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眠り屋  作者: 三千
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六章 糸


喫茶ちぐらは、森の中にある。


カフェ、と言うより喫茶店、と声を大にして言いたいのは、内装がいたく古めかしい点、オーナーが少し変わり者だったりする点、メニューに「ハムエッグ」がある点など色々な理由からだ。


けれど、その中で一番の理由は、私がその喫茶店のアルバイトの一人であって、しかもその私自身が、オシャレとは縁遠い位置に生息している点。


大学二年、法学部の私、であるのに。


同い年の女友達は皆んな、可愛いフリルの綿菓子みたいなミニスカートをフワフワとさせているし、シフォン生地の透けるブラウスだって、必要以上に透けないように、ううん、透けて下のキャミが見えてもいいように、それぞれが工夫を凝らして着こなしている。


そんな風に周り四方を、オシャレ人種にガッチリと囲まれいるにもかかわらず、私はどうしてもそれらに近づくことができない。


だから、そういった類の友達もいないし、キラキラな恋の一つもしたことがない。


私はきっと、どこか壊れている。


同じゼミを取ってる同級生もそんな目で見ている。

しかも、自分でそう思っているのだから間違いはない。


そんな野暮ったく根暗な私には、カフェでなく、喫茶店の方が似合っている、という結論。


それでも生きているのだから、仕方がない。


✳︎✳︎✳︎


喫茶ちぐらの面接には、茶色のシャツを首が締まるんじゃないかってくらい、ボタンをきちんと留めて、臨んだ。


そして細くもなく太くもない、中途半端な幅の、黒の綿パン。


佐藤さとうさんさあ、そういう服ってどこで買うの? 逆に興味あるわ。

って、言われたことがある。


私は重たい前髪で、うつむくことしかできなかったけれど。


そして、面接当日。


そんな私がこう言うのも何だけど、目の前にひょっこりと現れたのは変わり者のオーナーだった。


「佐藤……まいちゃんね、はいはい。ねえ、君、本当に大学生?」


気にしない。いいの、いいの。

いつものことだから、慣れているから。


野暮ったくて根暗。


目にかかるぐらいの、ドンと重く存在感抜群の前髪。


七五三以降、一度も化粧をしたことのない、くすんだ顔。


いつでもどんな時でも、ひたすら下を向き続ける目線。


見えないんだよね、青春を謳歌している学生に。

輝かしい人生の登り坂を、スキップで軽々と駆け上がっていく女子大生に。


第一印象。


最悪、って。


この人も、外見で見る。

皆んな、同じように。

外見を、見る。


私はいつもの通り、はい、と小さく返事をした。


暗くて陰気な返事。

これでもう、不採用決定。


根暗な人は、打ち解けられない、しゃべりにくい、からみづらい、誰しもそう思うものなんだ。


そして容赦なく浴びせられる、それらの言葉は、おちゃらけた言葉に装飾され、軽々しく使われる。


人を傷つけていると、知ることもなく。


逃げることも、抵抗することもできない、暗く深い穴にドスンと落っこちた私に、さらにスコップですくった土を浴びせかけるように。


じわりと目尻に涙がたまる。


今回はなんて言われるだろう。

この年代の人だと、ダサいとか、クラいとか、こっちは接客中心の商売だからねえ、ちょっと印象が悪いかな、とか。


けれど、この人は私が丁寧に記入した履歴書をじっと見ていた目を上げて、そして言ったんだ。


「ふふ、まるで見えないな、大学生には。童顔っていうか、見た目が子どもみたいだ。そうそう、あれあれ、あの子役のさあ、なんだっけ?」


最初、相手が何が言いたいのか理解できずに、私は固まっていた。


机の上で強く握り締めている両手を見続ける。

けれど、彼は構わず、話し続ける。


「そう、ユキちゃん、だっけ? あの頭に大っきなリボンをつけて踊る子。ルンルン、ランランん、って子‼︎ 似てる似てる、すっごく似てる〜」


オーナーは聞き覚えのある曲を鼻歌にしながら、先週末に最終回を迎えたばかりのホームドラマに出演し、その主題歌を歌っていた人気子役の名前を挙げた。


私は固まり続けた。


このままの状態で、永遠が来るんじゃないかと思うくらいの長い時間に耐えた。


少しすると、突然に悲しみが襲ってきた。

そっか、私からかわれているんだ。


やっと気づいた、バカな私。


そして、それに気づいてしまったら。

襲ってきていた悲しみが、途端に。


どっとその容量を増やした。


「えっと君ね、採用したいんだけど、いつから来られる? できたら、早目がいいんだけどなあ」


今、私は仄暗い穴の中にいる。


だから、よく聞こえなかった。

聞き取れなかった。


「え、」


私は思わず、二度オーナーの顔を見る。


「あ、ごめん。聞こえなかったかな。いつから働ける? 今、人手不足だから、早く来てくれると、助かるんだけど」


面接はいつも、不採用。

だから、採用だなんて思いも寄らなかった。


見た目を何とかしてから来いって、言われたこともある。

そう言われた帰り道、美容院の前で一時間うろうろしたこともある。


だから、本当に大学生かと聞かれた時に、もう完璧不採用だって思っていたし、まさか子役とはいえ、芸能人に似てると言われるなんて。


「……似て、ません」


私はそれだけを言うので精一杯だった。


全身に走る震えを感じては固まる、震えては固まるを繰り返す。

にじみ出ていた涙がこぼれる、と思った。


思いも寄らぬオーナーのこの言葉に、しかもこんな短時間で。

こんなバイトの一面接くらいで。


震えるくらい、私、喜んでいる。


可愛いねって、言われたのでもなく、元気で明るいねって、褒められたのでもない。


それなのに、どうしてこんなに嬉しいのだろう。


どんな顔を作っていいのか、何を言ったらいいのか、頭の中も真っ白で。


そんな私を見て一瞬、キョトンとしたオーナーの顔。

すぐに、真剣な眼差しに変わる。


「え、そうかな、似てるよー。うん、絶対似てる。俺はそう思う」


結局、私はその後もいつからお店に来られるのかを話すことができなかったし、時給がいくらとか、何時間労働なのかとか、仕事の内容だとか、それら雇われる側にすれば重要な条件の一つすら、訊くことができなかった。


