三章 時間
眠気からくるあくびを何度も噛み殺しながら、僕はその日「平穏」と表しても過言ではないぬるい時間を、過ごしていた。
ここ数日、依頼もなく、よって仕事もない。
「何だろうね、このヒマな季節は」
秋の初めは特に「眠り屋」の仕事の依頼が、極端に少なくなる。
もともと、築百年以上は経っているだろう古ぼけたビルの一室に、事務所を構えてからは、通りに面した窓の外側に「眠り屋」の看板をひっそりと掲げているだけだ。
そんなわけで、その看板に書かれた「眠り屋」という職業を、不審に思う人からの問い合わせの電話は何件かは入るのだけど、そのほとんどは僕の説明に納得したのかできなかったのかよく分からない状態でそのまま受話器を置いてしまうし、アポなしで来るのはおおむね飛び入りの客だがそれもまばらで、ここ半年ほどは、顧客の数はそう伸びてはいなかった。
「秋の夜長とか何とかいって、皆んなこぞって本を読むんですよね。あぁ、ヒマです、ふあぁ」
僕が言いながらまたあくびをすると、部屋の奥からバタンと冷蔵庫の扉を乱暴に閉める音が響いた。
「ちょっと、先生……。そんな風にのんびりしてるから、お客さんが来ないんですよ。先月の収入、いくらだったか知ってますよね。しっかりしてくださいよ‼︎ こんなんじゃ、いつになったら新しいヤカンを買ってもらえるんだか。もうすぐ穴開きますよ、これ」
七緒くんは、いつも子どもには似つかわしくない冷静さで僕を口でやっつけようとする。
僕はボサボサのままにしているくせ毛の頭をぐるぐるとかき混ぜると、はいはい、と生返事を返した。
「七緒くんは何かにつけて、お金お金って、語ってきますよねえ」
「当たり前じゃないですか‼︎ 助手としての在るべき姿ですよ‼︎」
一息ついて続ける。
気のせいだろうか、表情が少し硬くなったような気がした。
「……先生が言ったんですよ、弟子は無理だけど、助手ならいいって。その時点で僕は先生の助手という立派な地位を得ているわけです。けれど、僕が来てからは仕事らしい仕事は一件もないし、そうなるとこれはもう当たり前のことですが僕の出番ってやつもない訳ですよ。やっているのは、こんな、雑用ばかりで……」
「分った分った、分ったってば」
そう、このどこからどう見ても小学生の七緒くんは、見かけと変わらず、11歳(自己申告)の生意気盛りの男の子だった。
とにかく口が達者で、僕はいつも、やれ仕事がないだのお金がないだの、小言を聞かされている。
二週間ほど前のどんよりと曇った薄暗い日の昼、彼は突然、僕の事務所に現れた。
僕はその時、今まで自分の人生にこれっぽっちの接点などありはしない「小学生」というカテゴリに属する子が、一体どうして僕の事務所にと、不思議でたまらなかった。
紅潮した顔。そして、彼は言った。
「僕を先生の弟子にしてください!」
魔法使いの弟子とか、仙人の弟子とか、そりゃ格好良いけれども。
もちろん、最初は優しくだが断りを入れ、ドアを閉めた。
けれど、その扉が閉まるすん前に、ころころとした顔つきの幼い表情が、くしゃりとゆがんだ。
目に飛び込んできたのだ。
そう、不覚にも、僕は可哀想にと思ってしまったのだ。
そして一分後、良心の呵責に耐えかねた僕はドアを開けた、と。
まあ、そういうことである。
学校帰りの二時間だけの約束で、来客のお茶出しから、コピー取りや帳簿をつけ、買い物行って、簡単なご飯を作って……あれ、結構働いてくれてるな。
そう、だから頭が上がらない。
ご両親に了解をもらうことと、非情ではあるが無給という約束で、助手にすることを了承した手前。
こうるさいから、などの理由でいまさら追い出すことはできない。
「まあ、最初の約束では給料なしということですから、その点は諦めてるけど。でも先生は大丈夫なんですか? お金、ないと困りますよ」
「まあ、そうだねえ。そういう話になっちゃうよね」
「そうですよ、うちだってお金ないから、両親共働きなんですから」
小学五年生が、見知らぬ怪しげな場所に入り浸っていて、親は心配しないんだろうか。
そう言うと一度だけ、七緒くんの母親だという女性が、挨拶に来た。
わがままな子で言ってもきかなくて、ご迷惑をお掛けして申し訳ありません、と困り果てた様子で手渡された洋菓子。
