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眠り屋  作者: 三千
9/17

番外編 朧の月


「どうして人って、心変わりするんだろう」


私は常に思っていること、

思い続けていること、

今回、心底思わされたことを口にしてみた。


声に出してみると、答えは単純なものかもしれない。

不思議とそう思わせる軽さだった。


そう、心で、頭で考えたり思ったりしてるから、こんなにも手に余るようなずっしりとした重さになってしまうんだと考え直す。


そして、また口にする。


「何で、人って好きって気持ち、変わっちゃうんだあ」


今度は声が少し裏返ってしまった。


すると。


途端に夢から醒めて現実に引き戻されたように、その言葉は重石に押さえつけられ、再度心の底へと沈んでいった。


結局、言葉も私も私の気持ちも浮上出来ない。


「あー、もう嫌だあ。またフラれるってどういうこと? もう加藤のやつ、本当にムカつくわ、何だよ、何なんだよ、私の何がいけないワケ? マジ、分かんねえっつの」


他に好きな人ができちゃった、と加藤かとうはペロリと言った。


私はベッドの上に転がっている茶色のコーヒー豆みたいな形のぬいぐるみにパンチを食らわす。


クソっクソっ、て言いながら、何度も何度も。


そして、泣きついて抱きしめる。


「まめちゃん、殴ってごめんねえ、いつもいつも私、フラれるー、何でー」


おっと、これ以上続けると、今度は泣けてきて、次の日見るに堪えないブサイクになるから、この辺にしておかねば。


そして、そうならないために慌てて。

復活するためのバイブルである、気持ちの上がるマンガを取り出して読み始める。


これを読めば大体、大丈夫。


けれど、やっぱり涙は溢れてきた。


どうしようもなく、悲しくて悲しくて仕方がない。


ううん、悲しいというよりは、悔しいという気持ちの方が強いのかもしれない。


あーあ、明日はブサイク決定。


そして、私はベッドに転がり込んで大の字になると、そのまま薄黄色の天井を見上げて泣いた。


✳︎✳︎✳︎


「ねえ、どうして心変わりって存在するの? 一人の人を思い続けることって、なんでできないのかなあ。ねえ、聞いてんの、矢島先生!」


「……ちょっとマキちゃん、静かにしてもらえませんか。ミケが起きちゃうでしょ」


膝の上でころりと丸くなっているミケを、先生が足の位置が悪いと言って抱え直す。

すると、ミケが頭をもたげて先生と私を一瞥してから、また丸くなる。


「マーキちゃん、そういう話は先生に振ったってだめだめ。恋愛とか恋とかの、そういう小難しくって複雑な話は、とんと避けて通ってるから。ねえ、先生」


「そんなことないですよ、京子さんはすぐそうやって僕をおとしめようとするんだなあ。僕だって何かの役に立つことだってあります。で、何ですって?」


なーとミケが可愛らしい声を上げる。


もう‼︎

それだけで、先生はメロメロなんだから。


「だーかーらー、加藤に振られたって話」


私は思い出して、苦い味を覚える。


過去何度も味わった味。


振られるのはいつも私で。


「私に何か問題があるんかなあ? 私が悪いんかなあ」


「マキち、」


「そんなことないってぇ、マキちゃんは至って普通の女子高生なんだからあ。あのね、これ絶対、相性‼︎ それと、縁っていうのかなあ、まあそういうやつ。まだ出逢ってないだけだと思うな、想い想われる人ってのにね。人生経験の長いおばはんのいうこと、信じなさい‼︎」


京子さん、「普通」の女子高生って、いまいちフォローになってないよう。


「京子さんは良いよう、美人だし魅力あるもん。私はさあ、面白くないんだってさ、一緒にいても」


加藤に告げられた別れの原因の一つを口にした。


苦い味がさらに拡がり、それだけでもう胸の中がドス黒くなる。


「マキ、」


「何、それー。そんなん言う子は、別れて正解だよ。人のこと傷付けといて平気な男なんて、やめておいた方が良いって。それにマキちゃんは十分に、可愛いぞう」


京子さんが小さくウィンクしながら、先生が喋ろうとする瞬間を狙って、口を出してくる。


この、矢島先生と京子さんの絶妙な仕掛け合いは、いつ見ても面白い。


ドス黒い気持ちが少しだけ浄化される。


だから、私はここへ来る。


ここは、私の目の前でミケを膝の上に乗っけてぼやっとしている矢島先生が開く、「眠り屋」の事務所だ。


古ぼけた幽霊屋敷の様なビルの二階にこの事務所がある訳だけど、見かけも怪しい事務所と普通を絵に描いたような私である一女子高生と、どうしてこんな接点があるかと言うと。


