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異世界へようこそ  作者: 澄葉 照安登
第一章 インスタントファミリー
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偽物の家族

 電車に揺られている間、会話は一つもなかった。

 ウミは黙って虚空を見つめていたし、俺も同じようにして時間を潰した。

 スマホを手に、けれど電源は入れずに。一定の間隔で訪れる振動に揺さぶられていた。

 もうスマホの電源を着けても電話が来ることは無いだろう。あの女が回避したかった島崎葵の訪問はもう過去の出来事だ。彼女は小言の一つや二つ口にしたいだろうが、そんなことのためにわざわざ俺に連絡してくるはずもない。あの人にとっては俺と言葉を交わすことは窒息しながら生きるのと同義なのだから。

「…………」

「…………」

 結局、最寄り駅に着くまで俺たちは黙りこくっていた。

 ウミが正しく改札をくぐれるかを気にして振り返った時に一度目が合ったが、ウミは何も言わずに俺の背後まで小走りでやってきた。

 駅を出ると、空は暗くなり始めていた。

 頭上では月だけが光り、その頼りない明りは地上のネオンに突き放されている。

 マンションに向かい歩き続ける。駅前のロータリーを抜け、ビルの合間を抜け、大通りから抜け、そうしたところでようやく一等星たちが見え始めた。

 ぽつりぽつりと顔を出すそれらに目を凝らし、瞬きを繰り返しそれからようやく俺は口を開いた。

「俺が何で一人で暮らしてるのか、気になってたよな」

「…………」

 ウミは何も答えない。けれど背後のわずかな衣擦れの音と足取りの変化でしっかりと届いたのだということはわかった。

「気になるよな。学生で独り暮らしなんて」

 異世界の事情は知らない。けれどウミはそれを気にしていたように思う。

 親がいないこと。身寄りがない事。あの部屋に俺が一人でいたこと。それをウミは不思議に思っていたはずだ。

 顔を上げ、嘆息交じりに、他人事みたいな声で切り出す。

「別に、親がいないってわけじゃないんだ。身寄りはある」

 そうでなければ、俺は一人暮らしなどできてはいない。賃貸契約を交わすこともできず住む場所だって一人では用意できない。

 いかに高校生が義務教育を終えた身であろうとも、未成年という肩書は剥がれていない。

 身寄りがなければ、公的機関から何かしらのお達しが来る。それが来ないということは俺にはそれが必要ないということ。

 身寄りがあるということだ。

「今日会いに行ったのが、俺の家族だ」

 噛み締めた歯の間から絞り出すようにこぼす。

 認めたくはない、認められない。けれど説明するのにはそう口にするしか無くて、俺は嫌々、心底不快な思いをしながらそう紹介した。

「…………そっか」

 気を遣ったのか、今までずっと俺の背後にいたウミが隣にやってきた。

 それを横目で確認しつつ、視線を夜空へと向けた。

「帰りに会った、あの男の人。あれが俺の父親なんだ。……戸籍上は」

 あまり空気を重くしたくはなかったから意識して明るい声を出したつもりだった。けれどそれは思いのほかうまくいかず、かえって空元気だと吹聴するだけの行為になってしまう。

「…………」

 戸籍、という言葉に馴染みがなかったのか、それとも俺の言葉の続きを待ってくれたのか、ウミは何も言わずにちらりと俺を見るだけにとどめた。

 だから俺は、誰も興味の無いであろう自分語りを開始する。

「一年半くらい前、あの人が俺の父親になったんだ。前兆はいろいろあったけど、そうはならないと思って気にも留めてなかった。だから当然、最初のころは混乱してて、わけわからなくて、一緒に暮らすようになってからも実感なんてわかなかった」

