二人目の同居人 2
限界が来た。
貯金の残高は減り続け、とうとうわずかばかりの貯金を食らい始めた。
スズメの涙ほどの貯金はすぐにでも枯れ果て、今月の間にはなくなってしまうだろう。
幸いにしてアルバイトの給料があと数日で入るので今この場で何もかもが破綻するというわけではないのだが、それでも今が限界と言わざるを得なかった。
今までと同じ食費では、とても三人を賄うことが出来なかった。一人分の食事では三人の腹を満たすことは叶わず、そもそもここ数日はイズミの体調回復のために十全な食事を用意した。それ以外にも栄養剤を買ったというのもあるし、出費はかさみ続けていた。
それだけに飽き足らず、俺の手元には一枚の請求書。それを見て俺は呼吸が浅くなった。
水道代の請求書だ。
二か月前のそれに比べ値上がりを始めたそれは、俺の胃にチクチクとダメージを与えている。
ウミと暮らしてからまだ一月と経っていない。それでも着々と生活費は嵩んでいた。
水道代に限らず電気代だって上がっているだろう。ガス代だってそうだ。
今月の支払いが滞るということはかろうじてないが、それでも限界と言うには十分の兆候だった。
来月以降、生活費を支払いきることはできないだろう。
どう節約しようとも、今のままでは不可能だ。
食費を限界まで削ればあるいは、とは思う。
けれどそれは俺が望まない。
ここまで追い込まれているのにそんなことを言っている余裕は無いのは確かだが、それでも食費だけは削りたくは無かった。
イズミの体調のことを思っているのではない。それは単純に俺の願望だった。
食事は、あの三人で共にする食卓は損ないたくなかったのだ。
俺が家族と言う幻想に浸れる数少ない場面だから手を抜きたくない。バイト先の廃棄品で済ませたり、笹木家に助けを乞うこともできるだろうが、それは俺の求める家族の食卓ではなかった。
三人で温かいご飯を食べたいのだ。
俺の手で作った、あるいはウミが作ってくれたものを三人で囲んでいたい。
「よしっ」
だから俺はロッカールームで着替えを済ませると同時、気合を入れるために声を上げた。
ロッカーを閉め、ずしずしとバックヤードに向かう。
歩みの勢いそのままにドアを開け、それと同時に声を上げた。
「店長相談があるんですけど」
「きゃぁ、アオちゃんノックしてよぉ」
俺の決意は店長の少女のような悲鳴によってそぎ落とされてしまった。
まるで裸でも見られたみたいに自身の体を抱く店長。当然彼はコンビニの制服を着用しているし、隠そうとしている上半身には隠すべき場所などありはしないだろうに。
重心のしっかりとした体つきに似合わないそのポーズは脳が誤作動を起こして見させている幻なのかと勘違いしそうになるが、残念なことにそれは店長の常の姿だった。
「なんでそんな甲高い悲鳴が出るんですか」
俺はため息を吐きながら後ろ手にドアを閉める。つい先ほどまでの勢いなどみじんも残っていない。
「いきなり大きな声出されたらびっくりするわよ」
「そんな大きな声ではなかったと思うんですけど」
「大きかったわよ。可愛い悲鳴が出るくらいには」
「ははー」
「笑うつもりならせめて声音は変えなさい?」
いつもの通りに無為なやり取りをかわし、それが出勤のあいさつ代わりとなる。
俺はちらりと時計を見やり、僅かに勤務時間の手前であることを認める。それから俺は体の空気を入れ替えた。
「それで、話っていうのは何?」
それを店長も感じ取ったのだろう。彼は俺が切り出すよりも先にそう促してくれた。
前置きが必要なくなったことに感謝して、俺は端的に告げた。
「シフト、増やしてもらえませんか?」
「理由は?」
間髪入れずに店長は問い返してきた。その顔には疲労のようなものがにじんでいる。
「ちょっと生活費がきつくなってきてて」
「あなたバイトの日数多いじゃない。それでも足りないの?」
「そうですね、ちょっとこのままだと厳しいです」
正直に言えば店長は難しい顔をした。
「何か、予想外の出費でもあったのかしら?」
「いや、そういうことではなくて。じりじりと貯金が減っていったって感じです」
説明しても理解されないであろう事柄は伏せ、納得してもらえる嘘で話を進める。
「そうなのね……。ちなみに聞くけど、シフトを増やすとして週のうちもう一日増やしたいってことでいいのかしら?」
「そうですね」
「それで事足りるのかしら?」
「休日の土曜日に入れてもらえるならどうにか。平日だと二日増やしてもらいたいです」
休日勤務であればぎりぎり何とかなるだろうと思った。
週一日増やしてもそれが平日となると勤務時間は五時間やそこらだ。それを四週だとすると月に二万円と少し増えるくらい。
それではさすがに足りないだろうと思った。
ウミがやってきてまだ三週間と少し。イズミがやってきてから二週間。
その間だけでも出費は増えて貯金を崩す羽目になったのだから余裕を見ておきたかった。
電気代水道代は、これからさらに増え続けるのだと分かっていたから。
「土曜日。そうね……」
しかし店長は難しい顔をした。腕を組み脳内を覗き見るように天井を見上げる。
それから暫し唸ると彼は小さく息を吐いた。
「従業員的にそこに入ってもらうメリットは無いわね。人手は足りてるわ」
「…………」
まっすぐにそう言われ、俺は息を呑んだ。
正直予想外だった。いつも俺を気遣いよくしてくれた店長のことだから、頼む側であるにもかかわらず受け入れてもらえるだろうと高を括っていた。