そう、その後も私は固まり続けて貝のように黙り込んだ。


けれど、そんな私を前にオーナーは不審がることもなく、面倒くさがりもせず、ずっとその間、沈黙を守ってくれた。


胸のポケットから煙草を取り出し、その残り少ないうちの一本を細く長い指で挟んで口に咥えると、火を点けることもせずにそのまま咥え続けて、頬杖をついたままの顔を窓の方へと向ける。


そしてそのまま、窓の外を見続けてくれた。


その間に、私は一通り泣いたのだ。


オーナーとはそんな風に、完全に意表を突かれた出逢いをした。


人って。


こうも簡単に、他人を救い出せるのか。


そう思った。


この人はたったこれだけのことで、私が落ちてもがき苦しんでいた深く暗い穴の中から、まるで芥川龍之介の蜘蛛の糸のように、するすると私を這い上がらせた。


結局、カンダタは堕ちてしまったけれど、私はあっけないほど簡単に、そのまま明るい世界へと登っていった。


そして今。

こうして、ここに居るのだ。


そんな私の胸に中にしまってある、大切な面接の時のことを、何かの拍子でオーナーに話したことがある。


「あはは、いやあ本当に似ていると思っただけだったんだけど、なあ」


オーナーは、頭に手をやりながら、不思議そうに首をひねった。


「でもねえ、まいまいは罪人ではないし、俺はお釈迦さまでもねえから。まいまいが救われたと思ったのなら、それはおまえ自身が救ったんじゃねえ? 糸を一生懸命登ってきたのは、おまえだろ?」


そして、私の前髪をそっとかきあげた。


「おまえは自分の評価を、人任せにしているようだがな。そういうもんは、自分で判断し、確認してから、精査するもんだ。自分の価値ってのはな、自分が決めるもんだろ」


そう言って、彼はまた煙草を一本、咥えた。


こんな飄々としたオーナーの元で、私は徐々に落ち着きと前向きさを取り戻していったのだ。


そして、こんなオーナーであるから、雇われている他の従業員も。


それぞれが自分のペースで生きているし、だからこそ他人のペースの邪魔もせず、他人の歩調も自分の歩調もどちらをも狂わせずに生きていく、そんな人達だ。


日がな一日、のんびりと生きる。


こんな世界があるなんて。


暗くて陰鬱、絡みにくいし、合わないし、合わせにくい。

私の評価は、すぐには変わらない。


けれど、以前と同じような乱暴さで、同じ言葉を言われても。


以前と同じように感じて耐えていた、傷口に棒を突っ込まれるような痛みは、二度とはやってこなかった。


今、私には私が自分で手に入れた、居場所があるから。


✳︎✳︎✳︎


「え‼︎ 引越し? って、移転? はあ?」


ちぐらのバイトの一人である神谷かみや君が、いつもの声を出す。


毎回、突拍子のないオーナーの発言に、神谷君は。

毎回、こんな風に同じ反応を見せて、オーナーを喜ばせる。


「いいねえ。まじ、いい‼︎ 神谷の、この驚いた顔‼ ︎絵に描いたような驚きっていうか……ああ、ギネスとか文化遺産とかに、ぜひとも登録されて欲しい。ね、まいまいもそう思うよなあ」


私に同意を求めてくる。

これもオーナーの日常。


「そうですね、でもその顔で何か偉業を成し遂げてからでないと登録は無理ですね。ピアスをあと……、100個くらい足したら、ギネスならいけるかもしれません。で、一体どこへ移転するんですか」


「出たっ‼︎ 今度はまいまいのクールビューティー‼︎ あ、いや、イマドキはツンデレって言うんだっけか?」


両手を合わせて、パチっと叩く。


「…………」


私と神谷君の沈黙に耐えかねたオーナーが、慌てて続ける。


「……あ、でね、金石町の山際の方に、ちょうど良い物件見つけちゃってさあ。あれあれ、今流行りの古民家ってやつ。それがあ、すっげ良いんだよ〜。味があるっていうのかなあ。まあ、ぶっちゃけ田舎ってことだけど」


頭の中に地図を拡げ、場所や距離を確認する。

うん、自転車で通えます。


「でねえ、引越し手伝ってくんない? お金、あんまなくって引越し屋をさあ、頼めそうもなくってさ。メシ、奢るから」


「うっわ、俺ぜってー重いもん担当じゃないですか。ほら見て、まいまいのこの細腕、非力だし。みやさんも何か使えなそーだし」


神谷君が私の腕を持ち上げて、ぶらぶらさせる。


そして宮さんとは、うちの店のシェフ兼パティシエ、いや、料理長だ。


私は腕をされるがままにしておいて、神谷君を見上げて言う。


「私、箸より重い物は、持てません。無理です」


無理、で思い出した。


初めてこの神谷君を紹介された時。


耳にたくさんのピアス、茶髪を少し伸ばして、後ろで女物のバレッタで留めていた彼。


速攻で「チャラくて無理」って思ってしまった。


けれど、余りにもオーナーが私と神谷君二人を引き合わせた時に、ワクワク感丸出しで紹介するもんだから、私は初対面の挨拶とかとんでもなく苦手だったけれど、何とか声を絞り出したんだっけ。


