私は脳筋で彼は変態でした
それは、メリーが襲来してきた夜の出来事だった。
「成る程、そんな予期せぬ強敵の出現にテンパッた綾は、こうして夜中にもかかわらず、ボクに泣きついてきたと?」
「うっ……ご、ごめん。忙しかったなら、後でも……」
「かまわないさ。どうせやることなんて、積んでたアニメのブルーレイ鑑賞くらいだからね」
君との恋バナの方が、よっぽど重要で有意義だよ。そう言いながら受話器の向こう側で結衣ちゃんが、クックック……と、変な笑い声を漏らした。
その言葉に内心でホッとしながら、私は「どうしよう……」と、半泣きで唸る。
あの後、彼が実家に帰って来た時の恒例。竜崎家と滝沢家の夕食会(実は私の母と彼の父も幼馴染だったりする)にて。やはり話題の中心にいたのはメリーだった。
何度も言うが、彼がこうして誰かを連れてくる。というだけで、明日は槍でも降るんじゃないかというくらいに異常。大事件なのだ。身内が大騒ぎするのは当然だった。
しかもまぁ、メリーときたら。駅での思わせ振りな言動から正直嫌な予感はしてたけど、やっぱり爆弾発言の連発だった。でも、そんなことよりも一番私が気になったのは、彼と彼女の間にある、一種の気安さだった。
思えば彼は昔から、他人にはそれなりに一線を引いた上で接していたように思う。ただし、私だとか、ごく一部の友人にはそれの度合いが少しだけ下がる。言うなれば、友人以外には適切な距離感を保ちつつ、親しみを損なわない。そんな器用な立ち回りをしていた。
けど、どうしてか。メリーにはその線自体がないように見えたのだ。
例えば、何の気ない仕草。話のテンポ。目線。……伊達に十年以上彼を見てたわけじゃない。だからこそ分かってしまう。あんなに自然体な彼は初めて見る。ありのまま。自由な彼。
たとえ僅かなやり取りを見ただけでも、それは残酷なまでの事実を私に告げていた。
本物が、現れてしまった……と。
「君がそういうならば……きっとそうなんだろうね」
「うぐぅ……」
いつにない神妙な結衣ちゃんの声のトーンに、私のテンションは知らず知らずのうちに沈んでいく。
「散々言ってたじゃないか。高校卒業までに落としとけって。そもそも滝沢くん。……今だから言うけど、綾が知らないだけで結構人気あったんだよ?」
「……ふぇ?」
メリーショックで既に満身創痍だった私には、その言葉は青天の霹靂だった。
私が戸惑っていると、結衣ちゃんは溜め息混じりに、いいかい? と、話を切り出した。
「アレは中身は置いとき。見た目はなかなかいいだろう?」
「え? あ、うん……うん」
「……そこで可愛らしい反応止めてくれないか。鼻血出るから」
「なっ……! 今出した声のどの辺が……!」
「どーせ思い描いて。改めて認識してドキドキしてるんだろう? 話が進まないから次だ」
「ぐ……わかった」
私、そんなに分かりやすいかなぁ? と、スマホを耳に当てたまま、部屋の姿見を覗きこむ。ほっぺは、ほんのり桜色だった。
「隠れファンなんていっぱいいたのに、彼は浮いた噂一つない。何故か分かるかい?」
「……鈍感だから?」
「違うよ。間違ってるぞ綾。それはね、君がいたからさ。物静かで虚ろな美少年の隣には、いつも見た目麗しい黒髪の大和撫子がいて、二人は幼馴染みでした。外から見れば、割り込む余地がないくらいに君達は完成していたんだよ。お似合いってやつだ」
「お、お似合い……!」
「まさか中身が偏屈で胡散臭い風来坊気質な鈍感男子と、シャイであざといポンコツ格闘女子だとは誰も知らずにね」
「はぐっ……!」
一瞬舞い上がりかけたテンションは、的を射た発言で、儚く打ち砕かれた。上げて落とすを身をもって体感した私は思わずその場で膝を屈しそうになるが、続いた結衣ちゃんの「綾、心して聞いてくれ」という言葉に、身を引き締める。
声色から、彼女が言わんとしていることが、私にはなんとなく分かったからだ。
「大抵の女の子なら、彼が逃げるだろう。だが、そうでない人が現れたなら……。綾、間違いないよ。その女性は君の恋路には致命的だ。幼馴染みの優位性なんて、簡単に消し飛ぶよ」
それが、どうしようもない真実だったと私が気づくのは。そこから大して時間はかからなかった。
※
「先程は本当に、誠に申し訳ありませんでした。こちらお詫びと言っては難ですが、ちょっと豪華にしてみた朝御飯にございます。お納めください」
野菜たっぷりな鮭のちゃんちゃん焼き。
