「そうだ」と頷いた。
「だから、元の場所に帰るまでは一緒に暮らす。ウミも、イズミも」
「……うん」
言い方がよかったのだろう。昨日とは違いウミは俺の言葉を受け止めてくれた。
ウミは笑みを浮かべ頷く。元気よく、と言うよりかは噛み締めるような返事。それが俺の決意が伝わったことの証明だと勝手に解釈して口角を上げた。
「食材の買い出しとか、必要か?」
「ううん大丈夫。アオイが前に食べさせてくれたのなら作れるから」
「どれのことだ?」
「味噌とお肉と野菜の奴」
「回鍋肉か」
ウミと初めて囲んだ食卓だ。イズミがやってきてからも一度作ったことがある。
三週間もこちらで生活しているウミは俺が説明した料理くらいは簡単に作ってくれる。もともと料理をしていたのかもしれない。ガスコンロや水道の使い方を教えれば上達はあっという間だった。
言葉が通じるだけにやり取りを阻害するものは一つもなく、彼女は今我が家の晩御飯担当となっている。
だからこうして買い出しの確認をするのも初めてではない。慣れた、とまではいかないが当然のやり取りと言える。
「アオイが帰ってくるまでに作っとく」
「いや、昼過ぎには帰ってこれると思うんだけど」
「あ、じゃあ作らないで待ってる」
「そうしてくれ」
「…………」
そんなやり取りを終えしゃべることが無くなると、俺は「じゃあ行ってくる」と告げながら背を向け靴を履いた。
靴紐を結んでからつま先で地面をつつき微調整。それからいざドアを開き外に出れば、しとしとと雨が降っていることに気付いた。
「よっと」
半身で振り返りながら玄関に立てかけてあるビニール傘を引っ掴み廊下へ出る。
それから一度、振り返った。
思った通りウミは玄関に棒立ちになって俺を見送ろうとしていた。
「行ってらっしゃい」
フードをかぶった彼女の姿はなんだかマスコットみたいで愛らしい。雪ん子と言ったか。そんな妖怪がいた気がする。
そんな益体の無いことを思いつつ笑顔で俺を見送る彼女に「いってくる」と返すと今一度「行ってらっしゃい」と声が投げられた。
その場で突っ立っているといつまでもそのやり取りが繰り返されてしまう気がして、俺は口には出さず手振りだけで挨拶をするとドアを閉める。しかしカギを掛けようと思いポケットに手を伸ばした時に、肝心のカギを忘れたことに気付いた。
「…………」
俺は暫し悩んだがカギを取りに戻ることはせずにそのまま歩き出す。その気配を察知したのか、直後施錠音が響いた。
帰宅したら、ウミに鍵を開けてもらおう。そう思いつつ吹き曝しの廊下を歩き、階段へ向かう。
白よりの灰色をした空は豪雨を呼び込む気配はなく、梅雨であることを思い出したようにだらだらとした小雨を振らせ続けようとしている。
そう言えば今は梅雨だったなと思いながら歩く。吹き込んでくる雨が肌をつつき早く来いと呼んでいるみたいだ。
不意に腕に感じるその冷たさに笑みが浮かんでしまった。
しばらく雨が降ることなどなかったのに外出を決意した日に限って雨が降るとは、どうやら我が家のてるてる坊主はご利益がないらしい。色が悪いのか、それとも大きさのせいか。はたまた異世界産だからだろうか。
そんなバカげたことを考えながら、俺の笑みは深まっていく。
これから真っ暗な景色を見に行くというのに、心は驚くほど晴れやかだ。
暖かな、陽光に勝ると劣らない光。安らぎを運んでくる癒しの光。
もしかするとそれはてるてる坊主のご利益ではないかもしれなけれど、そんなことはどうでもよかった。
だってそれはまぎれもなく、仮初の家族が俺に与えてくれるものだから。




