八章 邂逅
「本当に出来るって言うんじゃな!」
改めて強い調子で言われると。
何も悪いことはしていないのに、何だか怒られているような感覚に陥り、一瞬怯む。
「はあ、まあ」
今にも攻め込まれるのでは、というような勢いのある口調に、むにゃむにゃと口籠りつつも、一応は了解を出す。
「本当に、本当に、出来るんじゃな」
次には念を押すようにして、一言に重みを加えた物言いになる。
これだけ説明して、何度も出来ますと自信を持って言い切っていたのに。
これほど何回も本当に出来るのかどうなんだと問われると、こちらもやっぱりこれは本当に大丈夫なのかなと不安になり、腰が引けてしまってこの事案を再検討したくなるではないか。
先程からの繰り返されるこの遣り取りに、僕は少し前まではかなりの確率で当たりのコインが出るガシャガシャを意気揚々と回している感覚でいた。
が、今となってはハズレコインを何度も引いてしまい、当たりが出るまではと引くに引けない状況に陥ってしまっているような心持ちになっていた。
「何度も言うようですが、出来るは出来るんです。要は夢の中で、先ほどから仰ってる大介さんという方に、文句の一つも言いたいと、そういうことですよね。夢の中でも構わない、文句を言うことが出来ればそれで気が済むと、そういうお話ですよね」
「そ、そうじゃ」
「で、文句を言うお相手、大介さんのお写真もあると、そういうことですね」
「ああ、そうじゃ」
「お若い時のものでしょうから、その点は先ほどからも申し上げている通り、お若い大介さんと対峙することとなりますが、それは構わないというお話でした」
「おう、おう、そうじゃ。それで一向に構わん」
「で、お金を返せと言いたいと」
「そうじゃ、貸した金を返せ‼︎ ネコババしおって、この盗っ人め‼︎ っとまあ、あいつの面に浴びせかけたいんじゃ」
「それで気が晴れる、と。でも、暴力は駄目ですよ。こちらが怪我をする可能性が有りますから」
「それは絶対に無い‼︎ こんな非力なわしが手を出すなどと。一度だけ、言ってやれればいいんじゃ。それで満足出来るはずなんじゃ‼︎」
「そんなことをしても、お金は戻りませんよ」
僕は呆れた調子で言う。
「そんなのは分かっとる!」
耳へ脳へと直接攻撃してくるような怒声。
「そうですか、それは結構。ではいつにしますか?」
怒鳴られはするが、まあここまでは順調。
そして、毎回ここから雲行きが怪しくなる。
「しかし、そんなこと、本当に出来るのかの? 夢に入ることができるなんて、到底信じられんぞ。お前、詐欺師とかの類じゃあないだろうな‼︎」
そして振り出しに戻る。
僕は、はあっと盛大な溜息を吐きながら、そんなこんなで無駄に過ぎていく時間を、気持ちの持ちようによってどう有意義なものにすり替えようかと、頭を悩ませていた。
✳︎✳︎✳︎
いつも色々とお世話になっている花屋の京子さんが連れてきた、この一風変わったご老人。
身なりはそれなりに、けれどこんな風に評すれば十中八九怒り出すだろうが、性格の悪さや腐った性根を身に纏っているような、そんな第一印象であった。
面には深く刻み込まれた皺が縦横無尽に這い、そしてその皺も幸せで穏やかな生涯を送ることによって刻まれる部分ではなく、世間を憎みながら生きてきたような、そんな部分に存在している。
例えば眉間を狭めたり口角を下へと引っ張るような、そういった皺の数々が、この老人の第一印象を揺るがないものにしていた。
目つきもぎょろりと睨むように上下左右に動かされ、持参した杖を何度となく振り回すような大仰な所作にも、この老人が持つそういった種類の禍々(まがまが)しさが映し出されている。