丸い形の濃紺の箱に行儀よく詰められたフロランタン。
それを見た時、ぎくりとした。
僕の妻となるはずだった女性が大好きだった、珈琲によく合う甘い甘いお菓子。
アーモンドの香りが良いのよと、本当に美味しそうに、頬張っていたっけ。
僕は、埋もれて忘れていた記憶を突然に掘り起こされ多少驚きはしたが、少し苦笑してからちょうだいします、と受け取った。
フロランタンに気を取られていたためか、七緒くんのお母さんの印象は薄い。
はっきりと覚えているのは、まあ七緒くんのお母さんなら美人に違いない、そう思っていたのが当たっていた、ということだけだった。
「あの美人のお母さんもお仕事していらっしゃるのですね。何をされてるんですか」
七緒くんは、くるりと背を向けると、キッチンへと入っていった。
「さあね、僕は知りません」
珍しく歯切れの悪い返事に、僕はそのまま言葉を続けようとした。
けれど、一度キッチンへ入った七緒くんは再度こちらへと向かってきながら、一枚の紙をひらひらとさせながら持ってくる。
「先生もちゃんと働いてくださいね。僕、こんなチラシを作ってみたので、家に帰る時に近所のポストに配ってみます」
僕の前に、タダーンと掲げられたA4の紙には、
『眠り屋 夢に関するあらゆるご事情、ぜひご相談下さい』
と、ある。
もちろん手書きで書かれているので、とうてい商業チラシには見えないし、どうひいき目に見ても、完全に子どものイタズラ的内容だ。
このイラストは、僕、かな?
はいはい、ではよろしくお願いしますね、とていねいに頭を下げてお願いすると、僕は七緒くんのランドセルの背を押して、帰宅を促した。
七緒くんは玄関先で、まだ何か言い足りないというような表情をしていたが、何を言っても生返事しか返さない僕をいちべつすると、ついには諦めて帰っていった。
「ふう、」
息を吐いて、リビングに戻り、ソファに座る。
何となく、身体中にいつもより疲れを感じる。
七緒くんに言われるまでもなく、僕の手元の生活費は、枯渇していた。
けれど、実は(これは七緒くんには内緒であるが)蓄えは十分過ぎるほど、銀行の貸金庫に眠っている。
それは、この事務所が入っている古ぼけたビルの持ち主でもあった、亡くなった祖父の遺産でもあり、以前夢によって苦しめられていた名のある老人を助けて謝礼だと差し出された大金でもあり(いや、それはお断りした時点で寄付金という名目に変わったのだが)、とにかくありがたいことに僕はお金に困窮するということがなかった。
「けれど、男たるもの生活費くらいは仕事の報酬だけで、やり繰りしたいものです。そうですよね、リエコさん」
僕はキッチンに入り、お茶の準備をし始めた。
僕は、まだ残っているフロランタンを、冷蔵庫より取り出した。
藤色の皿にのせて、カウンターの椅子に少し斜めになって座る。
そして仕事のお礼で頂いた手作りの、翠の釉薬が控えめに流しつけてあるマグカップに入れたコーヒーとを、並べて置いた。
「リエコさん、」
その名を呼ぶと、何を言いたいのか、何を言っていいのか、まるで分からなくなる。
彼女に愛されたこの洋菓子を前にし、僕は探るように記憶だけを呼び覚ましていた。
✳︎✳︎✳︎
花のような人だった。
大口を開けて笑う顔は、太陽を一身に浴びて凛々しく立つ向日葵のようであり、怒って口をとんがらせている表情は菫のように可憐だった。
あまり表に出しはしなかったけれど、僕は心底、心底、彼女に惚れていた。
彼女もまたそうであったと思いたい。
けれど、それを確認する術はもうないのだ。
彼女は生まれつき心臓に欠陥があって、一緒に手を繋いで走ることも、喜びや嬉しさで踊り回ることもできなかった。
僕は物静かな彼女の隣を歩く時、いつもゆっくりなその歩調に合わせたりしていた。
けれど、そんな心臓の弱い彼女が、ある日突然に子どもが欲しいと言い出した。
医者は、身体が妊娠や出産に耐えられないだろうからと反対し、僕はリエコさんと医者の、その両者の間で右往左往を繰り返していた。
もちろん完全に医者寄りだった僕を毎日のように説得してみせた。
何度も言い合いになったけれど、最後には花のように笑ってみせる彼女が愛しくて眩しくて。
目が眩んでしまった。