 中学三年生の晩秋。ぼろアパートにあの人がやってきた。笑顔を携え、優しく俺に語り掛けた。これから一緒に暮らそう。家族になろう。なんて。

 当然、幼い俺に拒否権などなかった。呆けた顔をしている間に書面上の手続きは終わり、俺は島崎を名乗るようになった。

 それから一ヵ月と経たずに臨海部に位置する今の島崎家に移り住んだ。

「他人の人生を眺めてるような気分だったな。三人で、幸せな家庭っていうのを演じようとしてた」

 俺以外の二人は、そうしていた。

 島崎さんは新しい家族と円満に過ごすため、あの女は自分の幸せのため。

「島崎さんは、いい人だよ。俺にすごいよくしてくれてる。あのマンションの家賃さ、半分は島崎さんが払ってくれてるんだ」

 1LDKの一室。部屋面積で二十畳を超える部屋。そんな良物件の家賃を、アルバイトで生活費を賄っている学生が全額負担できるずもない。仮に賄えたとして、俺の生活は激変しているだろう。食事の回数を極端に減らしたりとか、そういう方向でどうにかやりくりするしかない。

 月十万そこそこのアルバイトの稼ぎではまともな生活などできるはずもない。

「本当はもっと安いところに住むはずだったんだけど、島崎さんがどうしてもって譲らなかったんだよ。初めての一人暮らしだからとかなんとか言って、いい部屋に住ませたがった。……というか、仕送りも一切いらないって話をしたら必死になっていろいろ提案してきた」

 その一つがあの部屋。

「家賃も自分でどうにかするって話をしたら、島崎さんがあの部屋を借りるように言ってきたんだ。アルバイト程度じゃまともに負担できない家賃の部屋を。それが一人暮らしの条件だった」

 脅したつもりは彼にはなかっただろう。

 島崎さんは単に、一人暮らしを望む血のつながらない息子によくしてやりたかったのだと思う。親族の取り決めを書面の上で交わして一年も経っていなかったから、どうにか一緒に暮らしたいという願いもあったかもしれないが。

「いろいろ譲歩した結果。仕送りの無い代わりに家賃の半額は島崎さんが持つことになった。契約時のもろもろのこともあの人がやってくれたんだ」

 他にも、学費は修学旅行の積立金以外はあの人が支払ってくれている。正直、一人暮らしをしているからと言って自立した生活が出来ているかと言われれば首を縦には振れない。

「本当に、あの人は俺と家族になろうとしてくれて……」

 そこまで話して、俺は意味の無いことをしゃべっているのではないかと思った。

 途中から話が逸れている。ウミが訊きたいのは島崎さんがどういう人なのかではない。俺の家族の、その関係の話だ。

 俺は息を一つ吐き、軌道を修正した。

「島崎さんとは仲が悪いわけじゃない。俺はまだ馴染めてないけど、あの人は本当にいい人だから、俺との距離を詰めようと頑張ってくれてる。俺もそれに答えるべきだろうし、答えたいって思うこともある。……悪い関係じゃない」

 島崎さんとは、良好な関係を築ける予感があった。

 俺は戸惑いを払しょくできずにいるが、それも慣れが解決してくれる。一緒に暮らして、1年2年と時間を重ねて行けば島崎さんと俺はどこにでもいる親子のようになれたんだと思う。

