十四章 夢酔いのバス停
その日は雨が降っていた。
土砂降りの中、髪から伝う水の流れを、身体のあちこちで敏感に感じながら走る。
濡れ鼠となり、服が肌に張りついて気持ちが悪い。
けれど、もう直ぐバスが発車してしまう、そう思うと心が急いて傘を差す余裕もない。
軽い息切れを感じながらも、俺は走った。
額に張り付く前髪が、視界を遮る。
けれど、工場の入り口からバス乗り場への道程は、身体が覚えていた。
覚えるくらい、何度も走った。
こんな風に大粒の雨に容赦なく叩きつけられる日も、温い風が頬をそっと撫でて首筋からワイシャツの中へとするりと滑り込んでくる日も、風邪をひいて咳が止まらずマスクの中が息苦しい日も、俺はそこへと通ったから。
息が次第に上がってくる。
けれど、そんなことより何より、俺のこの胸の中にある歓喜の花。
いつもバス停に着くまでにその蕾は、花びらを一枚一枚開いていって、俺を少しずつ狂わせていく。
ワイシャツの、左の胸ポケットには君に渡すものが入っている。
俺は雨に濡れて額に張り付いた前髪を右手で掻き上げると、その手を左の胸へと持っていき、ポケットの上から押さえた。
君に逢える、そしてこれを必ず渡すんだ。
びしょ濡れでも、心は晴れていた。
✳︎✳︎✳︎
その大男は、そこに立っていた。
実はその人を見掛けるのはいつも、僕が買い物帰りに通る市営のバス停だった。
そのバスは街の中心部を主に循環しているが、その中心部からは少し離れたここ北町の、まずまず人の出入りがある駅の近く、僕が営む『眠り屋』が入るビルの側まで、その足を伸ばして回ってきてくれるものだった。
ワイシャツ姿のサラリーマン風の男が、僕の職場である「眠り屋」の事務所の玄関前で、ちょっとした時間佇んでいる。
ドアの横にあるチャイムのボタンを押そうとする手を、先ほどから何度も上げては下ろすという仕草を繰り返していた。
その様子を僕はじっと見ていた。
僕が仕事として選んだ「眠り屋」という職業は、夢によって悩まされている依頼者の相談を受けるものだ。
僕は、他人の夢へと入ることが出来る。
依頼者の夢へと入り込んで、原因を探るのだ。
そんな僕の事務所の前で、一人立ち尽くす男性。
チャイムを押すかどうかを、まだ躊躇している様子。
白い半袖のワイシャツに身を包んだ彼の体躯は、鍛え上げられたそれだった。
背が高くがっしりとして、筋骨隆々。
僕とは正反対の彼のガタイに少しだけ恐れ慄く。
もちろん、依頼者であるだろうから、このまま身を翻して知らぬ振りなどは到底出来ない。
僕は心を決めると、恐る恐る声を掛けた。
「こんにちは、何かお困りごとでしょうか」
すると、半身だけこちらへ向け、僕をじっと見つめてくる。
「あ、眠り屋の矢島と言います。どうぞ、中へ……」
慌ててジャケットの内ポケットから鍵を出して、ドアを開けようと動く。
隣に並ぶと、改めてその威圧感に驚かされる。
大きな身体というだけで、その存在感が半端ない。
「どうぞ、」
開けたドアの間から再度中へと促すと、彼はさっきまでの体で躊躇していたが、ようやく心を決めたのか、中へと足を入れた。
ジェスチャーでソファに座るように言うと、ぐるりと一周回り込んで座る。
普段なら、僕が座っただけではそんなに音を言わせないソファが、ギギギッと悲鳴をあげた。
僕はその様子を横目で見ながら、上着を脱いでフックに掛け、そしてキッチンへと入って薬缶を火にかけた。
✳︎✳︎✳︎
「夢を見て、そんで、金が無くなってて」
その外見通りの無骨な物言いと、普段から寡黙なのであろう舌足らずな説明に、僕は困惑していた。
愛用の手帳にペン先をつけたまま、先ほどから一行も進んでいない。
「その夢について、もう少し詳しく説明していただけませんか」
男は、山崎 悟と名乗った。
