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眠り屋  作者: 三千
17/17

十五章 支離滅裂な僕と天邪鬼の彼女


漂う天邪鬼


人生って何?

何で、人間って生きるの?

生きなきゃいけないの?

死んだらダメなの?

だからって、死にたいわけじゃない。

その理由が知りたいだけ。

ただ、それだけ。


✳︎✳︎✳︎


『眠り屋』の仕事を片付けてから、帰りにアケミマートの棚の前でぶらぶらと時間を潰し、事務所に戻ってからもそんな惚けた顔で過ごしていたある日の午後、僕はふと窓の外を見下ろした。


なかなか不精な性格である僕が、その汚れが気になって窓拭きをしようとした訳でも無く、何かの力によって導かれて外を見下ろした訳でも無く、本当に何の気なしに窓から覗き込んだだけで、僕はそこに理由を見出すこともしなかった。


こちらを窺い見る一人の若い女性。


僕の居る、二階にある事務所の窓を、顎を上げ眼を見開いて、しっかりとその眼で見つめていた。


彼女が見、僕が見て、眼が合っているはずなのに、まるで視点が合わない。


その二つは、微妙にずれて交わることのない二つの直線が作り出す、平行線のようだった。


長いのか、短いのか判断に困る時間をそのように過ごしてから、彼女はふいっと顔を背けると、その場を去っていった。


けれど、僕は窓際から離れられなかった。


✳︎✳︎✳︎


生きることは辛い。

生きる為には色々なものが必要で、

食料、水、睡眠、あとは何?

お金、そう、お金が必要。

お金を得る為には、働かなければならない。

どんなにそれが辛い仕事でも。

その日一日、自分をせっせと動かしながら。

それから?

愛する人?

それって、本当に必要不可欠?

ひとりでも生きられる。

生きるだけなら。


✳︎✳︎✳︎


一日をあけて、僕はまた彼女に会った。


会ったというには語弊がある。


僕らは視線すらも交わしていないのだから。


僕が生業としている、『夢』のようにどこか儚い、まるで泡沫のようなこの瞬間。


確かに僕達は見つめ合っているはずなのに。


そして次には僕が、彼女を見下ろしていた窓際から離れた。


僕の意思をもってして。


✳︎✳︎✳︎


死んではいけない理由が分からない。

生きねばならない理由を知りたい。

考えても考えても、考え尽くしても、その答えに辿り着くことはない。

迷宮のようなこの世界で、たった一艘、漕ぎ出した舟に乗って、私は漂う。


✳︎✳︎✳︎


そして、僕は決心し、彼女の元へと近づいていった。


彼女に会った三回目の時、僕は身を翻して事務所の玄関を飛び出した。


無機質な階段に、僕の靴音が響き渡る。


何故か、僕は彼女に急いで会わなければならない、そんな風に思った。


階段に続く矮小なエントランスから躍り出ると、そこには二階の事務所の窓を見上げたままの、彼女が居た。


僕の気配に気づいて顔を戻す。


そうして、やっと、僕達は出逢った。


それまで僕は、二度彼女に会っているのに、僕はその生の在り処に気づく事が出来ずにいた。


生の宿っていない彼女。


僕の中の印象。


そんな印象を裏切らない、その瞳と表情。


彼女は何も持っていない。


大事な物、執着する物、欲する物、何もかも。


僕は背筋を伸ばして、なるべく音をさせないように近づいていった。


彼女の前に立つ。


その離し難い視線を合わせたままにして。


「何か、ご相談ですか?」


そうではないと思っていたけれど、声を掛けるには理由が要る。


彼女はにこっと笑うと、


「眼鏡、」


そう言って、僕の丸い眼鏡を両手を伸ばして取った。


そして、俯いた。


俯いた先に、彼女の指に摘まれた僕の眼鏡がある。


「似合ってる」


彼女はそう呟くと、俯いたまま一歩前へと出た。


余りに近過ぎて僕が少しだけ戸惑うような位置へと更に進み出て、僕の胸にそっと頭をもたせかけた。


僕は少し、驚きはしたけれど、そのままの姿勢を続けた。


そして、彼女もそのままでいた。


顔を上げると、温い風がさっと頬を掠めていった。


それは誰かに頬を指で撫でられたような、そんな感触を僕に残していった。


✳︎✳︎✳︎


「紅茶ならどうでしょう」


コーヒーは飲めないという女性の前に、湯気の立つマグカップを置く。


彼女は直ぐにもそれを両手で取り、口元へと運んだ。


「熱いですよ、気をつけて」


僕が慌てて声を掛けると、その言葉が耳に入ったようで、唇を尖らせて、すすっと啜る。


けれど、唇を火傷するのを恐れてか、香りの良い茶色の液体には届かなかった。


空気を啜る音がして、何とも可愛らしい。


僕は、ふっと笑みを零した。


「あまのさん、学校はどうしたんですか?」


彼女はふうふうと、マグの表面に息を滑らせて、紅茶を冷ましている。


「サボり」


「こら、サボり、ではないでしょう。学校は行かなければいけませんよ」


ふふ、という笑みと、ふうふうという紅茶を冷ます息継ぎとを、絶妙に混ぜて繰り返す。


けれどその内、笑いが強くなって込み上げてきたのか、彼女は笑い出した。


「ふふは、はは、矢島さんって、おかしい」


僕はそんな様子を見ながら、僕もマグを持って口へと運んだ。


「ふは、これは本当に熱いですねえ」


「飲めないよ」


「飲めませんね」


そんな会話を僕と幾度か続けた後に、彼女は帰っていった。


僕が学校行きなさいよ、と言うと、行かない、と答えて後ろ手に手をひらひらとさせて。


暖かい日に間違えて降ってしまった雪のように、突風が弄んで散らしてしまう桜の花びらのように、すいっと消え去ってしまいそうな、そんな雰囲気を残したまま、帰っていった。