最初、僕は京子さんがどうしてこのような人を僕に紹介したのかと、失礼ながらそう思わざるを得なかった。
普段から何かと助けて貰っている京子さんに、絶大なる信頼を寄せている僕としては。
京子さんにはそれ相応のお知り合いが沢山いらっしゃることを随分と前から知っていたから、余計にその際立って異彩を放っている今回の依頼者について、疑問を呈したい気持ちで一杯になっていた。
依頼者のご老人は、こちらが正蔵さんです、と京子さんが紹介した次にはもう僕のことを、こんなふやけた奴で大丈夫なのか、あんたが先生先生と言っておるからどんだけの偉い先生かと思いきやこんな若造とは、などと云々。
だからこその、この第一印象であったと言えるし、人は見かけで判断してはいけないとは言うけれど、そう初対面で印象付けられたことに異議を唱える者も、この出逢いを見れば皆無のはずであった。
京子さんによれば、正蔵の翁は若い頃からその商才を活かして、父親から譲られた一個人の商店を中堅の商社になるまでに叩き上げたという強者の経歴を持っていた。
その成長が故に弱者を切り捨てる経営方針に反発を持った従業員ともよく衝突したらしい。
結婚し一男一女を持ったが、仕事一筋で家庭を顧みるどころか踏み台にして駆け登っていった挙句、自分の会社は自分の物だと言い切って息子や娘に跡を継がせる気なんてさらさら無いと宣言してしまった為、現在家族とは絶縁状態となっているらしい。
哀しいことに、正蔵の翁は自ら、誰も近寄れないような深い堀で、四方を囲んでしまっていた。
「ご本人は、寂しい人生とは思わないんでしょうかね」
僕が、京子さんに声を掛ける。
「まあ、価値観は人それぞれですからね。けれど正蔵さんの場合はご家族や会社の社員さん皆さんが迷惑を被っていらっしゃいますよね。お金はお持ちでしょうが、彼の心の味方になってくれるもの、寄り添ってくれるものが一つも無いなんて、はたから見れば寂しいことです。そして私も、そう思う一人です」
そう言って、京子さんは苦く笑った。
「どうして、僕に?」
京子さんは冷凍庫から業務用ではないかというバニラアイスのパッケージを引っ張り出し、これまたそれ用ではないかというような大きなスプーンを戸棚から取り出すと、力いっぱいにぐるりと掬ってガラス皿に盛る。
こんな、まだ真冬と言える二月の半ばにそんなにも大盛りで、と僕も苦笑する。
「うーん、そうですね~。正蔵さんには先日、図書館でばったりお会いしたんですけど、その時にお聞きした話がまあ、夢に関する話だったってこともありますが、」
京子さんが続けて二杯目を掬う。
「灰汁の強い気性の激しい方なので、柔和な先生にぶつけてみたいという悪戯心がふつふつと、ふふふ」
僕が受け取ったガラス皿のアイスを口に運んでいると、その様子を横目で見ながら京子さんは悪魔のように微笑んだ。
「ふふ、どんなことになるのかなぁ~って」
真冬のアイスをすっかり堪能した僕は、藍色の美しいガラス器と小ぶりな銀のスプーンを京子さんに突っ返す。
「相変わらずの、悪戯っ子ですねえ。アイス、美味しかったです。ご馳走になりました」
立ち上がって冬用の分厚いコートを羽織りマフラーを巻くと、その背中に声を掛けられる。
「あ、先生これをお持ちください。綺麗でしょ」
京子さんの手には手折られた椿の枝。
ぽつんぽつんと数個ある蕾のうち、二つがその大輪の花を咲かせている。
見る者の心に真紅の痕を擦りつけて残していく椿の花の美しさに、僕はほうっと息を吐くと、
「綺麗です」
椿の花の芳しい香り。
鼻をくすぐる若干の花粉を感じながら、もうすぐ春だというのにまだ少しも緩まない寒さの中、僕はフラワーショップ京子を後にし、事務所への帰途に着いた。