不覚にも僕は、了承してしまったのだ。
それから僕と彼女との、薄氷の上を歩くような、命綱をつけずに綱渡りをするような、そんな毎日が始まった。
そして、足元の氷は呆気なく砕け散り、僕たちは深い深い奈落の底へと落ちていった。
僕らが一緒に渡ろうと選んだ、二人の橋。
あっという間に音を立てて崩れ去ってしまった時、僕は愛する人だけではなく、これから愛を注ぎ込むであろう存在も同時に失った。
そう、僕の愛しい人は、至福の存在をお腹の中に大事に抱えたまま、眠るように、眠るように、一緒に逝ってしまったのだ。
人生の選択を間違えた。
いや、生きること自体を間違えてしまった。
愛しい存在を失った瞬間、同じように自分の心臓もその動きを止めるだろうと思っていた頃の、自分。
悲しみのどん底で、どれだけもがき苦しんでも、どれだけ後悔の念に深く深く沈められても、空腹を感じ、喉の渇きを感じ、眠気を感じて、僕の生は繰り返される。
そして今も生き続けているのだ。
今も尚、生きることを間違え続けている。
あれだけ、愛したのに。
全身全霊を傾けて、愛したのに。
どうして、リエコさんと、そして僕とリエコさんの赤ん坊の後を、追いかけていけないのだろう。
追いかけても追いつけないことを、知ってしまっているからだろうか。
僕は冷めてしまったコーヒーを一口含むと、視線をずらして食べかけのフロランタンを見た。
そして席を立ち、その皿にラップを掛けると冷蔵庫にかたりと音をさせて、大切に仕舞い込んだ。
✳︎✳︎✳︎
「先生、大変ですよ!先生のファンの方が……痛っ」
バタンと勢いよく開けすぎて、壁にバウンドして戻ってきたドアに足先をぶつけた七緒くんが、痛ててなどと言いながら、バタバタと入ってくる。
その両腕には、溢れんばかりの白いカラーの束。
七緒くんは、僕が話しかけようとするのをお構いなしに、弾丸のごとくに喋り始めた。
走ってきたのだろう、荒々しい息を落ち着かせるヒマもないようだ。
「はあはあ、それが今日、僕、学校の掃除当番の時ゴミ捨て係りだったんですけど、はぁ、転んでゴミをぶちまけちゃって。で、それ見てた先生が片付けるのを手伝ってくれたんですけど、手伝った代わりに職員室にプリント取りに来いって、それも三クラス分。はあはあ、あ、それ学費を何に使ったかっていう詳しい報告のやつ、あるでしょ、それですよ。重たいのに、プラス学級日誌もあって……」
「……七緒くん」
「はあはあ。そんなこんなで帰りが遅くなっちゃったんだけど、やっと学校終わったと思ったら、途中で今度はおばあさんに道聞かれちゃって。アケミマートに行きたいって、はあはあ」
言葉の合間に息継ぎを絶妙なタイミングで入れながら、そして僕の問いかけも絶妙なタイミングでスルーしながら、七緒くんはしゃべり続けている。
アケミマートとは、僕が七緒くんに教えてあげた唯一のスーパーで、必要なものはほとんど手に入ってしまう、ちょっと不思議な店だ。
以前、とても長くて大きなピンセットを見つけた。
ピンセットとは、小さいものをつかむためのもである。
疑問に思って、以前より懇意にしている若い店長に、その使い道を訊くと、なるほど納得の回答を得たのだ。
「これはボトルシップを作るときに使うんっすよ」
大きな横にした透明なガラス瓶の中に、帆船の模型が入っているあれだ。
狭いボトルの口から、どうやってあんなに大きな模型を入れるのだろうと思っていたけれど、この長いピンセットを使って中で組み立てるのか、そう納得して家路に着いたことがあった。
アケミマートに行くと、へぇ、と思うような物から、何でこれ売ってるの? というような不可思議な物、日用品、生鮮食品まで何でも揃っているので、店を転々と渡り歩けない、ぶしょうな僕にはとても重宝する店だ。
「で、道を説明しても全然通じないもんだから、一緒に連れていってあげたんですよ。そんで遅くなっちゃったから、慌ててここに走ってきたら……」
「……走ってきたら?」
「…………」
「ら?」
軽く促す。
七緒くんは、少しだけ言い渋っていた。
「そしたら……その、玄関の前に女の人が立ってて……あの、先生に渡してくださいって、これ……」
さっきの勢いはどこにいったのか、七緒くんがおずおずと花束を差し出してくる。
