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眠り屋  作者: 三千
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二章 手紙



風がびゅうと音を立てて僕の髪をかき混ぜていく。


こうして風が強く吹く日は、僕は決まって空を見上げ、雲が速く走っていくのをじっと見ている。

いつもそうしてしまう、というのは、強迫何とかとでも言うべきなのだろうか。


授業の出席日数がぎりぎり足りず、担任のお情けで高校を卒業した日も、興味も湧かない研究にただただ没頭するためだけに進んだ大学院での最終試験の日も、教授に勧められるままに就職した会社で取るに足らない仕事を早く終わらせ、アパートへと帰るいつもの日常でも。


風が強く吹く日はこうして、長い間空を見上げ、その行方をずっと見続けた。


風が思い出させるから。先生のことを。


そう、あの日も同じように空を見上げていた。


近づくことも許されなかった火葬場の、細長い煙突から一筋の灰色の煙が立ち上り、そのまま空の薄青と溶け合うさま。


強い風に煽られ、空へと散らばり、溶けて混じり合っていく、先生の姿を。


こんな日は僕は、先生がまだこの世に存在していた時に、眠り屋の主人によって僕の夢の中へと届けられた先生からの手紙を、思い出したりしているよ。


先生が一生懸命に書いてくれた、僕宛の唯一の手紙。


そして、僕が心を込めて書いた、先生への返事。


夢を通してのやり取りだったから、今となっては現実味などは全然なく、何だか薄らぼんやりとしたものになりつつあるけれど、お互いに手紙を交わした記憶として、お互いの心を交わらせた記憶として、僕は胸の内に大切に仕舞ってあるこの手紙を、頭の中で引っ張り出して読んだりしている。


「明日は、早起きしなきゃな」


呟くと、僕は目を閉じた。びゅうびゅうと風の鳴る音だけが耳に残った。


✳︎✳︎✳︎


先生、この手紙は眠り屋の人に言われて書いています。

僕が見る夢の中で、僕が先生にもらった手紙を読んでから、返事っていうか、思ったことや先生に伝えたいことを書いてくださいって言われてて。

何だか恥ずかしいな、こういうの。

僕も手紙なんてもの、初めて書くから。

先生からのラブレター[(って考えてもいいよな)]読んだよ。

嬉しかった、すげ、嬉しくって涙が出たよ。

ああ、先生も僕と同じ気持ちでいてくれたんだな、って。

天にも昇る気持ちって、こういうことなんだな。

嬉しくて、嬉し過ぎて、すごく浮かれてしまっているから、ちゃんとした手紙を書けるのか、ちょっと心配しているよ。

先生は僕の先生でも何でもなく、けれど初めて会った時、僕のことを櫻井さくらいさんのお坊ちゃんと呼んだから、僕もばあちゃんの先生だったあなたをそんな風に呼んだんだ。

先生の名前も知らなかったし、ばあちゃんがいつも「先生」としか話してなくて、今思えばさ、名前聞いときゃ良かったって。

だから覚えてるかな、僕が母さんと一緒に先生を初めて訪ねて行った日、母さんと話すあなたとの間に、割って入るようにして「先生」って初めて声を掛けた時のこと。

先生は僕を見て、少しだけ悲しそうな顔をした。

そう、身内を亡くしたばかりの僕を気の毒にと思ったのか、今となってはどんな表情だったのかぼんやりとした曖昧な記憶になってしまったけど、確か首を少しだけ傾けて悲しそうな顔をしたよね。

