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異世界へようこそ  作者: 澄葉 照安登
エピローグ
101/104

君のいない日常 6

 年明け。俺は実家に帰ることに決めた。

 当然今の部屋を引き払い島崎さんの家で暮らすためではない。俺なりに一つのけじめをつけるためにずっと避け続けていたその場所へ赴いた。

 年始ということもあって島崎さんも仕事は休みだったらしい。不意打ちに電話をかければ彼が受話器を取ってくれた。嬉しそうな声、慌てたような息遣い。何もかもが俺に好意的で、思わず苦笑いが浮かんでしまうほどだった。

 正月の間に一度顔を出す旨を伝えると島崎さんはより一層声を跳ねさせた。何もかもお世話になっている俺が言うことではないけれど、屈託のない態度がまるで少年のようだななんて感じてしまった。

 そうして訪れた小綺麗な一軒家。一年以上訪ねていなかったそれは今なお新築と言っても通ってしまいそうなほどで、やっぱりどこかままごとのセットじみていた。

 そんな家の中で、いつかのように俺は二人と食事を共にしている。これまたあの時のように島崎さんは満面の笑みで、母親のほうはうまい作り笑いで。俺はと言えば二人を窺いながら落ち着かない。

「本当に久しぶりだね。前に会ったのは、一昨年の夏前とかになるかな? その前はゴールデンウィーク過ぎだったかな?」

「そう、ですね」

 相槌を打つ俺を見て母親が口の端をピクリとさせた。

「あら、何か会うような機会があったの?」

 何でもないことのように、声音を一切変えずに問う母。けれど俺はそんな彼女を見ていら立っていることをすぐに理解した。

 家賃を肩代わりしてほしいと頼みに来た時以外にも俺と島崎さんがあっていたという事実を耳にして思うところがあったのだろう。表面上は何でもないような顔をしていたが、瞳の奥にはほの暗い感情が窺えた。

「ああ、前に進路の話で訪ねてきたことがあっただろう? その帰り道で会って少し話をしたんだよ」

 島崎さんがにこにこしながら答える。それを受けた母は安堵の表情を浮かべた。

 俺が何か余計なことを口にしていたのではないかと危惧したのだ。それこそ彼女の裏側、俺にしか向けないどす黒い一面を語られてしまったのではないかと。

 けれど、島崎さんの無邪気な笑みを見て杞憂だと悟ったらしい。彼女はにじみ出そうになっていたそれを引っ込めると思い出したように食事を再開した。

 思わぬところでひやりとさせられてしまった。島崎さんのことだから俺と会ったことは母にも話していると思ったのだ。島崎さんは普段の様子からわかる通りしゃべるのが好きだ。だから俺と二言三言言葉を交わしたあの後に夕食を食べながらにこにことそのことを語っているものだと思っていたのだ。

 まさか彼が気を遣ったわけではないだろう。島崎さんが俺と母の確執に気付いているそぶりはない。大人の巧みな世渡り術という可能性も捨てきれないが、もしそうならば彼が今屈託のない笑顔を浮かべている説明がつかない。

 ほかに意識を取られるようなことがあったのか、事実は俺にはわからないが、何であれ予想外の出来事にいらぬ心労を余儀なくされた。

 俺は固形物を口に運ぶ気分になれず、テーブルに並んだおせちには手を伸ばすことはない。かわりにお吸い物をゆっくりとすすった。

「そういえば、葵君就職おめでとう。僕は何も心配していなかったけど、いい知らせっていうのはやっぱりうれしかったよ」

「……あ、いやこちらこそありがとうございます」

 喉を鳴らそうとしたときに話しかけられたものだから反応が遅れてしまった。慌てることもないのだろうが、おちおち食事に手を付けることもできない。

 謝辞を口にしてはみたが、そのことに関して島崎さんにしてもらったことは何もなかった。履歴書の書き方を教わったわけでも、面接の練習に付き合ってもらったわけでも、ましてや斡旋してもらったわけでもない。