矢島先生が仕事にしている「夢」に何の関係があるでもなく、それは私の友達がここを知っているという単純な理由からだった。


私の中学校からの友達である雫が。

今は、クラスが別々になっちゃってるけど。


以前、ここに居候をしていたカオルくんという男の子と付き合っている。


何でも、先生が仲を取り持ったという話だ。


そんなこともあるから、私は京子さんと先生の仲も疑っている。


本人達は否定してるけど、絶対そうだって。


「あーあ、私だって私だけをずっと想ってくれる彼氏が欲しいよ。心変わりって、ほんと人間にとって必要ないし‼︎」


「心変わりですかあ。でもねえ、もしそれが無かったら、ずっと一人の人とカップルでいないといけないじゃないですか。それはちょっと難しい、というか、厳しいなあ」


京子さんが、さっきからずっとピピピッと鳴いているオーブンの中から、ミトンをつけた両手でいかにも熱そうな鉄板を取り出す。


チョコブラウニーの甘い香り。


こんなお宝をオーブンに隠してあるなんて、事務所に来た時には気付かなかった。


京子さんが鉄板ごとこちらに振り返って言う。


「あらまあ、硬派の先生にしては珍しい発言ですねえ。意外と、浮気性‼︎」


京子さんが苦々しく言うもんだから、私もつられてついツッコんでしまう。


「ほんと、やだ。先生がそんな人だとは思わなかった。ミケ、こっちおいで。先生は浮気者だぞー」


私がミケを抱き上げると、先生が、あ、こら、と手を伸ばす。


「そんなことしたって、考えは曲げませんよ。だって、好きになった人が、他の人とカップルだったりしたら、目も当てられません。不幸になる人が増えるじゃないですか」


「まあ、そうだけど……」


「マキちゃん、色々な人に話を聞いてみてください。僕が紹介してあげるから、ね」


「先生ったら、すぐによそ様に丸投げするんだから」


京子さんがチョコブラウニーを小皿にとって、渡してくる。


私はミケを膝に乗せて座り、小皿を受け取った。

すると、その隙にミケがさっと膝から降りる。


のろのろとキッチンへと歩いて行くと、床に敷いてあるマットの上の小皿に入った水をペロペロと舐め始めた。


京子さんが作ったブラウニーを一口かじる。


チョコの甘さが身体全体を駆け巡る。


チョコでこんなに感動するのは女子だけだろう。


「んー、美味しい」


「本当? ありがと」


「美味いですね、いつも思うのですが、京子さんのスイーツはお店で売っても良いくらいです。僕なら買いますよ」


「いいえ、先生にはどんどんお仕事をして頂いて、うちのお花を買って貰わなきゃ。そこら辺で野の花を漁ってくるのは、今後は禁止ですよー」


あはは参りました、などとふわふわの頭を掻く先生と、いつもニコニコしながら先生をいじめる京子さんを見て、ああ、やっぱり本当は二人付き合ってるでしょと思う私なのである。


ブラウニーを完食して顔を上げると、いつの間にかミケが先生の膝の上で丸くなっていた。


「まずは、そうですね~、手近なところで、カオルと雫ちゃんに話を聞いたらどうですか?」


振られたばかりで弱っている私にとって、あのラブラブバカップルは耐えられない。


「ごめん、先生、違う人にして」


私はフォークを口に咥えながら、完食したブラウニーの小皿を持って、もう一切れ貰うつもりで足早にキッチンへと向かった。


✳︎✳︎✳︎


「どう思いますか?」


私は映画は洋画しか見ないから知らなかったけれど、でも有名な監督と聞いていたので、こう見えてもちょっとは緊張していた。


でも、実際会ってみると何だか普通の人っぽかったので、私はここ数日、頭の中の大半を占めているこのモヤモヤとした気持ちを、この藤堂とうどうさんという映画監督に吐き出してみた。


監督が頬杖をついたまま、うーんと唸る。


眠り屋である矢島先生の考えは分かった、全然納得は出来ないけれど。


受け入れられないけれど!


