姫と魔術師と、遁走曲
半島の北『石と海風の国』の国歴でヒルフェ三十一年。圧政に耐えかね蜂起した南端の領主率いる反乱軍が王都に襲来した。隣国をも味方に付けた革命軍。
王都の門は民衆の手により、歓声と共に内側から開かれた。たちまち陥落した城、豪奢を極めた王宮は怒号と悲鳴と足音に満ち溢れる。逃げ惑う王族、貴族達。ある者は捕らえられ、ある者は首を跳ねられ……。
王宮の最奥に逃げ込んだ王と王妃も討ち取られた。
正真正銘の嫡子であった王太子は既に亡く、妾腹の王子王女は年齢にかかわらず、その母共々ことごとく殺された。すでに嫁いだ王女達の首も、それぞれの城や屋敷で飛んだ。
そしてすべてが終わったころ、自分達が血の海に沈めた王子王女の首を確認していた革命派の貴族が言った。
――第九王女がいない。
*・*・*
来い、と言われた。行くぞ、と。
だからいつも通りフリデリケは付いて行った、それだけで。
「裏切り者がっ!」
両目を塞ぐ大きな手の向こうで、声がする。怒声。けれど耳元で何かの呪文が囁かれ、それすらすぐに聞こえなくなった。視界も黒に閉ざされて。
温かい外套に包まれ、硬い胸に抱かれて馬に揺られる。
「グラオザーム」
「なんだ」
怖くなって名を呼べは、全てが死に絶えたような静寂の世界で彼の声だけが響いた。なら、ああ、大丈夫だ。この声が聞こえるのなら、何にも怯える必要はない。フリデリケの安全地帯。
「落ちたら捨てる」
「は、はいっ」
「黙れ」
もはや最後の王族となった少女は、そうとも知らず、ただぎゅっと彼女の騎士にしがみついた。革命軍と国王軍、どちらにとっても裏切り者の魔術師に。
…………彼女と彼が出会ったのは四年前のこと。
第九王女であり平民出身の妾妃の娘であり、その母も数年前に亡くした十二歳のフリデリケは、吹けば飛んでいく埃のような姫だった。成人の十六歳になればどこかに嫁がされるだろう、というだけの。
それは、彼女の小さな宮の小さな中庭の木に白い花が咲いた日だった。
何番目かの姉に衣装だか髪型だかで嘲笑されたフリデリケは、しょんぼりと広大な庭園を歩いていた。けれど太陽が暖かく風は優しかったので、少しずつ気持ちは明るくなる。王宮の庭園は完璧なまでに美しかった。
しかし、歩いているうち、大きな池に架かる石橋の向こうから着飾った女性の集団が来るのが見えた。さらに今来た道にからも人が来るのを見て、彼女は立ちすくみ、するりと橋の手すりを乗り越える。
下には細いけれど地面がある、平気なはず。フリデリケは異母兄弟達だけでなく、貴族やほとんどの女官達にも怯え、できる限り避けていた。飛び下りる。
人が二人通れる程度の地面、橋の下。そこに彼がいた。
「……っ」
橋の影でうずくまるようにして座っていた、見習い騎士姿の青年。気怠げに彼女を振り向いた拍子に、黒っぽい髪が揺れて耳飾りが覗く。小さな赤い色石のついた、南方地方独特の涼し気な細工。珍しい、懐かしい意匠。フリデリケの母も南方出身だった。
「お前、は」
疲れ切ったような声。怪我こそ無かったが、実際彼は動くのも難しいほど消耗しているようだった。それなのに長い前髪の奥の切れ長の目は炎でできた剣のようで、フリデリケの心を容易く奪う。
……このひと。
恐る恐る近付いて、手巾を取り出して汗ばんだ彼の顔に当てれば、彼女を見下ろす目が軽く見開かれた。
「失せろ」
薄い唇から発せられたのは、億劫そうなくせに、凍りつくような明確な拒絶。兄王子達が彼女に使うのと同じ聞き慣れた言葉なのに、不思議と初めて聞くような響きだった。
それは「いなくなれ」というより、「近寄らないでくれ」というような。
だから異母兄に同じ言葉を投げつけられるときと違って、フリデリケは去らなかった。悲しいとも思わなかった。傷つけるために発せられた言葉でもない気がしたから。