ねえ、信じられないけど、先生はもう直ぐ僕の手の届かない場所へ行ってしまう。

けれど、大丈夫だよ、すぐに僕は先生のそばへいく。

待っていてくれるよね。

そんなに長い時間は待たなくていいんだ、ほら、先生に初めて出逢った時も、次の日には逢いに行っただろ。

だから何の心配もしなくていい。すぐ、そばにいくから。


✳︎✳︎✳︎


「ちょっとお、遠矢とおや、降りてきてえ。これ、重いやつ手伝ってえ」


机に突っ伏してうとうととしていた僕は、母の呼び声で目を開けた。

よだれの垂れた漫画をティッシュで拭きながら、何の用だよ、と階下の母にも聞こえるように叫ぶ。


「いいからあっ‼︎ ちょっと、来てってば‼︎」


あー、寝てたわ、だりーなどとぶつぶつと独り言を言いながら、椅子を押しのけてふらふらとしながら立つ。


「早くしてよね、手伝ってくれないと終わんないのよ、ちょっと遠矢!」


かったりぃ、聞こえないよう小さく文句を言いながら、階段をのろのろと降りていく。

先日まで祖母が使っていた和室の引き戸に手を掛けると、ガタゴトと何かを片している音が部屋の中から聞こえてきた。


嫌な予感はしたけれど、寝起きの思考能力ゼロの頭では、何も考えられなかった。


そのまま部屋へと入る。

畳の匂いが、すっと鼻の奥へと滑り込んできた。

祖母の部屋はいつも和の匂いがする。生きていた時も、死んでしまった今でも。


「これ、この重いの、外の倉庫まで持ってって」


段ボールに詰められているであろう、祖母の遺品。


すでにガムテープで塞がれていたが、段ボール箱の横には「茶道 道具」と殴り書きがあった。

他にも華道、ボランティア、押し花などと書かれた箱が数箱あちらこちらに置いてある。

その段ボール箱の間を縫って、ぽつんぽつんとゴミ袋が数袋。


なるべく不要な物は処分しようとする母の意図が感じられた。


「運ぶくらいならいいでしょう、詰め込んだら重たくなっちゃったのよ」


責めるような口調で、母が段ボールをばしんと叩く。


片付けをぞんざいに断って、本屋へとマンガを買いに行ったのが気に入らなかったらしい。

僕はこれ以上の抵抗で「昼飯抜き」などの制裁が返ってくるのを恐れて、のろのろと段ボール箱に手を掛けた。


ずしりと手に重さが伝わってくる。


この重さは元気で活動的だった祖母の晩年を表した重さなのだろうかと、少しだけ感傷に浸る。

クロックスを足で探ってひっかけると、開けっ放しの玄関から倉庫へと運んだ。


「それ終わったら、梅園うめぞのさんで和菓子買ってきて。お茶菓子、三千円くらいで三つ、お店の人に見繕ってもらって。お釣りはお小遣いにしていいから」


「なんだよそれ、めんどくせえなあ」


お釣りってったってあんま残んねえじゃん、今消費税何パーか知ってんのか、あ、税込でって言やあいいのか、などと小声で呟いていると、


「ちょっと、昼ご飯作んないわよ、早く行ってきて。税抜きで三千円だからね」


頭が覚醒してくると、途中で中断を余儀なくされたマンガの続きが気になってきたのもあって、僕は母の手から一万円札をひったくると、スニーカーを足で回転させて勢いよく突っ込んだ。


✳︎✳︎✳︎


「おい、どうして俺が、」


言い掛けてすぐに遮られる。


「あんた、この前あったテストの結果、また出さなかったわね」


ああ、出たよ、おかんの説教。

心の中で毒づきながら、空いた方の手で頭を掻く。あ、髪何もしてねえ、くそっ。


「やっちゃんのお母さんに聞いたの。あんた、母親の情報網、なめんじゃないわよ」


これは新情報を出してきて、さらに攻めてくるパターンだな。

げんなりしつつも、僕はなるべくHPを消費しないように守りを固めた。といっても、聞き流すだけだが。


父親不在の中、実際のところ、母には頭が上がらない生活を送っている。

そんなわけで、僕は母に対して歯向かうなんて勢いは、持ち合わせていない。母ちゃん、あんたのことこれっぽっちもなめてねえっての。

心でガード。


「成績もだいたいはつかんでんのよ。のんちゃんが、教えてくれたっつーの」


「くっそ、あいつ調子に乗りやがって」


僕が買ってきた梅園のどら焼きを、母は足にぶつけてがさがさといわせながら、足早に道を突進していく。


その姿は僕が幼少の頃、病気で夫を突然に亡くし、その時点で方向転換を余儀なくされた母の人生そのものじゃないかと思わせるような、猪突猛進なそれだった。


高二の俺がついていけねえって、どんだけだよ。

少しだけ、ペースを上げる。


「あーあ、受験とか、どうすんだろうねえ。うちのバカ息子は」


独り言の域に入った母の言葉を心でかわしながら、重さで底が抜けないようにと二重に重ねた紙袋を右手に持ち直し、それでも持ち手が手にめり込むほどの重量を感じながら、枯れ葉がはらはらと舞い落ちる道を急ぎ歩いた。


✳︎✳︎✳︎


呼び鈴を押す母親の指先をぼんやりと視界に入れながら、そう立派でもない扉が開かれるのを待つ。

茶道の先生の家だと聞いていたから、道中すごい門構えや大きな屋敷を想像しながら歩いて来たのだが。


第一印象は、普通の家、ということ。


質素ではあるが和風で木造の家の造りを前に、普通の家だけどやっぱりこの古めかしさは日本の伝統文化を受け継いでいくには欠かせないアイテムだななどと思い巡らせながら、住人が出てくるのを待った。


誰も出てくる気配がない。

紙袋を持ち替える。


読みかけだったマンガの内容を思い出して、急いた気持ちを言葉にしようとした時、がらりとガラス戸が横に滑った。


扉に添えられた手が視界に入る。

それは白く、そしてとても美しかった。


その白さは僕の心の奥からずくずくと湧いてくる何か、この世界のものではないような、まるで信じられない気持ちを連れてきた。


それから、次の瞬間に僕は確信した。


この白く滑らかな手を、このガラス戸にからみつかせている、ほっそりとして弱々しい指を、永遠に愛することを。


それは、先生の手はすごく白いですね、と言って先生を何度も苦笑いさせた、僕の初めての恋だった。


「うちの母が大変お世話になりまして」


「櫻井さんがお亡くなりになって、本当に寂しいです。ご家族の皆さまも、お寂しくなりますね」


一通りの挨拶を終え、手土産をつまらないものですけどと言って渡し、事前に連絡していたのであろう、ばあちゃんが使っていた抹茶茶碗が入った紙袋を、母はぼけっとつっ立っている僕の手からひったくると、


「あんた、ご挨拶しなさい、これ重いですけど、大丈夫ですか。こんなお古を使っていただけるなんて、本当にありがたいです。おばあちゃんも喜びます」


ひじで僕の腕をどんと突いてから、先生へと手渡す。


挨拶ってったて、おい、何を言ったらいいんだよ。


そう、何を言えば近づけるのだろうか、この美しい人に。

何と言って声を掛ければ、僕を、これからずっと僕だけを見てくれるのだろうか。


誰か、教えてくれ。


僕は今、自分に襲いかかってきている、今までに感じたことのないような得体の知れない感情を前にして、ぐらぐらと揺れて震える自分を保つことでいっぱいいっぱいだった。


そう、僕の目が彼女を見、それが脳へと伝達されているだけのはずなのに、脳ではなく僕の心臓の部分に、実際は存在しない器のようなものに、どんどんと何かが溜まっていって、それが今にも溢れてしまってそのまま身体ごと溶けてしまうのではないかという感覚に、僕は耐えていた。