北町の駅近くにある有名な車のメーカーの会社で、人事部の社員として働いていると言う。
ここで、人事部?という疑問が出てくる。
こんなにも話し下手な人が、人事部でやっていけるのだろうか。
けれど、すぐにその答えが出た。
よく聞くと、人事部と言っても社員の勤務状況を管理するもので、ほぼ一日、パソコンに向かっているという。
成る程、僕は山崎さんがパソコンに向かう背中を想像して、納得した。
以上が、僕が一時間弱の時間をかけて、山崎さんから聞き出した情報だった。
古めかしくてあちこちに傷があるテーブルの上で、僕が淹れたコーヒーがみるみるその温度を失っていき、すっかりと冷えてしまっている。
そして再度、夢の内容を話すよう促す頃には、一口も手をつけられないそのコーヒーの水面がゆらゆらと揺れ始め、僕はふと顔を上げた。
彼は表情を崩しながら、右足を小刻みにガタガタと動かせて貧乏ゆすりをしていた。
そして、崩した表情は、突然そのグローブのように大きい両手で覆われた。
「山崎さん、少し落ち着いてください。話を聞かなければ、僕はあなたのお力になれません。あなたの悩みが夢に起因するものだということはよく分かりました。その夢がどんなものなのかを話してください。思いついたことからでも結構です」
覆った両手から、顔をあげる。
そのどこを彷徨っているのか分からないような瞳は、怯えや迷いなどといった類の要素を含んでいるようにも思えたが、それが当たりかどうかはまだ判断がつかない。
それでも尚、話すのを躊躇する彼は、貧乏ゆすりを止めはしたが、そのまま黙り込んでしまった。
僕は、これは長丁場になるなと思い直すと、再度キッチンへと入り先日仕事の依頼者にお礼として貰ったカステラを戸棚から出し、包装紙を破った。
✳︎✳︎✳︎
ずぶ濡れの服でバスに乗り込むと、運転手がうわ、と露骨に嫌がる顔をした。
他のヤツらには愛想良くしているのに、俺が乗るといつも視線を逸らす、気の弱そうな運転手だ。
それでも座るとイスが濡れて迷惑を掛けると思い、バスの後方までそろそろと歩いていき、近くのポールを握って立つ。
バスに乗るヤツらが着ている薄グレーの作業着とは違う、俺の白いワイシャツの裾からもぽたぽたと水滴が垂れて、あっという間に俺が立つ場所に水溜りが出来た。
工場で雇っている送迎用のバスの中。
ワイパーが、ガガッと音をさせて忙しなく動いている。
窓を叩く雨の音。
そしてその人はいつも、一番後ろの席に座っていた。
ちらと横目で見る。顔色は悪く、俯いていてその表情は見えない。
細く長い指が膝の上で握られている。そして時々、それは作業服を握り込んでいた。
俺は顔を戻しながら、彼女の仕事ぶりを思い出していた。
目の前の仕事に黙々と取り組む姿。
小柄な身体をきびきびと動かして、手元に流れてくる部品を手際良く組み立てている。
彼女にはキツい仕事だと素直に思う。
どうして、そうまでして一生懸命に働くのだろう。
手に入れた給料は、悪意ある同僚に搾取されているというのに。
バスは、いつのまにか発車していた。
✳︎✳︎✳︎
「俺は、醜い」
僕は彼の次の言葉を待った。
長い時間、待たされたにも関わらず、それでも更に待った。
ようやく彼の手が動き、もう冷え切っているコーヒーのカップの取っ手に太い指を引っ掛けて持ち上げる様子を見て、ほうっと息を吐く。
張りつめた沈黙の空気に、僕は相当疲弊していた。
彼が、コーヒーカップに口をつける。
そして、そのカップがソーサーに戻された瞬間、僕は彼の目に涙が溜まっていることに気がついた。
それは頬を滑り落ちることなくその細い目の縁に止まり、口はつけたが実はコーヒーが一口も入れられなかったその結ばれた唇が、更に強固に引き結ばれていくのを見た。
僕は箱のティッシュをそっと差し出した。