✳︎✳︎✳︎
正蔵の翁の夢へは、夢魔と共に入ることとなり、僕はその準備を細々と進めていた。
雪はもう流石に降らないであろうが、けれど降ってもおかしくはない寒さの厳しいある日、翁自身に自宅は嫌だからと敬遠された為、この眠り屋の事務所にて僕は翁と一緒になって眠り込んでいた。
連れてきた夢魔が、懐から出した写真の顔へと変化する。
先日、翁がこの写真をおずおずと差し出してきたのを見て、僕はおや、と思った。
その写真は真ん中から真っ二つに裂かれていた。
裂かれていたと言っても、指と指でビリビリと破った訳でなく、その見事なまでの切れ目は鋏で切ったのだろう、鋭いラインを寸分の狂いなく呈している。
左半分しか存在を許されなかった写真の中で佇んでいる男は若く、顔形も整い、背筋をすらりと伸ばし、こちらを見つめている。
その真っ直ぐで真摯な視線には、お金を借りてそのまま持ち去ってしまうような、そんな卑怯者の性分は、伺い知ることはできなかった。
「どちらが悪で、どちらが善なのか、これではまるで判断が付きませんね」
そんな気持ちを見透かされたのか、正蔵の翁に睨まれ、僕は苦笑した。
そして、存在を許されなかった右半分は……この翁の心の中にあるのだろうか。
僕は敢えて問い正すのを控えた。
刻、刻、刻、刻……
そして、いつものように、いち、にい、さん、しいと時を刻む。
それはその存在を知らない若い人々でも何故か懐かしいと思えるような、振り子時計の時を打つコチ、コチ、という音へと変化し共鳴していき、そしてそのままボーンボーンと胸に響く音が二つ。
そう、夢の始まりを告げた。
✳︎✳︎✳︎
「大介‼︎ この恩知らずめ‼︎ ユキさんを返せ、この泥棒ネコが‼︎」
物陰に姿を隠していた僕は、ギョッとして立ち上がった。
話が違うじゃないですか!
そして翁のこの第一声によって、写真の片割れの存在を追及しておけばと、いたく後悔する羽目になった。
今、大介‼︎
と、恫喝されている優男風の男は、僕が以前に夢の仕事で知り合いになった夢魔が成り変わった人物だった。
夢魔は誰にでも、人間以外にでも、ありとあらゆる生物になれる。
今は、翁に貰い受けた写真の彼の人に成り変わり、翁にお金を返せと言われるだけの予定であった。
「貸した金」だった筈が、「ユキさん」という女性の名になっている。
僕は慌てはしたが、暴力は振るわないという約束を取り付けていたので、あわわと思いつつも次の言葉を待つことにした。
夢魔には、何も悪いことはしていないのに、こんな風に罵倒されて申し訳ないという気持ちはあったが、夢魔の別件での希望も聞いた上での取引なので仕方がない。
耐えてくれ、と身を隠している大木の枝を掴む手に力が入る。
すると僕が感じていた、いや誰しもが感じているであろう、翁の根底にある乱暴さが遂に現れ始めたのか、翁はさらに語気を強めて声を張り上げた。
「この‼︎ わしのユキさんを掻っ攫いやがって‼︎ よくもまあ、どの面下げてわしの前にぃ‼︎ この裏切り者が‼︎ ユキさんを返しやがれ‼︎」
遂に正蔵の翁が、大介の襟首に食らいついた。
両の手をワイシャツの襟に食い込ませて引っ張る。
僕は、あっと声を上げ、その場を離れて躍り出た。
次の瞬間には、その襟首を引っ張り上げた両手が空を切った。
大介は、いや大介に化けた夢魔は一瞬にして消え去ってしまったのだ。
僕は夢魔の咄嗟の判断に感謝した。
もし違う姿にでもなって、それこそ恐ろしい魔物の姿にでもなってしまって、翁を大いに驚かせ気絶させてしまうよりは、数段ましであったかと思ったからだ。
僕は、躍り出させた僕の身体を直ぐに翻して元の場所へと戻り、物陰からさらに様子を見る。