「そうかあ、矢島さんがねえ。ちょっと、びっくりしました。そんな風に見えないから。勝手にだけど、一途で真っ直ぐっていうイメージ持ってたからなあ」


映画監督って、もっと威厳みたいなの、あってもいいんじゃないかなあ、藤堂さん。


のんびりと構えているから、着ている服もだらーっとしているように見えてしまう。

まあ、見ようによってはナチュラル、自然体、そんな風にも取れるけど。


「おう、そんなもんだろ、人間て。矢島も見かけはあれだけど、ただの男だってことだろ。なあ、神谷かみやあ」


そう面倒くさそうに言っているこの人は、この喫茶ちぐらのオーナー、ちょいワルの斎藤さいとうさんだ。


もう一度、そうだよな神谷あと、カウンターの奥にいる背の高いチャラ男に声を掛ける。


こちらは茶髪の長髪を後ろでひとつ結び、ピアスたくさんの、いかにも遊んでる風の人、神谷さん。


本人は遊んでないって、主張してたけど。


「俺はマキちゃんの気持ち、分からいでもないなあ。俺も結構、フラれるタイプだからさ。遊んでねえって言ってんのに、嘘だっつって。いつも疑われてフラれっから。あああ、俺、マジ不幸体質だな」


この神谷さんはゲイだと本人が言っていた。


余りに早い段階のカムアウトにこっちが驚く。


まあ、うちの学校でも、いないわけじゃないけども。


「心変わりかー、何かそのテーマ一つで映画に出来そうですね」


「おうおう、頼むぞ、またここ使ってな」


オーナー斎藤さんがすかさず反応する。


以前にここ喫茶ちぐらで、藤堂監督が映画を撮影したって言っていた。


そう言っていた本人の矢島氏は、今日は不在だけど。


矢島先生ってば、紹介するって言っておいて、本当に最初の紹介だけすると、さっさと帰っちゃうんだから。


「でもよ、一人を一生思い続けるのって、結構大変じゃないかなあ。重いっつうか、負担っつうか。こっちもだけど、あっちもな。なあ、神谷あ」


そのオーナー斎藤氏の言葉を受けて、私が返す。


「もしもですね、みんながみんな、一人の人を想い続けるっていう世界があったら、違和感や疑問なんて持たないと思うんです。っていうか、斎藤さんって何でも神谷さんに振りますね」


「あはあは、何か口癖っつうか。こいつの反応おもろいんだよ。中でもこいつの驚きの顔は文化遺産に登録されている」


「うるさいっすよ、オーナー。でも何か実際そういう世界になってみないと分かんないね。頭ん中だけでは、自分がどう思うか想像できないっていうか。矢島さんに夢で見せてもらうことって出来ないんすかね」


「私もそう思って聞いてみたんですけど、そんなことはできないって言われちゃいました」


「矢島も使えねえなあ。何のための才能だっつうの」


「誰も、そんなことのために……おっと、マキちゃん、そんなことだなんて言っちゃって、ごめんね」


藤堂監督が、慌てて謝る。


いいんです、そうですよね、私ははあっと溜息をつくと、お店の人が淹れてくれた紅茶を一口飲んだ。


ミルクが入った上品な香り。


いつも眠り屋の事務所で京子さんが淹れてくれる紅茶とはまた違った味わい……多分。


そして、その上品な紅茶を淹れてくれた宮さんと呼ばれた人がカウンターの中から声だけで入ってくる。


「俺は心変わり肯定派だね。一生に一人なんて、人間の精神が持たねえんじゃねえの。相方が早くに死んじゃう場合だってあるわけだからよ。独りで生きていくのって、並大抵じゃ出来ねえぞ。一人を思い続けるって、世間ではさあ、美徳‼︎ みたいなとこあんだろ。でも実際は美しくも何ともねえ、俺にはどろどろしたもんにしか見えねえなあ」