そして、もう一度席を外そうとして、腰を浮かした。
すると途端に声が掛かる。
「すんません、俺、何を話していいか、」
僕は浮いた腰をソファに戻すと、彼を見た。
「す、んません」
謝罪を素直に口にする彼の目から零れ落ちた涙は、その広い頬を滑り落ちずに、グレーの綿パンの上に直接、点々と色をつけて染めていった。
僕はその様子を見ていた。
朴訥な彼の性質を、その一直線に落ちていく涙が表しているような気がしてならなかった。
僕は、心を決めてから、彼に話し掛けた。
「では、こうしましょう。僕があなたの夢へと入って、その内容は僕がこの目で確認する、それでも大丈夫ですか?」
依頼者にはいつもその夢の詳細を聞いて、おおよその目星をつけてから、慎重に夢へと向かうようにしていることもあり、このように無策の取り組みは、初めての体験であった。
けれどこれ以上、この目の前の男性を追い込んで傷つけてはいけない、そう思えて仕方なく、僕は決心した。
(僕がこの目で見れば良いだけのことだ)
彼が顎を下げて、大きく頷く。
ここまで寡黙で口下手な人も、珍しい。
けれど、僕はそんな彼の素朴な涙にやられてしまった。
その大きな体躯に見合うのか、見合わないのかが分からない、その憂いの涙に。
✳︎✳︎✳︎
「隣、」
バスの窓が開けられ、気持ちの良い風が彼女の髪を揺らしている。
彼女はいつも後ろの長シートの席に座っていた。
その日は雨でもなく嵐でもない、雲一つない青い空が眩しく、清々しい日だった。
凪いだ風を全身に感じながら、俺は彼女の返事を待った。
彼女がちらと、こちらを見る。
俺はいきなり目と目が合って、それだけで恐れ慄いて視線をよけてしまった。
そこで、ぐらりと身体が揺れた。
直ぐにも手すりを持つ。
すると彼女は、窓際へとずれてくれた。
隣に座っても良いという了承の意と取ると、俺はなるべく静かに腰を下ろした。
彼女の横に座れたというのに何を話して良いか分からず、しかも俺はちょっとしたというか、気の利いた話が出来ない男だから、ずっと自分の握った両手を見ていることしか出来なかった。
彼女は器用に、窓枠に肘を乗せて頬杖をつき、窓の外を眺めている。
風が彼女の髪をなびかせて、そのほっそりとした首と鎖骨とを周りの誰かかれかに見せつけていた。
小ぶりな鼻から続く鼻梁には、彫刻やら建築物やらの何かの造形美のようなものを感じさせる。
唇はふっくらと厚く、俺は知らないが工場の誰かに向かって投げた微笑の時には、白い歯を見せて口角を上げていた。
けれど、それは直ぐにも閉じられるのだ。
同僚や上司からは、顔は可愛いが根暗で陰気だと陰で言われていた。
そしてそれを耳にする度、決まって俺の中に怒りのような感情が湧いてくるのだった。
隣で盗み見ていた目を前へと向ける。
綺麗だな、俺は思う。
思うが、口にはしない。
口にしたら最後、そう、最後になってしまうから。
✳︎✳︎✳︎
僕の依頼者となった山崎さんのアパートへと向かう道すがら、僕は時々、彼を見かけていたバス停に、少し遠回りしながら寄り道をしてみた。
このバス停に山崎さんをあんなにも追い詰める、何かヒントのようなものが転がっているかも知れない、そう思って。
行き先は「北町駅」。
昼をとっくに過ぎてしまい、直ぐにも夕方に差し掛かるという時間、やはり今から駅へと向かう人は少なく、待っている客は初老の女性だけだった。
近寄っていっても、何の変哲も無いただのバス停のように見える。
僕が時刻表をまじまじと見ていると、おばあさんが話し掛けてきた。
「まだ来ないよ。さっき行ったばかりだ」
何だか言葉に刺々しさを感じながら、僕は返事をした。
「そうですか、一時間に何本ほど来るんですか?」
「ここは僻地だからねえ、一時間に二本だよ」
「じゃあ、次までかなり待たないといけませんね」