「ま、舞って言います。よろしく……お願いしま、す」


神谷君は、笑って、


「うん、俺、神谷。よろしくね。あと、俺ゲイだから、なんか無理って思うことあったら、遠慮なく言ってね」


私は驚いて、そして笑ってしまった。


だって、チャラい男無理って思ってたから、そっちか‼︎ ってなって。

自分で突っ込み入れちゃった。


「ごめん、そっちは良いんだけど、チャラいのが無理、です」


神谷君は大笑いして、私の頭をグリグリと手で押さえると、


「じゃ、まいまいの前では、チャラ男封印して、大人しくすっかあ。あ、まいまいで良いよね」


私はこくりと頷いた。


オーナーも笑っている。


ここは、暖かい場所なんだ。

私はようやく見つけた。


涙がにじむのを、笑い過ぎのせいにしてから、この日。


私は、喫茶ちぐらの一員となった。


「そんなわけで、今度の日曜、集合な~。助っ人も呼んどくから。そいつ、ちょっと変わりもんだけど」


変わり者のオーナーが言う変わり者とは?


「じゃあ、金曜から店閉めちゃうから、もう来なくていいぞ」


「はあ〜⁇ 明日じゃねえか」


一呼吸先に、宮さんの呆れた声が、カウンターの奥から聞こえてきた。


✳︎✳︎✳︎


道なき道を進むって言うと、一体それはどんな所だってことになっちゃうけど、新しいお店はどっぷり深い森の中にある一軒の古民家を改装したものだった。


半分はカフェスペース、半分は調理場と遊び場。


「ちょ、オーナー、遊び場て‼︎ この畳の部屋で、トランプとかウノとか、やっちゃっていーんすか? って、俺、寝るかも」


神谷君が、嬉しいのか、楽しいのか、この一風変わった間取りに戸惑ってるのか、微妙な表情を浮かべながら、重たそうな段ボール箱を持ってうろうろする。


タオルをハチマキのように巻いて、いやその巻き方ちゃうやろ、だっせーなと、宮さんに突っ込まれていたオーナーが、持っていた荷物をどんと床に置く。


「おうおう、昼寝ねえ、いいんじゃね。でも、神谷に縁側で横になられちゃ、邪魔になっかもな。おまえ、無駄にでけぇし」


そう、和室に沿って庭の見える縁側があって、庭というより、そのまま森の中に入って行方不明とかになってしまうような、この大自然に満ちあふれた環境。


どこをどっからどう見渡しても、森、森、森、畑、森。


そしてこの、ちんまりとした畑では、宮さんがお店で出す食材を育てる……らしい。


「縁側には、猫が似合いますよねえ。ちょうど、僕の事務所に美人の猫が一匹居候しているんで、今度連れてきてあげましょう。ミケって言うんですけど、可愛いですよ~」


この丸い眼鏡がすごく良く似合っている男の人は、引越しの助っ人としてオーナーが連れてきた、ちょっと不思議な人、矢島さんだ。


「眠り屋」という事務所を持ち、オーナー曰く「夢」を扱う探偵(?)のような仕事をしているらしい。


矢島さんの仕事の内容を説明されても、いまいちよくわからず、それは神谷君も同じだったようで、初期の段階では不審人物としてリストアップされていた。


けれど、どうやらオーナーとは旧知の仲らしい。

さっきから軽口の叩き合い、ばかりしている。


「そうなると、本当に猫ちぐらだな。喫茶ちぐら改め、喫茶猫ちぐら。どうよ?」


なぜか、ドヤ顔のオーナー。


「でもここだと、森の中に入り込んじゃって、出てこられなくなりそうですね。可哀想ですが、アケミマートで、ミケ用に首輪を購入しなければなりません」


「あそこ、何でも売ってっからなあ。ふつーに首輪も置いてそうだな。でも生きとし生けるものはさあ、こういう大自然が良いんだよ、本当はさ。猫も然りってね。好き好んで、コンクリートジャングルでなあ……」