空を抱いてしまった両腕をだらんと下げて、驚きの表情で突っ立っている翁を見る。
そんな状態の翁に対して何かアクションを起こし混乱を深めるよりはと思い、僕は少しずつ覚醒を促すことにした。
何とも無様な結末だ。
はあっと、色んな意味で痛い溜息を吐くと、僕も覚醒の準備に入っていった。
✳︎✳︎✳︎
「話が違うじゃないですか‼︎ どういうことですか、契約違反も甚だしいですよ‼︎ 許し難い暴挙と言わざるを得ません‼︎」
覚醒した後の、寝起きでぼうっとした頭に叩きつけるように僕が言うのを、最初は神妙な表情で聞いていた翁だったが、直ぐに態度を一変して僕の襟ぐりを掴み上げる勢いで反論してきた。
「約束を違えて済まんかったとは思うが、あれは大介が悪いんじゃ‼︎ それにもう終わったことじゃからの、済んでまったものは仕様があるまい。ちゃんと金は払う‼︎ それで文句は無いじゃろ‼︎」
「そういう問題じゃありませんよ!」
そう、僕も、そしてこの目の前で青筋を立てている翁も、夢魔の逆鱗に触れれば、その場で襲われて喰われていたかも知れない。
夢魔を怒らせたことがない訳でない、僕の経験上の勘からいくと、多分大介の襟首ではなく身体に食らいついたなら、夢魔は容赦なく翁をその場に倒していただろう。
以前、画家の瑠璃の夢では獰猛な肉食獣である黒豹となって現れたこの夢魔。
僕の足を震わす程の「恐怖」という力を、いとも簡単に体現せしめた。
僕は身震いをする思いで、さらに畳み掛けた。
一度手離してしまった怒りは、元の鞘には戻らない。
「貴方は本当に身勝手な方だ‼︎ そのユキさんとやらが逃げ出すのも頷けます。大介さんを選んで正解だと思いますよ‼︎」
僕はここまで言ってから、しまったと思った。
事情をよくは知らないのに、言い過ぎてしまったのではないか。
暴れる怒りの感情を何とか制御して、落ち着くように自分に言い聞かせる。
そして、次に現れたのは後悔の念。
ああ、やってしまった。
やってしまったのだ。
けれど、これ位で引き下がる翁ではない。
「うるさいっ‼︎ お前のような若造に諌められるようなわしじゃないぞ‼︎ 不愉快、この上ない‼︎ 帰らせて貰うぞ‼︎」
そして正蔵の翁は上着や荷物を抱えると、バタンっとドアを叩きつけるようにして出て行った。
僕はまだ冷めやらぬ怒りを抱きながらキッチンへと入り、薬缶に水を入れ五徳にガチャンと音をさせて乗せると、カチカチカチと言わせながらスイッチを捻って火をつけた。
コーヒーでも飲んで落ち着こう、そうだ、こういう時は何か甘いものでも食べて、などとブツブツと言いながら、戸棚を探る。
そして羊羹を見つけて取り出し、扉をパタンと閉めた瞬間、今まで戦争でもあったかというような雰囲気を漂わせていたリビングから、かさりと小さな音がした。
その音を聞いた時。
僕の胸の中で、何かがゆらりと揺らいだ。
僕は羊羹を手にしたまま、リビングへと進む。
するとそこには椿が、その深紅の姿をぼたりと床に横たえていた。
その姿を見て、僕の中の熱は一気にその温度を下げていった。
花言葉は、完全なる愛。
僕の中で冷えていったのは、自分が思ったのとは違う、別のものだったのかもしれない。
僕はそのまま、その場に立ち尽くしたまま、薬缶がピイと鳴るまで、その横たわった椿の花を見つめていた。
✳︎✳︎✳︎
「何とも無様な姿をお見せしてしまいました。申し訳ありません、京子さん」
京子さんが花期の期限が切れそうだからと、腕に一杯のかすみ草を抱えて持って来てくれた日。
何度も言うようだが、この無様な失態と言わざるを得ない今回の案件。
それを渋々ではあるが、京子さんに報告したのだった。