僕がそう言うと、堰を切ったように話し始めた。
「私ねえ、随分前からそこにいたんだよ。そら、直ぐそこ」
近くの花壇を指差す。
オシロイバナと呼ばれる、小さく可憐な小花が咲き乱れている。
目に焼きつくような鮮やかなピンク。
この花は、秋に黒くて丸い小さな種をつけるのだが、その種の中身が白い粉で出来ていて、それが化粧の白粉に似ているという名前の由来を持つ。
夕方に咲くので、「夕化粧」の別名がある。
「可愛らしい花ですね」
「そう、そう思って見てたら、バスが停まらずに行っちゃってねえ。悔しいったらないわ」
その不服そうに言う様子を見て、僕は苦笑しながら言った。
「それは大そう不運な目に遭われましたね」
僕がそう共感すると、おばあさんは運転手が悪いのよ、どこ見て運転してるんでしょうかねえと言って、ぶつぶつと文句を続ける。
すると、遠くの方から大型の乗り物のエンジン音がして、僕は顔を向けた。
バスが一台、こちらへと向かってくる。
「あ、バスが来ましたよ」
「あれはねえ、工場のバス。ほら、あれ、車のメーカーで有名な、えっと、」
こめかみに人差し指をつけて思い出そうとしているが、少しも思い出せそうもない様子なので、僕から話す。
「マキタ自動車の?」
「そう、それ。その工場の送迎バスなの」
目の前に一台のバスが停まる。
車体にはマキタ自動車のロゴと従業員募集の文字。
「お金出して、バス停を使わせて貰ってるんじゃあないかしらね」
乗っている人は皆、それらしき作業服を着ている。
工場はこの路線を戻った郊外にあるので、このバス停は工場から駅までの三分の二程の地点となる。
この時間だと、仕事を終えて北町駅から各々電車で帰っていく人を乗せているのではないか、そう予想した。
(山崎さんは本社勤務なんで、同じ系列会社でもこのバスとは関係ありませんね。会社には、市営バスで駅前まで行くと言っていましたし)
このバス停の近くにアパートを借りていると言っていた。
そのアパートが事務所の近くだということに気がつくと、何度かこのバス停で山崎さんを見掛けたのにも頷けた。
バスが音を立てて、離れていった。
降りる人は居なかったが、停車するのが規則なのだろうか。
僕はそこで本来の目的を思い出し、おばあさんに別れの挨拶すると、オシロイバナの花を一つ、指で摘んで拝借した。
こんなにも小さく可憐な花でも、一生懸命にその生を営んでいることに気付かされるような、そんなふわりとした香りが放たれた。
僕はそれを指で摘んだまま、残り五分程の距離をまた歩き始めた。
✳︎✳︎✳︎
少しすると、山崎さんが住む、古めかしいアパートへと着いた。
これは相当年季の入った部屋だろうと、その外観から想像していたが、中は意外にも清潔で、こじんまりとした部屋だった。
山崎さんの性格なのか、不要な物が一切無いシンプルな部屋。
出してくれた麦茶は可愛らしいリンゴの模様がついたグラスに注がれていた。
そのギャップに少しだけ固まる。
けれど、僕は先ずは仕事が優先と思い直し、夢へと入る手順などのインフォームドコンセントを始めた。
これは依頼者の夢の中へと入ることによって起こり得る事案や、注意事項、その方法などを事細かく説明し、本人の了承を得るものだ。
「今回は、残念ながら山崎さんから夢の詳細をお聞きできなかったものですから、あ、良いんです。気にしないでください」
彼が腰を浮かして、そわそわし始めるのを、僕は手で制した。
「けれど、やはり事前準備が決定的に不足しています。なので、一度目は様子をじっくりと見させて欲しいのです。後日、数回夢へと入らせていただくことになりますので、その点ご了承いただけますか?」
僕はいつにも増して、何度も念を押した。