話が一向に終わらない。

もちろん、荷ほどきも進まない。


「そこのお二方、もう少し真面目にやっていただけると助かるんですが」


私が深いため息とともにそう声を掛けると、眠り屋の矢島さんは、すぐにシャキッとなって、ちゃんとやってますからね、とアピールしてくる。


「いいですねえ、ツンデレ。うちのミケにも習わせたい」


「でしょ~、まいまいのツンは癖になるでしょ」


「デレの部分も、拝見したいものです」


神谷君が最後の大きな段ボール箱を運び終え、その箱をがばっと豪快に開ける。


たくさんのミサンガに占領されている彼の両方の手首が、見事にそのスナップを効かせて、旧ちぐらから持ってきた座布団を、出しては放り投げ、出しては放り投げる。


そんな神谷君が、私が二人にツンツン言われて言葉をなくしているのを見兼ねて、声をかけてくれる。


「ちょっとまいまい、こういうのって法律で処罰とかできねーの? セクハラとか、パワハラとか、そういうのでさあ」


大学では、法学部の授業も休まず受けて、ちゃんと単位も順調に取っているんだけど、法律についてはいまだ、ちんぷんかんぷん。

けれど、ここはきちんと言わねば。


「私が弁護士か、検事になったあかつきには、ちゃんと何の罪に当たるかを、事前に書面で、ご連絡しますね」


「え」

「え」


二人同時の反応が笑える。


「矢島あ、ツンデレは禁止用語にしよう」


「同感ですね。けれど、ミケはちゃんと連れてきますよ」


「お、ミケのツンデレが見られるってことだな……あ、と、禁止用語言っちゃった」


「あはは、言ったそばから。馬鹿としか言いようがないですね」


オーナーと矢島さん、無限ループ突入。


私と神谷君は目を合わせると、お互いに苦笑してから、段ボール箱を一つ一つ開けていった。


✳︎✳︎✳︎


そんなこんなで、ドタバタの引っ越しから一週間ほど経った頃、喫茶ちぐらはNewオープンした。


以前からの常連さんが、旧ちぐらよりも遠出になってしまうにもかかわらず、意外にもほとんどの人が足を運び続けてくれたのもある。


けれど、畳のスペースで囲碁や将棋を楽しんでいる人達の間では、口コミで広まったりして、何だかんだ言ってもなかなかの繁盛ぶりとなった。


そして、新たに増えたこの縁側は、子どもを遊ばせるママ友の場となり、少し暇な時は神谷君の昼寝や私の勉強の場所にもなっていった。


休憩時間にこの縁側で。

宮さんが淹れたコーヒーを飲む。


私はここを愛してる。

ここで、私は生きている。


例え全世界の人々が私に生きるな、と言ったとしても、私はここでなら自分らしく生き続けられるだろう。


「自分は自分だし、他人は他人だしなあ」


私が落ち込んだ時、訥々(とつとつ)とオーナーが話してくれる。


「そうそう、それでな、自分の生き方も他人の生き方も、どちらも肯定するんだ。そうするとさ、見えるんだよ。自分やその人がどっちの方向を向いて歩いてんのか。気がつくんだ、それぞれが違う方向、向いて歩いてることに。だからなあ、進む道が交差して邪魔されたりぶつかったりして、イライラしたりしちまうんだ。でもな……」


オーナーがひざに乗ったミケを撫でながら、続ける。


「それでも、それはそんでいいんだよ、そのままを享受しなきゃ。無理に自分の向かっている方向を変えようとしたり、他人にそれを強要したりしなくていいんだ。同じ方向へと歩く人を見つければ、そんでいい。その時、その人と手を繋げたら、それが一番最高にハッピーってことで」


くわえた煙草を上下にふりふりと動かし、結局、火はつけずに元の箱に戻す。


私はオーナーの言ったことの意味を頭の中で反芻はんすうし、噛み砕いて粉々にしてから、一粒一粒を順番に拾って理解する。


鳥の声や、羽ばたきの音。

木ノ実が、幹にあたって、落ちていく音。


この人の癖である、この煙草に火をつけない理由をいつか、訊いてみたい。


私が以前、歩く方向を見失って立ち止まったり、倒されてそのまま動けなくなったりしていたこと、いつか話してみたい。


「ありがとう、ございます」


私の口からするりと出た言葉。

どうして、その言葉だったのか、今なら分かる。


「え、何、何? あ、俺、何か良さげなこと、言っちまったか」


なんだか得意げな顔のオーナーが、ちょっとウザい。


「……はあ」


私は、生返事を返した。

そう、ここではいちいち返事も気にしなくて良い。


こう言ったら機嫌を損ねるかなとか、変なこと言って無視されるかなとか、私の返事なんて聞いてないんじゃないか、とか。


気にしなくてもいいんだよ。

そんなこと、どうでもいいことなんだよ。


その根底には、信頼関係。

それがあるからこそ、こういう生返事も許される。


そんな世界があることを、私はここ喫茶ちぐらに来て、初めて知ったのだ。


私はオーナーから、ミケを取り上げると、ミケの鼻に私の鼻を近づけて、キスのようにする。


ほんのりと香る、ミルクの匂い。

さっき宮さんが牛乳、あげてたっけ。


「可愛いだろ」


「はい、可愛いです」


「そうだよ、可愛いんだよ」


オーナーは、森の奥をぼんやりと見つめながら、煙草をもう一度、くわえた。


✳︎✳︎✳︎


「映画、撮るぞ~」


またもや、よくわからない行動に、唐突にやる気を出してしまったオーナーを前にして、皆んながキョトンと視線をそれぞれに合わせた。


「今度は何っすか? 今、映画って聞こえたんですけど」


呆れ口調で、神谷君が言う。


そして、


「え、映画? ……は⁉︎」


文化遺産登録の、顔。


「うーん、何かさあ、映画監督がこのちぐらがどうやら気に入っちゃったみたいでさ。この前の定休日に下見で来たんだけど、ロケ地っていうの、使わせてくれって。で、いいよ~ってなって」


「まじでか。しかし、オーナー、いいよ~じゃ、ねえっすよ。まったく、この人はあ……それで、どんな映画なんですか」


「ほら最近、地元が好きみたいな映画あるじゃん。そんな感じだって。金石町を舞台に繰り広げられるハートウォーミングなやつよ」


「へぇ~、そんなの作るんっすね。まあ、ちぐらが出るのは楽しみですけど、俺らには関係ねえなあ。あ、撮影の見学はできますよね?」


相変わらずののっぺり感で、オーナーは煙草を口元でふりふりしている。


「んー、まあ、できんじゃねえ? 監督はあれだ、藤堂雅史とうどうまさふみっての」


「え」


珍しく宮さんが反応した。


「宮さん、知ってるんですか? 俺、知らねえや。まいまいは知ってる?」


私は、顔を振った。


映画はあまり見ない、特に邦画は苦手。

映画を二時間ずっと見られる人って、素晴らしく尊敬する。


「知ってるべよ。藤堂雅史って『終わりに、告ぐ』作った人っしょ。あんま有名人は使わねえって。何か、素人さんをオーディションとかやって、探してくるんだと。それがまた絶妙な人を拾ってくるもんだから、キャスティングが神がかってんだってさ。って、映画新報に載ってた。何とかっつー、外国の賞も取ってるべよ」


宮さん詳しいんですね、と私が言うと、ちぐらの雑誌置き場から一冊雑誌を取り出して、ふりふりと振ってから寄越す。


「映画新報」と堅い文字で書かれ、演技派で名高い女優が斜めにポーズをつけた表紙。


「その号じゃねえけどな」


ページを開こうとした私をずっこけさせる。


私はそっと雑誌を本棚へと戻した。


この雑誌置き場には、色々のジャンルの雑誌が所狭しと並んでいる。


ちぐらの従業員が自分が読み終わった雑誌を十人十色に置いていくもんだから、古いが新しいが関係なく、お客のニーズに答えてるのかなんてもっと関係ないね、という体で並んでいる。