始終、苦虫を噛み潰したような、そして怒られて耳を垂らして反省する仔犬のような、そんな様子の僕に京子さんはいつもの揶揄いなく、優しく言ってくれた。
「先生、あの人はそういう人なんだから、気にしちゃ駄目ですよ。良いんですよ、たまにはバシッと言われないとね。この私ですら、きつく諌めることは有りませんから。今まで生きてきて、周りできちんと筋を通して言ってくれる人があまり居なかったのかも知れませんね。正蔵さんにとって、良い経験だったんじゃないですか、今回なんかは」
「ありがとうございます、京子さん。気を遣ってもらって。これからは気をつけますよ、もう二度と同じ轍は踏みません」
だからであろう、このような遣り取りをしてから直ぐの金曜日、事務所のチャイムを鳴らしたのが正蔵の翁であったことに驚きを隠せなかったのは。
「どうされたのですか」
僕は慎重に尋ねた。
「いやあ、何と言うか。この前は悪い事をしたと反省してだな。この通り、済まんかった‼︎」
素直に謝り、頭を下げる翁を見て、こちらもどうしたものかと焦ってしまう。
「いえいえ、私も口が過ぎました。翁を怒らせてしまいましたね、申し訳ありません」
「契約違反をしたわしが悪いんじゃ。気にせんとってくれ。でな、これがこの前の代金じゃ」
渡された封筒を、改めさせて頂きますと言って封を切る。
「これでは頂き過ぎになってしまいます。依頼料はこの半分の筈ですが」
「違約金のようなもんじゃ。受け取ってくれんか」
僕は半分を引き抜いて、封筒を机の上に差し出す。
「申し訳ありませんが、お約束の金額しか受け取れません。折角のご厚意ですが、お返しさせて下さい」
すると翁は憮然とした顔を作ってはみたものの、数回の同じようなやり取りを経て、ようやく封筒を背広の裏ポケットに収めてくれた。
「あんたもわしに違わず、頑固者じゃの」
「お互いにそういう部分があるのかも知れませんね」
翁は僕が淹れた緑茶を飲むと、差し出した羊羹の一切れを口に放り込んだ。
そのぞんざいな仕草から、翁の人生が垣間見れるような気がしたけれど、今回はそうやって穿った目で見た事による失態と感じていたので、目を瞑って何もかもを無に戻す。
物事に対する考えや想いに、足し算や引き算があるのならば、その答えがゼロの可能性だってある。
僕は依頼者に対峙する時に、今までの経験や知識による判断に委ね過ぎてはいなかったかと、シンプルに反省していた。
物事を真っ直ぐに見る目を、見失ってはいなかったか、と。
「あんたに言われてなあ、正直きつかった。あ、本当の事じゃから気にせんでくれ。雪さんはわしの許嫁じゃった。その名の通り、雪のように真っ白で、美しい人じゃった。けれど、許嫁とは言っても親同士が決めたことでなあ。雪さんには好いとる男がおった。それが、わしの親友の大介じゃった」
予想通りのストーリーであった。
僕も羊羹を一切れほうばると、こくっと頷いて続きを促した。
「もうバレとるとは思うが、あの写真の半分には雪さんが写っとる。あれはわしが大介に雪さんを紹介した日に撮ったもんでな。大介が写真機を買ったと言って意気揚々(いきようよう)とうちに来たもんだから、わしも撮りたくなって貸して貰ったんじゃ。それで二人を寄せてしまったんじゃよ。後悔したで。わしは雪さんを気に入っとったからなあ。わしが二人を引っ付けてしまったようなもんで。口惜しい思いで、身も千切れんばかりじゃったあなあ」
きっとこの先もこのご老人はそのことを後悔して生きるだろう。
人間は。
どうしてあの時こうしなかったのだろう、そんな誰しもが持つ数々の後悔の渦にのまれながら生きるのが宿命なのだろうか。
そんな後悔という苦しく辛い感情の渦を巻く川。
向こう岸まで渡り切るのに、どれ位の時間を必要とするのか。
