誘惑されました
泣いている女の子がいる。
怖い。怖い。と泣きじゃくりながらお座敷に座り込む小さな女の子が。
状況が異常だった。
何故なら女の子の周りを取り囲むのは……。古い箪笥に茶釜と能面。唐笠や絵皿。柄杓に行灯。掛軸に三味線だったのである。
いわゆる骨董品。古き良き日本の伝統文化を連想させるそれらは……皆一様に目玉があり、更には軋みを上げながら浮遊していて。その近くには、映画で見るような人魂が飛びかっていた。
「やだやだやだぁー!」
と、女の子は叫ぶ。すると空飛ぶ骨董品達は、総じて驚いたかのようにブルッと震え……やがて、ガシャガシャと喧しい音を立てて畳に落ちていく。
私はそれを俯瞰的に。そう天井から覗き見ながら……震えていた。夢なんだと思う。私の身体もまた、宙をフワフワと漂っていたのだ。
まるで、幽霊みたいに。
ホラーは嫌いだ。
怪談や怖い話なんて聞きたくもない。
そういうオカルト番組が放送されてたらすぐにチャンネルを切り替えるし、以前デパートのお化け屋敷に入る羽目になった時は、中の幽霊たち。もとい仮装した人らを物理で全滅させてしまったことすらある。
どうしてそんなに? と聞かれても、理由はわからない。ただ、生理的に無理なんだ。そう、思っていた。
だが……。
「綾!? 綾! しっかりして! 綾っ!」
狼狽した誰かの声がする。声変わりを迎えていない、甲高い少年のそれが座敷に響き渡り……。そこで私ははじめて、骨董品らの中心に、女の子以外の誰かいるのに気がついた。
ドタバタとした足音が聞こえる。「どうした!?」と、慌てたような声は、何故か聞き覚えがあった。
いささか若いように思えるが、彼の……幼馴染みのお父さんの声だ。
ということは……。
「しん、なの?」
恐る恐る問いかける。答える者は誰もいない。ただ、とうとう気を失ってしまった少女を泣きそうな顔で抱き抱えているのは、間違いなく小さい頃の彼で……。その腕の中にいたのは、幼い頃の私だった。
場面が暗転する。
見覚えがある和室。彼のおばあちゃんの家だ。
幼い彼と、彼のお父さんが膝を向き合わせていた。
「本当だよ! あの箪笥や下駄のお化け達、友達なんだ! 綾と一緒に遊ぼうと思って……!」
「……っ、辰、お願いだ。嘘をつかないでくれ。幽霊なんかいないんだ。悪戯の度が過ぎただけだって言ってくれ……!」
「嘘なんかついてない! 悪戯だってするつもりなかった! 本当だよ! 僕は……!」
「辰っ!」
声を大きくしていく二人の顔は、どちらも辛そうだった。
彼は必死に、頑として否定を受け入れず。
彼のお父さんは、何処か畏れるように。息子の口から否定が出る事を祈っているみたいだった。
「わかった。悪気があった訳じゃないんだね。幽霊は……ごめんよ。お父さんにはわからない。けど……綾ちゃんが怖い思いをしたのは変わりない。そうだろう?」
言い聞かせるようにそう言う彼のお父さん。それに対して彼は傷ついたような顔をしながらも、私の事情が出てきた時、ビクリと身を強ばらせた。
「ちゃんと彼女の目が覚めたらまず謝るんだ。出来るよね?」
「……うん。お父さん、僕……」
「幽霊のお話は……あまりしてはいけないよ。辰と同じくらいの子は、怖がるだろう。辰も、辛いだろう」
「………………うん」
ほんの一瞬だけ、彼の目に諦感が宿り。多分それに気づいた彼のお父さんは、苦しそうに顔を歪めて……。すぐに表情を、元の優しいものへ戻した。
「綾ちゃんの、看病してあげよう。大丈夫。あの子は優しいから。きっと仲直りできるよ」
「……うん」
貼り付いた笑顔を彼は浮かべている。
それを見た私は、胸が締め付けられるようで……。同時に、思い出す。
この後に起こるのは、彼の絶望だ。
こうして回想するまで〝忘れていた〟そう。私は忘れていたのだ。この奇妙な恐怖体験を。
故に彼は私に謝らず。いや、謝れなかった。それは、私の中に封じられた恐怖の根源を紐解くに等しいから。
あれが何だったのか、私にはわからない。
けど、そんな私でもわかることがある。彼は多分……。
※
心地よいお香の匂いに包まれながら、私はゆっくりと目を開けた。知らない天井がそこにあり、同時に身体を暖かい何かが覆っている。これは……お布団らしい。
「やぁ、目が覚めたか」
