3.鉄の道
窓の外の景色が緩やかに流れていく。午後の太陽に照らされ、黄金色に光る見渡す限りの麦畑が、どこまでも続いていた。
身体や耳には、一定の間隔で馬車とはまた違う振動と、汽車が走り続ける音が伝わってくる。それが何やら心地良く感じられる。
出立したオズワルドとエリック、そして同行のシスターは西方行の汽車に乗っていた。
場所によってはまだまだ徒歩や馬車で移動するしかない場合もあるが、鉄道交通が発達し始めてからは出張先へ訪れるのが格段に楽になった。
また、汽車の客室には主に富裕層向けの豪華な一等車から、庶民でも比較的利用のしやすい三等車、その中間程度の質を備えた二等車の、合わせて三つのランクが存在する。
聖職者ならば清貧に、と三等車が推奨されそうなものだが、教会にも権威や沽券がある。実際には上位の聖職者は基本的に等級の高い席を取るのが好ましいとされていた。
シスターは乗車前に、自分は三等車で良いと恐縮していたのだが、枢機卿はそれも見越していたのだろう。彼のはからいで一等車の切符はあらかじめ三人分用意されていたのだった。
そういった経緯で、三人は一等車に腰を落ち着けていた。
一等車は扉の付いた個室がいくつか並ぶ造りになっている。
深い色の赤と茶を基調とした室内は、落ち着いた雰囲気の居心地の良い空間だ。
向かい合わせの座席は、たっぷりの綿とそれを包む滑らかなビロードでできていて、程良い弾力のある柔らかさだ。深く腰かけることができる造りもありがたい。
長い時間座ったままというのも疲れるものだが、この座り心地の良さがそれをいくらか軽減してくれる。
そして何より優れているのが移動速度だ。徒歩や馬車よりもずっと速いから、遠方への旅がより気軽なものとなったのは大きい。
__それにしても、と退屈なエリックは頬杖をつきながら目の前の少女をちらと眺める。
汽車に乗ったのが昼過ぎ、そこから既に四時間ほどが経過していた。
今回職務を共にすることになったミシェル・ガーランドは、あの時枢機卿からの呼び出しを伝えにきたシスターだった。
特別な美しさや派手さはないものの、それなりに可愛らしい娘だ。黒ばかりで味気ない修道服よりも、もっと色の華やぐ流行りものの方が似合いそうでもある。
ベールの下から覗く髪はくちなしの花の色で、肩口まで流れている。鼻の辺りにうっすらと散ったそばかすも愛嬌を引き立てていた。
今は丸い杏子色の瞳を熱心に動かし、やや前のめりになって聖書を読みふけっている。
オズワルドは少し前から席を外しているので、客室にはエリックと対面に座るミシェルの二人きりだった。
「……読書、好きなの?」
おもむろに問いを投げかける。ミシェルは一瞬小さく肩を震わせて本から顔を上げると、控えめに頷きを返した。
「はい、好きです」
「そうか。良いね、僕は途中で飽きちゃうからさ」
「そう、なんですか……」
表情と同じ、緊張と戸惑いが混じった声色だ。仕事とはいえ十八の少女が、異性で歳の離れた上司二人との道行なのだから、無理もない。
これが気心知れた仲だったなら、まだいくらか楽なものだが、何しろ初対面である。緊張しない方が珍しい。
「本自体は嫌いでもないんだけどね。君は普段どんな本を読むの?」
相手の方から話題を振れる雰囲気ではないのが、エリックも分かったらしい。沈黙が落ちる前に穏やかな顔をして問いかける。
「実は、聖書や教会で勧められている本くらいしか、あまり読んだことがないのです」
「そうなの? もっと自由に読めば良いのに。本なんて世の中にいくらでもあるじゃない」
「それはそうなのですが……あまり娯楽に傾倒しすぎてはいけませんし、私達のような者が触れるべきではない本もあると聞きます」
「ああ、それは確かに……」
エリックは苦笑した。自分はあまり興味が持てないが、敬虔な信徒が目にすればいくつかの意味で顔が真っ赤に染まりそうな本は存在する。
そして、ミシェルの手の中の聖書を一瞥してから、淡い好奇心を瞳に乗せて問いかける。
「気になったんだけど、どうして執行部に? 仕事柄、あまり好んで入りたがる人が少ない所だと思うんだけど」
「あ、ええと……小さい頃にちょっと、事件が起きて……その時助けてくださったのが執行部の神父様だったんです。それで……」