✳︎✳︎✳︎


死んだら心はどうなるの?

消えて無くなるの?

じゃあ、生きたら心はどうなるの?

そこに、在り続けるの?

どんな状態で、どんな様子で、どんな表情で、何を思って?


✳︎✳︎✳︎


「今日は制服なんですね」


僕が問うと、目の前の女子高生はこくっと頷いた。


「学校は?」


「行ってない」


「行かないと駄目です」


「そう言われても、行かない」


僕は一旦は、言葉を呑み込んだ。


考える。


そして、言った。


「学校なんて、行かなくて良いですよ」


彼女は顔を上げて、おやという顔をした。


そして、くしゃっと笑う。


「矢島さん、調べたの?」


僕はソファに腰を下ろすと、「はい、調べましたよ」と、言った。


なるべく、声色を変えないようにして。


「だから、かあ」


そして、また笑う。


「おかしいなって思わなかった?」


「思いませんでしたよ。思いも寄りませんでした」


言葉一つ一つにちょっとした力を込めて言うと、何だかおかしさが込み上げてきて、僕も笑った。


「知らない人なんて、初めて会った」


「無知なんですよ、仕方ありません」


初めて、この女子高生を事務所に招待した時、名前を聞いた僕に彼女は言った。


「あまのじゃく」


その言葉の意味を知らなかった僕は、それを受け入れて彼女を「天野さん」と呼んだのだった。


「あまの」が苗字なら、名前が「じゃく」となってしまう。


変わった名前とは思ったが、僕はそのままを受け入れた。


けれど、彼女が帰ってから、やはりその名前に違和感を感じていた僕は、図書館へと繰り出して辞書を引っ張り出したという訳だった。


天邪鬼とは、人に逆らう捻くれ者、とあった。


「天野さん、学校は行かなければなりません。それはもう、間違いの無いことなんです。もし、学校へは行かなくて良いよと僕が言って、天野さんが学校に行く気になるなら、そう言いましょう」


「皆んなと同じ事を言うのね」


僕は苦笑しながらも続けた。


「まあ、それが定石じょうせきですからね。学校へ行って、例え勉強をしなくとも、です。そこでご飯を食べて、そこで物を見て、そこで音を聞く。先生や友達の声を聞く。好きな物を見つける。何でも良いんです。他のクラスの生徒の声でも良い、耳を澄ませて好きな音を見つけるんです。それから、先生が持つちょっとした癖だったり、教室の窓から見える景色だったり、例えば空や雲を見るのが好きなら、それを学校の教室から見ることを好きになってください。そんな風に色々と周りを見渡してみて、ああ、好きだなって思うものを見つけるんです」


「めんどくさい」


「面倒くさがり屋さんは、天邪鬼とは違いますよ。さあ、五感を使って、好きな物探しをしてください。そして、僕に教えに来てください」


はーい、と軽い返事をして、彼女は帰っていった。


この前と同じように、手をひらひらとさせて。


それを見た僕は、春の季節に花の海を舞い飛んでいく、蝶のようだと思った。


✳︎✳︎✳︎


好きなものを見つけて何の意味があるの?

それは生きるのに必要なものなの?

何度も言うけれど、だからって死にたい訳じゃない。

生きるのは、辛いことと思うだけ。

何を見つけたら、生きてゆける?