ちょっとだけハスキーな女の子の声。寝惚け眼を横に向けると、壁に寄りかかるようにして足を投げ出し、ペタンと畳に座っている女の子がいた。
「……誰?」
「名前は…………。〝魔子〟そう皆は呼ぶよ」
見た目からしては多分、高校生くらい。
ちょっとだけクセがある、茶髪のストレートロング。黒い少し大きめな半袖Tシャツには、『童貞殺す』と、白い文字でプリントされている。正直Tシャツ単体だと凄くダサい。筈なのに、このギャルっぽい、それでいて華やかな顔立ちの女の子が着ると、何だかかっこよく見えてしまう。
下はデニムのショートパンツのみ。靴下も何もはいておらず、健康的な生足を惜しげもなく晒している。
そして……。何よりも目を引くのは、顔だ。綺麗な顔立ちの上に、黒いファッション用の眼帯が付けられていた。
「……えっと、ここは?」
「店の中だよ。覚えてない? アンタ、あたしを見て気絶したんだよ」
失礼な奴だ。と、マコちゃんは邪悪に笑う。明らかに楽しんでいる顔だった。
「貴女を見てって、どうして……――っ!」
そこまで考えて、不意に記憶が甦る。そうだ、明らかにおかしな化け物が急に私に飛び付いてきて……。
「って、ちょっと待って。貴女、が?」
「あ、やべ。バラしちゃダメだっけ。まぁいいか。そうだよ。アタシは……悪魔なのさ」
……ごめん、意味わかんない。
「あ、悪女よね? 聞き間違いよね?」
「ちげーよ。格下げすんなし。悪魔。デビル。OK?」
「そ、そんな。まさか……。だってどうみても人間で……」
「また変身してみるかい?」
コンマ二秒で私はお布団の中に籠城した。
途端にマコちゃんの笑い声が響き渡り、「冗談冗談。出てきてくれよ」という声で、長崎の出島もかくやに首だけ開国する。
「……もうやだ。この一日だけで驚きすぎよ」
「だろうね。しかも低級とはいえ神様に悪戯されたときた。……何かこの響きエロくね?」
「知らないわよ」
でも一番驚いているのは、こうして目の前の自称悪魔と会話していることだろうか。
姿が人間だからか。麻痺してきてしまったのか。正直わからない。ただ……。
「……夢、じゃないのね」
眠って、目覚めても、私の身体はメリーのままだった。
これは現実。夢だったらよかったのにな。と、思いつつ、何故かホッとしている私がいて……。その途端、すぐ傍でゴクリと唾を飲む音が聞こえた。マコちゃんだった。
美味しいケーキでも目の当たりにしたみたいな顔。私は無意識で「何よ」と、睨み付けてしまう。身体が震えているのは、気のせいじゃなかった。
「ところで……アンタさ。あの男。シン・タキザワが好きなんだろ?」
「――ふやっ!?」
不意討ちだった。
出会ってまだ一分も経っていないのにこうして言い当てられた驚きと、こうもストレートに想いを誰かに語られたのが久しぶりすぎて、私は気がつくと布団を撥ね飛ばすようにしてのけぞっていた。
「な、なな何を言って……」
「隠すなよ。これでも悪魔さ。人の隠し事には敏感なんだ。特にアンタみたいな極上の魂の持ち主には、ね」
「ご、極上?」
意味がわからなくて私が震えていると、マコちゃんはニタリとした笑いを崩さずに、のそのそと膝立ちになる。
「当ててやるよ。アヤ・リュウザキ。アンタさ。もしかしなくても、このまま戻らなければ……とか、思ってるんだろう?」
「なっ……違っ……!」
「嘘はつくな。わかるんだよアタシは。そりゃそうか。アンタはこのままじゃ、一生アイツに抱き締められる事はない」
「それ、は……」
「考えなかったかい? このまま、あの人形女が見つからなければ……って」
ザクリと。心にナイフを突き立てられる。
止めて……。止めて。私はそんなこと……。
「思った筈だ。イメージした筈だ。あの女が見つからなければ、シン・タキザワの傍には誰もいない」
「……うるさいわ」
「チャンスが、巡ってくるぞ?」
「そんなの……! 卑怯じゃない!」
「笑わせるな。恋にそんなものあるか。手に入れたもん勝ちさ」
「私が嫌だって話よ!」
「強がるなよ。愛なんてさ。本当に一握りの人間しか持ち合わせてないんだよ。目の前に欲しいものがある。取らない理由はないだろう?」
「……っ、私は……!」
無意識に唇を噛み締める。
否定できなかった。だって私自身、さっき起きた時、ホッとしたてしまったのだ。
彼とまだ、一緒にいられるって……!