「ちょっと、遠矢」


どんと二度目の痛みを腕に感じる。

しかし、僕がまだ言い淀んでいると、その美しい人は線の細い低くも高くもない声で、話し掛けてきた。


「櫻井さんのお坊ちゃんのお話は、よくお聞きしておりました。とてもお優しいお孫さんだという風に」


言葉が途切れる。


彼女はほっと小さく息を吐いた。その息を吸い込んで僕の身体の中心に封じ込めたいという衝動。


「とてもお優しい方だと、聞いておりました」


身体が震える。何かを言いたいのに、唇は重く重く動かない。


「一緒に出かけるときには、おばあちゃん、そこは危ないよって、こんな皺々の手をつないでくれるのよと、とても嬉しそうに」


だめだ、溢れてしまいそうなくらいに湧き上がる感情。


「どんな方なのかとお会いしたいと思っておりました」


会いたかったと言われて跳ね上がる心臓。

今度は僕の意識とは無関係の場所で脈を打つ。


目の前で、母と彼女が寂しげな表情で何かを話している。

祖母の思い出話であろうことは容易に想像できていたはずだ。


けれど、その話し声すら耳には入ってこなかったし、頭にも入ってこなかった。


そしてついに僕の心臓の辺りにある器が溢れて一杯になり、何かが零れ始めたと同時に僕は言った。


「先生、僕も教室に通います」


何もかもが美しかった。


教室を辞した後の帰り道は、僕の突然の行動を訝しむ母の顔を、枯れて葉を散らしてしまった古木の姿を、出し忘れたのであろうポツンと寂しく置かれているゴミの袋を、何を見た後でも、世界の全てが美しかった。


全てが素晴らしかった。


僕が踏む、枯れ葉が散り散りに壊される音でさえ、心から美しいと思った。


✳︎✳︎✳︎


先生、あなたの顔を初めて見た時、僕は一目惚れってあるんだなあって単純に思った。

ああ、好きだなあって。

先生は僕の好みの顔だったんだね、多分。

いや、でもさ、一目惚れの瞬間って、本当に不思議なんだね。

僕の中に、先生はするりと入ってきたんだ。

で、僕がそれを受け入れた。

そんな感じだったような気がする。

母さんと話している時に、つい先生に話しかけてしまったのはそういう理由だったんだ。

先生という存在にやられちゃったんだよ。

もう先生しかいらないって、先生だけが欲しいって、思ったんだ。

で、どうしようかってなって考えて、あの言葉が出た。

僕が先生の教室に入ると言った時、母さんは僕に、何言ってんのってうろたえたように言った。

だから多分もうその時に、僕が先生のことを好きになってしまったことに気付いていたんだと思う。

だから、あんなにも教室に行くのを反対したんだ。

おっと、母さんの話なんか、まあいっか。

とにかく、誰に何をどう思われようがそんなことは僕にはどうでもよくて、もう先生に逢う理由はこれしかないって思ったし、それしか思いつかなかったから。

そういえば先生もなんだか少し驚いた顔をしていたね。

先生のあの顔、可愛かったな。

先生が首をかしげるたびに黒髪が揺れて。

僕は必死になって、あなたに近づくことだけを考えた。

その髪に、白い指先に。

どうやったら、近づけるんだろうって、そればかり。

あの日から、あなたに逢ったあの日から。

今もずっと、考えているよ。


✳︎✳︎✳︎


どれだけ母が行くなと言い続けても、僕は毎日のように先生の教室へと通った。


誰にだめだと言われようが、僕には先生が必要だった。


僕には父親がいないけれど、例え父親がいたとしても、息子にとって一番であろう存在の父親にどんなに反対されたとしても、僕は先生の教室へ行ったに違いない。


母にとって僕がひどく年の離れた先生に夢中なっていることは一目瞭然だったのだろう。


うまくいって結婚できたとしても、もう子どもを授かることはできないし、孫のお世話をすることが夢だったんだからと何度も同じことを言われて、僕はうんざりしていた。


そう言われて、先生はそんなに歳だったのかと改めて思ったこともあった。


けれど、最初僕を懐柔しようとしていた母は、何を言っても効き目がない僕に、先生の家へと向かうために玄関に座ってスニーカーの紐をしばっている僕の背中に向かって、今度は先生を汚く罵倒し始めた。


自分の立場もわきまえずに未成年を誘惑しただの、何だの。

そして、遂には先生の自宅にまで行って騒ぎ立てた。


僕は僕の気持ちの一つでさえ表明していないというのに、どうしてこんな意味のないバカげたことを、言われ続けないといけないのだろうかと思った。


けれど、きっと世に言う母親の勘というものは鋭いし、母が一人で生きてきたことで培われた人生に対するの嗅覚のようなもので、僕が自分にとって良くない方向へ向かっていると察知し、警戒したのだろうと思う。


僕は永遠に続くかと思われるような先生の悪口を、耳の中には入れないようにと、振り切るようにしてドアを乱暴に閉めた。


✳︎✳︎✳︎


教室に通い始めて、一ヶ月。


目の前で見る先生の点前は完璧なまでに洗練されている。

一つとして無駄な所作はなく、一つの流れる動きとして、教室の生徒の誰の目をも釘付けにしていた。


美しかった。


一度だけ、勇気を出して、先生の点前は美しいと言葉にしてみた。


けれど先生は何も答えてくれなかった。

困惑したような、ゆらりと揺れるような笑みを浮かべただけだった。


冗談だと取られただろうか、僕の本心なのに。


その時、僕は考えた。

これは先生にとっては、迷惑な恋なのだろうかと。

僕の存在自体が、迷惑なのだろうかと。


✳︎✳︎✳︎


なあ、先生。

先生の名前、何ていうんだろうな。

今まで生きてきた中で、これほど知らないことで後悔したこと、一度もないくらいだ。

さっきも言ったけど、名前聞いときゃ良かったって。

きっと名前もきれいなんだろうな、そうなんだろうな。

僕はすぐに櫻井さんの坊ちゃんと呼ばれるのが苦痛になって、僕のことを名前で呼んで欲しくて、名前を教えたよね。

先生はすぐには呼んでくれなかった。

でもそのうちに呼んでもらえるようになって。

先生が僕の名を呼ぶ度に、腹の底から何かがこみ上げてきてさ、何か存在感っつうか分かんないけど、とにかく腹の中があったかいような、くすぐったいような気持ちになってさ。