ただただ、それの繰り返し。

繰り返されるの。


✳︎✳︎✳︎


「見つけたよ」


今度は私服の天野さんを前に、僕は一旦は腰を沈めたソファから立ち上がり、窓際に寄ってハンドルを回してルーバー式の窓を開けた。


すると、その窓を上手によけながら、すいっと風が入ってくるのを頬と額とその額に掛かる前髪で確認すると、再度ソファへと戻った。


「ありましたか」


「うん、案外、あるもんだね」


そして僕は先を促すようにして、顎を打つ。


「一つ目は、数学の先生の眠たそうな眼鏡」


あはは、と思わず笑う。


その僕の様子を見て、彼女は言った。


「可愛いの」


「うん、良いでしょう」


「二つ目、美術室に行ってみたら、絵の具の匂いかな、好きだった。好きな香りに包まれて、ちょっと嬉しくなったよ」


僕は美術室の真ん中で、両手を広げて大きく息を吸い込んでいる彼女を想像した。


「はい」


「三つ目、好きな声のトーンの持ち主を見つけた」


「良いですね、男の子ですか、女の子ですか」


「隣のクラスの男の子。笑い声が、私の席にまで聞こえてくるの」


「知ってる子ですか?」


「ううん、見たことない。でもいつも休み時間になると友達とバカ騒ぎしてるみたい。楽しそうだよ、だって一番笑ってるもん」


「それはそれは」


「で、その声をぼんやりと聞きながら、矢島さんに言われた通り、空も見てみた。以上」


僕が満足そうな顔を見せたようで、そんな僕の顔を窺い見て、彼女は不思議そうな瞳をこちらに向けた。


「では、また明日」


僕は立ち上がって、玄関へと促した。


彼女は到底、天邪鬼とは思えない素直さで、僕に従った。


✳︎✳︎✳︎


「夢で、矢島さんを紹介して貰ったの」


「なるほど、そういうことだったのですね」


僕は、そのことを知ってはいたが、今日初めて聞いたというような返事を返した。


「今日も一つ、見つけてきたよ」


「そうですか、それは何ですか?」


「数式」


「ほう、数式ですか」


そこで、おやと思う。


授業の内容から、見つけ出してくるとは、と。


「数式とは、これはまた難しい所から引っ張り出しましたね」


「数学の先生が、黒板に書いた数式が、とても綺麗だった」


「ノートに書き留めましたか?」


「ううん、頭の中に写した」


「それは凄いですね。頭の中にノートがあるとは」


「あと、百人一首」


「どんなものですか?」


「『あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな』」


「意味はよく分からないですが、とても美しい響きです」


「『もう私は死んでしまうけど、一緒に逝く思い出として、もう一度だけあなたに逢いたい』って、古文の先生が言ってた」


僕は今度は何も言わず、その一首を心の中で繰り返した。


天野さんが選ぶものには、ある種の儚さが宿っているようだ。


実はつい最近、僕の夢に天野さんに僕を紹介したという夢魔が会いにきてくれたことがあった。


その時に、彼女についておおよその話は聞いていた。


儚さと危うさ、それほど大きくは無いけれど、彼女はある種の暗い闇の部分を抱えているという。


生と死について考える事に、異常と思えるほどの執着を見せている。


彼女はそんな意味があるのか無いのか分からないような自問自答の夢の中を、彷徨い続けているという。


夢の中で彼女は。


同じ場所を行ったり来たりしていて、そこから抜け出せないでいる、と。


(これはただの天邪鬼ではありませんねえ)


この天野さんに寄り添っている夢魔には、僕は初対面だった。


珍しく身体は人の形であったが、顔は動物で言う『羊』の相を呈していた。


僕はその話を聞いて考えた。


けれど、彼女が常に抱えている問題について、僕がその答えを提供する事は出来ない、そう伝えると、夢魔は直ぐにも去っていった。


「でも矢島さん、こうやって好きなものを探すという行為に意味はあるの?」


「ありますよ。好きなもので自分の周りを囲んでいくんです。そうすると、好きなものに囲まれて、心地良いでしょう」


「それは、自分を生きやすくするってこと?」


「ある意味、そうかも知れませんね。でも、単純に好きなものだらけって、テンション上がりませんか」


「あはは、矢島さんの口からテンションとか、何か笑える」


僕は、何でですか、と不服の言葉を漏らしながらも、一呼吸置いてから言った。


「どうか、好きな物を見つけ出す力をつけてください。それが生きるということに、一番近いのかも知れません」


✳︎✳︎✳︎


ねえ、やっぱり答えは見つからなかった。

そして、私はまた迷宮のようなこの世界を彷徨う。

ゆらゆらと漂う舟の中で、ごろんと寝転がってぼんやりするの。

空に浮かぶ月でも見ながら。

出口は探さない。

だって、やっと探し出した出口が、もしかしたら別の迷宮の入り口なのかも知れないじゃない?

誰もが自分で漕げと言うけれど、私は漕がない。

そのオールにさえ、決して触れはしない。

だって 私は、天邪鬼だから。


✳︎✳︎✳︎



支離滅裂な、僕


眼を開くと、数日前にネットで手に入れた極上なタオル生地が、まるで虫眼鏡か何かを通して見ているように、拡大されて見える。


僕の頭がずっしりと置かれているその生地は、糸がくるりとした形で立ち上がり、奇妙な図形を描いている。


それを見ていると、生地とは糸が複雑に絡み合って作られているのかと、その構造が分かったような気にもなるし、全く分からないような気にもなるので、不思議だ。


けれど、とにかくこの肌触りは最高だ、僕はそれをいつまで経っても堪能し続ける。


洗濯機で何度も揉みくちゃにされて、その張りを失くしパサパサのカサカサになるまで、それは続く。


僕はそのタオルの上に置いた手を、そのままゆっくりとスライドさせた。


再度、眼を閉じる。


眼を閉じると、一気に鼻が効いてくる。


洗濯洗剤の香りが、ふわっと香ってきて、僕の鼻腔をくすぐってから、息とともに肺へと続いていく。


僕の肺を今取り出したなら、まだ高校生なので煙草などは決して口にしない僕の肺は、このタオルと同じ匂いが純粋にするはずだ。


それを匂ってみたい。


「支離滅裂だ、僕は」


呟いて眼を開けてから、口を尖らせてふっと小さく息を吹くと、立ち上がっている糸の模様が、ゆらっと揺れた。


✳︎✳︎✳︎


一日目


目の前に、たくさんのドット。これは水玉模様か、そう認識すると、その水玉に色がついた。決して、一色ではない。けれど、眼球を一つの水玉へとフォーカスさせると、途端にその色は失われ、白となる。よって、眼をキョロキョロとさせても、結局は白の水玉から、抜け出ることは出来ない。