本当にここは、何が何でもとにかく頑固に、自由人の集まりなのである。


メニューも宮さんが勝手に変更したり。


新しい料理を提案する時も、まかないで出して私たちの反応をこっそり覗き見てから、次の日にはもうメニューに手書きで付け足したりしている。


お客さんが注文して初めて知る新メニュー。


心臓に悪いんで止めて下さいと、私が何度言っても、ついぞ直らなかった。


ほら、カウンターの裏で、そうやって悪戯心いたずらごころ丸出しでニヤニヤするの、止めてもらえませんかねえ。


「……いつから撮影なんですか?」


私は皆んなが聞きたがっているであろうことを、率先して問うた。


「ああ、撮影は定休日にしてもらったから、今度の水曜日からだな。じゃ、9時集合で」


私は見たことも聞いたこともない映画監督がやる映画の撮影を、ここちぐらを舞台にするというだけの理由で、少し楽しみに思った。


心の中にぽつりと湧く、今日のこの喜び。


私は、そんな誰にでもあるような感情を私の中に見つけては拾って集め、そしてそういう行為を繰り返しては、今の今まで生きながらえてきたような気がしていた。


何となくだが、こういう感情をいちいち拾い集めることで、人間らしい私に近づける気がして。


生きているという実感を、手に入れられるという気がして。


そんなことを、このちぐらに来てから考えるようになった。


✳︎✳︎✳︎


そして、その時はやって来た。


映画監督、藤堂雅史。


そうやって、雑誌にも載るような有名な人だから、どんなに偉ぶってる人なのかと想像していたのだが。


宮さんにその名前を聞いたからといって、私は映画新報の他の号を漁ったりしなかったし、ネットでその名を検索したりもしなかった。


だから、どんな面立ちをしているのか、どういう人柄なのか、先入観はまるで皆無だった。


監督は、こげ茶の綿パンに軽い素材の襟つきのシャツを着て、やって来た。


足元は草履。


髪はウェーブがかかり、くるくるとしていたが、それなりにまとまってはいる。


全体的にゆるいが、可愛らしい人だ。

第一印象はそうだった。


そして、なぜか手には花束。


誰かに貰ったのかな、何だっけ、あの花は確か……。


私は神谷君の陰に隠れるようにして、その気鋭の若手監督を見つめていた。


目が合う。


そして。


息が止まりそうになった。


目の覚めるような、オレンジ色に染められた花束を、私の前に掲げるから。


どうしてなのか、どうしたらいいかも分からずに、私は神谷君の背中に隠れるようにして、顔をうずめた。


「君の、彼氏?」


小さな声で。


そっと肩越しに覗いてみる。


彼は、なぜか悲しそうな顔をしていた。

今にも泣きそうな、泣き出しそうな子どものように。


「付き合ってるの?」


私に訊いているのだろうか。

神谷君が後ろを振り返るようにして、そっと声を掛ける。


「まいまい、訊かれてるよ」


私が顔を振ると、神谷君が前を向いておずおずと言う。


「あの、俺。この子の彼氏とかじゃない、です」


藤堂さんはすぐに、ほっと息をつくと、応えた。

優しい、柔らかい声色。


「そっか、良かった。なら、そこから出てきてくれないかな。そんなにこの人にくっついたりしてると、僕はずっとやきもちを……焼いていなければならないから……」


私は何が何だか分からない頭を抱えたまま、呆然としていた。


だって、こんな人知らない。


けれど、彼はお構いなしに、私の腕を引っ張り、そして花束を抱き締めさせた。


「やっぱり似合う、舞ちゃん」


名前を呼ばれて。

花の名前を思い出す。

突然に。


ラナンキュラス。


この目の覚めるような鮮やかなオレンジ。


温かみのあるこの色に惹かれて仕方がないのです、と彼は言っていた。

君に似合うね、とも。


誰がそう言っていたのだろう。

私の脳裏の隅っこに存在する影。


誰だったのだろう、思い出せそうで思い出せない。


私が自分には持て余してしまうほどのラナンキュラスの花束を、どうしたら良いのか考えあぐねていると、神谷君がそっと囁いた。


「貰っといたら」


見上げると、神谷君がにこりと微笑む。

そしてその目線の続きで藤堂さんの方を見、そして言う。


「どうして、私のことを、」


知っているのですか、そう訊きたかった。


けれど、彼が余りに悲しそうな目で私を見つめ続けるので、続きの言葉を呑み込んでしまった。


「ありがとう、ございます」


そう言って俯き、花束を再度、抱え直した。


✳︎✳︎✳︎


そして、映画の撮影は始まった。


オーディションで拾ってきたという、いかにも素人っぽい男女が私の目の前で演技を続ける。


最初は、文化祭で発表される、高校生の演劇を観ているようだった。


私がそう感じる度に、というわけではないだろうけど、同じようなタイミングで二人の役者に、藤堂さんからの演技指導が入る。


演技について、何度も話し合ったりするものだから、その度に撮影は中断を余儀なくされた。


けれど、その二人の演技。


藤堂さんの指導が入るたび、その演技に繊細さと大胆さが相容れない形で宿り始め、そして撮影が終わる頃には。


まるで、中堅の俳優のそれであるような力強さと輝きで満ち溢れた。


今回の映画は、ネットで配信されるショートムービーではあったけれど、主役の二人の揺れ動く心情を限りなく繊細に表現した、素晴らしいものになったに違いない。


この演技に映像や音声、音楽やシナリオなどの調整や処理を施していくと、どんな仕上がりになるのだろう。


楽しみだね、そう小さな声で耳打ちする神谷君に目で、こくんと合図する。


私は花束を貰ってからは、カルガモのヒナのように神谷君の背中について回っていた。


再度、藤堂さんに声をかけられようものなら、どうやって応えて良いか分からなかったから。


けれど、それから藤堂さんからは声をかけられることはなかった。

撮影に没頭している、そんな印象があった。


彼が行う演技指導は、それが始まると途端に熱を帯び、身振り手振りがとても大袈裟になる。


「出たな、藤堂メソッド」