それは真っ白なカラーが数本、品のよい水色のリボンで束ねられている、清楚な花束だった。
余計な飾りは何もなく、お店のロゴの入ったシールなどもついていない。
受け取ると、何故だかずっしりと重みを感じたような気がした。
実は七緒くんがそれを持って入ってきた瞬間から、僕の中には暗い雲が広がり始めていた。
そう、これも、この花も彼女が好きだったもの。
生前よく花屋で、こんな純白のカラーを一本ずつではあるけれど買ってきては、花瓶に挿し窓辺に飾っていた。
僕がまだ、この事務所を手に入れてなく、二人で小さなアパートを借りて一緒に住んでいた頃のことだ。
「……お名前を伺ってありますか?」
「いえ、それがすぐに帰ってしまって。名前、訊けなくて……すみません」
七緒くんが、しょぼんとうなだれる。
そんな怒られた仔犬のように、と僕は苦笑し、
「良いです、良いんですよ。気にしないでくださいね」
気にしないでと言ってはみたものの、漠然とした何か違和感のようなものを感じていて、それが小さく口をついて出た。
「最近、」
けれど、そこで言葉を切る。
言葉を切って、怪訝に思う。
こんなに彼女を思い出させられることは、ここ最近では、そうはなかったのに。
黙り込んでしまった僕に向かって、七緒くんが話し掛けてくる。
「先生にもファンの方がいるんですね。すみに置けないなあ」
そう言いながらにこりと笑いキッチンに入ると、ガチャガチャとヤカンを鳴らしながら、お茶を淹れる準備をし始めた。
そして僕はもう一度、花束に目を移す。
また僕は、リエコさんを思い出すのだろうか。
またフロランタンを食料棚から引っ張り出して、リエコさんとの思い出に浸るのだろうか。
僕は何も考えないようにしばらく目を閉じ、キッチンから湯が沸くたびに、ピーと鳴るヤカンの音を、探りながら待った。
シューシューという湯の沸騰する音が聞こえてくる。
ヤカンは果たして、いつまで経っても笛を吹かなかった。
このヤカンは、そんなヤカンだったか?
疑問の念を抱えつつ、もう一度、カラーの花束を見る。
けれど、その時はすでに、その笛を吹かないヤカンも、この白いカラーの花束も、取るに足らないことだと思えていた。
僕は、僕の中に生まれた疑問の芽を押し込んでしまうと、花束のリボンを解いて、机の上に置いた。
そして、この事務所にある唯一の花瓶を、棚から取り出して洗面所に向かい、レトロな形をした蛇口をひねって水を流し入れた。
そしてそうしている間も、ヤカンの笛の音は、聞こえてこなかった。
✳︎✳︎✳︎
そうだ、この違和感は、もしかして。
ここ数日、僕は歯と歯の間に引っ掛かったゴマやキウイの粒などがなかなか取れない、というような、ささいなことではあるが、あちらこちらに散らばる小さな違和感を、ずっと感じながら過ごしていた。
そして、僕は唐突に気がついたのだ。
「七緒くん」
七緒くんがノートに買い物の記録をつけている時、僕はその時点でかなりの確信を持って声を掛けていた。
「七緒くん、君……」
僕の、普段とは違った強い呼び掛けに、七緒くんは何ですか、と返事はしたものの、かたくなにこちらを振り向かずにいる。
「顔を見せてもらえませんか」
彼はしばらくの間、レシートとノートとを頑固に見続けて動かずにいた。
が、ついに僕の方へと振り向いた。
回転椅子が、ギッと音を立てて回る。
そう、よくよく考えれば分かるはずだった。
七緒くんの、彼の顔が覚えられない、という事実。
毎日のように学校帰りにこの事務所にやって来て、毎日のように顔を見ているはずの彼の顔が、僕の頭の中に存在し続けないという事実。
僕は七緒くんがランドセルを背負って帰ってしまうと、七緒くんが果たしてどんな顔だったのか、足先から頭のてっぺんまでも、漠然とした輪郭としてしか思い出せないのを、不思議に思っていた。
そして、何かにつけ、リエコさんが思い出されるという事実。
この記憶の曖昧さと違和感に、覚えがあるような気がしてならなかった。
けれど、そんな芽生えた小さな疑問も、夜に眠り、朝目覚めれば、すっかり修正され、忘れ去られていることにも気づく。
ここで僕はようやく気がついたのだ。
「あなたは、夢魔ですね」
