頭がこんがらがってきました
あの後、彼から簡単に事情を説明された深雪さんは、もう一度私の身体を上から下までじっくり眺めた後に、「やっぱり神様の仕業ね。存在自体は大したことないやつみたいだけど」と、結論を下した。
曰く。日本には格に上から下まで差があれど八百万の神様がいて。
今回私が巻き込まれたのは、その神様がちょいちょいと悪戯したかららしい。
「…………あの、流石にあり得ないかな。なんて」
私が顔を引きつらせながらそう言えば、女店主さん――深雪さんというらしい――はふわりとした笑みを浮かべた。
「信じる信じないはお任せします。けど、他に貴女が陥っているこの状況を説明できるかしら?」
「……それは、そうですけれども」
けど、いきなり神様がやらかしただなんて言われても、ハイそうですかと納得できるわけもなく。私は思わず彼の方を見た。
「ね、ねぇ……まさか、本当にこれが原因だなんて……」
「深雪さん、根拠は? 神様だと断定できる根拠を」
オイ貴様この状況で無視ですか。
思わずムッとした私をよそに、彼は真剣な表情で深雪さんを見る。すると彼女は「珍しく気が立ってますね~」なんて茶化しを見せてから、音もなくカウンターに戻り始めた。
やがて、アンティークのロッキングチェアが年季の入った軋みを上げはじめ。その上に腰掛ける深雪さんは、そっと思案するように口元で手を重ね合わせた。
「あり得ない現象にいちいち根拠を求めていたらキリがありませんよ。ただ、物事には必ず痕跡というべきものが残ります。完璧に消せる例は少ない」
そう言って深雪さんはおもむろにロッキングチェアの横にある、小さいラックに手を伸ばす。中から出てきたのは……長煙管と、恐らくはそれを楽しむ小道具の一式だった。
無言の空間で、マッチを擦る音が響く。煙管を使う人を見たのは生まれて初めてだ。なんというか、小さな煙草一つを吸うのに、随分と手間暇かけるんだなぁ。というのが、私の素直な感想だった。
ゆっくり。味わうように紫煙を燻らせる姿はハッとするような妖艶さがある。思わず私がそれをぼーっと見つめていると、深雪さんはカーテンみたいな前髪の隙間で、エメラルド色の瞳を揺らしていた。
「神様は、自分が加護を授けた存在には、何らかの目印をつけるんです。普通は目に見えない。怪しい言い方にすると、オーラとか匂いとでも言いましょうか」
「何でわざわざ怪しくするんですか」
「だって貴女、明らかに信じてない顔だもの」
ぷぅ。と、少女のように顔を膨らませる深雪さん。不覚にも、少し可愛らしいと思ってしまったのは内緒である。
「人が見た目はそのままに、まるで別人になった。あるいは人格が入れ替わった。なんて話はね。調べてみると思いの外いっぱいあるものよ。たとえば思いっきり頭をぶつけ合っちゃっただとか。ドッペルゲンガー……あら、ご存じない? まぁ、そういった変な存在に遭遇した……とか」
「……神様と大して変わらないくらい、胡散臭いです」
「これはあくまでも例だってば。見たところ貴女にタンコブは見当たらないし、仮に変な存在と辰ちゃんやメリーちゃんが出会ってたとしたら……この二人が気づかない訳がない」
そうでしょう? と、深雪さんが彼に同意を求めるかのように流し目を送れば、彼は何故か葛藤するような渋い顔で頷いた。
……どうしたんだろう? というか……。
「えっと。じゃあ、本当に? 私は、神様に悪戯されて?」
「さっきも言ったけど、貴女からは神様と関わった人特有の匂いがするわ。貴女、ここ数日で何処かで参拝とかしなかったかしら?」
「それは……」
返事をしかけたその時だ。私はふと、頭のてっぺんに電灯が灯ったかのような気持ちになった。
そもそも、メリーの身体になってから、何故、何? が多過ぎて、自分が前日に何をしていたかなんて、すっかり吹っ飛んでいたのだ。
どうして、酒浸りになっていた? それは、悔しいことがあったから。
同時に、昨夜の結衣ちゃんとの会話が甦る。
『この娘は……! やっぱり酔ってるな? 普段のクールビューティは何処いった?』
『〝賽銭箱に投げ捨ててきたのよ〟』
映像を巻き戻すかのように、昨日の出来事が私の中でリフレインする。合宿旅行の前乗りと評して、行けるメンバーだけで行った日帰り旅行。行き先は……。
「……みんなで、〝遠野郷八幡宮〟に」
私の独白に、彼と深雪さんが殆ど同時に眉をひそめる。思わずそれに不安を掻き立てられて、私が二人の顔を交互に覗き込めば、彼と深雪さんが緊張した面持ちで頷き合うのが見えた。
「……今日行くのは、江ノ島だっけ?」
「ええ」
「……遠野、よね? 試しに聞いてみるけど、卯子酉神社とかも行ったのかしら。あと、同県で少し距離は離れるけど、巽山稲荷神社は?」
「えっと……卯子酉は行きました。巽山の方は、一ヶ月前、初詣に、サークルの皆で少し遠出して」
「……深雪さん」
「そうね。多分ビンゴだわ」