長い間連れ添っているであろう、スタッフの一人が呟く。


「今日は神がかるのがいつもより遅かったよな。何か、気掛かりなことでもあったんかな」


もう一人が答える。


私はそんなやりとりをぼんやりと遠くに聞きながら、撮影の間中、頭の中を占めていたラナンキュラスの花束について、何とか思い出そうとしていた。


この人は私を知っている。


そう、私もこの人に会ったことがある。

晴れた日。

バス停のベンチ。


ラナンキュラスのオレンジ色に輝く花びらを一枚千切り、親指と人さし指で摘んで目の前に持ってくる。


そして、その奥に見える遠い記憶に、目を凝らしていった。


✳︎✳︎✳︎


「まいまい、舞ちゃん」


神谷君の声で、我に返る。


整然と並べられた大皿に、品良く盛られた宮さんの料理を前にして、私は箸を握り締めていた。


声のした方に顔を上げる。

神谷君が心配そうに見つめてくる。


「どうしたの、食べない? 気分でも悪い?」


そうだ、無事に撮影が終わった後の打ち上げである食事会に突入していたんだった。

豪華な料理は用意できねえけど、と宮さんが言ってたっけ。


「ううん、ぼうっとしてただけ。ごめん、食べる」


そう言うと、目の前の小皿を取る。


「そう、何が食べたい? 俺、取ってあげるよ。野菜が良い、それともお肉?」


「あ、うん、お肉かな」


「貸して、ほらこぼすなよ」


その時、がたんっと大きな音がして、誰かが立ち上がった。


見上げると、そこには二三人挟んで隣に座っていた藤堂さん。


皆んなが彼を一斉に見る。


その前に陣取っていたオーナーも、彼を見上げていた。


「……舞ちゃん、ちょっと良い?」


藤堂さんがつかつかと寄って来て、机に乗せて箸を握っていた私の右手の肘をぐいっと掴むと、その勢いのまま立ち上がらせる。


顔は……私を見てなかった。


「ちょ、何すんですか」


神谷君が私の腕を掴んでいる藤堂さんの手に手をかけようとする。

それをふいっと避けると、


「すみませんが、この子ちょっとお借りします」


そう言って、私をぐいっと引っ張った。


皆んなが呆気に取られている。


そんな中、ぐるりと喫茶スペースを回り込んで、和室の縁側を通って、庭へと連れていかれた。


引っ張られる腕が、痛いような痛くないような。

私の足には余りある、誰かのクロックスが、ジャリジャリと引きずられる音をさせる。


そして、森が。

ざわり、と大きく揺らいだのを感じた。


「あんまり、仲良くしないでください」


藤堂さんは私を見ずに、冷たさをはらむ声で言った。


「あの人が好きなんですか、舞ちゃん、それとも他に好きな人がいるんですか。特別な人がいるんですか、あの人は特別なんですか」


責められるように矢継ぎ早に質問され、それに答える間もなく、また質問を繰り返す。


そして、最後にぽつりと言った。


「……僕のこと、憶えていませんか?」


冷たさを含んでいたのにいつの間にか、その冷たさは哀しみに変わっていた。


今にも震え出しそうな、そんな弱々しい声で。


私は掴まれた腕をだらんと垂らしたまま、空を見上げた。


昼間の晴れた空とはうって変わって、この吸い込まれそうな漆黒の星空。


辛うじて月の明かりが、ぼうっと二人を照らしている。


声の相手に向き直る。


月明かりだけでは、表情は見えなかった。

けれど、声と掴まれている指の感覚で分かる。


あなたは今、とても辛そうな顔をしている。


私は腕を離そうと、そっと彼の手に指を絡ませた。


その手がびくりと動く。


「ごめん、痛かった、ね。乱暴だった、こんな風にするつもりじゃなかった。花束を渡して話をしたかっただけなんだ。お互い笑って話ができればそれでいいって……思ってたのに。考えもしなかった、恋人がいるなんて。だから、君があの人とずっと一緒に、仲良さそうに……話しているのを見ると……悪かったよ、僕は君の恋人でも、」


一瞬の、無言。


「恋人でも何でも、ないのに」


そして、申し訳なさそうに言った。


「ごめん」


「ううん、いいんです。私が、悪いから。忘れていた、私が悪いんです」


彼がはっとして顔を上げたのが分かる。


真っ暗なほとんど暗闇である中での、仕草や息遣い。


感覚が研ぎ澄まされて鋭敏になる。

身体のどこもかしこも、敏感になっている。


こんな感覚の中では、一つでも間違えると、その傷で容易に深手を負ってしまうから。


暗闇の中での宝探しのように、私は手を伸ばして慎重に探っていく。


「思い出し、た?」


「うん、思い出した」


私が小さく震える。


「……良かった」


ほうっ、と安堵の吐息。


「……良かった。あの時、僕は君に助けられたんだ。だからずっと、君を探していたし、君を大切に想ってきた。……探していたんだよ」


バス停のベンチで座る二人。


少し距離をあけて。


あれは、私が中学生の時。

バスで通っていた、ピアノ教室。


時間待ちの時、あなたに逢った。


あなたは疲れ果てて、ぼろぼろだったね。

そして、私の横で静かに泣き始めた。


「ありがとう、探してくれていたんですね」


涙を拭いもせず、ただただ涙を流し続けるあなたに、そっとハンカチを差し出した。

あなたは涙で溢れる瞳を私に向けて、口元だけで笑ったね。


「有名になれば、君が見つけてくれるかもしれないって。けれど、失敗だった。君は映画を見ない人、だったんだね」


バスが何台も止まってはドアを閉め、そして通り過ぎていく。


あなたはその時、手に抱えきれないほどの、オレンジのラナンキュラスを抱えていたね。


空は碧く晴れていたのに、橙色の花びらの上にポタポタと落ちた涙の粒が、まるで雨粒のようだった。


「オーナーに聞いたんですね。ごめんなさい、私、じっと座ってるの苦手で。映画館とか、暗い場所も苦手で」


あなたは、私が差し出したハンカチを使わなかった。

ずっと握り締めていた。


「でも君はあの時、ずっと僕の隣に座っていてくれた。途中、スイッと立ち上がるから、もう去ってしまうんだって思ってたら。君は戻ってきて、どうぞって缶のお汁粉しるこを」