川を渡るのには舟が必要だ、そう思っていた頃の自分。
けれど、苦しんだり悲しんだりしながらも自力で泳ぎ渡った後の達成感。
そしてその達成感と共に見る、その先の美しい景色。
「二人が去ってから、わしは気が狂ったように生きてきた。それがそもそも間違っていることに気付かんかった。えらい時間が掛かってしまったんじゃ」
「けれど、そのことに翁はご自分で気付かれました。それがこれからの救いになるのではないでしょうか」
僕はまた出過ぎたことを言ってしまったと思った。
けれど、翁が深い皺を幾重にも寄せて笑う姿を見て、まあいいか、と思い直した。
帰り際、翁が杖を持ち直しながら言った。
「いやあ、それにしてもあんたは凄い‼︎ あんな神業が出来るなんてなあ、すこぶる驚いたわい‼︎ 大介めに、今まで隠してきた本心を心の底から吐き出せて、いやいや、ちゃんと悪かったとは思っておるぞ。けども、言いたかったことを面と向かって言うことが出来て、本当にすっきりしたぞい。助かった、サンキューな‼︎」
最後のサンキューにやられはしたけれど、翁の輝かんばかりの顔を見ることが出来、少し救われたような気持ちになった。
僕は涙が出そうであった目をぐっと瞑って顔を上げると、少しの間そのままそうしていた。
✳︎✳︎✳︎
「すごく豪華な葬儀でしたよ。沢山の人がいらっしゃって、私もお焼香の時間が短くて、ささっと済ませて来てしまいました」
喪服を上品に着こなしている京子さんが、疲れた~とばかりソファで伸びをする。
「もう二年も前になるんですね。僕はそれ以降お付き合いはありませんでしたが、京子さんは親交がお有りだったんですね」
「ええ、先生にお仕事を依頼されてから今の今までずっと、頻繁にうちのお花を使って頂いて。お元気でしたのに、すっと逝ってしまわれたわ」
「ふふ、僕の印象では石に齧りついてでも、という感じだったのですが。寂しくなりますね、京子さんも、ご家族の方も」
「会社はやっぱり息子さんが継がれたようですよ。遺言書もちゃんと用意して、お亡くなりになったそうです。ご自分の病気をお知りになって、色々と前々にご準備されていたそうです。先生に依頼された時にはもう、ご自分の寿命を知っていたのかもしれませんね。それで、私宛にもお手紙を頂いたのですが……」
がさがさと鞄を探り、一通の封筒を取り出す。
達筆で、京子さんの名とお店の名前が書いてある。
「ふふふ、ご家族の方々が、一個人である私に何の手紙をと不審に思っていらっしゃいましたが、遺言で開封しないよう指示があったようで。何か、正蔵さんが私に遺しているようなら言って下さいと戦々恐々とされてて。とおっても面白かったです」
そうやって京子さんがいつもの悪戯っ子の笑顔をこちらに寄越したので、僕は思わず笑ってしまった。
「けれど、この手紙はもちろん私宛ですが、先生、あなた宛でもあるような気がして。お持ちしました。読みますから、聞いて貰えますか」
僕はこくっと頷くと、向かいのソファに座って、京子さんの声に聞き入った。
正蔵、果たしてお前は元気にしているか。お前と道を違えたあの日、雪さんとお前の仲を割いてしまった責任を感じ、私はお前の元から去った。何時かは逢いたいと思っていたが、どの面を下げて逢ったらいいと、そうしている内に長い長い時間が過ぎ去ってしまった。私は雪さんを好きではいなかった。一緒になってくれと言われたが、お前を差し置いて、無論そんなことは出来るはずがなかった。だが、お前の人生と雪さんの人生とを、狂わせてしまったのには間違いない。私がお前の元を去って何年かしてから、雪さんもまたお前の元を去ったと知り、私は何てことをしたのだと申し訳ない気持ちで一杯になった。こんな風にお互い死ぬ間際の歳になって、このような詫びの手紙を送って寄越した、馬鹿な男だと思われても仕様が無い。本当に申し訳なかった。許されるとは思っていないが、お前の人生はその後どうだったのだろうかと、幸せだったのか、と気になって仕方がない。お前の活躍ぶりは、新聞等で知っていた。お前には謝らねばならぬ。