それがすっげ、愛しいっていうか。

僕は茶道に関してはあんま興味無かったから、こう言うと先生は怒るかもしれないけど、全然いい生徒じゃなかったよね。

先生に近づきたくて、初心者向けの本も買ってみたけど、よく分かんなくて興味も持てなくて。

先生が好きなもの、僕も好きになりたくて、最初は必死だったけど。

でも結局挫折したんだ。

意外と難しいんだよ、茶道って。

奥が深いっていうの。

そのことについては、先生とたまに話したよね。

先生は無理して好きにならなくても良いというようなこと言って、僕に少しだけ笑いかけたんだよ。

眉間に小さな皺を寄せながら、だったけどね。

いろいろともっと話せば良かったって、後悔してる。

告白とか絶対無理って思って、全然僕の気持ちを伝えられなかったから、先生の気持ちも全然分かんなかったから、デートにも誘えなかった。


✳︎✳︎✳︎


遠矢くん、この手紙は私の夢の中で、あなた宛に書いています。手紙というより、自分の気持ちを整理したくて、書いているような気もしています。

あなたに見せることのできる最初で最後の手紙です。

本当は見せてはいけないのです。

これまでずっと、ひた隠しにしてきた私の心の中。

ごめんなさい、私は自分でも恐ろしいほどの身勝手さで、あなたを連れて行こうとしている。


あなたが教室へと来てくれるようになって、家族を早くに亡くして独りに耐えていた私は、あなたのお陰で心と身体の健康を取り戻していきました。

そう、あなたのお陰なのです。

いつも優しく接してくれて、いろいろと面倒な家の仕事も手伝ってくれたりしましたね。

外の倉庫を掃除した時のこと、覚えていますか。

虫の苦手なあなたに代わって、ゴキブリを私が退治したりして。

あなたのあの、慌てようと言ったら。

私は感情を表に出すことを忘れてしまっていて、顔には上手に出せなかったけど、心から、心から楽しかった。

あなたの心身ともに持ち合わせている健康的な部分が私に伝染して、私は随分と救われました。

あなたに逢って、元気になる自分を嬉しく思っていましたし、あなたが見せるひたむきで真っ直ぐな姿、それが私を少しずつ良い方向へと変えていきました。

毎日、あなたが来るのを楽しみにしていたのです。


私はもともと身体は弱かったのですが、このように患った病気で先が知れた時、どうして、といよりは、やっぱりそうなんだ、そういうことなんだと受け入れる気持ちが先に立ちました。

その時点でかなり病状は悪化していたのに、急に症状が酷くなったのには、それまでも色々と前兆は出ていたのだけれど、毎日が楽しくて楽しくて仕方がなかったから気付かなかっただけで。

そしてあなたに出逢って、元気になってきているという気持ちがあったから、やっぱり落ち込んでしまって。

こう言うとあなたは怒るだろうけど、長くは生きられないと感じながら今までの日々を過ごしてきたので、少しのことですが覚悟のようなものもあったのです。

けれどそれはそんなに力強いものではなかったのですね。

そして、余命を知ったあの日、ひどくあなたにあたり散らしてしまいました。

あなたはすごく困った顔になって、哀しい顔になって。

あなたが悪いんじゃないのに。

それなのにあなたは手を、ずっと手を握ってくれていた。

あなたに別れを告げなければと思うにつれ、私は私でなくなっていった。

どうして、あんな冷たい態度をとれたのだろうかと、今になって思います。

自分の命の期限を知り、あなたを私という存在から切り離すことから始めたわけだけど、なかなか上手にいかなくて。

あなたを苦しめるばかりだった。

あなたと、あなたのご家族をも。

謝らなければなりませんね、本当にごめんなさい。

あなたには、あなたにひどい態度をとって傷つけてしまったことを。

あなたのご家族には、あなたの心を連れていってしまうことを。

櫻井さんには、あなたのおばあさまには向こうで会った時、お詫びしようと思っています。

許していただけるといいのですが、そんな風に淡い期待を抱いても仕様がありませんね。

こちらの世界で許されないことは、あちらの世界でもきっと許されない。

それは変わらないでしょう。


あなたの心を、連れていきたい。

そう口に出した時、眠り屋の若いご主人は目を丸くされていました。

きっと何て馬鹿なことをと、呆れられて断られると思っていました。

だから、ご相談にのりますよと言われた時には、少し驚きました。


私はあなたの心の内側を知りたいと願いました。

あなたの心に私という存在が大きく占めてはいなくても、それでもあなたが私をほんの一握りでも想っていてくれたなら、と願って。

その一握りの心を貰って、死にたいと願って。

だから、私はもうすぐいなくなってしまうけど、あなたの心を連れていきたいのです。

ずっと、私のそばで寄り添っていて欲しくて。

この手紙を読んで、あなたも私のこと、きっと呆れるでしょうね。

信じられないと。

こんな人とは思わなかったと。

自分の我儘であなたの心の一部を連れ去ってしまう、卑怯な人間だと罵るでしょう。

それでも構いません。

私が死んだら、こんなこと忘れてください。

私のことも忘れてください。

けれど、私は……、

私だけはあなたが欲しくて。

あなたのその目、優しく包み込むようなその目が好き。

一緒にいたくて。

そばにいて欲しくて。

言葉にしたことはなかったけれど、私はあなたに恋をしているのです。

信じられますか、あなたを愛しているのです。

こんなこと、言うつもりはなかった。

本当にごめんなさい。

許されない。

こんなこと、許されないのに。


✳︎✳︎✳︎


この世界は僕の夢、夢の中に存在する。これが夢だとすんなり理解したのは、眠り屋の主人によって、事前に説明を受けていたからだ。


「先生からの手紙をあなたの夢の中に置いておきますから、読んで返事を書いてください」


さすがに最初は面食らったけれど、先生が依頼主だと聞いて、目の前の丸眼鏡を掛けてどこか飄々とした男をすぐに信用して話を聞いた。


「彼女からの手紙ももちろん、彼女の夢からいただいてきたものになります。だから実物は存在しません。夢の中での幻の手紙の交換、ということになります。どうしてそのような不可思議なことを、と思われるでしょう。しかし、これが彼女の望みです。ご理解いただけますか?」


