初恋が終わりました
初恋は実らない。
根拠はないが、大抵の人は聞いたことがある言い回しではないだろうか。
生まれて初めての恋。このいかにも甘酸っぱそうな経験が全くないという人は、きっと少数派だと思う。
かくいう私、竜崎綾もまた、初恋を経験した。
これが恋なんだと自覚したのは、確か十歳くらいの時。
相手はお隣に住んでいる、同い年の幼馴染みだった。
……何てベタな話だろうと笑いたければ笑って欲しい。自分でもそう思うから。
でも、私は真剣だった。
物心がついた頃どころか、ハイハイし始めた赤ん坊の辺りから仲良く一緒に成長してきた彼は、私にとって一番身近な存在だったのだ。
そんな人と結ばれる未来を子どもながらに夢みた日から、私の長い長い戦いは幕を開けた。
……ここであえてもう一度言うが、本当に。洒落にならないくらい長い戦いだった。
苦節すること、なんと十年! どうしてそうなっちゃったのかというと、原因はまず私。そして少しながら彼にもあるのだけれど、今詳しく語るのは止めておこう。
結末を簡潔に述べるなら、そんな風に色々と拗らせた初恋は、ちょっぴりドラマチックな流れを見せ……。大学二年目の冬、実ることなく終焉を迎えた。
彼の隣に立っているのは私じゃない。けど、そうなる過程を誰よりも気にしていた私だからこそ、二人の仲を悔しくても認めざるを得なかったのである。
私は彼にとって大切な存在だ。けれどその感情は、多分妹分に向けるようなもの。
私はきっと〝彼女〟のように、彼の一番にはなれないのだ……と。
結局、想いすら告げないまま、私はこの恋に蓋をした。
彼は優しいから、伝えたら戸惑うのは間違いないし、困らせてしまうかも。それが嫌だったからだ。
彼が変に苦悩して、果てはギクシャクしてしまう。なんて事になったら、それこそ最悪だ。
だから私は身を引いた。
今はこの痛みに身を委ねて、いつか新しい一歩を踏み出せると信じながら。
出来れば彼よりかっこよくて。
料理ができて、優しくて。
いい匂いがして。鎖骨のラインが素敵で。程よく筋肉があって。
彼の恋人さんが悔しがる……は、あり得なそうなので却下。
それから……。フラッとどっかに行ったりしない。行ってもちゃんと帰ってきてくれる。
私を一番にしてくれる人がいい。
そういう人が……。
※
「そんなホイホイいてたまるかぁあ!」
赤ワインが並々と注がれたグラスを一気に煽った後、魂を込めた叫びが、私の部屋にこだました。
近所迷惑も何のその。今日の私は、飲まなきゃやってられなかった。
「あ、綾……あの、もうその辺に……」
「嫌よ! まだ飲むの! まだ四本しか空けてないんだからぁ! ワインがなんぼのもんじゃーい!」
金切り声を上げる私の前には、ショートカットの眼鏡女子。高校生時代からの友人である結衣ちゃんが何故か三人、呆れと同情が入り雑じった顔で此方を見ていた。
いつの間にか私の友達は分身が出来るようになったらしい。凄いなぁ。
「綾、普段の君からは信じがたいが、酔ってるね? そうだろう?」
「酔ってない! 止まったら私が死ぬわよ!? いいの? お酒がないと寂しくて死んじゃうわよ!?」
「ウサギとマグロのキメラがいる……」
「ちょっと! 仮にも女子にマグロとか酷くない!? マグロじゃないもん! 彼に迫られたら絶対ウサギになるもん!」
「……うん、それ没収」
「ああっ! ちょっとぉ! イヤよ! 持っていかないでぇ!」
空けたてのボトルを取り上げられた私は、それを取り返そうと結衣ちゃんに掴みかかる。すると彼女は急に四角くなって……。
「結衣ちゃん、太った?」
「綾、それはタンスだ」
「分身だけでなく変わり身の術まで……やっぱり忍者なの?」
「この部屋はボクと君の二人きりだよバカタレ」
やれやれと言いながら部屋の出口にボトルを置き、結衣ちゃんが私の前に腰掛ける。いけない。地震らしい。三人いた彼女が合体した挙げ句、上下左右にブレている。
すごーい。たのしー。
「うん、寝ろ。君もう寝ろ。ボクも今日は泊まるから。明日に響くよ?」
「……明日、何かあったっけ?」
ズルズルと引っ張られ、気がついたらベッドに押し込められていた。天井が回っている。我が家がビックリハウスになってる! なんて騒いだ辺りで、ペチンとおでこに結衣ちゃんの張り手が飛んできた。