大介、お前こそ、幸せであったのか。雪さんはお前を追いかけて行ったのだと思い込み、二人を恨んだこともあったが、お前は雪さんとは一緒にならなかったのだな。何と言うことだ、俺はとんでも無い勘違いをしていた。
お前が気にしていた俺の人生だが、結構良い人生であったと思われる。俺の活躍ぶりは、知っているであろう。その後、家族にも恵まれ、なかなかのものであったと自負するまでとなった。お前が謝る必要はない。雪さんはお前を好きになった、ただそれだけなのだ。お前に非は無い。しかし、今の今まで、お前にそのような枷をはめてしまっていたのかと、そう思うと心も痛む。お前がそのように責任を感じ苦しんでいたなどと、知らなかったとは言え、許して欲しい。本当に済まなかった。心から謝りたい。お前にも、そして雪さんにも。
そこには京子さんへの礼と、そんな二人の翁の遣り取り。
そして最後にこう書かれていた。
或る日、大介からこのような手紙と一本の白い菊の花とが送られてきた。その菊は、大介の葬式で使われたもので、俺が手紙を受け取った時にはもう大介はこの世を去ったとの旨。大介はこの手紙を書いてはみたものの、とうとう生きている間には、投函出来ずにいたようだ。遺言にて、送って欲しいと指示があったようで、大介の養子と名乗る者から送られてきた。俺が書いた返事はもう届かない。けれど、俺が死んだ時、棺に入れて俺が直接持っていけば良いと思い、そうする事にした。お前にはこういう遣り取りがあった事を知っていて欲しいと思い、これを写した。
お前に初めて逢った時、お前の眼の中には一種の底知れぬ哀しみの様なものが宿っている様に見えた。それは重く冷たく、お前を苦しめているようであった。けれど、お前は生きねばならぬ。生きるという事で、ようやっと一つを成し遂げる事となるのだ。俺も生きた。やつも生きた。お前も生きるのだ。
俺が見当違いな事を言っているようであったなら、許して欲しい。どうかそのまま聞き流してくれ。お前には世話になった。礼を言う。
僕は、一度は京子さんが読んでくれた手紙をもう一度読み返していた。
そして、それを胸の中へと大事に仕舞い込むと、京子さんに返すべく顔を上げ、その姿を探す。
すると、いつの間にか彼女の姿はどこにも無かった。
僕は声を殺して泣く必要がない事に気付くと、京子さんの計らいに感謝しながら、涙が自然にその流れを止めるまで声を上げて泣いた。
このようにして生は繋がれていくのか。
僕はそのことに少しの感動すら感じていた。
リエコさんと僕らの子ども七緒とを亡くしてから、僕はどうやって生きてきたのか、辿っていくと記憶が定かでは無かった時期もあったし、それ以前の記憶にさえ曖昧な部分もあった。
けれど、この眠り屋で一つ一つの出逢いに接して、その度に一つずつ正気を取り戻しながら、今の今まで生きながらえてきた。
僕が出逢ったそれは全てにおいて輝かしい生などではもちろん無く、けれどそれぞれの違う温かみを持った素晴らしい生であると言えるのではないか。
そしてそれに触れたり、どっぷりと浸かったりしながら僕はこの自分の生を全うする。
生きねばならぬ。
この言葉にぴったりの花があるだろうか。
京子さんに聞かねばと思い、そしてその花を持って、リエコさんと七緒の墓に久しぶりに足を向けようと、そう想った。