おい、二人で納得しないで。私はまだ何も分かっていないのに。そんな私の空気を察したのか、深雪さんは吸い終えた煙管の灰を灰皿に落として、ロッキングチェアを揺らしながら、朗々とした口調でこう言った。
「貴女達がやってるの、パワースポット巡り……といったとこかしら? 旅行サークルなの?」
「い、いえ……写真サークルですけど。あの、なんで?」
「こういう店をやってるとね。そういったホラーとかオカルトチックな類いの話題に詳しくなるのよ」
我がサークルでの最近の流行がズバリと当てられて、私が思わず目を丸くしていると、深雪さんは苦笑いしながらそう答える。
納得は……ギリギリ出来た。だが、今それ以上に私の中で衝撃的だったのは……。
「あ、あの……ホラーとかオカルトって……パワースポット巡りってそういうのは関係ないんじゃ……」
「あらん、やっぱり価値観は現代っ子なのねぇ。自分に起きた異変はにわかに信じられないのに、そういうのは信じてる辺り」
「は、話をそらさないでください! 私が聞きたいのは……」
「あるわよ。無関係だなんてとんでもない。寧ろ裏表と言ってもいい位なのよ。ご利益を得る場合もあれば……よくないものに祟られることだってあり得る」
「……っ!」
声のトーンを低めた深雪さん。その途端に、私の身体は凍りついた。
のし掛かるような形容しがたいプレッシャーが襲ってきて、背中を嫌な汗がじわじわ濡らしていく。
感じたのは、ぽっかりと空いた真っ暗な穴を覗き込んでいるかのような、得たいの知れぬ恐怖心。
どうしてそれを、目の前の女性から感じたのかはわからない。ただ、私が何か悪いことをしたかのような。それこそ、冒してはいけない領域に足を踏み入れてしまった。そう錯覚しそうな雰囲気に、私はただ立ち尽くすことしか出来なくて。
「祟りって……そんなの……」
「ない。と、言い切れますか? そもそも貴女、ここがどういう場所かわかっていないでしょう? ……貴女も薄々察している。目を背けちゃダメ。今の貴女は――」
「深雪さん、その辺で」
次第に身体がブルブルと震え始めた所で、不意に目の前に優しい香りが広がった。
ほんのりとした穏やかな筈のトーン。何処か鋭さも含んだ声が、すぐに前から耳に届いて。冷えかけた私の心が、少しだけ暖かさを取り戻す。彼が、私を隠すように深雪さんの前に立ち塞がっていた。
「……辰ちゃん、過保護も大概にしなさいな。事は貴方が思ってるより深刻かもしれないの。隠すのだって限界でしょう? いいの? メリーちゃんはもしかしたら……」
「わかってます。……だから、彼女をここに連れてきたんです。ちゃんと……説明は、します。だから、わざわざ悪役演じないでください」
ひりつくような会話が、目の前で繰り広げられる。見えない火花が二人の間で飛びかっているようだった。
無言の対峙は、私がオロオロしている中で続いていく。
先に矛を収めたのは、深雪さんの方だった。
ふぅ、と小さく息を吐き。彼女が纏っていた剣呑な空気は消失した。
「…………私がそういうの見せたら、充分でしょう? 辰ちゃんまで説明しなくてもよかったでしょうに」
「こういうのに巻き込まれてる時点で、覚悟はしてますよ。……ちょっと心の準備がしたかっただけです」
ねぇ、本当に話が見えなすぎて泣きそうなんですが。
いじけるぞ? もういじけちゃうぞ? さんざん二人で話進めて……! なんだよ。岩手行く流れなの? なら私は一人で江ノ島に……やっぱヤダ。江ノ島だもん、彼と一緒がいい。
「すいません、いい加減私にも分かるように……あら?」
とっ散らかった思考をあちこちに走らせていたその時だ。私は奇妙なものを発見した。膨れっ面で二人から目をそらしたその先。本棚と本棚の間から……何かがこちらを見つめていた。
それは真っ赤な瞳をキラリと輝かせたと思うと。やがてノソノソと、通路まで歩いてきた。
最初に連想したのは、大きな猫だった。だがそれは、明らかに猫とは違う。
山羊を思わせるカールした角が生えた頭と、裂けた口。そこから覗く乱杭歯。全身は黒い体毛に覆われた四足獣。だが、長い織物に似た尻尾は、ゴムのようにのっぺりしていて。そこには、信じがたいことに幾つもの目玉がついており、パチパチとまばたきしていた。
化け物。そう、化け物がそこにいて。ゆっくりと、私の方へ不気味な笑みを向けながら近づいてきた。
「なに? ……ひっ……!」
思わず彼の服を掴む。だが、それだけでは不安が解消できず。目尻に涙が浮かびかけた矢先――。その化け物が動いた。
ゴキブリか、パニックを起こしたトカゲみたいにカサカサと身体をくねらせて走り出したかと思えば、ピョンと大ジャンプして。
そいつは私の胸に飛び付いた。
『妙だな、身体はアイツのなのに、魂からは処女の香りがプンプンする。オマエ、誰だ?』
その瞬間、私の思考がショートして。
「し、しゃべ……! イヤァアアァアア!!」
あらんかぎりの悲鳴を上げたのを最後に、私の記憶はプツンと断裂した。