最後に料金を説明すると、山崎さんは目を皿のように丸くしてその表情を崩したが、それが考えていたより高かったのか、もしくは安かったのか、そこまでは分からない。
直ぐに立ち上がって財布を持ってくる。
「後ほどのご請求になりますので、今日は不要です」
手でストップをする。
山崎さんは財布をフックに掛けてある上着のポケットに戻すと、テーブルの前にどしっと座った。
大柄な身体つきに見合わない小さなテーブルが、その衝撃で少しずれたように思う。
僕は苦笑いをしながら、先ほど手に入れたオシロイバナを軽く握った手を指を上にしてテーブルの上へと置いた。
「では、夢へと入らせていただきますね」
指を一本ずつ開いていくと、目にも鮮やかな濃いピンクが見えてくる。
その存在感、けれど確か花言葉は……
臆病、内気、
そして、山崎さんには一見そぐわない、
疑いの恋
指を開いてオシロイバナの姿が完全に現れる頃には、山崎さんの目蓋はゆっくりと閉じられていた。
僕はこの目の前の、うつうつと船をこぎはじめた大男が、一体どのような類の夢に悩まされているのかなどと、これから見るであろう光景を想いながら、夢への入り口へと向かうカウントを数え始めた。
刻、刻、刻、刻、
腕時計の秒針を使う。
永遠に続く音の羅列。
それを感じながら、カウントをする。
いち、にい、さん、しい……
そして、カウントを止めて目を開けると、僕はいつの間にか、バスの最前列に座っていた。
ちらと後ろを窺い見る。
山崎さんとその隣に座る、美しい女性。
僕は夢の登場人物の誰にも見つからないようにと、頭を下げて背もたれに隠れると、そこで息を殺した。
✳︎✳︎✳︎
バスは走り続けている。
いつも俺が降りるバス停の、少し手前にある大きな橋に差し掛かると、俺は意を決して胸ポケットに入っているものを引っ張り出した。
彼女がそんな俺の動作に、少しこちらを見たような気がした。
俺はポケットから取った物を、直ぐにも右手で握り込んだ。
クシャだとか、パリッだとか、音がしたように思うが、そんなことはもうどうでも良いし、俺は果たしてそれを彼女に渡せるのか、そればかりで頭の中は一杯になった。
橋を渡りきってしまうと、バス停が見えてくる。
俺はもう一度、右手を握り直して、その中の存在を確認すると、ちらと横を見た。
彼女はもう、顔を向こうにむけて外を見ていた。
俺はバスがバス停に停まる瞬間、握り込んだ右手を彼女の前へと伸ばした。
それに気付いて、彼女が俺を見る。
初めて、真正面から見た顔だった。
綺麗だ、そう思っていた気持ちは容易に覆された。
俺は動揺した。
それはもう、綺麗とか美しいとか、そういう言葉では表せないものだった。
俺は俺の心臓を誰かに両手で掴まれて、ブルブルと揺さぶられる感覚に慄いてしまった。
慌てて俺は右手で握っていた物を、彼女の手に押しつけた。
そして、それを握らせると、俺は鞄を肩に引っ掛けて、バスを降りた。
いつもなら、降りた後もバスを見送っていた。
バスの後ろに見える、彼女の黒髪をずっと見ていた。
けれど、今日は、それが出来なかった。
一心不乱に家へと走った。
部屋へと飛び込むと、俺はその場にばたりと倒れ込み、はあはあと息を吐きながら、そのまま動けなくなった。
脳裏にも、瞼にも、心臓の裏側にも、真正面から見た彼女の顔が刻み込まれている。
俺は、最後に大きな溜息を、はああっと吐くと、顔を両手で覆って、いつまでも消えない彼女の顔を見ていた。
✳︎✳︎✳︎
「何とまあ、純朴な……恋ですね」
僕は山崎さんの夢から辞した後、そして半寝でぼんやりと虚ろな彼を置いたままアパートを出てから、元来た道を戻るようにして帰っていた。
「けれど、これはちょっとおかしいです」
とぼとぼと歩きながら、夢での光景を思い出す。