 けれど反射的に口をついて出た。祝いの言葉に畏まったということにでもしておこう。

「四月からは葵君も社会人だね。就職先はどの辺なんだい?」

「今暮らしてるとこからだと一時間とかかかりますね」

「そっか、じゃあ引っ越しすることになるのかな? それともこの家から近いなら戻ってきてもいいよ?」

「いえ、ここからだと更にかかるので素直に近場に引っ越しか、今の部屋そのまま使います」

「そっかぁ」

 島崎さんは露骨に残念そうな声を漏らした。学生で無くなる血の繋がらない息子にそんな期待を抱いてくれているのならば嬉しいと思う反面申し訳なくなる。

 俺はきっと親孝行なんてできない。島崎さんの望む円満な家族というものを作り上げることはできないだろう。それは母との確執のこともあるが、俺自身の問題もあった。

 俺はいまだに島崎さんのことを父親だと思えない。思いたいと、そう思うべきだとはわかっているけれど、俺にとって島崎さんは島崎さんだ。中学生の俺に手を差し伸べてくれた心優しい大人の男。

 俺はこれから先も彼を父さんと呼ぶことはないだろう。島崎さんがそこまで願っているかはわからないけれど、彼の望む親子にはきっとなれない。

 何かあるたびに俺は委縮して遠慮してしまう。申し訳ないと感じて、不出来な笑顔を浮かべてその場しのぎの謝罪を口にするだろう。そんな未来がありありと目に浮かぶ。

 だから俺は申し訳なさから不格好な笑みを浮かべた。

「それで、部屋の事なんですけど」

「ん? 探してほしいってことかい? それとも引越しの手伝いかな?」

「いや、まだ引っ越すかどうかも決めてないです」

 勇み足が過ぎる彼に苦笑しつつ俺は横目で母を窺う。

 また甘えようというのかと、柔和な笑みの向こうに非難の色が見えた。予想通りではあるけれどやっぱり少しだけ恐ろしくて、俺はほんの少しだけ呼吸を整える時間を要した。

 心を落ち着けると島崎さんに向き直り、背もたれにかかっていたカバンを手で引き寄せた。

「手伝いを頼むとかそういうことじゃなく、今日は返しに来たんです」

「返しに来た?」

 きょとんとした島崎さんと訝し気に眉根を寄せる母。二人が二の句を継ぐよりも先に、俺はカバンに忍ばせていた銀行の封筒を取り出した。

「家賃半額、俺が支払うはずだった分を返しに来ました」

「…………」

 差し出された封筒を見下ろした島崎さんは笑みを引っ込めた。それから気まずそうに苦笑いを浮かべる。

 ウミたちと暮らすために家賃を全額持ってほしいと頼み込んだあの日以来、俺は家賃を一切払っていなかった。それは島崎さんが手続きが面倒だと主張したから、今日この日までなあなあできてしまった。

 けれど、俺はその借金ともいえる負債を踏み倒そうとは思っていなかった。バイトを増やしたのもすべてはこのためだった。

「今年度の三月の分まであります。全額じゃなく半額分ですけど、返しに来ました」

「……気にしなくていいんだけどなぁ」

 頬を掻く彼は封筒に手を伸ばそうとはしない。どうにか受け取らずに場を収めようと彼は言葉を紡いだ。

「引っ越し、するんじゃないのかい?」

「まだどうするか決めてないです。でももしすることになっても大丈夫な程度には貯えがあります」

「生活費、多少余裕持っておいたほうがいいと僕は思うけど」

「その分も貯えてます。そのためにバイトも増やしてたので」

「新生活は何かと物入りだよ?」

「できるところから手を付けていきます。何もかも完璧にしようとは思ってません。そもそも今の部屋に必要なものは大体そろってますから」

「…………」

 淡々と返し続けると、島崎さんは口元を引き結び唸り声をあげた。

「そのお金は、葵君自身のために使ってほしいかな? 家賃はわざわざ返してもらうようなものでもないし」

「一応これはけじめのつもりなんです。お世話になった、甘えた分の。もちろんこれだけじゃなくて掛かった学費ももう半分の家賃も働きながら返します。その意思表示なので、受け取ってください」