 何かにそれを妨害されなければ。

「…………」

 俺は、その続きを語るのに手間取った。あまり気持ちのいい記憶ではないから。

 その話をした時、どんな顔をされるのかよく知っていたから、俺は委縮した。

 それでも、話し始めたからには、知られてしまったからには語るほかない。ウミは今なお俺の声を待っているのだから。

「…………はぁ」

 ため息を吐いて、心を落ち着けた。それから他人事のように呟く。

「あの女は、母親だよ。血の繋がった、れっきとした俺の母親」

 当然、ウミは驚くのだろうと思った。皆決まってそういう反応をしたから。

 けれどウミは俺を窺い見るだけで、目を見開くことも慰めを口にすることもなかった。

「さっき見た通り、母親との関係は最悪だ。あの女は俺を毛嫌いしてる。その理由は、まあ、俺にはどうにもできないことなんだ」

 ため息を吐き、諦観あらわにしながら語る。

 自嘲気味な笑みは、ウミにどうとられただろうか。

 気付けば帰路の半分ほどに差し掛かっていて、俺は意味もなく歩調を落とした。

「母親が再婚する前、当然血の繋がった父親が居たんだ。町工場みたいなとこで働いてるちょっと目つきの悪い男だったらしい」

 俺は実の父親を知らない。その理由は、簡単なものだった。

「前もって言うけど、別に父親が暴力を振るってたとかそういうことじゃない。犯罪者になって刑務所にいるとかでもない。……俺の父親は十年くらい前に事故で死んだんだ」

 俺が小学校に上がるよりも前のことだった。

 父親は交通事故に合い、帰らぬ人となった。

 当時のことはよく覚えていない。断片的な記憶から両親の迎えが遅かったことと、夜遅くに母だけが体のあちこちに包帯を巻いてやってきたことは覚えていた。ひどくやつれた顔をしていたことも。

「買い物にでも行ってたんだと思う。二人で車に乗って仲良くさ。俺は多分保育園に預けられてたりでもしたんだろうな。なんとなく、そんな覚えがあるよ」

 俺が口にした単語は、ウミの耳に正しく届いているだろうか。

 ウミは俺の言っていることを理解できているだろうか。

 そんな風に思ったが、その顔を見るのが何だか怖くて矢継ぎ早に続けた。

「その時から、あの女がだんだん俺のことを見なくなったんだ。俺が成長するにつれてどんどんさ。意味わかんなかったけど、嫌われてるっていうのはわかったし、その事にすごいムカついたから俺もあの女の子と嫌うようになったんだけど、その理由も一応、ちゃんとわかってるんだ」

 息を吐き、空を見上げる。駅前に比べ地上の明かりが乏しい住宅街はしかし、それでも星をどこかへ隠してしまっている。

 通り過ぎた家屋から子供の声が聞こえて、俺は身震いをした。

「俺、父親似なんだよ」

 わずかに震えた声で言いため息を吐いた。

「俺の顔を見ると、思い出すらしい。父親のこと、島崎さんじゃなくて、俺の本当に父親のこと。それが辛いんだって言われた。思い出すから、近寄るなってさ。ふざけてるよなぁ。俺だって父親を亡くした被害者のはずなのに」

 そんな風にこぼしてから、また俺は話すべきことを違えていたと気付く。

 けれどなんだかうまく軌道修正できる気がしなくて、どうせならばすべて話してしまおうと考えた。

「散々な日々だった。会話が無いのは当たり前、話しかければ怒鳴られるし、口答えなんかできるはずもない。そのくせ母親は外面だけはうまい事取り繕ってたから、俺は頭がおかしくなりそうだったよ。いいお母さんね、なんて笑顔で言われるたびに泣きそうになった。俺が抱えてる不満の方が間違ってるんだって、そんな風に洗脳されてる気分だったよ」

 もしかしたら、本当に洗脳されてしまったのかもしれない。そう思うことが今でもある。

 一年前のことを思い起こしながら深く気を吐く。罵声が漏れ出そうになるのを必死で抑え込む。

「島崎さんと母親が再婚するってなった時も当然俺は邪魔者扱いだった。島崎さんの方は俺を受け入れてくれようとしてたけど、母親は俺を追い出したくてたまらなかったらしい。再婚が決まって、これから三人で暮らすなんて話が出たときに、母親が外面の笑顔で言ったんだよ。葵は一人暮らしがしたいって言ってたわよなんてさ。俺はそんなこと一度も言った事ないのに」

 堰を切ったようにあふれ出ていた。

 誰にも言わなかったこと、言いたくなかったことが、次から次へと溢れていく。

「でも、そう言えなかった。なんでだろうな。多分一人暮らしをしろって言われたならまだよかったんだと思う。命令みたいにさ。でも当たり前みたいに言われたりすると、頷くことしかできなくなってたんだ」