一瞬の顔のこわばり、次いで取り繕うような笑みを浮かべるミシェルに、エリックは少し眉をひそめた。
執行部の人間が関与するような事件、それはつまり__。
思案するのも束の間、エリックはミシェルに労わるような顔で言う。
「ごめんね。余計なこと訊いちゃったね」
「いえ……」
二人の間を無機質な音が揺れる。ガラスを一枚隔てた向こうでは、後ろへ過ぎ去る景色の影が段々と長くなっていた。
しばらく座席の振動に身を任せていたエリックは、降りていた沈黙の中、不意にぽつりと呟いた。
「__ねぇ、君は人間って好き?」
「え? ……好き、だと思います」
戸惑いながらも"好き"と答えたミシェルに、間髪を入れず問いが重ねられる。
「どうして?」
その時のエリックは、どうしてかまるで迫りくる秋の夕闇のようだった。まだ地上に太陽の明るさは残っているのに、何か得体の知れない不安が迫ってくるような、恐ろしいものの前触れのような__。
客室が揺れたのか、がたりと一際大きな音が瞬間その場に割って入ったが、その場に立ち込める何かを追い払えはしなかった。
例えば、"魔"と対峙する時はこんな感覚にも陥るのだろうか。背中に一筋冷たい汗が流れたが、それでもミシェルは不思議と恐れずに口を開く。
「__理由は上手く言えません。自分でも本当にそうなのかは……でも、主が人間を憎んだり、嫌ったりしていないのなら、私は……たぶん、嫌いになれない。好き、なんだと思います」
自分の中でばらばらの答えを慎重に集めながらの、あまり自信のない口ぶりだ。そんな中でも、目の前の宵闇からは決して目を背けなかった。
「…………そう」
あまり色のない声だった。彼女の答えに納得しているのか、何かを思ったのかどうかも分からない。
ただ、呟きのような返事の後に、仮面のようだった面にゆるゆると微苦笑をにじませた。雲間から太陽が顔を覗かせるように。
あなたはどうなのですか、と声に出しかけたミシェルは口を噤つぐむ。
訊かなくて正解だったかも知れないと、心のどこかでそんな考えが過ぎった。
「ごめん、また変なこと訊いちゃった。オズに聞かれてたら怒られるなぁ」
「そうだな。また"約束"を忘れたのかと思ったぞ」
「それは……忘れてないよ」
図ったような、いや実際に図ったのであろう絶妙の間でオズワルドが客室に帰ってきた。
鋭い視線から逃れるように、エリックがふいとそっぽを向く。
オズワルドは目元を少し和ませて、今度はミシェルをどこか気遣うような視線を送る。
「すまないな。割と頻繁におかしなことを言う奴だから気にしなくていい。もし何かあった時は私に言ってくれれば対処しよう」
残念ながら、オズワルドはこういった時に笑いかけられるほど表情筋が柔らかくない。しかし言葉や態度は真摯だ。
「お気遣いありがとうございます、クレア神父。ですが私、今のは別に……」
慌ててミシェルは頭を下げる。今しがたの出来事は本心から気にしていないらしく、エリックに向ける視線に怖れや嫌悪は感じられなかった。
「悪かったよ、さっきのは忘れて」
「は、はい。分かりました」
ミシェルは何度も頷きを返す。向こうに非があるとはいえ、歳の離れた上司にこうも謝られてはさすがに戸惑わずにはいられないらしい。
オズワルドは上着の胸元から手帳を引っ張り出す。そして、エリックの隣に腰を下ろしながら、ぱらぱらと頁を捲った。
「この後のことだが、四つ先の駅で降りて宿を探す。一泊した後、始発の汽車に乗り換えてトラドに着くのは昼頃になる予定だ」
「了解。泊まる場所が上手く見付かれば良いんだけど。今回ばかりは野宿って訳にもいかないからねぇ」
「あ、あの! 私平気です、野宿!」
冗談めかしたエリックの言葉に、ミシェルは勢いよく立ち上がったかと思えば、力強く言う。
「いや、若い女の子にそんなことさせる訳にもいかないからね。大丈夫だよ、もしもの時は近場の教会に頼んで一晩厄介になろう」
「それが良いだろうな。幸い、降りた先の街にも教会はある」
オズワルドが先程まで席を外していたのは、これらのことを確認するためだ。この先の予定に不備はないか、これまでの行程に誤りはなかったか、そういった仕事上の細々した物事を確認するのは、大抵オズワルドの役割だった。
