望んだものは平凡な学生生活 2
昼休みのゆったりとした時間を男二人で過ごして、ようやく日常に戻ってきたという実感がわいてきた。
一昨日から色々な事があり過ぎた。その全てがウミのせいではあるのだけれど、そもそも受け入れてしまったのは俺の方なので文句を垂れる気にもなれない。愚痴を言うなんてもってのほかだ。
けれど、それでも。思うことくらいは許してもらえるだろう。
誰に許しを請うのかもわからないが、黙々とパンをかじる健を見て俺はとても穏やかな気持ちでいた。
俺はまっとうな高校生だったんだなと。そんな実感を得て俺は一人ご機嫌だった。
「そう言えばよ、さっきテストの話で思い出したんだけどな」
なのに、健がそんな風に切り出したから俺は眉を顰める羽目になった。
「昨日のホームルームの後、担任が葵のこと探してた」
「はー、そうだったのか」
興味がない、なんて顔をして相槌を打ったけれど、担任の要件とかも全部理解していた俺は内心気が気ではなかった。
「なんか来週の面談の話がどうとか言ってたけど」
「面談、そう言えばそんなのあったな」
もちろん覚えていたけれどとぼけた。あまりその問題は直視したくなかったから。
「今日の帰りにでも呼ばれるんじゃないか?」
「かもな」
「詳しくは聞かなかったけど、何の用だったんだろうな。日程変更とか希望したのか? 葵テストの点数悪くはなかったよな?」
「健に比べればびっくりするくらい良かった」
「おい、俺の頭の悪さを揶揄するな」
「揶揄って言葉をつかえてるあたり頭よさそうではあるんだけどなぁ」
とぼけながら少しずつ舵を取る。話題自体は変えずとも、その矛先が俺から遠ざかる様に。
「全教科赤点ギリギリだもんな」
「赤点取ってねえからいいんだよ」
「去年進級ギリギリだったくせに」
「今俺はここにいる。そしてお前がいるから今年も大丈夫だ」
「俺は先が思いやられるよ」
「安心しろ。テスト期間はまた泊りにいくから」
「脈絡を少しは理解して?」
なんて途端に賑やかになり、食事の手が止まり始める。
俺の家にある友人用のあれこれは全て健のものだ。茶碗も箸も布団も。全て健が自分で勝手に持ち込み、定住する権利を主張するためにそろえたものだった。
つい先週のことでもあるが、健はテスト期間になると決まってあのマンションの一室に泊まりに来る。それはテスト勉強から逃げるためとかそういうことではなく、むしろそれに向き合い効率よく戦うためだった。
健に比べれば、俺は学校の成績がいい。何も学年で五本の指に入るなんてレベルではないし、順位を言うならば真ん中よりも少し上くらいだろうけれど、それでも健よりかははるかにテストの点数がよかった。
だから、俺は去年の夏ごろ健に提案した。普段世話になっていることだし俺としてもそんなことが出来るのなら楽しいだろうなと思って。
『テスト期間、俺の部屋で勉強合宿でもする?』
健はそれに飛びつき、以来健はテスト期間になると毎回俺の家に泊まりに来ては勉強に励んでいるというわけだ。成果としては、赤点を取らないようにするのが精いっぱいという情けない結果ではあるが。
「まあ泊まるのはいいけど、なら今度は赤点回避じゃなくて平均点くらいは目指そうな?」
「俺のイースト菌でできた脳味噌でそんな高得点取れると思ってんのか。あんま無理に勉強させようとすると発酵するぞ」
「ぜひともふくらんで?」
俺としては、責任をもって健に勉強を教えているのであまりにも不甲斐ない結果を出してしまうとおじさんに合わせる顔がない。普段からいろいろとサービスしてもらっているのもあるし、この程度で恩返しができるはずもないのだけれど。それでも体裁というものがあるのだ。
「じゃああれだ、一週間前からじゃなく時たま勉強会するか」
「…………ほら俺普段は家の手伝いしてるからテスト期間以外は勉強できないんだよ」
「勉強そんな嫌いか」
あからさまに目を逸らした健に嘆息すれば、ガタイの良い学友は口をすぼめてぼそぼそと言う。
「葵だって知ってるだろ。何せもう一年近く俺の頭と向き合ってんだから」
「実感を伴ってる」
「それに昨日ノート見て俺がいかに真面目に授業受けてねえかわかったろ」
「象形文字だし落書きもあったな。寝ぼけてた?」
「寝ながら板書を取るのは標準技能だからな」
「逆にすげぇ。あそう言えばノート貸してくれ」
驚きながらノートの話題が出てチャンスとばかりに強請る。健は「おうそうだったな」なんて言って午前中の分のノートを全て渡してくれる。試しに現代文のノートを開いてみれば、難解なミミズ文字の群れがそこに生息していた。