 洗脳されているかもしれない、と疑う原因はそれだ。

 下手に出られたり、優しいふりをされたりすると俺はつい頷いてしまう。そうしなければいけないという脅迫観念が牙をむく。

「それで俺は一人暮らしをすることになった。島崎さんには一人暮らしをしたいって、社会勉強のためにしてみたいって誤解させたまま」

 その誤解は今も解けずにいる。

 それはあの女のためというわけではなく、島崎さんのことを思ってだった。

 再婚相手の本性を知るのは辛いだろうと思った。そもそも母親がこれほどまでに毛嫌いしているのは俺だけなのだから本性と言うのは語弊がありそうだが、もっと簡単な解決方法があることを俺は理解していた。

 俺がいなくなりさえすれば、丸く収まる。

 母親は前の父親のことを――心から愛していた男の死を思い出さずに済む。

 島崎さんも、結婚相手と睦まじく暮らすことが出来る。

 そういう、どうするのが一番いいかを選んだ結果がこの現状だった。

「一人暮らしを始めたころは、いろいろ悩んだよ。食費とか、節約とか。……前に何で料理するかって言われた時、俺節約のためって答えたろ? あれ半分は本当だけど、もう半分は違うんだ。もう半分の理由は、当てつけなんだよ」

 我ながらとんでもない理由だと思う。

 それを正直に吐露することも、とんでもない事だった。

「俺はあの女に食事を用意してもらった記憶が無いんだよ。学校の給食と買い置きのパンを食べることでどうにか生きてたから。だから、その当てつけなんだ。別にお前がいなくても俺は生きていける、みたいな。そういうの」

 お前の料理してもらわなくても俺は平気だ。それどころかお前がいない方が俺の食生活は充実している。なんて嫌味を思うためだけに俺は毎晩必ず料理をしている。

「我ながら、捻くれてるよな。ほんと、捻くれてる」

 小ばかにしたように笑う。

 それから俺は懺悔でもするみたいに吐露した。

「ウミを匿った理由も。そういう一人でいる子供を放っておきたくなかったって言うのが理由でさ。ウミを匿うことで、俺みたいなやつがどこかで救われる可能性もあったんだって証明したかったんだ」

 きっと父親が死ななければ。なんて考えるよりも、救いの手がこの世にはあるのだということを証明したかった。父親が生きていれば俺も母も普通の、どこにでもいる家族になれたと思うよりも。

 たとえそれが俺に向けられるものでなくても。そういうものがあるんだと証明したかった。そしてその役目を自分で担い、誰かを助けることが出来たなら。俺の心の内も、少しは満たされるのではないかと思った。

「まあ、そんなことしても無意味だったけどな。結局俺は、お前と兄妹だって思われているときが一番救われてた」

 寂しかった。と言うのとは少し違う。

 虚しかったんだ。みんなにあるものを持たない自分が。

 他人にあるそれが俺にもあるように見えていることが、たまらなく嬉しかった。

 幸せな家族が備わっていると、誤解されることがとても心地よかった。

 友達と笑い合うことよりも、バイト先で目上に人とふざけることよりも、そんなことの方が、俺の心を満たしてくれた。

 入れ物に穴が開いていたんだ。あるいは、完成しないパズルだった。最初からピースが一つ足りない、そんなパズルを俺は作っていた。

「…………」

 ひたすらに吐き出して、出し尽くして。ようやく言葉は止まった。

 代わりに最後に息を吐き、それから心を落ち着ける。

「そんなつまらない話だよ。話が脱線しすぎて何を言うべきとかわかんないけど、本当につまらない話だったんだ。だから、変に気を遣わなくていい。昨日までと一緒で笑って助けを待ってればいい。それでいいんだ。お前が気にするようなことじゃない」