そこで考えた。一つを見ず、全体を見たらどうだろう。

僕はそう考えて、全体をぼんやりと見る。

すると、色が見えてきた。いや、見えている、とは言えないかも知れない。ぼんやりと、見ているのだから。じゃあ、どういう事だ。

僕はそれを感じる、と表現することにした。

色とりどりのドットを、たくさん感じている。眼は見開かれたまま、そしてその場から動かずにいたまま、僕はその模様を全身で堪能した。

そして、いつしか目が覚めていた。


✳︎✳︎✳︎


二日目


真夜中の暗闇。眼を閉じているのか、それとも開いているのか、その両方であったとしても、これは暗黒だ。何も目に飛び込んで来ないし、何もこの目を必要としない。この、僕でさえも。

手を伸ばす。手探りで、そこにあるものを求める。

単純な解。

けれど、欲しいのか、欲しくないのか、それは解らない。手に入れたいのか、手に入らないのか、それとも手離したいのか、それすらも。

伸ばした指に、何かが触れる。そのまま、すいっと指を動かしていって、その形を知る。それは、なだらかだったり、険しかったりした。曲線だったり、直線だったり、鋭角的だったりした。

もちろん、尖っているところには、指にきりっと痛みを感じた。けれど、なだらかなところは、官能を指で辿っているようで、それだけで少しの興奮を覚えた。

指で探っていたのに、いつしか指の腹も使い、そして手のひら、手の甲、爪、手の全部の部分にその五感があるような風に、撫ぜてみる。撫で回して、撫で回して、形を探って、それが何なのかを、知ろうとする。

知って、どうするのかも解らない。知っても、この暗闇の中。意味はない。

そして、探り疲れて、目が覚める。

いつしか、目が覚めていた。


✳︎✳︎✳︎


「不思議な夢を見ていますね」


僕の目の前にいるこの男は、一体何を言っているのだろう、そう思った瞬間、頭がきんと冴えた。


「あ、はい。そうなんです」


冷静に答える。


真中まなかコレクションというわけですね。実に不可解ですが、芸術に通ずる美しさがあります」


「…………」


無言で続きを待つ。


夢などに、大して意味や理由があるようには思えなかった。


それなら何故、この「眠り屋」に相談をしているのかと言うと、それは僕のお気に入りのショップが、この事務所の一階に入っている、ただそれだけだった。


そのショップは骨董屋のようでもあり、古着屋のようでもある、見掛けも中身もレトロな店だ。


僕はいつも、文具用品をそこで購入していた。


高校生の僕が、一ヶ月に一度手に入れるお小遣いのほとんどは、このショップで消費されている。


ペン先を紙の上で滑らすと、少し引っかかるクセのある万年筆。


手触りは良いが、所々ほつれや擦れがある、革製のブックカバー。


つい最近、倒産してしまったメーカーが出していた、2Bの鉛筆を一ダース。


それらを筆箱やらカバンやらに入れて学校へ持っていくと、級友の中でも特によく話す友人の加藤かとうなんかに、真中コレクションだな、と揶揄やゆされた。


いつものように、品を見て回っていると、レジ前で店主と話し込んでいる男に気づいた。


「矢島さん、それ、そのTシャツ、まじダサいですよ。それだとオタクに見えちゃうから、この前買ったジャケットを羽織ってくださいよ。せっかく買ったのに、宝の持ち腐れですよ」


「ダサいって言われても気にしませんよ。それに休日しか着られないから、今日着てるんじゃないですか。ヨシさん、今日は僕、風鈴を買いに来たんですよ。それで、風鈴はあるんですか、あるなら出してください」