エリックに主動させると大体行き当たりばったりで、付き合わされるオズワルドの身が危ういことも何度かあったからだ。それでも最後には帳尻を合わせて上手くまとめてしまうのだが、職務上の不安要素を必要以上に増やす羽目になるのはいただけない。
「目的地までは後二時間ほどかかる見込みだ。それまである程度は自由にしていて構わないが、降車までには準備を整えておくように」
「了解したよ、オズ」
「畏まりました」
エリックはひらひらと手を振って、ミシェルはぺこりと頭を下げて返事をする。
オズワルドはそれに軽く頷いて返すと、出立時に渡された仕事の資料を出して読み始めた。
その後の旅は、これといった難事もなく、順調に進んだ。
汽車を降りて立ち寄った町では、手頃な宿もそう苦労せずに見付けられたのが幸いだった。
食堂での夕食後、申し訳なさそうに頭を下げ続けるミシェルを一人部屋に送り出してから、オズワルドとエリックは相部屋へと入った。さすがにシスターとはいえ、年頃の少女を男二人と同じ部屋で寝泊まりさせる訳にはいかない。
相部屋はやや狭い空間だった。その中には、清潔な寝台が二つと簡素な造りの書き物机が一つ、端の方に肘掛け椅子が二組と、その間に配置された小さめの卓子が一つが詰めこまれている。それなりに簡素な部屋だったが、拘りも不満もなかった。
そして、二人が湯浴みも済ませて寝台に入った頃。
微睡が訪れる少し前に、オズワルドは隣の寝台で横になっているエリックに話しかけた。
「エリック」
「なに、オズ」
エリックの声には普段から艶があるが、今は眠気を帯び始めているためにそれが更に顕著だ。
「十年ほど前に起きた、イアラムで起きた事件を知っているか?」
「イアラムって、東の方の結構な田舎町でしょう? ……ああ、もしかして"最後の魔女狩り"のこと?」
「そうだ……猊下から聞いたが、シスター・ミシェルはその事件の生き残りだそうだ」
「__ああ、そうだったんだ……」
地方の閉鎖的な田舎町で起きた事件。この時代にもなって"魔女狩り"などという恐ろしい風習は完全に絶滅したと思われていたが、一体何が引き金となったのか、それが唐突に再発したのだ。
土地柄もあって教会本部は事態を把握するのが大幅に遅れた。執行部の者達が駆け付けた時には、既に犠牲者が何人も出た後だったらしい。
イアラムには小さな教会もあったが、そこを任されていた神父が狂ったように民衆を扇動していたことが後々判明した。その神父は頑なに魔女が現れたと言って憚らなかったが、そんな事実はどこにもなかったのだ。
彼は教会から追放の後、罪なき者達の虐殺を煽った咎で処刑されたという。
「彼女もだが……先に彼女の母親が犠牲になったようだ。魔女の娘だから、という理由で捕まって、かなり危なかったらしい。間一髪の所で助かったが、精神的な衝撃が強すぎたようで、当時の記憶の大部分は欠けているとのことだ」
「それは__うん、その方が良いと思う。確かに悪いことばっかりしちゃったなぁ……」
「反省しているなら良いが、今後そういった話は触れるべきではないだろうな」
「うん」
「そして、悲惨な目に遭っても悪い方に捉えない者もいるということだ」
「オズ、それって僕が__」
エリックは思わず寝台から身を起こした。オズワルドはエリックに向かって小さく首を横に振る。
「俺が言いたいのはそういうことじゃない。お前の痛みや感情はお前にしか分からない。それは否定されるべきことではないからな」
「……うん」
「充分に分かっているとは思うが、お前の嫌いなものを好きという者もいて、それは全くおかしなことではない、というだけの話だ」
エリックは少しゆっくりと、小さく息を吸った。オズワルドと出会ってから、折り合いの付け方も学んできたつもりだ。
「そう、だね。うん__分かってるよ」
「それなら良い」
言ってオズワルドは身体に布団をかけ直した。心なしか、ほんの少しだけ笑っていたかも知れない。
隣の寝台からも、布団の中に入り込む衣擦れの音がする。一拍の間を置いて、もうずっと聞き慣れた声が耳に届いた。
「……おやすみ、オズ」
「ああ。おやすみ」