僕は深く考えることもなく、すぐに返答した。


「はい、分かりました。大丈夫です」


そんな少ないやり取りをした後、眠り屋の男は自分の軽く握られている右手を見るようにと言って微笑んだ。


その時にはもう、病状が悪化したために病院への入院を余儀なくされ、けれどその入院先の病院すら教えてもらうこともできず、行き先が分からなくなっていた先生を遠くに想う。


そんな先生からの僕への手紙。


何が書いてあるのだろうか。


そうだ、後で先生の居場所を聞かなければ……お見舞いに花を持って行こう、どんな花が好きだろうか。


そう考えがよぎった瞬間、彼の右手から薄い紫色の花びらが数枚ちらちらと落ちていくのを見た。

瞼が重くなる。

これが眠りへの入り口だと、知らされた時にはもう夢の中だった。


そして僕はソファに深く座り込んで、先生からもらった初めての手紙を読んでいた。


先生が僕を連れていってくれる、僕をそばに置いてくれる。

そう思うだけで嬉しくて嬉しくて、先生を失ってしまうかもと知らされてから、涙も底を尽きるのではないかと思うくらい泣いて泣いて泣きまくったから、もう空っぽのはずなのに、不思議なことにまた涙があふれてこぼれた。


先生が僕を好きだと言ってくれた。

先生が僕を愛してると言ってくれた。


けれど、僕は言えなかった。

伝えられなかった。


先生が余命を宣告された時、先生は激しく僕の存在を拒絶した。

もう来ないでと、もう自分の前に現れないでと、狂ってしまったかのように僕を何度も拒絶した。


あの時、僕は必死で先生の手を握って、また来るからと繰り返し言った。

けれど、そんな僕の精一杯の言葉も、聞かないふりをし、ぐちゃっと丸めて捨ててしまうような、あんなにも激しい拒絶だったのに。

それでも何度も、明日も来るからと続けた僕のしつこさに、嫌われてさえいるのだと思っていたから。


だから余計に言えなかった。

先生の負担になるのも、嫌われるのも恐かった。


一瞬ふわりと身体が軽くなる。

僕は先生からの僕宛の手紙が置いてあったテーブルに目を移した。


封筒を取り上げた時は丸い形のテーブルだったような気がしたが、今は縁取りに小さなタイルが飾り付けられた楕円のテーブルに代わっていた。

いつの間に、と小さく疑問に思う。


すると目の端の方を、黒い影が横切っていった。

何だろうか、今の動物のような。


テーブルの上には、ほんのりと花のような香りを漂わせた便箋と封筒が置いてある。

薄いピンクのような、いやよく見ると薄紫の色のようだ。

すぐ横には一本のペンが置いてある。


僕は手にとって、ペンの蓋を外した。テーブルのそばにある小ぶりな椅子に座る。


便箋を引き寄せて、さて書こうとした時、僕はペン先を便箋につけたまま、少しだけうろたえてしまった。

一瞬、何を書いていいのか、いや何を書くべきだったのか、全く分からなくなってしまっていたのだ。


しばらくの間、僕はペンを握りしめながら、便箋を前に呆然としていた。頭の中が真っ白だった。


ところが便箋をよく見てみると、先ほどまでは薄紫に色づいていた紙は、これ以上は白くはならないというほどの純白に変わっていた。


その白さで、何かを思い出しそうだった。


白い、手。

細っそりとした指。

ああ、そうだった。先生の指。


すると頭の中に、言葉が浮かんだ。

先生から貰った手紙の返事を書かなければ、と。


それから僕は、僕の中からあふれ出す言葉を一字一字、便箋に書きつづっていった。

一心不乱にペンを走らせた。


先生への恋慕の情を。僕の全てを、心を。先生から貰った告白と同じように。


僕は気がつくと最初に座っていたソファに横たわっていた。

いつの間に手紙を書き終え、眠ってしまっていたのだろう。


身体を起こし、あたりをぐるりと見渡してみる。

すでにそこにはテーブルや椅子の存在はなかった。


書き終わった先生への手紙を入れた封筒もなくなっていた。何もかもがなくなっていた。


僕はソファから立ち上がり、この見慣れない部屋に一つしかない扉へと向かって歩いて行った。

先生は何処にいるのだろう。

それだけ想うと、胸がちりと痛む。

先生を探さなくてはと、そればかりで頭がいっぱいになる。


扉に手を掛ける。

ドアノブに掛けたはずの手が、すっと空を掴む。

いつの間にか、ドアノブはなくなり、その代わりに小ぶりな引き戸の取っ手がついていた。


そう、ドアは引き戸になっていた。

取っ手に指を引っ掛けて、横にスライドさせる。

ガタンガタンと、それは電車が目の前を一定のリズムを刻んで横切っていくような音をさせて、ゆっくりと開かれた。


僕は足を一歩、また一歩と進ませる。


先生は何処にいるのだろう、それだけを想いながら。


✳︎✳︎✳︎


「このような事、本当に受けていただけるのですか」


僕の依頼主は、どこか陰りのある表情をさらに曇らせていた。いや、曇らせているというよりは困惑で揺らがせている、という言い方が当てはまる。

そして言葉は続けられた。


「本当にこんなこと、許されるのですか?」


今度ははっきりと疑問形にして。縋るような目で。


しかし、すぐにその瞳は塞がれてしまった。瞼がふるりと震える。


茶道の家元という職業柄、身なりはきちんとしなければならないのだろう、和服を着崩すこともなく、丁寧にきっちりと着こなしている。

今時、全く手を加えられていない容姿に、けれどその生来生まれ持つ美しさと儚さは、触れてはいけないような、立ち入ってはいけないような、そんなバリアのようなものを形成し、僕を圧倒する。