「こんな夏ももう終わろうとしている季節に、今更どうして風鈴なんですかあ。相変わらず、わけの分からない人だなあ」


それでも店長は、店の一角に男を連れて行って、上の方にある棚へと手を伸ばしている。


この店は色々な物が置いてあるんだなあと心底感心しながら、視線を文具へと戻す。


けれど、好奇心が勝ってしまった。


ダサいTシャツがどんなものなのか、見てみたい。


僕は二人に近づいていった。


すると、店長が振り返り、「いらっしゃい」と声を掛けてきた。


「ども」


僕は軽く返事を返すと、矢島と呼ばれた男もこちらを振り返って見た。


知り合いでも何でもない僕に向かって、顎を打って、挨拶をしてくる。


僕もそれに習って、こくんと頭を軽く下げた。


そして、Tシャツ。


じっと見ていると、矢島さんが僕に話し掛けてきた。


「やっぱり、オタクに見えますか?あ、いえ、オタクと思われても別に構わないんですけど、ヨシさんがあんまり言うもんだから」


アイドルの顔写真がモザイク風にプリントしてあるTシャツを見て、僕は言った。


「まあ、ジャケットは必要ですか、ね」


「……よく分かりました。ちょっと待っててくださいよ」


言い残して小走りで店を出る。


そして、このビルのエントランスへと入っていく後ろ姿。


数分後、この店で購入したという薄手の濃紺のジャケットを羽織って、戻ってきた。


「これで、どうですか?」


ジャケットの功績によって、ちらりと見えるTシャツは、オシャレなデザインのものに見えるから不思議である。


彼は一応、満足そうな顔を浮かべていた。


僕はこの一件で、目の前にいるこの男が、この店の二階に事務所を構えている「眠り屋」だということを知った。


✳︎✳︎✳︎


三日目


一羽の大きな大きな鳥と対峙している。その鳥は、テレビで見たことがあるものだった。動かない鳥、ハシビロコウ。

僕と鳥は、じっと眼を見合っている。長い間、そうしていた。長い間、見つめ合っていた。

彫刻のように動かない鳥と僕。僕は何を思ったのか、ふいに手を上げた。手を、伸ばした。

大きな嘴で、がぶりと食らいつかれるかも知れない。

そう思うけれど、不思議とそうはならない予感があった。

けれど、鳥は予想に反して、その大きな嘴を開けぬまま、僕の手をピシリと払った。その拍子で、手を引っ込める。

眼を見る。見合っている。

すると鳥はすっと、大きな羽を伸ばした。伸ばしてから、羽ばたいた。そしてそのまま、僕の横をバサバサと大仰な羽音を立てて、通り過ぎて飛んだ。

飛んだ。

飛んだ。

いつの間にか僕は、足が地についてなく、暗い空に星や月とともに浮いていた。ざざっと風の音。耳をすましていないというのに、耳へと入ってくる。

僕も飛んでいる。鳥も飛んでいる。

宙に浮いた僕の周りを何度も回って、鳥は飛び去った。そして、僕は空から落ちた。

いつしか、目が覚めていた。


✳︎✳︎✳︎


「で、ベッドから落ちてました」


そこで矢島さんが、ふっと小さく吹き出した。


「よくありますよ、実際ベッドから落ちていることって」


「…………」


「不思議なんですよ。ベッドから落ちそうになっているから落ちる夢を見るのか、それとも落ちる夢を見るからベッドから落ちるのか、ほぼ同時の事象なので、そこのところは分かっていません」


金がない僕は、夢の話をこうして矢島さんに話して聞いてもらっている。


金があれば、矢島さんが夢へと入るらしい。


そんな信じ難いことを信じるか信じないかは、僕次第とのこと。


けれど、この矢島さんなら出来るのかもしれないと、僕に、いや矢島さんを知った人なら誰しもに、そう思わせるのだ。


でもまあ、夢に入るどうこうは現時点では関係ないことなのだ。


僕には、金がないのだから。


「不思議な夢ばかりです。検討もつきません。けれど、真中くんが困っているようなら、手を貸しますよ。あ、勿論、代金は不要です」


矢島さんという人を知れば、こう申し出をしてくれることも予想できた。


けれど、僕は……。


「いえ、別に困ってるわけじゃないし、何だろなって思うだけで」


「そうですか、それなら良いですが。もし何か気になることがあれば、相談してくださいね」


矢島さんはその人懐っこい顔をこちらへと向けて、微笑んだ。


僕はこの時、ある種の後ろめたさを感じていた。


そう、実は僕は。


この夢に思い当たることがある。


「大丈夫です、大丈夫」

僕はそう言って、後は貝のように口を噤んだ。


その言葉が、矢島さんに返事を返したものなのか、それとも自分に言い聞かせたものなのか、判断がつかなかった。


✳︎✳︎✳︎


四日目


僕は深淵を覗き込んでいた。井戸の中を見るような形で、暗闇に向かって覗き込んでいた。ふと、僕は井戸の中の水面に映る月でも掬おうというのか、両手を伸ばしてみた。すると身体がふわりと浮いて、あっという間に逆さになった。逆さになったら、そこからは早かった。

どんどんと落ちていく。身体が浮遊感を感じながら、けれど下へ下へと引っ張られるような重力を感じながら。

恐怖の声は出ない。それは恐怖ではないからだ。痺れるような痛みはある。この胸の中に。

暗い穴に落ちていっているのか、それとも地球の中心へと向かっているのか。

どんどん落ちて、僕はその間に何かを考えることが出来るのではと、ちらと思った。けれど、その考えは直ぐにも否定された。

どしゃ、

僕は音を立てて地面に落ちた。そこは堅い地面だと、思う。多分。

たぶん………。

突然、目が覚めた。

すんっと鼻を吸う。それから、少しの間、ぼけっとしていたが、唐突に僕はもう一度、すうっと鼻から、頬を包んでいるタオルの匂いを嗅いだ。そして、そっと触れていた柔らかい手触りを、指で感じる。撫ぜる、感じる。

