エピローグ、あるいは
春の風だった。暖かいくせに騒がしくて、時たま冬を思い出させようと強く吹き付けて悪戯をしてくる。そんな風が頬を撫でた。
木々のざわめきが聞こえる。それは四方八方から聞こえてきて、目を開けずとも自分が今樹木に囲まれているのだということが理解できた。
ようやく目を開け、空を見据える。しかしそこに太陽は見えず、空を覆い隠した新緑の間でオーロラのような木漏れ日が揺れていた。
眩しさに目を細めながら視線を落とせば、そこには四つん這いになった少女の姿がある。
真っ黒なポンチョに身を包み、短い髪を揺らしながら群青色の瞳でこちらを見上げる。
その姿を見て、俺はまずどんな文句を言うべきかを考えた。
何か仕組んでいたのならどうして教えてくれなかったのかとか。遠回しな言い方ばかりで結局隠し事をしないなんて口約束は無意味だったじゃないかとか。そもそも突然のこと過ぎて準備だってなにもしていないだとか。片付けも終わっていないあの部屋の事とか。引っ越し業者が新居に送ってくれた荷物の事とか、四月からお世話になるはずの就職先の事とか、島崎さんや健といった人たちが俺が行方不明になったことを知ってどんな顔をすると思っているとか。そんないろいろなことを。
ウミはゆっくりと立ち上がる。見れば彼女の足元には地面に直接描かれた幾何学模様が見えた。それに手をついていた、あるいは手をかざしていたのだろう。
膝に手をついて立ち上がった彼女の顔には、特徴的な笑みが浮かんでいた。苦笑いの出来損ないの、だからこそどこまでも悪戯っぽい笑みだった。
気付いた時には俺は地面を蹴っていた。考えていた言葉も意識の外へと追いやられ、残ったのは苦しさだけだった。
「ぅッ」
名前を呼んだはずだった。けれどそれは言葉にはならなくて、ついさっきは縋るように何度も口に出していたたった二文字が声にならなかった。
口に出せば途端に震えだしてしまいそうで、情けない声が出てしまいそうで必死に駆けた。
ウミとの距離は目算三メートルほどしかない。数歩でその顔を覗き見ることができるような距離だった。
けれど俺は駆けた。
頭の中には人間らしい思考など残っていなかった。あったのは彼女に対する気持ちだけ。
俺が駆けだしたのを見ると、ウミは笑みをたたえたまま口を開いた。
「アオイ、いヴぇあ」
わけのわからない声を上げたのは、俺が彼女に飛びついたせいだ。そのまま彼女の背に手を回し、頭の後ろに手の平を添えきつく抱きしめる。
「んぅ! んー!! んんー!」
息苦しいのか、ウミが胸の少し下あたりでうめき声をあげる。振動が肌に伝わってくすぐったいけれど、離す気なんてなかった。そのまま俺はさらに力を込めて彼女を抱きしめる、
「んーん!! んー!」
よほど息苦しかったのだろう。ウミが俺の脇腹あたりを平手打ちする。かわいらしいとは言い難い衝撃に呻きそうになるが、それでもやっぱり俺は彼女を離さなかった。
俺は彼女の髪に顔を埋める。身長差のせいで首が少し痛いけれどそれよりも全身で彼女の存在を感じたかった。
これは夢なのか、そう冷静な頭になっても朧げにならない彼女を感じていたかった。
力を入れすぎた俺の腕はいつからか震えていた。
「…………んんん、んーん」
やがてウミは諦めたのか平手打ちを止め、その手を俺の背に回した。それからまるで子供をあやすみたいにゆっくりと俺の背を撫でた。
余裕そうな彼女の様子が少しばかり気に入らないが、その手の心地よさに浸っていたくて口を噤んだまま彼女の存在を感じ続けた。
どれくらいそうしていただろう。十秒。一分。あるいは十分。俺の気が済むまでそうしていたからもしかすると、とても長い時間だったのかもしれない。
「ッぱ、すぅー」
腕の力を緩めるとウミは大きく息を吸った。まさか息を止めていたわけではないだろうけれど、口と鼻を半分塞がれたような状態だったので満足に呼吸もできていなかったらしい。
「……ぅぅ」
力尽くで抱きしめられた彼女は髪がぼさぼさで、それが気になったのかうつむきがちに乱れた髪を撫でつけ始めた。
見てくれを気にかけている。
そんな姿がたまらなく愛おしくて、満足したはずだった俺は今一度彼女に体を寄せた。
「ん?」
ウミが不思議そうに俺を見上げるがもう遅い。
きょとんとする彼女に不意打ちをする形で、その唇を奪った。
「…………ぇ!?」
途端に彼女の顔が真っ赤になる。至近距離で見つめた彼女は初めて見る顔をしていた。
「え、なんでっ、アオイ嫌だって言ったのに!」
慌てふためく彼女が滑稽で、俺は思わず笑ってしまった。嫌だとは言ってなかったはずだ。受け入れはしなかったけれど、そんなことを言った覚えはなかった。もちろんしたいと思っていると伝えもしなかったが。
高ぶった気持ちのまま何度だって彼女に触れたい衝動に駆られるが、それよりも先にするべきことがあった。今度は、今度こそは自身の気持ちを口にできるから。
俺は笑みを浮かべ、彼女の手に触れた。
「ウミ、会いたかっ――」
「あ! 待ってアオイ!!」
再会を喜び合おうと口を開くと、なぜかウミはそれを遮った。
慌てたその声に首をかしげていると、彼女は赤い顔のまま俺から距離を取った。掴んだ手がするりと離れていく。
「アオイ私に言いたいこといっぱいあると思う。なんで説明しなかったのかとか、嘘をついたのかとか、それからアオイの事情とか全部無視したこととか、そういうことを。私もそういうの全部謝らなきゃって思ってるけど、でも今度は私の番だから。今度は私に言わせて?」
言うと彼女はまだほんのりと赤く染まった頬を緩め、にへへと笑った。
「アオイ」
きっとウミは前もって用意していたのだろう。
彼女は、満面の笑みで、両手を広げて俺と一緒に世界を抱きしめるみたいにしてこう言った。
「異世界へようこそ」
完結となります。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
この作品が読んでくださった方の心のどこかに残ってくれたのならば幸いです。