「おバカ。サークルの合同旅行だろう?」
「笑止。記憶にございませーん」
「この娘は……! やっぱり酔ってるな? 普段のクールビューティは何処いった?」
「賽銭箱に投げ捨ててきたのよ。てか、今思ったけど、なんで結衣ちゃんいるの?」
「いや、何でって……。綾、覚えてないのかい?」
本当に、心の底から心配した声が頭上から響く。
だが、当の私はというと、この時点で瞼が重たくなってきていた。
「……綾?」
結衣ちゃんの単なる問いかけすら、今は心地よい。
意識が段々と、眠りの世界へと引きずられていく。
そこで不意に自分の冷静な部分が、首を傾げているのに気がついた。
私、どうしてこんなになるまで飲んでたんだっけ? 一応お酒はかなり強い筈なのに。何が原因で……。
てか、賽銭箱とか何処から出てきた? ダメだ。思い出せない。
そもそも何故に今更、叶わなかった恋を思い出したのか。もう失恋してから二ヶ月以上経っているのに。
頭では分かっていても、心が納得していなかったとか? 何それ、未練がましすぎて笑える。でも……。
「やっぱり……諦めきれないよぉ……」
いがらっぽい味が、喉奥からこみ上げる。微睡みへと沈む直前に、私はボソリとその言葉を口にしていた。
きっと彼よりかっこ良くて素敵な人なんて、探せば幾らでもいるのだろう。
でも、それでも私は〝彼が〟よかったのだ。
「どうして、私じゃダメなの……」
誰かの柔らかい手が、優しく私の頭を撫でている。それがあまりにも暖かくて、気がつけば一筋の涙が、頬を伝い落ちていき……。
『宜しい。ならばその願い、叶えてあげましょう』
男とも女ともつかぬ知らない声が、私の頭の中でエコーした。
※
一晩寝たら、酔いは完全に引いたらしかった。
頭痛もなく覚醒した私は、カーテンの隙間から射す陽光に爽やかさを感じつつ、ぐっと身体を伸ばそうとして……。
瞬時に、気分がドン底まで突き落とされた。
目を開けたら、どういうわけか裸の男に抱かれていたのである。
「……ふぇ?」
とうとう頭がおかしくなったのかと、本気で自分を疑いかけたのは無理もないだろう。
だが、目の前から感じる私ではない呼吸のテンポ。首の後ろに回された、そこそこ筋肉のついた腕の感触が、これは現実である事を私に教えていた。
「なっ……あ……え?」
身体がみるみるうちに強張っていく。同時に昨夜の自分の痴態を思い出し、私はますます訳がわからなくなっていた。
何で? どうして?
確かに自分の家で寝た筈だ。
実家暮らしだから、酔っ払った自分が外に出ようとなんてしたら、お母さんやお父さん。お泊まりしていた結衣ちゃんが全力で止める筈だ。
なのに……この状況はどういうことか……?
カタカタと、身体が震え出す。恐怖が閾値を越えて、悲鳴すら上げられなかった。
だが、悪夢はそこで終わらない。更なる酷い事実に気がついたのは、それからすぐのことだった。肌というか全身がやけにスースーすると思ったら……私も裸だったのである。
「う、そ……」
混乱しているからか、自分の声が自分のものではないみたいで、同時に泣きたくもなった。
だってこんなのあんまりだ。流石にこんな状態で何も起きていませんでした。なんて苦しすぎる。身体も妙に重いというか、気だるい感じだし。
つまるところ私は、見ず知らずの男と……。
「…………あれ?」
怖いのを我慢して、相手の顔を確認するために私は目線を上げる。一体どんな人と? なんて悲愴感に身を苛まれながら覗き込めば……そこには、見知った顔があった。
「し、ん……?」
静かに。囁くようにその名前を呼ぶ。スヤスヤと寝息を立てていた彼はそれに応えるようにゆっくりと目を開けた。
長すぎず、短かすぎない黒髪は、所々色が違う部分が見える。暗めなアッシュブラウンのメッシュ。確か高校卒業と同時に入れ始めたものだ。
パッと見ただけでは全く目立たないので、意味があるのか疑問だが、度々色を入れ直している辺り、本人なりの拘りがあるのだろう。
身体は全体的に細身。が、ただヒョロいノッポという訳ではなかったらしい。こうして触れてみると程好く筋肉がついているのが分かって……。今知りたての事実に、正直ドキドキが止まらない。
顔立ちは中性的ながら、整っている。以前に友人が、彼を虚ろな美青年と評していて、個人的にその表現は私も気に入っていた。
