急患運び込む 2
明るくなった。その理由は問い直すまでもなかった。
居候の異世界人。彼女の存在。
十日ほど前に突如俺の部屋に現れた、ぼろ布を纏った女の子。黒い髪は短く切られ、その瞳は青空を切り出したみたいな群青色。三歳年下、と言われると首を傾げたくなるほどのあどけなさを残した彼女の存在だ。
彼女の象徴とも言っていいてるてる坊主のようなそのシルエットは、この二週間に満たない間にすっかり見慣れたものとなっている。
一人暮らしには広すぎる1LDK。フローリングのその上を裸足で歩き、自称ローブの裾を揺らしながら俺の後を着いてくるひな鳥のような女の子。
彼女との生活は俺からすればひどく刺激的で、それでいて安らかな日常だった。
平日は学校とバイトで帰宅するのは十時を回ってから。休日も二日の内一日はアルバイトを入れていて、彼女と一緒に居る時間は決して長くは無かった。
そんな、朝と夜だけ顔を合わせるような生活をたったの十日繰り返しただけこんなふうに思うのは大げさ過ぎるけれど、俺はそのたった数日間で満たされていた。
期間限定でも、彼女が自分の居場所に帰るまでのつかの間の出来事だとしても、俺はその時間を家族と過ごす日常だと認識していた。
朝起きて学校に行く前に行ってきますを言うことも、授業やバイトの最中ウミが何をしているかと思いを馳せたりするのも、日が落ちてからくたびれて帰ってきた俺をただいまの声が迎えてくれるのも。
何もかもが、共に暮らす間柄として妥当な。
まるで家族のような時間だと。そう思っていた。
だからなのだろう。健が俺の顔を、表情を見て変わったと感じたのは。
五月までの俺は、健やバイト先の店長との会話で笑いこそすれ、心のどこかですべてを諦めていた気がする。世のあらゆる人が持ち合わせている、当たり前のように生まれたときから持っているはずの家族と言う繫がりを持ち合わせていなかったから。
俺自身が最も欲していたそれを持っていなかったから。
いくら友と笑い、毎日を謳歌しようとも満たされることは無いのだと思っていた。
それが、こんな不思議な形とはいえ叶ってしまったのだ。諦観で乾かした瞳も潤うはずだ。何より欲していた、無くてはならないものを今俺は手にしているのだから。
毎日浮足立った気持ちでいるのも無理は無かった。
軽やかに地面を蹴るのも仕方のない事だった。
今日も、ペダルをこぐ足が軽い。平坦な住宅街は少しでも足を止めれば途端に減速してしまうのに、もはや惰性など必要ないほどに、俺は軽やかに、飄々とペダルをこぎ続けていた。
車輪が前に進み、自宅が近づく。
その事実だけで頬が緩んだ。
バイトが休みだということが、たまらなく嬉しかった。
アルバイトの無い日は日々の疲れを思って十分な休みを取ろうとばかり考えていたのに、今は少しでも早く帰宅し、ウミのおかえりを聞きたいと思う。
もし今日もバイトをしていればもう少し生活に余裕ができるのではないか。と思わないわけではない。今までの稼ぎではウミと暮らしていられる時間はそう長くはない。ウミがいつ帰るかわからない以上確かな事は言えないが、俺の事情だけで言ってもこのままでは二、三カ月がいいところだった。
けれど、もしそれ以上にウミが俺の部屋にとどまるというのなら、俺はアルバイトを増やし、ウミとの時間を伸ばす努力をするだろう。
それほどまでに、ウミは俺の足りないところを埋めてくれた代え難い少女になっていた。
「……ウミ」
彼女を強く思ったからだろうか。自然とその名を口にした。
自転車の後ろにその声を置き去りにして俺は前に進む。ウミは今あの部屋で何をしているだろう。
「…………え?」
そんな風に思ったからだろうか。向かう先に、彼女の姿を幻視した。
黒いてるてる坊主。ローブに備わっていたのであろうフードをかぶった彼女は普段にもましてその言葉がよく似合っている。
一見すれば死神やどこかの幽霊にも見えてくるその姿は、けれどやっぱり華奢な女の子の素足でこちらへ向かって歩いている。
それを見て俺は先刻までの朗らかな思いを忘れ、慌てて彼女のもとへ車輪を向かわせた。
「おい、何やって……。ていうかなんで裸足で出てるんだよ」
耳障りな音を立てブレーキを掛けながら彼女の真横で停車する。
しかし当の彼女はというと、ふらふらとした足取りのまま俺の横を通り過ぎてしまう。
「……待てよウミ」
俺はいら立ちを露わにしながら旋回し彼女を追う。
「どこ行く気だよ」
「……………」
「いやそれよりもサンダル履けって」
「…………」
呼びかけても、応答がなかった。
俺は途端に末恐ろしいものを感じてペダルから足を下ろし彼女の肩を掴んだ。
「…………ウミ?」
そして気付いた。その肩の病的なまでの細さに。
揺れる足取りの明らかな異常さに。
「ッ!」
俺は慌てて手を離し飛び退いた。
そしてそれから俺は大慌てで今一度その肩を掴んだ。引いていた自転車は、その場に倒れ込む。
「ちょ、止まって!」
俺はそのてるてる坊主の両肩を掴み、無理やりに俺のほうを向かせた。
そして、息を呑んだ。
その子はウミではなかった。
青い瞳は彼女とよく似ているが、髪の毛は長くのばされ、フードで正確な長さはわからないが背中まで伸びているように見える。
それだけでウミでないことは確かだったが、それを見るよりも早く、俺は気付いた。
顔立ちだった。年齢が違うなどと言う、そんな生易しい話ではなかった。
やせこけた頬、疲労しきった表情、虚ろな瞳。
その全てが共に暮らす女の子からは遠く離れていた。
憔悴しきったその顔は、恐ろしく幼いくせに俺の知るどんな人よりも死に近いところにあった。
「…………ぇ?」
少女は状況を飲み込めていないのか、うわごとのように疑問符をこぼす。それから俺を見上げようとして、重心がぶれたのがいけなかった。
「あぶっ」
彼女はその場に膝から崩れ落ち、俺はそれをどうにか受け止めた。
乱暴に彼女の腕を握り、つるし上げるみたいにして転倒を回避する。
「大丈夫か!?」
それから俺は大慌てで声をかけた。
意識が朦朧としている女の子に、必死になって声をかける。
「聞こえてる!?」
片膝をつきながら腕に彼女を抱きとめ、必死で声をかける。
けれど彼女は何も答えない。焦点の合わない目で浅い呼吸を繰り返していた。
「…………」
あまりの事態に俺は唖然とし、それから意味もなくあたりをきょろきょろした。
助けの手はどこにあるか、なんて探すみたいに。
当然、そんなことしても住宅街のど真ん中に病院などない。バイト先のコンビニはしばらく前に通り過ぎた。引き返して助けを求めるくらいならばマンションに向かう方が賢明だ。いやそもそもこの場でスマホを取り出し救急車を呼ぶのが先決だ。
俺は意を決して彼女を抱いたまま立ち上がり、その顔をもう一度確認する。
意識は浅いが、呼吸はかろうじてしている。目立った外傷があるわけでもない。動かしても問題は無いだろうと理解できた。
「…………ん?」
そうしてじっとその顔を見つめて、俺にある予感が過る。
そのどこか見覚えのある顔立ち。青空のような真っ青な瞳、そしておそらくは十歳そこそこであろう幼い体。
「…………えっ」
その予感が確信にほど近くなると俺は今一度声を上げた。
「…………まさか、な」
それから、自転車を置き去りにして駆けだした。