「…………はぁ」

 深くため息を吐くと、島崎さんは恐る恐るといった様子で封筒を掴んだ。

 それを認めた俺は早々に手を離し、彼の手にそれを残した。島崎さんは今一度溜息を吐くと、苦虫を噛み潰すような表情でぼそりとこぼす。

「もう少し、甘えてくれていいんだけどなぁ……」

 落胆の声は自身の不甲斐なさに向けられていたのだろう。浮かべた苦笑いには申し訳ないねなんて言葉が浮かんでいた。

 少しばかり胸が痛んだが、前言撤回するつもりもない俺は頭を下げつつ「すみません」と返した。

 それからうまく動いてくれない喉をどうにか動かし食事を済ませると他愛もない話のあとに俺は帰路につく宣言をした。

 当然島崎さんは玄関まで見送りに出てきてくれた。母も無視するわけにはいかなかったのか形式的に見送りに来てくれた。

「お邪魔しました」

 玄関で靴を履き、頭を下げると島崎さんは苦笑いを浮かべた。それに返す言葉を持たない俺はすぐさま踵を返しドアノブに手をかける。

「…………母さん」

 その手に力を籠める前に、俺はそう呼びかけた。

 まさか自分が呼ばれるとは思っていなかったのだろう。母さんはきょとんとしていた。

 そんな彼女のことをまっすぐに見つめながら、俺は続ける。

「今までごめん。俺ずっと態度悪かった。目も合わせないで、必要以上の会話もしないで、いつも不機嫌で。本当に、最悪の子供だったと思う」

 俺からそんな言葉が出てくるのも予想外だったのだろう。彼女は目を丸くしながら呆けたような顔を晒していた。

 綺麗に整えられた化粧もそんな表情を作ることは想定していないのだろう。どこか不格好な顔をした彼女をまっすぐ見詰めながら、俺は笑う。

「母さんが俺のこと嫌いなのもしょうがないって思うよ。こんなの嫌に決まってる。見たくなんてない」

 彼女は俺の言わんとしていることを理解することはできないだろう。俺に興味もない彼女は俺の胸中を推し量ることなんてできるはずがない。

 でもそれでよかった。俺はただ理解した事柄を口に出して認識したいだけだったから。

 何が起きているのかわからないと言いたげな二人を置いて俺はどんどん先を語ろうとする。けれど一瞬の躊躇いがあった。俺は何も二人の仲を違わせたいわけではなかったから。

 母と島崎さんの仲を裂きたいわけじゃない俺は一度島崎さんに向き直り補足する。

「実際に母さんが俺を嫌っていたわけじゃないけど、そう思われても仕方ない態度だった。島崎さんにも負担ばかりかけて、返してほしいものは何一つ返せなかった。本当に、謝ることばっかりで、親不孝な子供だった。何の説明もしないでたかる様な最悪の子供だった」

 事実だろうが嘘だろうが何でもいい。ただこの家族に亀裂を入れないように言葉を紡ぐ。俺の言葉が二人を引き裂く結末へ導くことがないようにと。

 今更都合がいいと言われるかもしれないけれど、今だから向き合える。ずっと逃げてきた彼女に真っ向から目を合わせることができた。

 彼女のことを前ほど恐ろしいとは感じなくなっていたから。

「ごめん母さん。俺今ならわかるよ」

 その先の言葉は、一昔前の俺ならば何があっても口にすることなどできなかっただろう。それどころか認める事さえできなかった。

 けれど気付いてしまったから、わかってしまったから俺はその事実から目をそらすことができなかった。

 俺はただの一度も息子を直視したがらなかった彼女に笑みすらたたえながら宣言した。

「俺は母さんと同じだったよ」

 二人とも呆けたような顔をしている。それはそうだ。俺が何を言っているのか、どういう意図で言っているのかなんて変わらないだろう。口にした言葉だけ見れば脈絡だってない。

 でも、俺は笑みを浮かべたままだった。伝わらなくてもよかった。ただそうだったと認めるための作業だったから。

 彼女が抱えていた苦痛、それから逃れるために出した結論。そのすべてに理解を示すことができてしまった俺は、もはや目を瞑ることさえもままならない。

 理解できてしまった。

 例え大切なものがいくつも手の中に残っていたのだとしても。

 最も大切なその一つが欠けてしまっただけで、残った物すら放り投げてしまう。

 俺は、そんな彼女と同じだった。


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