僕が営む眠り屋の事務所のドアの前に立つその姿。


彼女は買い物袋を両手にぶら下げて歩いてくる僕を認めると、すっと片足を後ろに引いてから体を傾けて、滑らかにお辞儀をした。

その姿があまりにも美しく、けれどそれは幼子の手をすり抜けては漂い、しまいには壊れて跡形もなくなってしまうシャボン玉のように、危うい存在でもあった。


何度も人の夢の中に入り込み、不可思議な感覚を幾度となく享受してきた僕ではあるけれど、けれどこのままこの人をなくならせてはいけない、僕はその時心からそう思った。


「彼の心の、ほんの一握りだけでいいのです。一緒にいたいんです。彼の持ち物か何かを持っていけばいいんじゃないかと思われるでしょう。自分でも本当に呆れてしまうのですが、それではだめなのです。死ぬのは怖くないのです。でも、私は何て欲深い人間なんでしょう、彼の心が欲しいのです。彼を愛してしまったことすら許されないのに、こんなこと……とうてい許されない……」


頬を細く、弱々しく涙がつたう。

伏せられた睫毛を涙が濡らし、いっそう艶やかな漆黒の色へと深めていった。


「許すか許されないかは、僕には判断できません」


そう言い終わるや否や、彼女は激昂して叫んだ。

いや、実際には叫んでいなかった。

けれど僕にはそう聞こえていた。


「いえ、とうてい許されるはずがないのです。そう、彼のお母さまにも、どれだけの身のほど知らずだと、そしてどれだけの厚顔だと。一体、息子といくつ歳が離れていると思っているのか、息子の人生を台無しにするなと、何度も言われました。これは許されないことだと。そうなんです、私はこんなこと、早く終わらせなければいけないんです」


「でも、あなたは遠矢くんにはっきりとは応えてはいないのでしょう。お母さんがあなただけを責めるのはフェアじゃないですね」


「遠矢くんも、言われているはずです。彼は決して言わなかったけれど、私には分かります。もう子どもを持つことができない歳になってしまった私が、未来のあるまだ若い遠矢くんを飼い殺しにするのを見ていられない、そんなお母様のお気持ちもよく分かります。ですから私は遠矢くんに私から離れてもらおうと……酷い態度をとって冷たく接してみたりもしたのですが、」


そのことで辛い思いをしたのだろう、涙が頬を伝う。

胸が痛む。


彼女はすみません、と小さく言うと、少しだけ鼻を啜りあげた。

ピンと張った糸をさらに引っ張り続ける、あるだけの力で。


「……こんな言い方、いけないかもしれませんが」


浅く一呼吸してから吐き出すように言う。


「私の命の、先が知れて良かったと、皆ほっとしたでしょう。……私でさえ、そう思うのですから」


何という強さだ。

僕の目を真っ直ぐに見返してきた、その目。


そう言い切って、一瞬だけ微笑みを浮かべると、彼女は帰っていった。


夕暮れが終わり夜の帳が下りる中、その宵闇に消えていくようにして。


そんな風にして、彼女の命も消えようとしていた。


✳︎✳︎✳︎


先生、僕は先生をいつも泣かせるか、怒らせるかだったような気がしていた。

自分でも情けなくて、それが悔しくて。

先生を幸せにしたいとか、守りたいとか、一緒にいたいとか、笑っていて欲しいとか、毎日毎日、そう思っていたのに。

情けなくて、僕も一緒になって泣いたりして。

バカみたいだ。

先生はもうすぐいなくなってしまうのに。

思っていたことの、ひとつでさえ、できなかった。

思っていたことの、ひとつでさえ、言えなかった。

けれど、覚えているよ。

あの日のこと、倉庫を掃除した日のこと。

ゴキブリに驚いて、僕は変な声を上げてしまって、すごく恥ずかしかったんだ。

先生が退治してくれて、僕は情けないのとみっともない気持ちでいっぱいで。

でもあの時、先生は笑ってくれてたんだな。

それを聞いて、ちょっと安心した。

もしかしたら、意外と先生を笑顔にできてたんじゃないかって、そう思えて。

先生が入院してから、入院先の病院とか先生の名前とか、いろいろ自分なりに調べてみたりはしたけど、僕はその頃先生の近所では噂の元になってたから、そういうの知ってそうな人には聞けないし、名前すら結局最後まで分からなくて。

それが心残りだったけど、まあ、先生に会って直接聞けばいいかなって。

そしたら、今度こそ先生のこと、名前で呼ぶからね。

楽しみに待っていて。

僕もすぐにいくよ。

そう、すぐにいって、これからはずっと先生のそばにいる。

今度こそ、一緒にいたいから。

好きなんだ、先生。

あなたが好きなんだ、愛してるんだ。

あなたを追っていく。

すぐにそばにいく。


✳︎✳︎✳︎


「遠矢くんの夢の中で書かれたあなた宛の手紙は、現実には文章化はできませんので、あなたの夢の中に入らせていただいて、その時にお渡しします。あなたの手紙をいただいた時のように黒豹に届けさせますので、驚かないように。それで大丈夫ですか」