「…………」

 ウミは何も答えない。けれどじっと俺を見ていた。

 彼女は暫し俯き悩むようなそぶりを見せる。唸りはしない。それどころかその口元には、なぜだか笑みが出来かかっていた。

 訝しく思い、俺は眉を顰める。

 俺の話を聞いて、何か面白いところでもあったのだろうかと思う。

 そんな俺に、ウミは真顔で、きょとんとしながらこう切り出した。

「アオイ。私を家族にしてみる?」

「……は?」

 だしぬけに言われた俺は、ひどく攻撃的な目を向けた。

「アオイは、家族が欲しいんだよね?」

「そんなこと言ってない」

「でも服買ってる時、私のこと家族って言った。兄妹じゃなくて家族って」

 ウミが試着室に入っていた時のことだ。どうやら聞かれていたらしい。

 俺自身、あの時のことは意識的に口にしていたから覚えている。家族なら肩を並べて買い物をするのも普通だと、そう自分に言い聞かせるために。

「ねえアオイ。もしも寂しいなら――」

「ウミ」

 俺は彼女の言葉を押しとどめた。強く名前を呼び、それ以上喋れないように威嚇する。

 強く呼ばれたウミは俺の顔をのぞき込み、それから小首をかしげる。どうかしたの、なんて言いたげに。俺よりもはるかに幼く見えるそんな顔で。

「やめてくれ」

 だから俺は、絞り出すような声でそう言った。

「そんなこと頼んでない。やめてくれ。気を遣わなくていいって言っただろ」

 気を遣われたくなんてなかった。十四の女の子に。年下の女の子に。子供らしくいていいはずの女の子に。気を遣われるのは我慢ならなかった。

「俺はウミを匿うことで十分満たされてる。俺のためにお前を匿ってるんだ。だから。何もしなくていい。気を遣う必要なんてない。同情もいらない」

 そもそも、ウミの胸の内にあるのは同情ではない。

 気遣い、と言えば聞こえはいいがその目の奥にあるのは紛れもなく俺が嫌ったものだ。

 俺が最も向けられたくなかった感情。必死に自身を取り巻く現状を隠してきた理由だ。

「そもそも同情なんてできっこないだろ。お前は、幸せな家庭で育ったんだから」

 ウミにお前は忌子なのかと問いかけたときのことだ。ウミは飄々とした様子で首を振り、幸せそうに両親と妹がいることを語った。

 そんな人間に、同情なんてできるはずがない。

 幸せな人間に、幸せじゃない人間の気持ちなんてわからない。だからそれは同情じゃない、憐みだ。そしてそれは持たざる者からすれば侮辱にも等しいものだ。

 上から目線で可哀そうだと言われ続けるなんて。

 そんなの惨めなだけだ。

 家族がいないから、幸せな家庭を知らないから。その埋まらない隙間を友とのくだらない日常や仕事先でのやかましいやり取りで埋めているのに。自分で妥協点を作って必死にごまかして生きていたのに。そんな風に思われてしまったらそれまでの努力はいったい何だったのかと嘆きたくなるじゃないか。