「どこか……苦しい、ですか?」
汗を拭き取りながら聞けば、静止に似た長い沈黙の後にどこか憮然としたように「苦しくなどない」と返ってくる。それが何だか嬉しくて、彼女は相手が動けないのを良いことに今度は手巾を水に濡らしてその顔を拭った。
青年はフリデリケの揺れる髪を見ているようだった。ときおり銀の混じる淡い金色、王家の色、証。彼は聞いた。
「名は」
「フリデリケ、です」
「第九王女か」
忘れられたような九番目の王女。知っていてくれたのだ。フリデリケは思わず笑みを浮かべて、次いで勇気を出して聞いてみた。
「あなたのお名前は」
一瞬、彼の顔に浮かんだ表情は何だったのだろう。苦痛、嫌悪、憤怒、憎しみ、全部一緒に浮かんだのでなければ、そのどれかだったのだろう。答えたとき、彼の顔は静かだった。
「……グラオザーム」
意味は残酷。ひどい名前だ。でもフリデリケはそれが本名だと直感した。のちに彼が別の名で呼ばれるのを聞いたけれど、それでも考えは変わらなかった。
母と同じ、南方から来た人。
誰もが称賛する美麗で広大な庭園の中、誰も近寄らないような橋の下。そこはフリデリケのお気に入りになった。
サボっているのか何なのか、彼はよくそこにいたから。初めて会った時ほど消耗していることはなかったけれど、それでもどこか疲れた顔で、そこにいたから。
「また来たのか」そう言って。
ときたま、付近に人のいないとき、彼は橋の下から出て彼女と遊んだ。フリデリケが花を持っていけば、彼はそれを彼女の髪に飾った。彼女がせがめば、彼はその深遠な知識の中から、いくつかの物語を聞かせた。
一度、フリデリケは姉王女達に池に落とされたことがあった。グラオザームと会う池からはほど遠い、小さな池。泳げないわけでは無かったが、動きたくとも足に何かが絡みつきそれも叶わない。
もがく彼女に姉達は笑うだけ笑って、やがて行ってしまった。
フリデリケは泣かなかった。泣いていたときに手を差し伸べてくれた母はすでにいなかったし、母がいなければ誰一人彼女に手を差し伸べてくれる人間はいなかったから。いない、はずだったから。
「……………………グラオザーム?」
自分と同じくずぶ濡れで、ものすごく憮然とした顔の彼を見上げて、フリデリケはポカンとその名を呟いた。池から彼女を無言で救い出してくれたグラオザームは、ひたすら不機嫌そうになんだ、と返す。
「助けてくれたのですか」
「…………べつに」
べつに? 助けるつもりなんて無かった、と言いたげな口調だった。なぜ自分が池に飛び込んだのか理解に苦しむ、というような表情。それでも彼は助けてくれた。
フリデリケの目から涙が落ちた。
「ありがとう、ございます」
グラオザームは何も言わなかった。何も言わず抱き上げていた彼女を下ろして、ぼそりと不可思議な言葉を呟く。ふわりと風が起こった。暖かな、優しい風。
「わっ……」
風がおさまったとき、もはや二人は濡れねずみでも何でも無かった。濡れていたことが嘘のように、さっぱりと乾いた衣服。そのとき、フリデリケは彼が魔術師であることを知った。数十年前に絶滅したといわれる力の持ち主であることを。
驚く彼女に彼は無言で背を向けた。けれどまた橋の下に行けば会えることがわかっていたので、彼女は何も言わずに見送った。
魔術なんてどうでもいいことだった。
一年、二年、と過ぎるたび、姉王女達は嫁いだり何やらで減っていく。兄王子達も何人か減って。弟妹は増えて。
でも、どれもどうでもいいことだった。
「グラオザーム、東の花園に行きましょう」
「一人で行け。私は忙しい」
「何にですか」
「……」
いつも橋の下にいる彼。疲れたような顔でそこにいた彼。ときどきふと焦ったような顔をしていたグラオザーム。何に忙しいのか、彼は言わなかった。問い詰めたほうが良かったのだろうか?