「わたし宛の手紙……、はい、それでいいです」


彼女は少しだけ嬉しそうに、はにかむ少女のように笑った。


ここへきてやっと見ることのできた安堵の表情。

郊外に建つ、ひっそりとした病院の一室でなければと、どうにも変えることのできない現実を小さく想う。


「厳しいことを言うようですが、手紙の内容に関しては、私は一切責任を取ることはできません。あなたの意に反する内容、または白紙、ということもあり得ます。手紙の内容によっては、あなたの心情に深い傷をつけることにもなりかねません。それでも……」


言葉を、思いも寄らぬ力強さで遮られた。


「構いません。このような身で、傷つくことなど何があるのでしょうか」


けれど、すぐに和らいだ表情を見せた。


「例え白紙であっても、遠矢くんの心です。彼のものなら、白紙のままでも、貰っていきます」


絡ませている彼女の両手の指が、少しだけ震えたように見えた。


恥ずかしいことではあるが、実は僕の指も震えていた。

僕の場合は、目の前に存在するあまりの愛情に、締めつけられた心が全身を巡り指先までに伝わって、そうさせるのだろう。

僕の過去にもある、同じような傷の痛みを思い出させる。


「分かりました。では、夢の中でお渡ししたら、すぐに開封し、読んでください。読み終わればその存在もなくなりますので、しっかりと覚えていてください。当たり前のようですが、夢から覚醒してしまえば、手紙は消えて無くなります。普通、人は自分が見た夢の内容を覚えてはいません。眠りから覚めた直後はぼんやりとは覚えていたりしますが、すぐに忘れ去ってしまいます。特にあなたの場合は私が夢に入り込んで、ゆっくりと覚醒を促し覚えていられるように仕向けますので、忘れたくないのならば、起きてすぐにメモを取ることをお勧めします。そうでないと、矛盾のように聞こえるかもしれませんが、記憶はすぐに脳によって奪われてしまいますから」


「ありがとうございます」


晴れやかな微笑をこちらに向けながら続ける。


「でも私、メモは取りません。私が書いて文章にしたりしたら、彼からの手紙でなくなってしまうから。できるだけ覚えて、胸の中に仕舞っておきたいと思っています。眠り屋さん、本当にありがとう。心から感謝します」


その言葉と笑みに、僕もつられて微笑むと、手の中に柔らかく握り込んでいた右手を彼女の目の前に掲げた。


僕の手からはひとひらの薄紫色の花びらが、細いチューブに繋がれた彼女の白い腕に届く。

それを見届けてから、彼女を見る。


彼女のまぶたはまるで一輪の花がその生涯をそっと終えるかのように、静かに閉じられていった。


そして最後に、美しい真珠のような涙を一粒、こぼしたのだった。


彼女と同様に僕もまぶたを閉じ始めると、その一粒の真珠は僕のまぶたの裏側でその光をそっと消していった。


✳︎✳︎✳︎


僕は泣いていた。


眼を一度、閉じてみる。

すると溜まった涙が頬を流れていった。

そして、また目をそっと開ける。


こんなにも幸せな夢だったのに、なぜ涙が出るのだろう。


先生に、やっと伝えられたのに。やっと、告白できたのに。

それに、両想いだったって、分かったのに。


泣いてはいたけれど、穏やかな海で漂っているようなこの感覚。

好きだ、と確かに言葉にした。

気持ちが凪いでいて、ほっとしている自分もいる。


頬が冷んやりと濡れているのを感じて涙を拭おうとし、指でそっと触れる。


触れた指先に、一枚花びらがついていた。


薄紫色の小ぶりな形。覚えている。


この花びらを手にした眠り屋と呼ばれる男は、先生の依頼で来たと言っていた。

夢の中へ入らせて欲しいと。


名刺を渡された時の最初の印象、丸い眼鏡にネルのシャツという服装が、というより身にまとっている雰囲気がと言った方が良いか、何だか少し古臭いような時代遅れのような印象で、最初はかなり疑心暗鬼であった。


けれど、僕は先生からの依頼と聞いただけで、すぐに彼を信頼してその「夢」を通して行う手紙の交換という信じ難い提案を受け入れた。

僕の部屋で少しばかりの説明を受けて、早速眠りに入った。


そうだ、はっきりと思い出した。


夢の中で、先生に手紙を書いた。

僕は僕の気持ちを伝える機会を得て、水を得た魚のようにペンを走らせた。


夢の中で書いた手紙をどうやって先生に渡すのか、どうやって先生に読ますのか、黒豹がどうだとか言う話もあったような、説明されてもよく分からない部分もあったけれど、先生が信用している人なら、僕もそうすべきだと思った。


「先生の入院先、まだ聞いてないのに」


目覚めるとすでに、眠り屋はいなくなっていた。


ぼうっとする頭をふらふらと起こすと、再度目から流れる涙を指先で拭う。

指先についた花びらを大切な宝物のように、うやうやしく手のひらに乗せる。


「この花びら、確かシオンという花だと言っていたな」


僕はスマホで検索し、「紫苑」の画像をタップした。


そして画面をスライドさせていた指を止める。

調べるつもりも無かったのに、最近の検索候補は親切である。


そこには、花言葉。


遠くのあなたを想う


先生、この花はあなたが選んだのですか。

僕はその場で立ち尽くし、そしてそのまま声をあげて泣いた。


✳︎✳︎✳︎


「先日はご協力頂きまして、ありがとうございました」


丸眼鏡というだけで、かっちりと固いきちんとした性格だろうと思い込んでいた僕の前に、やはりそれは間違いないと確信に至るような挨拶を寄越してから、彼は帽子を取って軽く会釈をした。


この「眠り屋」という不思議な職を選んだ、若いとも若くないとも取れる不思議な風貌を前にして、僕はどう返していいのか分からずに返答を躊躇して、無愛想にも会釈だけをかろうじて返すと、彼はにこりと笑って一通の封筒を差し出してきた。