「マイブーム、だったから」


「ふふ、何でお汁粉、って思って」


彼は受け取って、泣き続けながら飲んでくれた。

そして言った。


『ありがとう、甘くて美味しい。ねえ、君、僕の恋人になってくれませんか』


そして私が言った。


いいですよ、と。


幼い恋の記憶。


泣き通しだったあなたの横顔ばかりを見て、自分では気がつかないうちに、私は恋をしていたのだ。


私は、その時中学生。

本当に本当に、幼くて。


連絡先も知らない人に、どうやったらもう一度会えるのだろうと、必死になって考えた。


けれど、結局良い考えは思い浮かばず、自分の幼さに愕然がくぜんとするしかなくて。


初恋は心の奥深くに封印して、そのまま諦めてしまった。


「もう一度、もし逢えたら、また言おうって心に決めてて。舞ちゃん、僕の恋人になってください。君が好きなんです。あの時から、ずっと」


封印されていた、あの頃の幼い恋。


ラナンキュラスが、その扉の鍵となってくれた。


薄暗がりで、私には見えなかったけれど、彼が笑ったような気がして。

私も同じように笑って。


そして言った。


うん、いいですよ、って。


✳︎✳︎✳︎


「……ほんと、すごい偶然って、あるんですねえ」


丸眼鏡をくいっと上げて、「眠り屋」矢島さんは、感心したようにほうっと息を吐く。


実は、今回の映画撮影には矢島さんが深く関わっていたのだ。


もともと矢島さんとオーナーは旧知の仲だった。

そのオーナーが藤堂さんとは同級生で、高校時代の友人だったらしい。


「知り合いってこと、早く言ってくれよ。知ってたら気軽にサインとか貰えたじゃない」


そう宮さんに責められたオーナーはのらりくらりと返事をかわす。


「だって、誰も訊かなかったじゃん」


オーナーはくわえていた煙草をいつものように箱にしまうと、胸ポケットに押し込んだ。


「禁煙、続いてますねえ」


矢島さんがニヤニヤと笑う。


相変わらずマイペースなこの人。


そんな矢島さんのもとへ、スルスルと人をよけながらミケが擦り寄っていき、なーと甘えた声を出す。


「いやあ、火着けたらそこで試合終了だからなあ。ただの禁煙とはいえ、どんな勝負も負けたくないんで」


珍しくオーナーの強気な発言。


「でもなあ、今回は負けを認めざるを得ないかなあ。くっそ矢島あ、お前余計なことしやがって」


「これは運命ですからね。誰しも、運命に逆らうことはできないものですよ」


何の話だろうと、紅茶の入ったマグを両手でぐるりと持つ。

ふわっと香るロイヤルミルクティーの優しさ。


そこへ、藤堂さんが会話に入ってきて、ますます話が見えなくなった。


「僕が、矢島さんに夢を見る依頼をしなければ、こんなことにはならなかっただろうけど。でも斎藤さいとうには悪いが、舞ちゃんは絶対に譲らないからな」


オーナーは、斎藤っていう名前だったんだ。


「それって、どういう……」


すると、矢島さんがミケを抱き上げて、愛おしそうに撫でながら言う。


「夢の依頼ってことで、斎藤君に藤堂さんを紹介されたのが始まりでしたね。僕はですね、まあ信じられないかもしれませんが、他人の夢の中に入ることができるんです。それで夢に関する仕事をしているんですけど、藤堂さんがご自分が見る夢の内容を映画にしたいとおっしゃって」


矢島さんが、ひざの上でミケをひっくり返して、おなかを撫でる。


「僕が、彼の夢の中に入ってですね。その内容を記録するということになったんです。まあ、言ってみれば、夢の文字起こしって感じですかねえ」


「そうなんだよ。夢ってさ、朝起きるとぼんやり覚えてはいるんだけど、時間が経つと忘れちゃうだろ。だから、起きたらすぐにメモを取っていたんだけど、矢島さんにはそのメモに、僕が忘れていたこととかを、付け加えて貰ったりしてたんだ」


「じゃあ、今回の映画って」


「そう、僕の夢の話でもある」


そんなことが、可能なんだろうか。

不思議に思っていると矢島さんが言った。


「そしたら、舞ちゃん、あなたが出てきたんです。髪型は違うし、今よりもっと幼いような感じだったけど、絶対に舞ちゃんだって思って。よくよく訊いてみると、藤堂君の初恋の相手だっていうじゃないですか。それで、今でも探してるっていうから。名前も一緒だし、喫茶ちぐらにいるよって話したら、すぐに斎藤君に電話して、ね」


「おうおう、すっ飛んで来たぜー。今日は定休日だって言う前に電話切りやがって。ま、お前うちの店来たことねぇし、映画に使って貰えたら良い宣伝にもなるしって、下衆な下心もあったしなー。まあ、まいまいのツンデレを奪われたのは、聞いてねえしって感じで、まじ想定外だったけど」