 それまで普通を演じてきたことを、意味の無い事だと言われているようじゃないか。

 これまでの行いを、全否定されている気分になる。

 そんな憐れみを、向けられたくはない。俺自身がそれを自覚してしまえば自分がひどく可哀そうな人間に思えてきて、世の中に八つ当たりしたくなってしまうから。

 だから俺は、それ以上の言葉を呑んだ。

 またぐちぐちと不幸自慢をしかねない自らの口を、堅く閉ざした。

「……アオイ」

 そんな俺を黙って見ていたウミは何の憂いもない、夕食時の雑談の時みたいな声で俺の名を呼んだ。

 俯けていた顔を上げ、ちらりとウミを見る。その顔は疑問を問いかける準備をしていた。

 やがて少女は小さく笑むと、あっけらかんとした様子で言った。

「私、アオイのために言ってるわけじゃないよ?」

「…………は?」

 かすれ切った、吐息みたいな声しか返せなかった。

 間抜け面を晒す俺を置いてウミは続ける。

「アオイは多分、家族が欲しいって思ってるよね? だから、私でなれるならなろうかなって思った。けどそれは私がアオイのところから離れないためだよ」

 恥じらうみたいに言ってから、ウミは自分の足元を見た。

「昨日アオイを探しに行ったときね。私いろんな人に見られたの。恰好がこの世界の人とは違うからなのかなって思って、だから私こんばんわって挨拶したんだ。そしたらね、皆それに返してくれなかったの。それで、変なものでも見るみたいに私のこと見て、皆どこか行っちゃったんだ」

 ウミは箇条書きみたいに語ると、俺に笑みを向ける。

「この世界の人は、あんまり挨拶とかしないんだね。話しかけようとすると逃げようとするし、怖い目で見てくる」

 俺にとって、それは当たり前だった。引っ越しの時も隣人に挨拶などしなかったし、逆に挨拶されることもなかった。手土産を持って挨拶に行く、なんていうのは作り物の中での話で、実際は隣人との繫がりなんて皆無だった。時たま目が合っても会釈をするのがせいぜいのところ。立ち話なんてすることは無い。

 そんな冷たい人が現実の人間なんだと知っていた俺としては、特段気にかけるようなことでもなかった。俺自身そういう人間でもあったから。

 けれど、ウミにとっては違ったらしい。

 近所付き合いが生きている世界から来た彼女は、当たり前のように挨拶ができる。すれ違うだけの人にも、できてしまうらしい。

 そんな友好的に接したにもかかわらず、冷たい目を返されればそれは恐ろしいだろう。自身の出で立ちに理由を感じても恐ろしいものは恐ろしいはずだ。

 自嘲気味に笑みの奥には、昨夜感じたのであろう恐怖がにじんでいた。

「それで昨日思ったんだ。アオイがもう出て行ってくれって言ったら、私どうしよもなくなっちゃうんだなって。アオイは優しい人だから、私を匿ってくれたんだなって。……あ、アオイさっき自分のためって言ってたね」

 ウミは自嘲気味に笑い、それから一度間を置いた。

「だからね、私どうにかアオイに出て行けって言われないようにしようって思ったの。でもどうすればいいのかわからなかったから、何もできなかったんだけど、それでアオイの話聞いたから、チャンスって思っちゃった」