覚えがあったのだ。
過去に一度、仕事の都合上、夢魔に頼んで依頼者の亡き夫になりすましてもらったことがある。
その後、その夢魔とはウインウインの関係となり、時々仕事の手伝いをしてもらうようになったのだが、頼みごとをするのはまれで、今までに依頼者や依頼者の関係者にりすましてもらうことなどは、そうそうなかった。
けれど。
そう、夢魔は誰にでもなれるのだ。
誰にでも、なり代わることができるのだ。
『やっと気づいた』
そう言うと、七緒くんに扮した夢魔は、七緒くんの姿のまま、じっと僕を見て言った。
七緒くんの顔が、さらにぼんやりとしてきて、その輪郭をぼかし始める。
『これは、この世界は、あなたの夢です』
「どうして、こんなことを……?」
『私は、あなたに思い出して欲しかった。リエコのことを。そして彼女と、あなたの赤ん坊はもう亡くなっているという事実を。ちゃんと受け入れて欲しかった』
ここに居る夢魔は、いつも仕事を手伝ってくれる知り合いの夢魔ではない。
僕は初対面であるはずの夢魔を前にして、その夢魔が発した言葉に対し、反発の気持ちがずくずくと湧いてくるのを感じた。
そしてその気持ちが口をついて出る。
「僕は、ちゃんと受け入れています」
『けれど、あなたは毎日のように思い出している』
「そんなことはありません、最近は思い出さない日もあるぐらいで……」
『……あなたの仕事が、きっかけになっているようです』
「そんなことはありませんっ‼︎」
あまりの怒りに、我を忘れそうになる。
『……あなたは自分が夢を見ていないと思っていますが、覚えていないだけで、実際は毎日、同じ夢を見ているのです。リエコと赤ん坊と、あなたの三人で幸せに過ごしている夢を。それは三人で食卓を囲むイメージだったり、公園のブランコで遊んでいるイメージだったりしますが……』
信じられないという気持ちと怒りで、次には言葉が出なかった。
『そう、あなたは自分の夢の中で、それはそれは自分勝手に、家族との幸せな時間を創り上げている。そんな自分の願望で飾り尽くしたニセ物の夢を、あなたは毎日のように見ているのです』
「う、嘘だ……僕は夢を見ない、はずだ」
今まで夢など一欠片も覚えていたことなどない。
夢の途中で、はっと目覚めることもなかった。
『哀しいことにあなたは、朝起きた時に完全に忘れるように、そう、リセットしてしまうように、自分で自分に暗示をかけているのです。目覚ましをかけるように。それも無意識に』
それは、事実とは反する想像の世界でしかないけれど、家族三人で過ごす幸せな世界にひたっていたい、けれどその世界が本物でないなら忘れもしたい、というあなたの矛盾した潜在意識がそうさせているのです、そう夢魔は言った。
僕は、僕が少なからず夢を見ている、という事実に驚いていたとはいえ、そういった夢魔の言葉には、どうしても反発しか生まれなかった。
これは、怒りだ。
なぜ、夢魔とはいえ他人なんかに、そんなことを言われなければならないのか、と。
『私はまず、その潜在意識を変えてみようと試みました。ですが、あなたの心の底にまでは手が届かなかった。だから、リエコを思い出し現実を受け入れるようにしようと思いました。少しづつ夢をすり替えて、いくつかキーワードになりそうな要素を入れ、あなた自身が気づきニセ物の夢を創ることをやめてもらおうと。現実を受け止めれば、きっと朝リセットすることをやめ、自分がしていることを理解できるのでは、と……』
今、僕の頭の中を開けて見ることができたなら、どろどろでぐちゃぐちゃだ。
僕は、夢魔の言葉を遮って言った。
「どんな夢を見ようとも、そんなの僕の勝手じゃないですか。あなたには……あなたには、関係のないことじゃないかっ‼︎」
投げつけるように、言い放った。
たかぶった気持ちをおさえ切れずに。
いや、怒りに震える気持ち、か。
夢魔が姿を変えられるなら、なぜリエコさんを選んでくれなかったのか。
七緒くんなどではなく、リエコさんの姿となって僕の前に現れてくれたら良かったのに。
僕はリエコさんに、逢いたかったんだ‼︎
自分でも支離滅裂な訳のわからない怒りが湧いてきて、僕は真っ黒になった。
このままもっと真っ黒になって、僕という存在を闇にでも葬り去ってくれたなら、尚のこと良かった。