飄々としたアンニュイな雰囲気は昔から。けど、それで優しく笑ってくれるのが、堪らないのだ。
……あと、是非和服と煙管を装備して欲しい。絶対似合うから。
いかん。暴走していた。
ともかく、訂正せねばなるまい。目の前で今まさに起きたのは見知らぬ男などではなく、私がかつて……否、今も恋い焦がれる幼馴染み、滝沢辰その人だった。
「あ……」
寝起きの彼はほんの少しだけボーッとしていた。やがて、トロンとした目が私を捉えて……彼はとても穏やかに微笑んだ。
……すいません、ティッシュください。鼻血が出そうです。何それ。何なの。私そんな色っぽい貴方の顔見たの初めてなんですが。
疑いようもなく、私は動揺していた。だから、いつの間にか彼の顔が私の目の前まで迫ってきても、私は反応など出来なくて――。
「え……? んっ――」
顎の下を優しく指で上げられて、そのままじわりとした熱が唇に押し当てられた。
目を閉じた彼の顔が大写しになっている。その瞬間、私の心臓がバットで叩かれたかのような凄まじい衝撃を受ける。
唇が……彼に優しく食まれていた
「んっ……はむっ、んんーっ!?」
それは時にフニフニと優しく私を翻弄したかと思えば、すぐに逃がさないと言わんばかりに強く吸いあげて、私の頭をあっという間におかしくする。
逃れようと弱々しく抵抗しても、彼がそうさせてくれなかった。あれよという間に私の身体は優しく仰向けにされていて。彼の片手が私の逃げ場を塞ぐかのように顔のすぐ横……枕を押さえつけた。
「ぷはっ、ま、待って。待ってぇ……んぅ……」
ファーストキスから、人生初の壁ドンもとい枕ドン。
そのまま、お互いの唇の境界が曖昧になりそうなくらい、情熱的で激しいキスが再び始まった。
それは、彼氏いない歴イコール年齢の私には、いささか刺激が強すぎた。
頭が沸騰を通り越して蒸発しちゃいそうで。気がつけば、私は解放された事にも気づかずに、彼の胸板にしがみついて息を乱していた。
虫刺されみたいな赤い跡が、彼の首筋に二つある。私は訳もわからぬまま、ひとまずはそこを凝視しながら、必死に冷静になろうと呼吸を整えた。
キスされた。キス……。しかも、想像していた何倍も凄いやつ。それも、彼に……!
「あ、う……」
嬉しいけど、訳がわからなくて、私は泣き出す寸前の子どもみたいな呻きをあげる。
何コレ? 何なのコレ。というか冷静に考えたら、彼からしたらこれ浮気という奴なのでは?
ぐちゃぐちゃになった思考の中で、何とか真意を問うべく、私は腕の中から彼を見上げた。
絶対涙目な上に顔は真っ赤だろうけど、仮にそんな軽々しい気持ちであんなことをしたのなら、流石に私だって面白くはないのだ。
「ねぇ、ちょっと――ひゃうぅ!?」
だが、そんな私の毅然とした態度は二秒も持たなかった。彼は再び、私を優しく引き寄せる。それだけで私は身も心も動揺で満たされて――。
「おはよう、〝シェリー〟」
続けて投下された、耳元で甘く囁くなんて即死コンボで、私はあっさりと白旗を上げた。
「ピ……」
「……ピ?」
「ピギャアアァアアアァァアアア!!」
乙女にあるまじき品性の欠片もない悲鳴が響き渡る。かと思えば、私は滅茶苦茶に手を振り回し、最終的には彼をベッドから突き飛ばしていた。
「ぐぇ!?」なんて潰れたカエルみたいな声が床から聞こえるが、今はそんなの頭にはなくて。
兎に角逃げなきゃという思考に支配された私は、何よりもまず距離を取ろうとして勢いよく起き上がり……。そのまま、背後の壁に後頭部を強打した。
結果、そこには朝から裸で頭を抱える男女という、それはそれは酷い光景が出来上がってしまう。
「……え? てか、待って。〝シェリー〟……?」
頭に火花が飛びかって、知らず知らずのうちに涙目になる。だが、そこでようやく冷静になった私は、つい先程投げ掛けられた『シェリー』という名前の意味を思い出し、恐る恐る自分の両手や身体を確認して……。
「な、なんじゃこりゃあぁ!?」
本日二度目の絶叫を上げた。
それは、明らかに私の身体とは別物で。けれども、名前を呼ばれてから見てみれば、全く覚えがないとも言えなくて。
ともかく、私が陥っている現象を簡単に説明するならば……。
どういう理屈か分からないが、私の身体は幼馴染の恋人になっていた。