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異世界へようこそ  作者: 澄葉 照安登
エピローグ
103/104

君のいない日常 8

 彼女はそれを捨てずにとっておいてくれた。

『本の山の中に埋もれてて捨てるのを忘れただけだよ』

 なんて苦笑交じりに言っていたけれど、玄関の奥に見えたリビングスペースは綺麗に片付いていた。

 彼女が思い出に浸るために捨てずにとっておいた、というのとは違うだろう。俺がその本を求めにやってきたのを見た茜さんは安堵したような笑みを浮かべていた。

 俺は深く頭を下げ、彼女部屋を後にして自室に戻った。

 足元の魔法陣を見下ろしながら、魔導書らしきそれの後ろのほうのページを開く。

 そこに記された内容はさっぱりわからないが、絵本のように模様だけならば理解できる。

 じっと見比べてみれば、思った通りだった。

 床にマジックで描かれた魔法陣は手元の本に記されているものとよく似ていた。三つある魔法陣のどれともよく似ているが、順番に見て行けば最後の魔方陣と瓜二つだった。

 相も変わらず文字を読むこともできないが、その本に記されている魔方陣であると認めると俺は魔導書を睨みつける。

 何か意味があるはずなのだ。ウミが隠れてこの魔法陣を残した意味が。

 俺に何かを伝えるために残したのか、もしかするともう一度この世界にやってくるためにウミが残したのではないか。そう思いながら魔導書に答えを求める。ぱらぱらとページをめくるが、英語どころか象形文字に近いそれを読み解くことはやっぱりできない。

 確信があった。これは転移の魔法陣だ。ウミの探していた魔導書に書かれている模様なのだから疑うまでもないけれど、きっとこれはそういうものだと確信した。

 三つあるうちの一つはウミが使ったこの部屋にやってくるための魔法陣だろう。もう一つはきっとあのベニヤに描かれていた元の世界に帰る魔法陣なのだと思う。残った一つは何かわからないがそれもきっと転移に関する魔法だ。

「メモ書きみたいなものは……っ」

 ウミはこの世界で暮らしている間にひらがなカタカナであれば読み書きができるようになっていた。文字言語の違いも当然理解していた彼女のことだ、俺に何かを伝えるならばこの魔導書だけでは意味がないことも理解している。

 だからきっと何かが残されているはずだと魔導書を睨みつけるが、メモ書きの一つも見つからない。

 ならばと思い俺は這いつくばり床の幾何学を見つめる。円形のそれをなぞるように四つん這いで移動しながら血眼になって探す。

 けれどいくら目を凝らしても俺の知っている文字は見つからない。

 焦りからか、垣間見た希望のせいか、高鳴った鼓動にはやし立てられ息も荒くなる。

「ウミ……ッ」

 どうすればいい。何をすればいい。ただ待っているだけでいいのか、それとも何かしなければいけないのか。どっちにしても早くしてくれ、早く現れてくれ。この部屋にいられるのは今日いっぱいなんだ。もう決まったことなんだ。

 それでも今日のうちにウミが現れてくれればまた一緒に暮らすことはできる。今度はこの部屋じゃないけど、ここよりもいくらか狭い部屋だけど、一緒に暮らせる。

 今日を逃せばすれ違いになってしまうかもしれないんだ。

 だから、早くしてくれ。現れてくれ。

 そう願いながら歯を食いしばる。瞬きのたびに魔法陣を睨むが彼女の姿が映ることはない。

 何で俺は彼女の本当の最後の願いを聞き入れなかったんだ。彼女が一番最後に俺に懇願したことを、その意味を。なんで俺は考慮しなかったんだ。また会えるのかという問いかけに彼女は何も答えなかった。肯定も否定もしなかったのに。俺がただ自分勝手に信じていれば今日までなんて期間をつけることもなかったのに。

 茜さんに言って引っ越した後も定期的に見に来れるようにするか。いや新しい入居者がいたらそんなのは無意味だ。いかに隣同士と言っても必ずしも親しくなれるわけじゃない。茜さんとこの部屋の入居者が赤の他人ならそんなの無意味だ。

 このままではいけない。けれど何をすればいいかわからない。ただ突っ立ているのは落ち着かない。

「ウミッ」

 しまいには彼女の名を呼んでいた。

 呼びかければひょっこりと現れてくれるんじゃないかなんて思った。動転してまともな思考じゃなかった。

 当然彼女は現れない。短い黒髪も、群青色の瞳も、それを隠すぼろ布のフードも俺の目に映ることはない。

「ッ」

 唇を噛む。歯がゆかった。

 ヒントはそこら中にあるのに答えが導き出せない。こんな時も俺はすがるように彼女を呼ぶことしかできなかった。

 魔法を使えないただの人間は、ただ待つことしかできないのだろうか。

 そう思いながら、今一度彼女の名を呼ぼうとした時だった。

 魔法陣がにわかに光り出した。

 それに気付いた俺は慌てた。俺は今魔法陣の中にいる。このままだと俺自身が転移の邪魔をしてしまうかもしれない。ウミとの再会を俺自身の手で妨げてしまうかもしれない。

 俺は急いで魔法陣の外に出ようとした。

 けれど、そうしたところでようやく自分の視界がおかしいことに気付いた。部屋が歪んでいる。床も天井も壁も、マーブル模様に変わっていた。

 同時に魔法陣の光が増した。視界を覆いつくすほどの光量に目を細める。

 そしてそんなわけのわからない状況だからか、まるで走馬灯のようにウミとの日々が脳裏をよぎり始める。

 それはウミと共に暮らした記憶。思い出にすらならなかったすっかり忘れていた会話。

『もしかしたら、人しか転移しないのかも』

 師匠の本を探し出せば帰れるかもしれないとウミが言ったから二人で部屋中を探し回った時のこと。いくら探しても出てこないから、ウミはそんな風に考察していた。

 魔法の事なんて一切わからないけれど、俺はそれを何度も目にしていた。

 一度だけ転移の魔法を目の当たりにしたこともあった。

 それを使えば元の世界に帰れるのかと問いかけた俺にウミは首を振った。

『ううん。元々ある転移の魔法。物を運ぶときに使うやつだから人には使えない』

 用途ごとにいろいろと決まっているらしい、制約があるらしい。そんなことを思って意外と不便なのだなとぼんやりしながら聞いていた。

 そして思えば、彼女はこんなことも言っていた。

 それはあくまで物を運ぶための魔法の話だったけれど、それこそが常識だというように彼女は語っていた。

 その会話をいまさらになって思い出した俺は、ため息にも似た笑いを吐き出した。

『転移の魔法は、物を飛ばすんじゃなくて引き寄せることしかできないの。だから必ず出口側じゃないと魔法が使えないようにできてる』

 俺はゆっくりと瞼を閉じた。

 肌を撫でる空気が変わるまでにそう時間はかからなかった。


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