七緒という姿を借りた夢魔は、僕の所在の知れない身勝手な怒りにも動ずることなく、僕をじっと見つめていた。
そして、唐突に去っていった。
突然の「無」。
僕の頭はぐるぐると渦を巻き始め、どうやらこのまま夢から覚醒するらしいことを悟った。
そして、ようやく眠りから目覚めた。
ぼうっと、かすみが掛かったような重い頭と、ぐずぐずとした真っ黒な心での覚醒。
どうやら今回は夢を見たという事実、そして夢の内容、そのほとんどを覚えている。
「夢を見る」という行為は、そしてそれを認識し記憶するという行為は、実はかなりの重労働なのだと、依頼者になりかわってみて、初めて知った。
長い長い夢の内容を一つ残らず脳に押し込まれたからか、ひどい頭痛がある。
カレンダー付きの時計を確認すると、僕は丸一日、深く眠り込んでいたようだった。
気がつくと、頭痛に加えて激しい空腹感も湧いてくる。
言うことをきいてくれない身体を無理やり動かして、まずは温かいスープを流し込んで生気を取り戻し、買ってはあったもののずっと使わずにそのままに期限が切れていた頭痛薬を二錠飲む。
長い間眠っていてなかなか取れない疲労感は当分の間はついて回り、夢魔によって染め上げられた真っ黒な心のまま、僕はそれより三日の時を過ごしたのだった。
✳︎✳︎✳︎
放り投げて飛び散ってしまった心を少しずつかき集めながら、僕は平静を取り戻しつつ、そうして黒く染め上げられた心を手放していった。
そう、リエコさんが逝ってしまった時も、こんな風に生き続けていたっけ。
細く浅く息をして、見つからないようにと何かから隠れるように。
息をひそめて。
ぼんやりとした面持ちで過ごしたこの一週間、この現実世界では、もちろん夢魔によって創り出された七緒くんは現れず、部屋の中央に置いたカラーを生けたはずの花瓶も、その姿を消していた。
家具なども最小限しか置かれていないシンプルな部屋は、相変わらず見慣れた元のままの部屋に過ぎない。
けれど、夢の中の現実があまりにリアル過ぎて、僕は錯覚に近いものすら覚えていた。
七緒くんが淹れるお茶専用になりつつあった笛を吹くヤカン、七緒くんがノートをつける時に使っていた2Bの鉛筆、七緒くんがアケミマートへ行く時に持参するキリン模様のマイバック。
何だろう、これが愛着というものだろうか。
「僕が見る初めての夢。いや、僕が覚えてる初めての夢、か」
リエコさんを、無理に忘れようとしていたわけではなかった。
ただ思い出す頻度をおえていこうとは思っていた。
そう、毎日のように思い出にどっぷりと浸るのは、僕の身と心とが保たないと、分かったから。
その甲斐あってか、ここ何年かは、思い出すこともあまりなかったように思う。
仕事によって気が紛れていたという理由もあっただろうけど、それはやはり、夜中に幸せな家族三人の夢を創り上げて見ることによって、足りていない心の隙間の部分を補っていた、そう考えるのが妥当だろう。
「それならそれで、結果オーライじゃないですか。それなのに、なぜ今頃……」
ただ、時々思う。
七緒くんが受け取った、あの真っ白のカラーの花束を持ってきたという女性は、リエコさんだったのだろうか。
どうして夢魔は、七緒くんという人格を選んで現れたのだろうか。
どうして、どうして……。
疑問が浮かんでは消えていく。
「ああ、まるで夢魔に乗せられてしまっています。そんなの、ただの創り話でしかない。それも僕が見たというより、夢魔が創ったニセ物の夢ですから」
自分に言い聞かせて落ち着くようにと、胸の辺りを手でそっと押さえる。
そして、昼食にしようとして食パンの耳とキュウリを切っただけで放ったらかしにしてあったサンドイッチの材料に手を伸ばして、それを重ねていった。
✳︎✳︎✳︎
それから朝晩になると少し肌寒くなり、秋という季節を身近に感じる日を三日ほど過ごしたある日のこと、僕は夢の中にいた。
それは仕事の依頼主の夢ではなく、僕一個人の夢の中であった。
あれから僕は結局、夢魔によって僕自身が見せられた夢に対して、こんこんと湧き上がってくる疑問を、ついに一つとして僕の頭から追い出すことができず、散々考えあぐねた末ようやく、再度夢魔に接触を試みることを決意した。