僕はまだ、生きている。


✳︎✳︎✳︎


「ベッドから落ちた?」


「いえ、今回は落ちてなかったです」


矢島さんが僕をじっと見ている。


僕が顔を上げると、目が合った。


しばらくの間、見つめ合っていたけれど、矢島さんが根負けしたように、すいっと視線を外すと、「そうですか」と言って、仄かに笑った。


「では、今度は僕が日時を決めてもいいですか?」


僕は夢を見ても見なくても、いつでも事務所に来ていいと言われていたことを思い出した。


珍しく、矢島さんから日にちを指定され、少しだけ戸惑う。


四日目の夢を話してから、矢島さんの様子が違ってきた。


相変わらず、ニコニコとしてその真意は見せないが、僕は僕の中の何かを知られたのではないか、そう思うとある種の後ろ暗さを感じた。


暴かれるとは、こういうことなのだろうか、などと考えた。


けれど、この目の前にいる矢島さんが、他人を「暴く」ことなどしない筈だと、考えを改める。


土足で入り込んで踏み荒らす。


絶対に、ない。


「はい、」


僕は言われた日時を頭の中に書き留めて、それに従った。


過去を振り返って考えてみると、その日までに、五日目の夢は見なかった。


✳︎✳︎✳︎


ごろんと寝転んだ僕の真ん前には、青く広がる空がある。


空の弁当箱が膝から、するすると滑り落ちていって、カランと落ちた。


学校の屋上で昼休みが終わるチャイムが、頭の中に響いた。


目を瞑ると、その目蓋の裏側に、たった今鳴り終わったチャイムの残響が残っている。


その余韻が無くなるまで、僕は目を閉じていた。


そっと開く。


青い。


その青の部分に、僕は僕が見る夢の検証を描き始めた。


思い当たるけれど、矢島さんには話せないことだった。


『一日目の夢 白のドット→睡眠薬』


『二日目の夢 暗闇→夜、手で探ったもの→ハンググライダー』


そこで一息ついた。


さっきまで生徒たちの騒々しい笑い声も、チャイムとともに去り、今は落ち着いている。


『三日目の夢 大きな鳥の羽ばたき→ハンググライダーで飛ぶ』


『四日目の夢 落下→落下』


さっきまで、視界の左側にあった小さな雲の塊が、その形を微妙に変えながら、右へと移動していた。


僕は再度、目を閉じた。


四日目の夢で、「落下」を「落下して死亡」としなかったのは、僕の中で死というものが、まだ触れられない領域だからであろうか。


どうやって死ぬのが一番楽かを、最近考えたことがある。


電車に飛び込むには勇気がいる。


ビルの屋上からもまた、然り。


色々考えた結果、睡眠薬を飲んで山の上から森へ向かって、真夜中にハンググライダーで飛んで落ちる、という結果を導き出した。


もちろん、飛び立つのは眠気がき始めてからだ。


暗闇なら恐怖心も和らぐだろうし、ハンググライダーで飛び回っている間に睡眠薬が効いてきて、森の中に落ちる頃にはぐっすりと眠っていて痛みなどは感じないはずだ。


もちろん、木に引っかかって一命を取り留めることもあるかも知れない。


そこは運を天に任せるしかない、という結論に至った。


これを考えて、何て現実味のない方法なんだと、導き出した答えとその答えにしか辿り着けない僕自身を、僕は嘲笑った。


そう、笑えてきたのだ。


可笑しくなって、腹を抱えて笑った。


けれど、こんなくだらないことを考えているから、あんな夢を見るんだな。


そう思って、否定する。


いや、くだらないことではないか、と。


真剣に考えたのだから。


けれど、こんなことを真剣に考えてしまうあたり、僕は心底、自分を支離滅裂だと思った。


僕は寝転んだ頭の下に、両手を差し込むと、頭を少しだけ俯かせた。


風が温くて、気持ちの良い火曜日の午後だった。


✳︎✳︎✳︎



支離滅裂な僕と、天邪鬼の彼女


僕はその日、矢島さんが珍しく来訪する日を指定してきた日、「眠り屋」の事務所が入るビルのエントランスへと足を踏み入れていた。


頭の上ら辺から、トンットンッと階段を下りる軽やかな足音が聞こえてきたのに気がついた。


僕は階段を上ろうとしていた足を止めて、その音のする方へと顔を上げた。


階段を一段一段、下りる靴の音が近づいてくる。


そして、止まった。


一階と二階の中間にある階段の踊り場で、足を止めて立っている女の子。


僕は目を丸くして、見開いた。


彼女は、僕と同じ高校の制服を着ていた。