これは今日の解読は一層大仕事になりそうだと思いながらお礼を口にする。
「ありがと。明日返す……いや明日土曜か」
「来週でいいぞ。家じゃずっとパン作り続けてっからな。自習なんて絶対にしねえから」
「力強いな」
茶々を入れるが、それはそれで焦らずともいいということなのでありがたい。俺は机の引き出しではなく学校指定の鞄にそれを突っ込み残っていたスタミナサンドを大口で食らう。
「そう言えば話変わるけどよ。昨日お前うちで爆買いしてったんだって?」
「爆買いって程じゃないと思うけど、まあ買った」
昨日、ウミのために袋に詰められるだけパンを詰めてもらったことを思い出しつつ答えれば、健は空になったビニールを膨らませてから平手でつぶす。パンッ、と子気味いい音が鳴った。
「何でまた。禁断症状でも出たか?」
「お前の家のパンは何が入ってんの?」
白い粉は入っているがまさかよからぬものが入っているわけでもあるまいし。なんて思いながら健に倣いビニールを膨らませ叩く。けれど軽快な破裂音は響かずビニールの表面を擦るぐぐぐっ、というくぐもった音がしただけだった。
「いや、あまりに美味し過ぎてかっ食らいたくなったのかと」
「お前自分の家のことめっちゃ高く評価してるよな。いや間違ってないけどさ」
健の家のパンはとてもうまい。それはついさっきまで食べていたスタミナサンド一つとってもそうだ。
笹木パンのパンは何から何までうまい。コスパ重視と紹介されたスタミナサンドだって毎日食べたいと思うくらいには美味しいし、デザートに菓子パンの一つでも口にしようものならついついもう一つ買ってしまうほど。食パンだって俺は笹木パンで買ったものしか食べないくらいだ。
笹木パンのパンは何を食べてもおいしい。それはこの学校の生徒にとっては周知の事実で。だから購買はいつも繁盛しているのだ。
「うちのパンうまいからな」
「お世話になってるから重々承知だよ」
「だろうな。で、結局爆買いの理由は何なんだ?」
「あー、妹が遊びに来てな。でせっかくだから食わせようかと」
淡々と嘘をつけば、健は目を丸くした。
「葵妹居たのか」
「ああ、いたらしい」
「あー、お前の家いろいろあるもんな」
言いにくそうに口をもごつかせた健を見て、俺は失敗したと悟る。
俺は努めて明るい声を出した。
「ま、なんかその妹が遊びに来たんだよ。それでせっかくだからうまいもんでも食わせようかなって思って」
「ふふふ。うちのパンは地域の外にも愛されるだけのポテンシャルがあるからな」
俺かあからさまに褒めたからか、健は不敵な笑みを浮かべると心底嬉しそうに体をくねくねとさせる。筋骨隆々の体が波打つ姿は少し気持ち悪い。
「まあそれでどんなパンが好きかとかわかんなかったから、いろいろ買い込んだっていうのが話の落ち」
終幕、とばかりに今一度膨らませたビニールを平手で打つ。今度は力の入れ方がよかったのかビニールは快活な音を鳴らしてへたり込んだ。
「なるほど。ちなみに妹ちゃんは何パンがお気に召した?」
「ツナとコーンのやつ」
「あー、あれ子供に人気なんだよ。妹小学生?」
「そう思われるような言動をするけど中学生。十四歳だって」
「中二か。多感なお年頃だな」
「素直でいい子だけどな」
なんて口にすれば、健は鼻歌を歌うみたいな息遣いで俺の顔を覗き込んだ。
「どしたん?」
「いや、お前が楽しそうで嬉しいなって思ってな」
「俺の保護者?」
「んなわけない」
げらげらと笑う姿は本当に愉快そうで、俺まで釣られて笑みが浮かぶ。
健と居るのは心地いい。彼があまり鋭い方ではないとか、頭の回る方ではないとかそういうのも確かにあるけれど、その豪快な笑い方が気持ちいいのだ。
伝播する笑顔が、俺の虚しいだけの日常に平凡を与えてくれる。
ただの高校生らしい日々が、確かにあると教えてくれる。
幸せのかけらとでもいうべきものが、そこには確かにあった。
だから、健と居る学校での生活は唯一満たされた気持ちで過ごすことが出来る。
「島崎、いるか?」
はずだったのに。ふいに届いたその声が俺の心をかき乱した。
よりにもよってこのタイミングか、と思った。
ため息を飲み込みながら顔を上げれば、教室前方の入り口から男がこちらをのぞき込んでいた。
目が合ったその男は、我がクラスの担任教師だ。
「ちょっと時間あるか?」
申し訳なさそうに、けれど毅然と呼びつけた彼を見て俺の気持ちは沈んでいった。