矢島さんに一票、そう言って裏口から出て行ったのか、バタンとドアが閉まる音がした。


それは、宮さんの言葉がここ喫茶ちぐらで一番強い何かをはらんだ言葉のように思えたからか。

その閉められたドアの音にさえも、何かの強い意志があるように感じられた。


「まあ、マキちゃんはまだ若いんだから、これからどんどんフったりフラれたりすれば良いんじゃねえの。その内に、これだ‼︎ っていう何かが、掴めるだろ。なあ、神谷あ」


オーナーがちょいワルじゃ無ければ、そしてこの「なあ、神谷あ」をアホみたいに連発しさえしなければ、この言葉にも説得力的なものが加わるんだろうけども。


そんな「神谷あ」さんが優しく声を掛けてくれる。


「俺、今日はもう上がりだからマキちゃん帰るなら送ってこか? まいまいが来たら、交代っすから。あ、それより藤堂さん、まいまいに無理矢理に映画見せるの、止めてくれないっすか。この前、すっげグロッキーで目つきがハンパねかったっすよ。お客さん、めっちゃ睨みつけてましたよ」


「え、あ、そうだった?」


「そうだー、営業妨害だー、俺らのまいまいを返せー」


「オーナー、鬱陶しいっすよ」


ああ、ここは楽しそうだな。


この雰囲気好きだな。


私は抱えてきた疑問に何一つの答えも出せなかった代わりに、こんな暖かい雰囲気で温められた心だけを貰って帰った。


✳︎✳︎✳︎


「どうでしたか? まあ、あんま参考にならなかったとは思いますが」


じゃあどうしてそれ分かってて、先生はちぐらを紹介してくれたんだろうね、口を突いて出た言葉が責めたように聞こえたのか、矢島先生は少しだけ慌てた様子で次の人を紹介してくれた。


「今度はまともな人達ですから、大丈夫なはずです。きっと、色々教えてくれると思いますよ」


先生はそう言うと、やっぱり今回も私を置き去りにして帰っていった。


この放置プレイ、何なんだ!


「可愛いわねえ、高校生の恋の悩みぃ。私もそんな頃があったわ。随分と昔だけど」


京子さんとはまた違うタイプの美人、この奥田さんは、ここアケミマートという何でもショップの店員さんらしい。


「私、ここの店員兼事務員です。色々何でもこなせます。受注発注もやってます。お客さんにお茶出しもしますよ。あら、職業体験じゃ無かったわね。ごめん、ごめん」


「いえ、お仕事中すみません。私、お店とは思わなくって」


「いいの、いいの。矢島さんだって、よくここに暇潰しに来るしね。良かったら、あとでお店も回ってみてね。結構、面白いわよ。うちの娘もこの店大好きで。ファンシー系も売ってるから、学校帰りに友達とよく寄ってくのよ」


奥田さんはすごく話しやすい人物だ。


あまりにも美人だから最初は高飛車っぽいっていう印象だったけど、矢島先生に紹介された時も、お客さんのお年寄りと仲良く、そして楽しそうに話していた。


「奥田さ~ん、また脱線してますよ~。恋愛相談、バシッと乗ってあげてくださいよ」


そしてこのイケメンの店員、広瀬さん。


そう言えば矢島先生、いつも僕の味方をしてくれる広瀬くん、と強調して紹介してたっけ。


京子さんにもいじられてるけど、もしかして奥田さんにもいじられて、味方はこの広瀬さんだけだったりするのかも。


何か、笑える。


アケミマートの店長さんは、今日はデートで不在ということだった。


「そうねえ、移り気ねえ。一生で一人しか選べないんだったら、かなり慎重になるわあ。容姿、性格、収入、その他諸々。めっちゃ考えるだろうな~。めっちゃ慎重になるだろうな~。そうなると、逆に恋心も萎えちゃいそう。しかも一目惚れなんかしちゃった時には、ハズレの可能性もあるわけだしね。そんな訳でぇ、私は大いに反対‼︎ 私には絶対に無理‼︎ 広瀬くんはあ?」