「アタシはあの女をそれなりに知っている。逆の立場なら迷わず奪っただろうね。そういう女さ」
「だからって……」
「悔しかったろう? 悲しかっただろう? シン・タキザワとあの女が恋人になった時、どう思った?」
「………………勝てないって、思っただけよ」
「それだけか?」
「お似合いだなぁって」
「それだけ?」
「…………っ」
いつかの昼。病院を出てから飲んだエスプレッソを思い出す。苦くて、しょっぱかった。専用シュガーが全く仕事をしてくれなかったのを、私は今でも覚えているのだ。
「悔しかったわよ! 当たり前じゃない! 何年好きだったと思ってるのよ!」
挑発するようなマコちゃんの煽りに、私はついに声を荒げる。するとマコちゃんは、待っていたとばかりに私に近づいた。
「ならいいじゃないか。躊躇うなよ。今でこそアイツはあの女一筋だ。だが……。果たして何年、アイツはあの女を想い続けていられるかねぇ?」
まさに悪魔の誘惑だった。
的確に私の負の部分をくすぐる、巧みな話術。それに私はグッと拳を握る。
想像した。メリーがいなくなった後の彼を。
けど、残念ながら明確な姿は浮かばなかった。
当然だ。私はメリーと恋人として接している時の彼を、断片的にしか知らないのだから。
「アイツが、欲しい?」
「……っ」
「質問変更。欲しいと思ったことはある?」
ノロノロと、導かれるように頷いた。するとマコちゃんは興奮したように喉を鳴らしながら、私にこう囁いた。
「協力してやるよ。アヤ・リュウザキ。神と悪魔から支援を受けてみな。アンタの望みは……きっと叶う」
甘くて美味しい。でも毒があるジュースを勧められているような。そんな錯覚に陥った。
私が……欲しいものは……。
色々な記憶がフラッシュバックする。その中には、一度私が負けを認めた場面も含まれていて……。
その瞬間、私はその場から弾けるように立ち上がった。
「どこ行くのさ」
「どこでもいいでしょ。貴女とはいたくない」
「……あらあら。フラれちゃったかぁ。残念だ」
そのわりにはちっとも残念そうじゃないのは……気のせいではないだろう。多分、試されたのだ。間違いなく。
私が拒絶したのを見た彼女の笑みは、ほんの少しだけ嬉しそうで。……何だか人間臭かった。女の勘でわかる。多分、彼に懐いてるのだろう。
無言で和室の襖を開ける。その先には、昭和の香りが漂う、炬燵のある居間があり、深雪さんがのんびりと座っていた。
「……辰ちゃんは、本棚の方よ」
「ありがとうございます」
会ってこい。そういうことなのだろう。私も、何だかそんな気がして、黙ってそこを通り抜ける。
ここの空気は何故だか慣れない。こんな言い方をするのも変だけど、本来は人が訪れる場所じゃないのかもしれない。
そこでふと、マコちゃんが悪魔なら、深雪さんはなんなのだろう? と考えた。部屋で猫同然に悪魔を放し飼いにしている辺り、ただの人間ではあるまい。
それを認識した時、にわかに身体が震えだす。さっき視た夢を思い出したのだ。
きっとあれは、かつて本当にあったこと。根拠はないけれど、そんな確信があって。
なら、彼は……?
「……たとえどんなのでも、辰ちゃんは辰ちゃんよ」
少しだけ躊躇いがちに、深雪さんが言う。
それに返事はせずに、後ろ手に引き戸を閉め、住居スペースを後にする。
わかりきっている事を言うなと言ってやりたかった。けど、そんな無駄口を叩く前に、私は無性に彼に会いたかった。
知らなかったことをたくさん知って。同時に、この身体になってから目を背けていたことに向き合う時が来たのだろう。
違和感はあった。
ただ、それを認めたら、私達は今以上に離れてしまうのではないか。そんな風に考えて、とても怖かったのだ。
でも……。
本棚にたどり着く。彼は……いた。ぼんやりと、木製の脚立の上に座り、祈るように目を閉じていた。
それが何故だか泣いているかのように見えて。その時私は初めて、彼の気持ちを考えた。
ある日突然、恋人が別人になって。
本人は行方知らずになり。
更には元に戻る保証もない。
私以上にパニックになっていた。あるいは消耗していたのは彼の方だと、どうして私は気づいてあげられなかったのか。
こんな魔窟に私を連れて来なければいけない事が、どれだけ彼のトラウマを刺激していたのか。
そう考えたら、僅かでも悪魔の誘惑に屈しそうになったのが恥ずかしくなった。
「……辰」
精一杯優しく、大好きな彼の名前を呼ぶ。
すると彼はゆっくりと目を開けてこちらを見た。
言葉を詰まらせ、やがていつもみたいに優しく笑おうとしたので、私はそれを手で制した。
「……夢をみたの。私は空に浮かんでて。小さい頃の辰が、骨董品と友達で……でも、そんな記憶、私にはなかった」
彼の目が見開かれる。それを見た時、私は確信を強めた。あれはやっぱり、本当にあったこと。
だとしたら……。
「ねぇ……辰。教えて?」
貴方、何? とは、聞きたくなかった。そんなのまるで人間ではないみたいだから。私の中で、辰は大切な幼馴染みなのだ。だから、この場ではこう問いかけたかった。
「隠してること、あるんでしょう? 貴方のこと。私、ちゃんと知りたいの。もう、忘れたりしないから……」
プルプルと身体が震え出す。認めるのは、やっぱり怖い。
身近にそんなのがいるのでは。と、想像するのも嫌だ。だけど……多分立ち向かわないと、私の身体は戻ってこないのだろう。
神様なんてのが引き合いに出されたり、悪魔と名乗る変な奴が現れたのがいい例だ。
だから……。
「本当の貴方を、私に見せて?」
これは私の身体を必ず取り戻す為の、一種の決意表明だ。