しかも、見覚えのある顔。


僕は彼女を知っていた。


学校の知り合いに、ショッピングセンターでもカラオケでもない、こんな意外な場所で出会ったことに驚く。


けれど直ぐに、彼女が僕を見知ってはいないことに気がついて、思い改めた。


彼女は僕の隣のクラスの生徒だった。


もちろん、友達でもないし、話したこともない。


僕は彼女を知っているが、彼女は僕を知らない。


「こんにちは」


実際には聞いたことのない声で彼女に挨拶され、僕は動揺した。


彼女の、顎のラインで切り揃えられた黒髪が、頬にふりかかっていく。


その髪の動きで、頭を下げて挨拶してくれたことを知る。


化粧も何もしていないのに、睫毛が長いからだろうか、その瞳は黒く縁取られて印象深い。


トンッ、トンッと靴音を響かせて、その瞳が少しずつ僕に近づいてくる。


階段を一段一段、慎重に下りながら、僕の横を通り過ぎようとして、僕の視界の中で、次第に斜めに移動していく。


僕の斜め前を過ぎる時、ようやく僕は彼女の瞳から目を離し、そして今度はその唇に釘づけになった。


上も下もふっくらとして……可愛い。


「こ、こんにちは」


僕は声につまずきを感じながらも、横を通り過ぎていく彼女に焦って、挨拶を返した。


彼女が僕の横顔を見る。


肩が触れるかどうかの位置で、振り返り、僕を見ている。


僕はそれを雰囲気で感じていた。


僕は直ぐにも彼女は行ってしまうだろうと思っていた。


けれど、そんな雰囲気の中、彼女は全然去ろうとしない。


しかも、僕をじっと見ているようだ。


僕は頭の中で何事だと思い、どうしたんだと思い、何があったんだと混乱しながら、そっと横を見た。


そして、僕たちは視線を合わせた。


彼女は可愛らしい唇を半開きにしていた。


何故だか少し、驚いているようなその表情。


ぽかんとした顔が、どうしようもなく可愛く思えた。


「2組?」


聞かれて僕は咄嗟に頷いた。


「うん、君は1組だろ」


そして、彼女は。


笑った。


僕が何か面白いことでも言ったのだろうか、と考えるほど。


嬉しそうに。


「あはは、どストライクだっ」


そう言い残して、彼女は去った。


そんな彼女は僕の中に、あれやこれやを残していった。


✳︎✳︎✳︎


「会いました?」


「はい、階段で。名前は、」


僕が言おうとした時に、矢島さんが呟くように言った。


「天邪鬼、さんです」


いや、彼女は志水しみずさんです、と言おうとして、矢島さんの満足げな顔に遮られた。


「五日目の夢は見ましたか?」


「いえ、まだ」


そうですか、そう言いながら、コーヒーを淹れる手を止めた。


「コーヒー飲めましたっけ?」


「苦手です、」


ふはっと笑いながら、じゃあ紅茶を淹れますね、そう言いながらキッチンへと入っていった。


矢島さんがキッチンから出てくるまで、僕は志水のことを考えていた。


学期の途中から、不登校で有名だった。


僕の仲間内の男子が、残念そうに言っていたのを思い出した。


「志水だろ? 可愛いのに学校来ないなんて、何かもったいねえなあ。目の保養が減っちまう」


そうか、可愛いのか、そう思って、修学旅行の集合写真が載った、校内新聞のコピーを引っ張り出した記憶がある。


だから、学校では会わなかったが、顔は知っていた。


実際、その志水と思って本人を見るのは初めてだった。


僕がどうしてその志水がこの矢島さんの元を訪れているのか、志水も何かいわくつきの夢でも見てるのだろうか、色々訊きたいことがあったが訊いても良いことなのか、僕は混乱した。


「はい、どうぞ。熱いですよ、気をつけて」


矢島さんが紅茶を出してくれた。


僕はカップを取り上げて、口へと近づけた。


思いの外、その温度に唇が驚いた。


「あっちっ」


僕がカップをソーサーに戻して顔を上げると、矢島さんは笑みをたたえながら僕を見ていた。


「ほんと。どストライクですねえ」


そう言ってニマニマすると、再度キッチンへと入っていった。


✳︎✳︎✳︎


「うおいっ、真中あ、」


いつもつるんでいる加藤が、机の間を縫うようにしてこちらへやってくる。


僕は読んでいたマンガから目を上げると、加藤のサッカーのフェイントのようにクネクネと身体を捻って机をよけていく様子が目に飛び込んできて、それが笑えて仕方がなかった。