いくつか訊きたいこと、それによってかき乱されるであろう心の平穏について、覚悟のような、多少の心づもりをつけると、僕は秋の花の代表であるコスモスの白い花びらを使って、自らの夢へと向かっていった。
刻、刻、刻、刻……
自分の夢に入るという初めての試みではあったが、この方法で入れば間違いなく夢魔に逢える。
向こうにその意思があるなら、ではあるが。
いち、にい、さん、しい……
そして自分の夢の中へと入り込んだ僕は目の前の光景を見て、愕然とする。
夢魔が言っていた通りの光景。
僕とリエコさん、そして……
「七緒くん、」
楽しそうに皆、笑っている。
親子、三人で仲良く手を繋ぎながら。
生まれるはずだった子どもを、僕は七緒くんのイメージで創り上げていたのか。
夢魔が創ったものだと思い込んでいた。
そう、紛れもなく、僕自身の創造による、「七緒」だったのだ。
そしてここにある、何という幸福感。
酔いしれるような感覚の極致。
僕はこんなことを、毎晩のように、繰り返し創り上げていたとは。
そして、この至福に満ちた光景を、目覚めると同時に忘れ去ってしまうように、自らインプットしていたとは。
『あなたの中にある罪悪感が、これを創っているのです』
隠れるようにこの光景を見ていた僕の背中に、小さく声がかかった。
僕は、そっと振り向いた。
夢魔は、今回は七緒くんの姿ではなく、耳の垂れた茶色の犬の姿だった。
僕は、この犬の顔形に覚えがあった。
✳︎✳︎✳︎
リエコさんと初めて会った日、それまでの梅雨の長雨が続いていたのが突然に終わりを告げ、太陽がここぞとばかりに世界中を照らしていたあの日。
リエコさんがうっかりそのリードを離してしまい、僕に向かって突進してきて、ぐるぐると回り始めたナナと呼ばれたビーグル犬。
ごめんなさい、とパステルカラーのスカートをひらひらとさせながら、散らばる髪を耳元で押さえながら、慌てて走ってくる姿。
地を這うリードをつかもうとして、なかなかつかめなくて。
僕達は一緒になって、ぐるぐると回ったりぶつかったり、座り込んで笑いあったりした。
余りに愛らしいその笑顔に、僕は一目で恋をした。
「ナナ、今度はナナを選んでくれたのですね、ありがとう」
ナナを連れていこうとする彼女を慌てて引き止めて、僕の連絡先を押しつけて。
名前と電話番号だけでなく、住所まで書いてあるメモを見て、君は少しだけ瞳を揺らして笑ったんだ。
『リエコにあなたのことを頼まれたのです』
夢魔がその鼻先を上げたまま、話し始めた。
『あの日、心臓に違和感を覚えて死期を悟った時、私は彼女の夢の中に誘い込まれて彼女に会ったのです。彼女は自分の中にある、あなたとの思い出を私に託すと同時に、こう言いました。彼はきっと絶望して自分を責める。だから、彼が生きていけるように、どうか手助けをしてあげてください、と』
君からの連絡を毎日そわそわしながら待ち、一週間経っても連絡がなく諦めかけていた時。
君から手紙が来て、僕は天にも昇る気持ちで待ち合わせの場所へと走っていった。
君が連絡手段としては簡易な電話でなく、多少の手間がかかる手紙という方法を選んでくれたことが、なぜかとても嬉しくて嬉しくて。
待ち合わせで君に会って、すぐにプロポーズをして、君をとても驚かせた。
夢魔がナナに変えた顔をこちらに向ける。
『時間がなかった。だからこそのシンプルな願いだった。でもリエコと私は初対面だったし、最初私は願いを叶える義理などない、そう思いました。けれど彼女が息絶えて、私は彼女の夢から追い出されると、また新たな夢へと吸い込まれました』
涙が頬を伝っていった。
『そして、そこで私は約束を交わしたのです。リエコのお腹の中でぐっすりと眠っていた、あなたの息子と』
僕の身体がビクッと揺れる。
『赤ん坊は夢を見ながら眠っていました。けれど、その夢は完全なる無。当たり前ですが、まだ赤ん坊はリエコのお腹の中から一歩も外に出たこともなく、この現実の世界の何一つも知らずに、ただ眠っているだけなのですから』
僕は、あふれた涙を拭わなかった。
突然プロポーズした僕をいぶかしむこともせず、リエコさんはじゃあ、まずはごはん食べましょうと言って、僕の腕を引っ張って、近くのカフェに連れていってくれた。