奥田さんの速攻で結果を弾き出す才能、すっごいな。


「僕は一人の人と両思いで、ずっと付き合いたいと思ってるんで、賛成ってことになるかなあ。やっぱ好きな彼女には心変わりして欲しくないから」


見かけによらず、意外と真っ直ぐで純粋な広瀬さんにほっと癒される。


そうだよね、誰だってそう。


他の人を好きになって欲しくない、浮気なんてして欲しくない。


「そうですよね、やっぱりそうですよね」


最後に奥田さんがはたきを持った手を高々と掲げて言い放つ。


「でもまあ、マキちゃん‼︎ あなたはたくさん恋すべきよ。人を見る目もそうやって養われていくしね。恋して損は無し‼︎」


そしてそれから、私は店内をぐるぐる見て回って、『お姫様の鏡』(税込価格 五百三十円)という不思議アイテムを買って帰った。


ここには色々と楽しい商品が置いてあるようだ。


学校帰りにまた友達とでも寄ろう。


✳︎✳︎✳︎


「で、どうでした? 奥田さんは、論理的な方なので、何かズバッとアイデアを出してくれたのはないですか?」


私はアケミマートでの様子を細かく説明した。


「意外です、広瀬くんが肯定派とは。やはり若さ故の意見でしょうか。しかし、多種多様ですねえ。人生も色々、考え方感じ方も色々、というわけですか。んー、深いです。それにしても、恋して損は無し、とは名言ですね。さすが奥田さんだ」


「色々考えたけど、でもやっぱり考えがまとまんなくって。これっていうのになかなか巡り合わなくってさ。でも先生、もう良いわ。私、何か分かんなくなってきちゃった。っていうか、加藤のこと、どうでもよくなってきたわ」


「あはは、ぐるぐると考えさせただけでしたね。けれど、考えることに意味がありますからね、考えることを怠けてはいけませんよ」


「んー、まあ、そうだね。結局、よく分かんなかったけど、何か深いなあっていう漠然としたのは掴めたし」


「では最後に、もうお一方紹介させて下さい。明日の学校帰りに、またいらっしゃい」


私はその時点でもうお腹いっぱいだったけど、先生があまりに優しくにこりと笑うから、素直に分かりましたと返事して、事務所を出た。


もう夕方というのに、明日提出の課題がまだ終わってない。


あの量からすると、夜中までは掛かりそうだ。


「また月見でもしながら、やっかなあ」


私はオレンジをもっと濃くした朱色が心に残る夕焼けに向かって、ぐっと両腕を伸ばすと、うーとかあーとか言いながら、精一杯背伸びをした。


✳︎✳︎✳︎


「先生も隅に置けませんね。こんな可愛らしいお嬢さんを連れて」


またもや放置プレイかと思いきや、私の隣に矢島先生が座る。


瑠璃さんです、と紹介されてから、すでに用意してあったコーヒーと手作りのクッキーを目の前に並べられても、私は瑠璃さんから目を離せなかった。


「綺麗な人ですね……あ、ご、ごめんなさい」


急に恥ずかしくなって下を向く。


アケミマートの奥田さんや、京子さんも美人だけれど、この目の前の女性にはまた違った美しさがある。


矢島先生の周りは、どうしてこう美人やイケメンが存在する!