経営者としての店長ではなく、俺によくしてくれる彼に頼んでいると勘違いしていた。
俺は慌てて認識を改め、前かがみに切り出す。
「じゃあ、平日二日増やしてもらえないですか?」
「それも厳しいわ。そもそもそれだとあなたの時間を取り過ぎる」
余裕の無い俺に向かって、店長は毅然とした態度でそう答えた。
それから俺の目を見て、こう言う。
「アオちゃん。あなたの部屋にまだウミちゃんはいるのかしら?」
「…………」
「そう、それがバイトを増やす理由なのね」
店長は黙りこくった俺を置いて一人頷くと腕組を解いた。
「アオちゃん」
それから優しく、俺の名を呼ぶ。
普段ならば茶々を入れ笑える流れに持っていくような場面だが俺は黙って彼の目を見た。
諭すようなその声に、俺は何も言えなかった。
そしてそんな俺に困り笑いを浮かべた店長は柔らかく言う。
「それが理由なら、手段を間違えてるわ」
底抜けに暖かな瞳でもってそう諭す店長は大人に見える。
普段が大人らしからぬ行動をしているというわけではなく、いつも同じ目線で笑い合っているから、そのどうしようもないほどの距離感に戸惑ってしまったのだ。
「ウミちゃんと一緒に居るためにバイトを増やす。そのことを私が否定するつもりはないわ。私だってあなたと同じように一緒に居たい相手と居るためならそれくらいのことはするわよ。苦痛だとは思わない。むしろそんな風に頑張れる自分を誇らしくも思えるわ。…………でもね」
店長はそこで一度区切ると苦笑いを浮かべた。
「一緒に居るために、一緒に居られたはずの時間を使っちゃだめよ」
愚かしいものを見る目で店長は笑う。
「それは、本末転倒って奴じゃないかしら?」
「…………」
俺はまたしても何も言えない。
店長に言われてその考えを知り、諭されてしまったというわけではない。
それくらいのことはとっくに気付いていた。
このままではウミを匿いきれない、だから少しでも長く匿うためにバイトを増やす。
ウミと一緒に居たいから、その時間を削ってバイトに勤しむ。
破綻しているのだ。
いつ彼女らが元の世界に帰るのかもわからないのに、もしかするとあと一月もしないうちに二人は自分たちの世界に帰るかもしれないのに、俺は進んでその時間を減らそうとしている。
正直に言えば、バイトを増やしたくなんかない。
土曜日は唯一ウミたちとゆっくりできる日なんだ。バイトで潰したいはずがない。
平日にしたって俺の帰りが遅くなれば彼女たちは俺を待っていてくれるかもしれないが、それでも学校が終わって帰宅するよりかははるかに短い間しか顔を合わせていられない。
それんなのはごめんだ。その時間を犠牲にするのは何よりも嫌だ。
けれど、仕方のないことなのだ。今のままでは来月いっぱいまで持たない。
だから俺は苦虫を噛み潰す思いでこの決断に乗り出したんだ。
けれどそれは俺の事情だ。
雇い主に断られてしまった俺は、頷くほかない。
「わかりました。すみません無理言って」
「いいのよ、言うのは自由なんだから。我が儘だって言うのは自由。それを受け入れるかどうか決めるのが大人の役目よ」
得意げに言う店長だが、俺は正直彼の言葉を聞いてはなかった。
俺の頭は、これからどうするべきかでいっぱいだった。
他のバイト先を探すしかない。しかしこのコンビニを辞めてまでほかで働くというのは考えられなかった。これもまた俺の我が儘だが、店長との関係を切ることはしたくないのだ。音があるからではなく。彼の人柄を好ましく思っているから。
俺が大人に対する偏見を改めるきっかけとなってくれた人でもあったから。
しかしそうなると、融通の利くバイト先を探さなければならない。店長の話を聞くに、ここのシフトを融通してもらうこともできないだろう。となると俺が希望できる勤務日は絞られる。
融通の利かない新人バイトを快く受け入れてくれるところはあるだろうか。
そう考えだすと、なんだか敗北が決まっている試合にでも赴く心持ちになってしまう。実際に履歴書を提出して面接をしてみなければ結果はわからないだろうに、俺は早くも逃げ腰だった。
思考しだした俺は棒立ちになる。体感では数瞬のこと。けれど実際に奇異の目にさらされるような間を取ってしまったらしい。
ずっと俺を見ていた店長は小さくため息を吐いた。
「アオちゃん。最後にもう一ついいかしら?」
「何ですか?」
条件反射で相槌を打てば、彼はどこか窘めるみたいに言った。
「あなた、頼るべきものも間違えてるわよ」
一瞬、頼らないでくれて言われているのかと思った。
けれど彼の顔を見てそうではないことを知る。店長は、意固地になっていじける子供をなだめようとしている大人の顔をしていた。
「頼るべきもの、ですか」
俺はなんのことかわからないという顔をして呟く。
店長はそんな俺を見て柔らかく笑いながら「そうよ」と相槌を打った。
店長が何を言いたいのかは、わからないでもなかった。けれど、だからと言ってはいそうですねと頷けるはずもない。
俺の家庭の事情を知らない店長は当然のようにそう言うかもしれないが、俺にとってそれはとても難しい事だった。
子供が真っ先に頼るべき親と言うものを、俺は頼ることが出来ない。
「それでもどうしてもって言うなら、平日もう一日くらいなら増やせるわよ」
そんな俺の胸中を察したわけではないだろうが、最後に店長は予防線を張ってくれる。
それではまだ足りないと心では呟きながらも、俺は形式上頭を下げておいた。