どうでもいいことだった。
彼は結局フリデリケと一緒にいてくれたから、何もかも、やっぱりどうでもいいことだった。
そして四年目のある日、どこもかしこも騒がしいこの日、グラオザームは彼女を連れて逃げたのだ。小柄な王女を隠し、その小さな耳も大きな目も塞いで。
「グンター・グライスナー!」
深く、よく響く声。それは南端の領主、革命指導者の声だった。グンター・グライスナー、領主がつけたグラオザームの名前。
魔術の師で育ての親だった存在を王に殺され、復讐を誓って兵を集めているという領主の下に行き、膝を折ったときに与えられた仮初めの名。彼は領主に育ての親にもらった名を名乗らなかった。
「それは王女だろう、裏切るのか、王家が憎いと言ったのは偽りだったのか!」
「私は王都の、城の古代の結界を壊した。命がけの上、四年かかった。偽りの決意でやるものではない」
「ならば、なぜだ」
「私も知りたい」
それだけ返して、唖然とした領主をもはや振り返ることもなく、彼は馬で駆け去った。邪魔をする者はその名の通り容赦なく残酷に切り捨てて。
「グラオザーム……」
弱々しい、不安げな声。
「なんだ」
「血の、臭いが。お怪我を?」
「いや」
グラオザームは素早く彼女の嗅覚も遮断した。不思議そうな顔をした少女を抱え直す。
「何もない、黙っていろ」
フリデリケはその言葉に従った。
ただその揺れと腕に身を任せていた。
長い長い時間のあと。
視覚が戻ってきたとき、フリデリケは知らない寝台に横たわっていた。慌てて左右を見回す。不安。
「グラオザーム……?」
「寝ろ。ここに危険はない」
足音がして、カチャン、と枕の隣にある台にグラスが置かれた。見上げれば、長い睫毛の奥の炎の瞳が見える。
「ここは」
「宿だ」
どこの、とは聞かなかった。聞いてもわからないだろうから。代わりに「どこに行くのですか」と聞いた。答えは簡潔だった。
「海」
隣の大陸まで行くという。フリデリケはいつも通りの彼の顔を見上げた。
「お城は」
「陥落した」
「陛下、お父様は」
「死んだ」
「私の異母兄妹達は、お義母様方は」
「死んだ」
優しさの欠片もない声音。それゆえに真実の響きだった。革命。しかし、だから何だと言うのだろう。
「私は」
「逃亡中だ」
「駆け落ちみたいですね」
珍しく面食らったような顔をした彼がおかしくて、彼女はちょっと微笑んだ。静かな夜だったが、眠気は来なかった。ややあって、彼はフリデリケのいる寝台に腰掛けた。
「私を恨むか」
「なぜです?」
「王都を守っていた結界を壊した」
「……結界なんてあったのですか」
すごいですね、と呟けば彼女の顔のそばに置かれた手がぴくりと動いた。
「私は裏切り者だ」
「どなたを裏切ったのです? 革命軍をですか、陛下をですか、自分をですか」
「あなたを」
驚いた。彼女は裏切られた覚えなんてなかったから。目の前の、大きな筋張った手に力が入る。
「私はあの橋の下で結界を壊していた。あそこが一番魔力が漏れているところだったから。あなたに何も言わず、あなたを騙しているようなものだった」
「教えてくださる気があったのですか」
「何度か」
フリデリケは思わずその顔を見上げたが、黒い髪に隠された横顔は影に溶け、見えることはなかった。
「あなたは私に無邪気な信頼を寄せていた。私が守ってくれるとでも思っていたのだろう。そんな気は無かった、全く無かったんだ。今、あなたの宮も地位も何もかもすでに無い。あなたはもう王女じゃない。私はあなたの信頼を裏切った」
冷静な口調と裏腹の強張った手。彼女はそれを両手で包んだ。彼が振り向いて、その髪に混ざって南の耳飾りが光る。感情の見えない瞳と違う、涙のような光だった。
フリデリケは聞いた。
「どうして私を連れて逃げてくれたのですか」
グラオザームは空いている手で彼女の髪を梳いた。途中で彼が勝手に染めた長い髪。答える声はひどく頼りなげな響きを持っていた。その答えが本当に『正しい』のか分からないかのように。それでも。
「……あなたが、無邪気に笑ったから」
繊細で、敏感で、透明な、王女。その笑みが残酷と名付けられた心に染み込んだ。
「私は」
彼女はにっこりと微笑んだ。
「私はグラオザームを恨んだりしません」
彼はふいと横を向くと、彼女の手と髪から自分の手を抜き、寝具を引っ張って彼女を埋めた。
「寝ろ、明日は船だ」
フリデリケは笑った。笑って、それから目を閉じた。
意識を手放す寸前、ほんの一瞬、頭に優しい口付けが降った気がして。おやすみ、と囁き声が聞こえたような気もして……。
でも……フリデリケには彼がそばにいてくれるだけで充分だったから、彼女は幸せな気持ちのまま眠りの世界に落ちていった。
朝もう一度彼の姿を見れたらいいと、それだけ願って。
3/5 誤字訂正いたしました。