私は心の中で、思いっきり叫んだ。


「時間を頂きましてありがとうございます。この少女が、人の心変わりについて、調査してレポートを書くということで、色々な方のお考えを拝聴していまして」


「え、先生!」


何で研究になってんの、って言いたかったけれど、ポンと肩に手を置かれ、


「ね、そうですよね、マキちゃんっ」


と抑えられてはいるものの、強い調子で言われると、はい、と頷くしか出来ない。


「はい、そうです。学校のレポートで、人間の心理っていうか、んんむ」


語尾が完全に濁ってしまったけれど、瑠璃さんはその点疑わずに、それは大変ですね、と微笑んだ。


「私は美術しかやってませんので、勉強の方は全然駄目で。気の利いた回答が出来るかどうか。あ、どうぞ遠慮なさらずに召し上がって下さい。お口に合いますでしょうか」


周りを埋め尽くす、数々のカンバス。


美術には、というか芸術にはとんと疎い私が見ても、綺麗な風景画だ。


使われている色彩が凄く好みだ。


「この前いただいたタルト、すごく美味しかったです。京子さんが、レシピを教えて頂きたいと言っていました」


矢島先生が話をしている間に、こんもりと盛られたクッキーに手を伸ばす。


その私の様子を見て、瑠璃さんはふふ、と柔らかく微笑んだ。


「一生のうち……」


突然、切り出した先生に驚いて、クッキーを喉に詰まらせるところだった。


「もし、一人の人だけを愛し続けていかねばならないなら、という前提なんですが。人はその一生を幸せに全うすることが出来るのか、それがテーマです」


瑠璃さんがコーヒーカップに伸ばした手を止め、矢島先生を見る。


何だろう、そう思ってしまう程の時間。

瑠璃さんは、一言も話さず先生を見つめ続けていた。


そして気が付いた。


先生も瑠璃さんを見つめている。


私もいつしか、クッキーを食む手を、口を、止めていた。


沈黙が長く、息苦しい程続く。


けれど、その沈黙は瑠璃さんの笑顔によって破られた。


儚く、美しさだけだった表情に明るい光を灯したような、その笑顔。


「先生ったら、そんな恋をする乙女のような質問を、」


言葉を切って、声を上げて笑う。


口元をその細っそりした手で隠しながら、肩を震わせて笑う瑠璃さんを先生も笑顔で見つめていた。


何だろう、この雰囲気。


まるで戦友のような、同志のような、この空気感。


先生と京子さんのそれとは、また違った。


「私の、私達の、永遠のテーマですね」


✳︎✳︎✳︎


その日先生に、家の近くまで送って貰った頃には、もう月がぼんやりとその姿を現していた。


私はそうやって夜空に浮かぶ朧月のように、ぼうっとした不思議な感覚に囚われたまま、ベッドの中に入った。


あの後結局、瑠璃さんは、これは難しい問題ですね、と言葉を濁すようにして何も言ってくれなかったし、先生もそれを何ら咎めずに、ただ静かに受けては流していた。


そしてそのまま、世間話となってしまった。


と言うのも、彼氏はいるのですかとか、勉強はどうですかとか、瑠璃さんが私にいろんな質問をしてくるから、結局は私が話してばかりで、瑠璃さんの話はあまり聞けなかった。


そして先生は、帰り際に手書きのタルトのレシピを手にして嬉しそうに帰っていった。


「何かあったのかなあ、あの二人」


私はほうっと溜息を吐くと、急に湧き出てきた眠気に抗うことが出来ず、朧月を胸に抱えたまま、深い眠りについた。


✳︎✳︎✳︎


結論からいくと、結局のところ答えは出なかった。


心変わりというものを突き詰めて、沢山の人の意見を反芻し自問自答もしてみたものの、何も引き出せず、何にも答えられず、何をも見出すことが出来なかった。


つまるところ、何も得られなかった。


それは、夜空に浮かぶ朧月のようでもあって。


ぼんやりと輪郭を濁す、その姿。


その掴み所のない存在。


けれど、骨折り損のくたびれ儲け、とは言い難いような、この心の平穏と満足感。


瑠璃さんに会ってから数日後、瑠璃さんを紹介して貰ったことを京子さんに話すと、京子さんはいつものからかい口調無しで、珍しくも真剣な表情で言った。


「そうですか、瑠璃さんに。先生と瑠璃さんお二方とも、一生に一人しかいない大切な人を、早くに失っていらっしゃるから。先生、きっと、」


一瞬。


口をぐっと噤んだ京子さんの横顔が、すごく印象的だった。


「きっと瑠璃さんにね、マキちゃん、あなたを逢わせたかったんでしょうね」


そう言うと、京子さんは遠くを見つめて、そして微笑んだ。


それって、逆じゃないの?


思ったけれど、言葉にはしなかった。


そして京子さんの満足そうな横顔を見る。


その時私は、多分人ってのは、いつまでもいつの時でもそれぞれに朧の月を抱えて生きていく、きっと私もそうすべきなんだなって、なぜかそう思ったんだ。

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