「ツンデレは禁止用語ですよ」


「お、いけね。でも藤堂、お前まいまいのツンは俺たちが大切に育ててきたんだからな。まいまい泣かせたりしたら、出禁にすんぞ」


「分かってるよ、やっと見つけたんだ。大切にする」


そして、オーナーはポケットから煙草の箱を出すと一本くわえて、今度はライターで火をつけた。


「そう言えば、オーナーはどうして煙草に火……」


「だって可愛い女の子の前でなあ。パカパカ吸うの、できないっしょ」


そして、オーナーはすーっと深く煙草を吸い込むと、それから一気に吐き出して、美味いと言わんばかりに目を細めた。


✳︎✳︎✳︎


「……あの頃の僕は、本当にぼろぼろだったんだよ」


藤堂さんは苦笑し、うつむいたまま、話し続けた。


「低予算で製作した自主映画が、海外の名のある賞を取ってしまってから、僕は映画界から爪弾つまはじきにあってさ。スタッフも離れていって、誰も僕を必要としてくれなかった。どこへ行っても嫌味言われたしね。邪魔者扱いされて、散々だったよ」


惨めだった、と歪めた顔で言う。


「好きでこの世界に入ったのに、映画のことを考えるのも嫌になっちゃって。どん底だった。あの時、僕は生きてる気がしなかった。それを舞ちゃんに助けて貰ったんだ」


藤堂さんと二人、縁側に座り、しんと沁みるような夜空を見上げていた。


「私、助けるだなんて。一緒に座ってただけですよ」


「ううん、色々な話をしてくれたね。気が紛れたんだよ、すごく」


「そう言えば、ラナンキュラスの話もしましたね。藤堂さん、大好きな花だって」


「うん、したね、好きだって言った気がする。そう言えば舞ちゃん、お汁粉を渡してくれる時。そん時に言ってくれた言葉って、覚えてる?」


私は、記憶をひっくり返してみたけど、お汁粉を握り締めて自販機からダッシュしたことしか思い出せなかった。


あの時、早くこの人を暖めてあげなきゃって、必死だったから。


「君、こう言ったんだ。ジャニーズの前田君に似ていますねって」


私は驚いて、声も出せなかった。私がオーナーに言われて救われた言葉と同じような。


「僕はそんな風に言われたことがなかったから、似てないよって言ったけど、君は似てるって。それにジャニーズってだけで、何だか気持ちも少し嬉しくなって浮かれてしまって。そんなイケメンに似てるだなんてね。それから、もしかして前田君が君の好みの人なのかなとか、ファンなのかなとかって考えたら、もっと嬉しくなっちゃって」


藤堂さんは、宮さんが淹れた紅茶を美味しそうに啜った。


「そんな単純なことで嬉しくなってしまってね。今まで抱えてきた問題なんて、実は些細なことなのかもなって。そう思えてきて、気持ちが軽くなったんだ。うん、君がそう思わせてくれたんだ」


「あの、ラナンキュラスは?」


藤堂さんがうつむいて、恥ずかしそうにしながら頭を掻く。


「映画がねえ、国内でも賞を取っちゃって。その授賞式の時に貰ったやつなんだ。授賞式でもさ、裏で散々イヤミを言われて、我慢できずに会場を飛び出して。ふらふらしてたから、あのバス停のベンチね。舞ちゃんが帰ってしまって、我に返ってみたら、ここどこだよってなって、困った」


はにかんで笑う顔が、やっぱりどこか似ている。


「そうだったんだ、きっとこの人、彼女にでも振られたんだろうなって思ってた。でも、ぴったりだったんですね、ラナンキュラスの花言葉は名声とか名誉、だから」


恋をした中学生の私は、家に帰ってからすぐにラナンキュラスの花言葉を調べたから、覚えている。


「ううん、もう一つあるんだよ。晴れやかな魅力っていうんだって。矢島さんの知り合いの花屋さんに教えて貰ったんだ。それこそ、君にぴったりだ」


「そんなの、」


私じゃないよって言いかけて、止めた。


ちぐらのオーナーに、そして皆んなに出会わなければ、きっと否定に否定しまくって、自分を傷つけていただろう。


自分自身を。この自分の手で。


「ありがとう、ございます」


「君に……逢いたかった。もう一度逢いたかったんだよ、心から」


あの時、私はピアノ教室に来ないという先生からの連絡を受けた母に見つかり、怒られながら引きずられるようにして家に帰るまで、この人の隣に座り続けていた。


そして別れ際、君の名前はと訊かれ、舞、と答えた。


君に似合うから、とラナンキュラスの花束をくれた人。


「あの、神谷って子。すごくかっこいいし、ジャニーズの前田君にちょっと似ている気がして、君と彼を見た時から気が気じゃなかった。それで、舞ちゃんの彼氏かもって思ったら、頭ん中パニックになっちゃって。仲が……仲がすごく良さそうだったから、余計に。随分と失礼な態度をとってしまった。彼にも謝らないと」


私がふふっと笑うと、藤堂さんも笑って手を伸ばす。

伸ばした先に、私がいる。


私は以前、オーナーと話した蜘蛛の糸のことを思い出していた。


盲目の中、夢中ですがったのは、希望という糸だったのだろうか。


手繰って手繰って、ようやく這い上がったゴールは、それは例えようのないほどの、美しい光景だった。


この世界のどこかで、誰もが自分じゃない誰かに救われている。


けれど、誰しもその糸は、自分の腕一本で登っているのだ。


一生懸命に。

あるだけの力を振り絞って。


それが自信となり、あるいは糧となり、そしてそれは巡り巡って、また違う誰かへの一助となる。


私は今、手繰り寄せているこの弱々しく千切れそうに細い糸を、けれど皆んなが一緒になって紡いでくれたこの糸から、決して手を離さないようにと、心に誓った。


そして、この喫茶ちぐらを改めて、心から愛おしいと想った。

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