綺麗に巻かれただし巻き玉子。
ゴボウとニンジン。こんにゃくが入ったひじきの煮物。
葱とワカメのお味噌汁。
赤みがかった彩りの、ホカホカな雑穀米。
ラインナップの健康志向ぶりに女子かお前は。と、突っ込みたくなった。
「いただきます。気にしてないから、辰も気にしないで。あと変な敬語やめい」
寧ろ役得でした。と、危うく口が滑りそうになり、何とか堪えた。これは私だけの秘密。
ファーストキスは初恋の人と。正直、彼に恋人が出来てしまった時点で、絶対に叶わないと思っていた夢物語だった。……その点だけは、この謎現象に感謝しよう。
美味しいご飯に、知らないうちに頬が緩む。そういえば、ちゃんちゃん焼きはお母さんの得意料理だった。味付けが似てるから、きっと彼がレシピを聞き出していたのだろう。
「いや、でも……」
「デモもストもないの。仕方がなかった。いいわね?」
「……うん、ありがとう。それでもごめんよ。怖かっただろう?」
「……別に」
めちゃくちゃドキドキはしましたけどね! けど、きっと彼はそんなの知るよしもあるまい。そっぽを向いてからこっそり横目で彼を伺えば、彼は罪悪感と申し訳なさがない交ぜになった顔をしていた。
多分私と……彼女に対してだろう。
飄々としてるくせに、そういう方向では真面目で誠実な人だから。
……仕方ないな。話題転換してあげよう。
「ところで、シェリーって呼ぶのが特別な時って言ってたけど、何なの?」
「……へ?」
素朴な疑問があったので取り敢えず口にすれば、少しだけへこんでいた彼はキョトンとした様子で顔を上げ。直後、何故か慌てたように身を仰け反らせた。
「あー、えーっと……」
「二人きりの時だけって訳じゃなさそうだし……。何か気になるわ」
「い、いや。気にしなくてもいいから! よ、よし! 朝御飯食べよう!」
「私、気になるわ」
「あの。ほら、ちゃんちゃん焼き結構自信が……」
「ファーストキス」
「ふぐおぉおお……!」
身体を震わせ、悶えるように机に突っ伏する彼。どうやら黒歴史……というよりは、弱味的なものになってしまったらしい。
ヤバイぞ。やっぱりちょっと楽しいぞ。
「……の、時……だけ」
「ん~?」
いつになく弱々しい彼に、追撃をする。恥ずかしがるとこちょっと可愛い! なんて事を考えながら耳を傾ければ、彼は観念したように、肩を落として。
「恋人的なプライベートの時間だけだよ。彼女をシェリーって呼ぶのは」
「ぷらいべーと?」
それ、二人きりの時とどう違うの? と、私が首を傾げても、彼はこれ以上は言わない。というように茶碗に手を伸ばす。
頭に浮かぶクエスチョンマーク。もう一度、内容を頭の中で復唱して……。唐突に、朝の情景が思い浮かんで、私の頬がボン! と、音を立てて熱くなった。
ちょっと待て。ちょっと待って。じゃあもしかして寝起きの私が、もしあのまま抵抗しなかったら……。
「ねぇ」
「……いやだ」
「ねぇ、まさかとは思うんだけど……朝から致そうとしてた? 私もしかしてファーストキスどころじゃ済まなかった可能性も?」
「回答を拒否する。というか、あの時に吹っ飛ばされた時点で、僕は既におかしいと思ってたから。そこからは欠片も下心はないっ!」
「……因みにその時の判断材料は?」
「……彼女は間違ってもキスで悲鳴は上げない。寧ろ反撃してくるまである」
――何ということでしょう。幼馴染はエッチで変態でした。
そのノロケを聞いた途端。気がつけば、手が彼の方へ伸びていた。彼への制裁には足技をよく使うが、流石に食卓をわざわざ立ってまでやるのは気が引ける。故に……。アイアンクロー。
綺麗にこめかみに決まれば、失神させることすら可能である。
このスケベな初恋相手に乙女の可愛い嫉妬とか羞恥心をぶつけるには、まさにうってつけな技で……。
「ちょ、待っ――……ん?」
「……あ、あれ?」
だが、残念ながらそれは不発に終わった。彼の気の抜けた声と、私自身が感じたあまりの手応えのなさに混乱が加速する。
力が……入らないのだ。
「そ、そうだわ。私の身体じゃないんだった」
もう何度も認識した筈の事実に、私は改めて愕然する。
彼の尋問でも答えたが、私の趣味は格闘技。見るのも、やるのも。故に、肉体の鍛練は欠かしていなかった。縦に割れた腹筋とか! 太くならないよう、けれども無駄なく鍛えた大腿筋とか! 密かな自慢だったりしたのである。
なのに……!