 ウミは苦笑いを浮かべて、ごめんねなんて言いたげだった。

「アオイ。私が家族になったら出て行けって言わないよね、多分」

 にへへとは言わなかった。ウミは似合わない困り笑いばかりうかべていた。

「アオイ」

 何度も、ウミは俺の名を呼ぶ。俺がそばにいるのを確かめるみたいに。

 俺の姿を、まっすぐ見つめていると宣言するみたいに。

 それからウミは、ようやくにへへなんて笑った。

「私家族になれる? なれるならなりたい」

 字面だけ見れば意味の分からない提案だった。それでも俺は当事者だから、ウミの魂胆もすべて理解したうえでそれを聞いていた。

 途端に、胸の内がしびれ始める。

 耐えかねた俺は、意味の無い言葉を吐きだした。

「家族って、そんな簡単になれるもんじゃないだろ」

「決め事みたいなのでいいよ。今日から家族、って言うだけで」

「そもそもウミは自分のいた世界に帰るだろ」

「それまで家族でどう?」

「そんなインスタントな家族があるか」

 あってもいいかな、とは思ったけれど思考を止めるために言葉を続けていた。

 ひどく胸が痛んだ。これまで感じたことの無い痛み。他人に憐れまれるのとは違う、親に突き放されるのとも違う、耐えがたい痛み。

 その痛みの正体を理解して、必死に茶々を入れた。

 受け入れれば、俺は満たされることがわかっていた。けれどそれには耐え難い痛みが伴うこともわかってしまったのだ。

 憐みではない、自分本位の願い。それがこんなにも心を満たすものだと知らなかったから、俺は息を止め、歯を食いしばって耐えていた。

 苦しかった。辛かった。流れ込んでくる幸せが、駆け巡る幸福感が、耐えがたい。

 幸せは刺激物なのだ。

 日々それを摂取している者からすれば何のことは無い甘美なものだろうけれど、そうでないものからすれば幸せは痛くて辛くて、とても耐えられるような代物ではないのだ。

 幸せを実感した者が涙を流すのは、嬉しいからではない。苦しくてたまらないから、処理できない痛みを伴うから涙を流してしまうのだ。

 感じたことのない刺激に、体がショックを起こしているだけだ。

 俺は今、その痛みを感じていた。

 俺の茶々を受けたウミは、微笑みながら言う。

「作ってみようよ。いんすたんと家族」

「だからそんなのは無いって」

「今から作ればあるよ」

「暴論過ぎない?」

 そんな風にごまかしながら歩みを進めた。

 その結論を口にしたくなくて、早くあのマンションに帰ってしまいたかった。

 幸い俺が自分語りを始めたのは歩いて随分と経ってからだったため、マンションはもう目と鼻の先だ。

 俺はわずかに歩調を上げ、月と一等星しか見えない空を見上げた。

「アオイ、なろうよ。そうすれば私をずっと匿ってくれるよね?」

「ずっとって、いつまで居る気だ」

「帰れるまで」

「そうだろうけど、俺が訊いたのは具体的な時間な」

 どんどん歩調を上げ、そのうちウミが小走りになった。

 置いていかれまいと必死についてくるウミがなんだか可愛らしくて小さく笑みが漏れる。

 マンションの階段に足をかけ、ウミの数歩先を昇っていく。

 胸の痛みは消えないままだ。

「アオイ待ってよ」

「並ぶと誰かとすれ違ったとき迷惑になるだろ」

 ぶっきらぼうに言って自室のある階まで登り切る。

 そうしたところで俺は息切れを起こしわずかに歩調を緩めた。

 ようやく俺の背に張り付くように並んだウミは、ハアハアと言いながら寄り掛かるみたいに裾を掴む。

「待ってよ……」

 息絶え絶えな彼女に何も返さず、吹き抜けの廊下を進んで自室に向かう。

 ウミは抗議としてなのか俺の背中を鷲掴みするみたいに爪を立てた。

 華奢な指先が食い込んで痛いが、胸の痛みに比べれば些細なものだ。

 俺は呼吸を整えるために大きく息を吸い、それを吐くと同時にポケットのカギを取り出した。

 いつの間にかたどり着いていた自室を前に鍵を慌ただしく開け、ノブを捻る。

 それから俺はウミよりも先に中に入り、再び大きく息を吸った。

「はぁ……。疲れた」

「アオイが走るから」

「走ってはないけどな」

 そんなことを言いながら呼吸を整え、まだ廊下側に立ち尽くしていたウミのために靴を脱いでフローリングを踏んだ。

 胸の痛みは、まだ消えない。

 空いたスペースを埋めるみたいにウミが足を踏み入れドアを閉める。

 痛みは、多分ずっと消えない。

「お邪魔します」

 だから、ぽそりとウミがそう小さくこぼしたの聞いて、俺は口角を上げた。

 耐えがたい痛みだ。慣れない間はとても快く受け入れることはできない。

 けれど突き放し続けていれば慣れる日など訪れない。慣れたとて息苦しさや痛みそのものは消えたりはしないけれど、顔を背けていては淡い光の星が顔を出す瞬間も見逃してしまうのは知っていた。

 俺は大きく息を吸い、呼吸を整える。それを早歩きのせいにして吐き出す。

 それから俺は、優しい目上のあの人に倣って、ウミと同じくぼそりと誰にも聞こえないような声で呟いた。

「ようこそ」

「……お邪魔します」

 その呟きが聞こえたのか、彼女は嬉しそうにそう言い直した。


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