「生前の依頼主に、頼まれたものです。自分が亡くなったら、あなたに渡して欲しいと」


僕はもうそれだけで大きくうろたえてしまった。


あれから直ぐに、先生は死んでしまった。


葬式には行けなかった。


親戚を味方につけた母親が中心となって、皆がこぞって反対して僕を一日中見張り、火葬場に近づくことすらできなかった。


死んでも尚、反対するって、どんだけだよ。

隙を見て抜け出し、見張りがいるであろう火葬場ではなく、高台にある公園に向かった。


煙突から先生が立ち昇っていくところは、そこから見ていた。


風の強い日だった。


先生からの手紙はもう夢の中で貰って読んで、心の奥に仕舞ってある。

それなのに、また先生からの手紙。


「これは、手紙と呼ぶべきものではないかも知れません」


僕の心を見透かされたような気持ちがして、身体がびくりと動く。


先生が死んでからは、僕は絶望の気持ちを抱いたまま長い間、細く細く息をしながら生きていた。

僕の時間は、あの風の強い日、煙突から空へと散っていく先生を見送ったあの日から、ぴたりと止まってしまっていた。


だから今また、先生を失った現実に引き戻されて、あの押し潰されそうな狂いそうなくらいに味わった痛い思いを、再度味合わされるのではないかと、空恐ろしくさえ感じた。


そう、狂ってしまうのかと思った。

悲しみがあまりにも大き過ぎて死ぬのではないかと思った。


あの、先生が死んだと聞かされた時の、言いようのない喪失感。

自分が空っぽになり、このまま消えてなくなりたいと願ったあの日。

先生の後を追うことばかりを考えていた、あの日以来ずっと、ずっと、今も。


直ぐには受け取れなかった。


長い沈黙の上でも、手を伸ばすことができなかった。


俯いたまま彼の靴の先を見つめ続けている僕を見兼ねたのか、彼が声色を柔らかくして言った。


「あの人は言っていました。ご自分の名前が嫌いだったと。男の子に付ける名前だから、嫌で嫌で仕方がなかった。もっと、女の子らしい可愛い名前が良かった、と」


僕ははっと顔を上げて、彼を見た。

哀しげな微笑が漂っている。


「な、まえ……?」


「けれど、あなたが教えて欲しいと何度も手紙に書いてくれたことが、すごく嬉しかったと言って、喜んでいました。自分の名前を少しだけ好きになれました、と」


再度、封筒を差し出す。


覚えのあるような真っ白な封筒。


夢の中で、自分の心の内を書き殴った真っ白な便箋と、先生に届いて欲しいと願って入れた封筒。


宛名は書けなかった、名前を知らなかったから。

先生へ、とだけしか書けなかった、あの封筒にとてもよく似ている。


僕が受け取ると、彼は帽子を被り会釈をした。


「では、さようなら。お元気で」


僕はその場で、真っ白な便箋を持ったまま少しの間、立ち尽くしていた。

けれど、彼が言った「名前」という言葉に我に返り、封筒を開けた。


中から便箋を取り出し開いてみると、そこには一つの名前が書かれていた。


想像とはかなりかけ離れた、常識的にいけば男の子につけられる名前。


女の子にも、使うだろうけど……


僕は薄く笑った。

平仮名の部分を声に出して、何度も繰り返し、読んでみる。


そして、その名が先生の姿にしっくりとしてきた頃、僕は空に向かって先生を呼んでいた。


「あきら、って、男の名前だろ。全然、先生のイメージじゃないじゃん」


けれど、書かれていた一文字の漢字の意味は辞書を引いて調べるまでもなく知っている。


「夜明け、という意味だよね」


そして、名前の下にひっそりと書かれている言葉。


あなたには、生きて欲しい


僕の上にずしりとのしかかってきた、先生の言葉。


僕は長い間、動けなかった。動けずにいた。

けれど、それでも息はしていた。し続けていた。


僕は、未だ生きている。こうして、生きながらえている。


「って、先生が望むなら、僕は従うしかないじゃないか。先生の言うことなら、聞くしかないじゃないか。ずるいよ、先生。ずるいよ、ずるい」


涙があふれて流れてくる。あふれて、あふれて、流れ落ちる。


僕は鼻をすすりながら、先生の名前が書かれた紙を封筒に丁寧に戻すと、空を見上げた。


そして、夜が終わり早朝の白々と明けてゆく空を想像した。


封筒を胸のポケットに入れ、上から手でそっと押さえてみる。

僕は大切な人の名前を手に入れた。

そう、そして心も。

一生大切にして、一生愛しむ名前。


「 暁」


夜明けの空。


あの清々しいまでに身も心も洗われて、今一度生きようという力強さを与えてくれる、薄紅色の明け方の空。


闇の中にいる僕の心にもきっとその光は届き、そしてその健全さを引っ張り出してくれるであろう、唯一の空。


僕は胸に手をあてたまま、声を上げて泣いた。

この声は、先生に届くのだろうか。


先生、葬式の日、先生を見送った日のような風が強く吹く日があったなら、次の日は早起きして、力強く美しいあの陽の光を浴びることにするよ。

あなたが恋しくて恋しくてどうしようもない時は、暁の空の下で、あなたから貰った手紙を読み返してみるよ。

そう、僕はいつでもあなたに逢える。

あなたに、逢いにいく。


僕は一通り泣いてしまうと、ゆっくりと空から目を離し、踵を返してドアをそっと閉めた。


ねえ、先生。いつか先生のそばへいった時、僕と一緒に笑ってくれる?

そしたら、何度も先生の名前を呼ぶよ。

ねえ、先生、

僕はあなたを一生、大切に仕舞っておくよ。

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