「……ごめんなさい。食事中だけど、ちょっとだけ立つわ。深刻なの。許して」
「あ、うん」
多分、今の私は相当絶望した顔をしていたのだろう。彼の頷き方が妙に機械的だったから。
だが、今の私にはそれを気にする余裕もなく。
「――ハッ! ヤッ!」
気合い一閃。ローキックからハイキック。そのまま強く踏み込んで正拳突き。
「そ、そんな……!」
結果は……。悲惨だった。
メリーの身体自体は、とても柔らかい。普段からストレッチを初めとしたケアを欠かしてないのがよく分かる。まさに男の理想を詰め込んだかのような、ふわふわマシュマロ女神ボディ。
だから問題なく技は放てるのだが……。
でも違うのだ! 普段の私は何か、こう……! 上手く表現出来ないけど……。
「速さが……! 筋肉が……! 威力が足りないわ……っ!」
「……綾さんや。その身体で格闘技繰り出した上に、そんなパワーワード連発しないでくれ。何だか僕も泣きたくなる」
「泣きたいのはこっちよ! 筋肉の声が聞こえないのよ!?」
「ねぇやめて。凛々しくて、可愛くも格好いい幼馴染だと思ってたんだ。なのにそんな脳筋バカみたいなこと……」
「だ、誰が脳筋バカよこの変態! 女に幻想見てんじゃないわよ!」
「なっ――男が変態で、幻想を求めて何が悪いっ! てか止めてくれ、その顔で罵らないでくれ。何かこう……来る。いろいろと」
「――ッ! やっぱり変態じゃない! もう手がつけられないわ! 何よ! どうせ昨晩だってメリーとイチャイチャエロエロのズッコンバッコンして……!」
「ストォーップ! 綾ストップ。オーケー僕が悪かった! 一旦落ち着こう! 変態で構わないから落ち着こう! 何かもう乙女にあるまじき単語出てるから!」
「乙女じゃないわ! この身体は非処女でしょ!? 貴方がぶち破っ――」
「やめなさい、こらぁ! 落ち着こう言ってるでしょうが!」
地団駄踏みながら、私は喚いてしまう。
それを彼がなだめようと駆け寄ってきて。私の投げ飛ばしか反撃を予知したのか、そのまましっかりと抱き締められる。
私の動きは、いとも簡単に封じられた。
でも暴れてしまい、彼に頭突きをお見舞いしてしまったのは……切実に反省しよう。
部屋に何とも言えない沈黙が流れる。先に口を開いたのは彼の方だった。
「……ごはん、食べようか」
「……うん」
産まれた時から彼と幼馴染をして、はや二十年。その中で始めてお互いに見てはいけないものを見せ合ってしまったような気分だった。
「ごめんなさい、取り乱したわ」
「いいよ。無理矢理抱き締めてごめん。痛くなかったかい?」
「……平気」
「ならよかった」
ホッ胸を撫で下ろす彼。そのまま私達は、ちょっとだけ冷めたお味噌汁を同時に飲み干した。
「新発見だよ。君から格闘というか……筋肉取り上げたら、ああなるなんて」
「……ああ、うん。そう、ね」
多分それだけじゃないわ。と、内心で私は呟いた。
パニックになったのは、改めて自分が自分じゃないことを思い知らされたからだ。そこへ予想外に濃い彼の恋人事情を聞いてしまったから、色々なものが爆発してしまったのだ。
好奇心は猫を殺すとはよく言ったものである。
「……まぁ、どうして君がそうなってるかは、追々考えるとして。先ずはご飯食べたら試してみようか」
「……試す?」
落ち込む私を励ますようにかけられた彼の言葉。だが、残念ながら私はそれが何を意味しているのか分からず、ただ首を傾げる。
すると、彼は握り拳を耳に当てるような仕草をしてこう言った。
「電話だよ。勿論、君自身にね」
……その手があったか。