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異世界へようこそ  作者: 澄葉 照安登
エピローグ
102/104

君のいない日常 7

 ウミたちとの暮らしで俺は満たされた。

 普通でない自分が、憐れまれるような存在である自分が認められなくて、みんなが持っているものを同じように持っていると誤解されることが心地よかった。

 そんなどこかが故障した生き方をしていた俺が彼女と出会ったことで自分の人生を認めることができた。彼女といると俺は目的を持つことができた。

 そんな良い方向での変化は確かにあって、そのことを胸にこれから前を向いて生きていく。

 そういうのが、多分まっとうなのだろう。そのいい変化をもたらしてくれた偶然の出会いに感謝して、精一杯生きていくと声高に叫んだりするのが正しいのだろう。

 けれど俺はそういられなかった。ウミが隣にいない。ただそれだけのことで何もかもが空虚に感じてしまう。楽しみだった学校行事も、友との笑い合う日常も。俺が手の中に抱えていたいと願っていたそれらも途端に無意味に感じられて、何をしていても心が躍ることはなくなってしまった。

 空虚で、痛くて、耐え難い。

 この部屋を眺めるたびに、空っぽな自分が透けて見えて虚しくなる。

 どうあっても自分は満たされない。これから先俺は満たされることはない。

 なら、注いでくれるもの何もかもが無意味じゃないか。

 幸せな過去を思い起こさせる何かなんて、苦痛を運んでくるだけだった。

 俺は引っ越しを決意した。

 元々新生活の案の一つだったため、動き始めてしまえば特に悩むこともなかった。職場からほど近く、家賃も並み、インフラが行き届いていれば文句もないので候補はいくらでもあった。

 その中から選別を重ね、自分の最も理想に近い物件を借りることとなった俺は今日でこの部屋ともお別れだった。

 明日からは新居に移る。もう荷物も片が付いていて今しがた引っ越し業者に荷物を引き渡し、残ったものはゴミとして出すいくつかの段ボール箱だ。

 そのうちの一つには衣服が詰まっている。俺のものもあるしそうでないものもある。白いワンピースと同じ色をしたコート。新品同然のそれを今一度手に取りため息を漏らす。

 ようやく捨てることができる。この部屋にいる間どうしても捨てることができなかった。

 思い出の品だとかそんなことを言うつもりはない。けれどどうしてか惰性でそのまま来てしまったのだ。

 こんなタイミングでないと捨てることができないほどにまだ俺の中に彼女の存在が強く残っている。彼女と過ごした思い出は多分いくらか薄れていて、他愛もない会話なんて思い出すこともできないけれど、ふとした瞬間に彼女のシルエットを空目してしまう。

 彼女がこれを着ていたのは数えるくらいしかないのに、なぜだか黒いポンチョよりもこのコートを着ている姿のほうが強く記憶に残っていた。

 それはきっと、あの時に残してしまったたくさんの後悔のせいだった。

 今も夢を見るたびに考える。もしもあの時ウミの手を取ってもっと一緒にいたい、逃げ出そうと提案していたら。思い出を作るためではなく、約束を果たしていないからでもなくただ好きな相手と一緒にいたいから時間をくれと言っていたら。情けない姿をたくさんさらしてきたけれど、そのわずかに残ったプライドもかなぐり捨てて何もかも吐露していたら。

 そして何より、あの瞬間ウミの最後の願いを受け入れていたら。

 失うために得る幸福なんて意味がない。終わりが目の前にあるから何もかもやりきって悔いがないようになんて思えない。そこで知った温もりが、肌触りが、繋いだ思いが。その後自身を傷つける。失ってしまったという事実が、もう戻ってこない日々が、胸に大きな穴をあけてしまう。

 そんな後悔なんてしたくなかった俺は彼女の願いを拒んだけれど、やっぱりあの時思った通り、どちらを選んでも後悔をしていた。

 どうしたって考えてしまう。あの時彼女の願いを受け入れていたら。その選択は辛いことだとわかっていて、だからこそ俺は拒んだけれど、それでももしもと考えてしまう。

 もしもみっともなく、愚直にすべてを伝えていたら何かが変わっていたのだろうか。

 変わらないだろう、だから変わっていてほしいとも思う。

 数日後には大人の仲間入りを果たす男がうじうじと情けない。ウミはこんな俺を見たらどう思うだろう。かっこ悪いとかそんなことを言うだろうか、あるいはいつかのようにかわいいだなんてバカみたいなことを言うだろうか。

 今、ウミは何をしているのだろう。

 元の世界に帰ってからウミはどう過ごしているのだろう。俺と同じようにあの日々を思い出して胸を痛めているのだろうか。それともすっかり忘れて笑顔で暮らしているのか。あるいはもしかするとまだ我慢ばかりして、ごまかすための特徴的な笑みを浮かべているのか、それとも逆にもう我慢などせずに気ままに暮らしているのか。