僕は爆笑して、マンガを読みかけのページで伏せた。


「ぶっははあ、お前きめえ。何、その軽い足さばき。まじウケるな、あはは」


「おま、ちょ、何でっ‼︎」


加藤の慌てように、爆笑の波がすすっと引いていく。


「どした?」


「志水さんが呼んでんだけど」


僕は咄嗟に教室の後ろのドアに目を向けた。


黒髪がさっと、隠れた気がした。


「いつの間に知り合っちゃってんの、何、俺、聞いてねえし」


僕は、イスを思いっきり後ろへと押しのけ、立ち上がった。


ガガっと大きな音がして、その音にお喋りしてた女の子らがこっちを見る。


けれど、僕はその場で固まっていた。


正直言うと、足が思い通りに動かずに、棒のようになってしまっていた。


「おい、早く行けよ。彼女、待ってんぞ」


さっきまで慌てていた加藤の声音には、すでに揶揄の色が含まれていた。


僕は、そんなんじゃねえ、そう言いながら棒になった足を竹馬のように何とか動かして、教室を出た。


彼女は僕を真正面に見て、言った。


「急に、ごめん」


うわ、と思う。


本物だ、と思う。


彼女はあの日と同じようにして、頭を下げた。


「あれから矢島さんのとこ、行ったの?」


僕が、うん、と頷くと、彼女は笑った。


その笑顔を見てもう一度、僕はうわ、と思った。


彼女はその笑顔のままで言った。


「凄いなあ、あの人ほんと、ドンピシャ」


ふふっと笑った。


そして、僕はここで、何故だか思いついてしまった。


何故だか、分かってしまった。


夢に関する相談をしに行ったんだと思い込んでいたから、そんなこと思いも寄らずにいた。


彼女は矢島さんを好きなんだ。


好きで、あそこに通っているんだ。


そう思った瞬間、身体中の力が一気に抜けていって、何処かへと飛んでいってしまったような気がした。


僕はそのまま、タコかイカにでもなるんじゃないかと、そんな感覚に陥った。


自分のことがバカに思えて仕方がなかった。


僕がそんな状態に陥っているのには当然気がつかずにだが、彼女が言った。


「真中くんの声、ステキだね」


その瞬間、僕の時が止まった。


ざわざわと聞こえていた生徒たちの声も、バタバタと廊下を走る足音の響きも、この世界の全ての音が耳に入ってこなくなった。


雑音が消えていく。


願わくば、だけど……と、続けて。


「私のために、いつも、笑ってて」


彼女の声だけを拾った、僕の耳に、いつしか世界の音が戻ってきた。


気がつくと、彼女の姿はなかった。


僕は廊下で、ずっと立っていた。


英語担当の先生に、早く教室に入れと、頭をはたかれるまで、僕は動けなかった。


とにかく僕は、支離滅裂だ。


✳︎✳︎✳︎



眠り屋の僕と、花屋の彼女


「可愛らしいカップルですね」


京子さんがマグカップをガチャガチャと片付けながら、キッチンへと入っていく。


僕は机を台拭きで拭きながら、二人が一緒に帰っていく姿を思い浮かべて、話を続けた。


「はい、でも二人とも、どこか危うい部分があって。それが心配と言えば心配ですね」


「危うい?」


台拭きを渡しながら、僕は苦笑した。


「まあ、高校生なんてそんなもんだよと言われれば、そうなのかなとは思うんですけど。それに思春期だし、」


二人が見る夢の内容や話を聞いて、僕にはその危うさが高校生の青春という時期に限られているものであるのか、それともそれは永遠に続く枷のようなものなのか、判断はつかなかった。


彼女も彼もそのどちらも、生や死というものをある種の哲学のように考える、そんな一面を持ち合わせている。


そう言うと、京子さんが言った。


「確かに、私にもそんな時期がありましたね。どうして人は生きるのか、って」


「けれど、答えなんて無いに等しいんですよね。それに絶望するか、はたまた享受するか、そこに違いがあります。けれど、だからと言って、僕に出来ることは何もないんです」


「そうですよ、私たちには何も出来ません」


「あの二人が、お互いに欠けた部分を補い合えれば良いのですが」


「そういくように、祈ってましょ」


京子さんがにこっと笑う。


僕はそう、この人のこういう所が好きだ。


僕をつられて笑顔にしてくれる、そんな可憐な笑顔。


「好きなもので周りを囲んでいく、かあ」


「何ですか? それ、」


「僕が天野さんに言った言葉です。周りを好きなものだらけにしようって。要は好きなもの探しを勧めたんですよ。そしたら彼女、それは自分を生きやすくするってことなのかって、訊くんですよ。参りました。僕には到底、答えられません」


僕は苦笑いをして、頭を掻いた。


「ふふ、先生の困った顔が浮かぶようです」


「あはは、」


僕が力無く笑ったのを見て、京子さんは僕が座っている長ソファに腰掛けてきた。


僕のすぐ横に座ったのを見て、珍しいなと思いながらも、彼女が続ける話に耳を傾ける。


「先生の好きなものは?」


僕が顔を上げると、頬づえをついて、彼女は直ぐ横から僕を見ている。


「僕が好きなもの、ですか」


少しの間、考えてから、一つずつ挙げていく。


「雨月庵のプリン、ワチパンベーカリーのバゲット、京子さんのマドレーヌ、」


ここら辺で京子さんのスィーツを出しておかないと突っ込まれるぞと思って言ったわけだが、その思惑が当の本人にはバレてしまっているらしい。


横目でギロッと睨んでくる。


僕は頭に手を当てて、苦く笑った。


そして、一呼吸おいてから続けた。


「北町行きのバス停、帝洋ホテルのクッキー、思い出の入った宝箱、それから人の想い、ですかね」


「あら、そのバス停って、何ですか?」


「僕の依頼者の恋が叶ったバス停なんです」


「そのお話、今度聞かせてください」


僕はもう京子さんに睨まれたことも忘れて、うきうきとして言った。


「良いですよ、良い話なんです。今度、お聞かせします」


「お願いしますね、イチさん」


「は、え、え?」


僕はその瞬間、何が起こったのか分からず、あんぐりと口を開けて、馬鹿みたいな顔をしていたに違いない。


そんな惚けた顔で、何とか声を振り絞って言う。


「京子さん、もう一度、な、名前を呼んでください」


すると、京子さんはいつもの悪戯っ子の顔をして、ふふと笑った。


「良いですよ、何度でもお呼びします。矢島せーんせ」


僕は、ふはっと吹き出して大笑いしてから、彼女の額にそっとキスをした。

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