そしてサンドイッチを美味しそうに頬張ってから、やっと名前を教えてくれたんだ。
信じられないかも知れないけれど、僕はその時にはもう、君を深く深く愛してしまって。
君が照れながら作る料理はどんな味だろう、君がすやすやと僕の横で丸くなって眠る寝顔はどんなだろう、君から産まれる赤ちゃんはどれだけ可愛いだろう、どれだけ愛しい存在になるだろう。
『けれど、無であるはずのその赤ん坊の夢から伝わってきたのです。リエコがおなかをさすりながら赤ん坊に伝えていたメッセージ。そして、赤ん坊から伝わってきたメッセージ。二人でパパを幸せにしようって、二人でパパを大切にしようって、お互いに心を通わせ合っていました』
夢魔が、鼻先を振る。
『私は動かされ、約束をしました。あなたのことを見守ると、七緒に』
そうだった、主治医におなかの中の赤ん坊が、男の子と教えてもらった日に、名前は「七緒」にしようと決めたんだっけ。
ナナの「七」でもあり、
七つの命。
たくさんの命に囲まれて生きて欲しいと願って。
じゃあ、七つじゃなくて、百とか千とかいっぱいあった方がいいかなと、君は笑っていた。
忘れていたよ、名前の話は、その時に一度きりしか話せなかったから。
僕が涙を止めるまで、夢魔は何も言わず黙り込んで、じっと僕を見ていた。
僕が立っていられずに座り込んでからも、ずっと見つめていた。
『あなたは自分を痛め過ぎました。自分では気づいていなかったかも知れませんね、目覚めの時には全て忘れ去っていたから。でも、何度も繰り返し見る幸せな夢と現実の世界との間の大きなずれや矛盾によって、心の一部が最近になって壊死しかけていたのを見過ごせなかった。まるであなたは心をゴシゴシとこすり合わせるようにして、それによってそれは少しずつ削り取られていくかのようでした。二人との約束を守りたかった。あなた自身が自分で気が付いて何とかして欲しくて、あなたの夢をすり替えてみたのですが、』
夢魔は今はビーグル犬のそれである茶色の短い尻尾をピシリと腰にぶつけると、ぐるりと一周してから言った。
『あなたのお腹を、無駄に空かせてしまっただけでしたね』
夢魔はそう言って、またぐるりと一周してから、踵を返した。
けれど、もう分かっている。
僕が夢魔を介してもらった、二人からの充分過ぎる愛情。
嬉しかった、とても嬉しくて。
心の底から、喜びが溢れ満ちてくる。
嬉しかった、と。それしか、それだけしか言葉が出ないけれど。
僕は夢魔の背中に向かって、そう呟いた。
夢魔は一瞬動きを止め、それから振り返りもせずに、去っていった。
僕はその後ろ姿を見送ると、今一度、幸福な時間を続けている三人を見た。
家族の本当の愛情を知った今、三人の姿は薄らぼんやりとしてきて、はっきりしないものになっていた。
きっと僕は、こうやって幸福な夢を創り上げることに一生懸命になってしまい、またそれを忘却の彼方へ押しやることに一生懸命になり、本来見なければならないものから逃げることで、自分を少しずつ壊していたに違いない。
けれどこれからは、二人にもらった愛情がある。
この胸の中に大切に仕舞い込んだ。
だからもう、この夢は必要ない。
僕はゆらりと傾いていく世界からの覚醒を待ちながら、夢魔と、二人に礼を言ってから自分の夢を辞した。
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眠りから覚め、かすみのかかったような僕の頭がようやく覚めてくると、僕の頬を何度も涙が伝った感触があることに気がつく。
横たわっているベッドから片足が転げ落ちている感覚もあった。
僕はいつまでもそのまま横になってぼんやりとしていたが、陽が傾き始めたのを機にのっそりと身体を起こした。
すると、花びらが一枚、ひらりと床に落ちた。
僕ははっとしてそれを拾い上げ、手のひらに乗せてみる。
それは僕が近所の空き地で貰い受けた、白いコスモスの花びらであったはずなのに。
あなたの悲しみに寄り添う
手のひらにある青いリンドウの花びらを、僕は随分と長い間見続けていたが、しばらくすると、読みかけの状態でベッド脇のサイドテーブルに放ってあった本に挟み込み、そのままそっと閉じた。