 ウミを取り巻く環境は何か変わったのだろうか。イズミはまだべたべたと甘えているのか、ミサキとはまだ仲がいいのか。また悪さをしてミナモに叱られたりしているのか。他にも両親とか、ほかの友人とか、もしかするとその中には男がいて仲良くしているのかとか。笑い合っているのだろうかとか。

 ああ、それは嫌だな。そうなっていても仕方のないことだとは思うけど、でも嫌だな。ウミが恋人を作ることが嫌なのではない。もちろんそれは受け入れがたいけれど、そんな局所的な話じゃない。

 俺の知らないところでウミが幸せそうに笑っているのが嫌だった。

 家族が相手だろうが、友人が相手だろうが。俺がいなくとも幸せになれてしまうだなんて、そんなのは嫌だなと思った。

 何とも女々しいことを考えている。気色が悪い。自分の事なのにひどく悍ましくて、その気持ちが胸中にあることを自覚すると胃の奥から何かがせりあがってくる感覚に襲われる。

 マイナス思考は陥ると歯止めが利かない。春の陽気も窓に遮断されているせいで俺を温めることはない。途端に凍えそうになって俺は意味もなく体を動かした。

 その場で足踏みをするようにぐるぐると回りフローリングの感触を確かめる。そうしたところでふとしなくてはいけないことを思い出した。

 寝室のタイル状のマット。あれを捨てなければいけないのだ。新居に持っていこうかとも思ったが、掃除もまともにしていなかったそれは驚くほど汚れていて、もはや洗う気にすらなれなかったのだ。

 そもそもマットなんて無くてもいいという結論に至った俺は、ベッドやらの大きなものを片付けてからそれを一枚一枚はがして捨てて行こうと思っていたのだ。

 まだ焦るような時間でもないが、暇になると嫌なことばかり想像してしまうから俺は部屋の端から順にそのタイルをはがしていく。

 ベッドのあとのついているところは特に汚れがひどい。指でなぞるたびに綿毛のような埃がふわりと舞った。マスクをすればいいのに俺は息を止めながら隙間に指を入れ一枚剥がす。その隣りも順番に剥がしていく。

 こうして一枚一枚剥がしていくと、なんだかパズルのようだなと思う。敷いていくのではなく剥がしているのでパズルで言えば壊している最中と言ったところか。

 完成していたパズルを自ら壊している。一枚一枚、その事実を刻み付けるみたいに。

 なんだかもどかしくて、部屋をひっくり返して粉々にしてしまいたい気持ちに駆られるが、俺は巨人ではないのではいつくばって一枚づつ剥がしていくしかない。

 少しづつ、ドアへと向かっていく。

 これをはがし切れば本当にこの部屋とはお別れだ。すべてゴミ捨て場に投げ捨て、空っぽになったこの部屋は次の入居者を待ってしばしの休息に入る。もしかすると四月からは新たな入居者が入ることが決まっているのかもしれない。いつだか茜さんがこのマンションはとある大学と贔屓にしているようなことを言っていた。

 新しく入ってくる誰かも、もしかすると異世界人と出会ったりするのだろうか。俺や茜さん、店長のように。

 きっとそんなことはないのだろうけれど、そう益体のないことを考えなければ単純作業で空いた頭が気持ちを出力し始めそうだった。

 一枚剥がすたびにドアへ向かっていく、出口に向かっていく。

 いよいよ終わりなのだとふと考えた瞬間に、頭が余計な気持ちを語った。

 また会いたい。

 それはきっと叶わない願いだとわかっているけれど、願わずにはいられなかった。もう片手で数えられるほどになったタイル型カーペットに手を伸ばし、指先に埃を感じながらまた一枚と剥がした。

「………………ぇ……」

 その下に、幾何学があった。

 それを目にした瞬間、俺の喉から声にならない声が漏れていた。

 まだ大半がカーペットに隠れていたけれど、はみ出たそれを見ただけで分かった。緩やかな曲線がいくつも重ねられたその模様を見て、すぐにそれがなんであるかを理解した。

「ッ」

 慌ててカーペットをめくる。指を滑らせるたびに埃が指にまとわりつくが、息を止めるなんて考えることもできずに慌ただしくめくり続けた。

 だんだんと露わになっていくそれを見つめながら俺は記憶を掘り起こしていた。

 この魔方陣が、ウミたちがこの世界に現れた原因だったのだろうか。そう自身に問いかけすぐさま否定した。

 引っ越してきたときにはこんなものはなかった。魔方陣なんて特徴的なものがあったのなら記憶にこびりついているはずだ。そもそもその魔方陣は埃に化粧を施されてはいたが、黒のマジックで描かれた比較的新しいものだった。

 元々あったものではない、俺が八つ当たりで描き殴ったものでもない、誰かがいたずらで描いたものでもない。

 確信があった。これはあの時に彼女が描き残したものだ。

 旅行の直前、出かける準備もせずに寝室に籠っていた彼女がイズミとミサキを呼びつけて用意したものだ。

 最後の一枚まで剥がし終える。そして全容を確認するとその模様に見覚えがあることに気が付いた。

 俺は慌てて部屋を飛び出し、隣人の部屋のドアを叩いた。


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