夢の中で彼がバスに乗る時、僕も同じようにバスに乗り、そこで様子を窺っていたのだが、今までに僕が入ってきた他の依頼者の夢の様子と違って、夢全体がなぜか朧げで薄っすらとしている。
残像、のような印象だった。
とにかく、何もかもが薄い。
背景、人物、そして当の本人でさえ、儚げで直ぐにも消え去ってしまうような、そんな夢であったのだ。
そして、彼が駆け出して部屋へと入ったと同時に、何もかもがすっと消えて無くなってしまった。
僕は追い出されるようにして、夢から醒めた。
けれど、何と美しいものだ。
山崎さんの純粋な想い。
その心が洗われるような場面に接することが出来て、僕は心底嬉しかった。
山崎さんの家を出て事務所に辿り着くまでの帰りの道、僕の目に飛び込んでくる景色の何もかもが、美しかった。
見上げると、その闇夜にはちらちらと星が光っているし、その漆黒の空の真ん中あたりには半月が煌々と輝いていて、僕の心へとするりと入り込んでくる。
「彼女は、現実の人でしょうか」
夢の中だけの存在。
そういったことも、ままある。
こんな闇夜のしんと静かな夜は、ひたひたと夢の続きが追いかけてくるようで、僕は事務所へと帰ってからも、現実へと戻るのに少しだけ苦労した。
✳︎✳︎✳︎
俺がいつも乗るバス以外でその光景を目にしたのは、随分と前からのことだった。
シフトでずらして取る昼休みの時間、社員食堂で彼女は数人と食事を共にしていた。
テーブルには彼女と男が二人、そして女が一人。
その女は彼女とよく一緒に作業をしているバディだった。
「ねえねえ、柏木さんさあ、普段は何して遊んでるの?」
彼女の前に座る男が身を乗り出して話し掛けている。
俺はその時初めて、彼女の名前が柏木だと知った。
遅くなった食事を取ろうと、近くのテーブルに料理を乗せたトレーを置く。
その集団を斜め前に見ながら、俺は焼き魚に手をつけた。
「特に、何も」
彼女の返事はこの位置だとよく聞き取れないほど小さく、ビクビクとした怯えのような性質が含まれていることが見て取れた。
そんな話し方だからか、他の三人は調子づいて、どんどんと大きな声になる。
「ふはは、特に何もて!」
「暗いなあ。もっとさあ、テンションあげていこっ!」
隣の女がバシッと背中を叩く。
この距離でも結構な音がして、俺がちらと目を遣ると、彼女の表情は歪んでいた。
「そうだあ、帰りに焼肉食べていかない?」
「いいねえ」
女が言って、男が賛同した。
「柏木さんも一緒に行こうよ」
もう一人の男が誘う。
「私はいいよ、みんなで行ってきて」
すると女が彼女に身を寄せて言った。
「え~、一緒に行こうよ。ね、一杯奢るからさっ!!」
「でも、」
「はい、決まりな~!!」
「うおっしゃ~」
男二人が強引にまとめてしまう。
俺は食べ終わったトレーを食器の返却口まで持っていくと、食器を受け取ったおばちゃんに軽く頭を下げた。
毎回、俺は頭を下げるが、このおばちゃんと目があったことがない。
食べ終わった食器をトレーごと取り上げて、水を張ったシンクの中へとそれを沈めるのに精一杯で他に気を配れないのだろう、そう思ってその場はやり過ごす。
他の奴らのように、ごちそうさんと声を掛けられればと思うが、俺には出来なかった。
喋るのは苦手で、いざ喋ろう、話し掛けようとすると、唇が貝のように引っついてしまって、声が出ない。
だからもう、諦めてしまった。
この口が悪いんだと、そう思って生きてきた。
トレーを片してから、喫煙所に向かう。
煙草を一本吸い終わって出ようとすると、食堂で彼女を取り囲んでいた男二人が入ってきた。
俺が出て行こうとすると、他に誰もいないと気を許したのか、二人で笑い始めた。
「焼肉、四人だと二万はするぜ。良いのかよ」
「イインダヨ。趣味はねえって言ってただろ? 他に金の使い道がねえんだから、俺らがパアッと使ってやろうぜ」
「本当にあいつ、金持ってんのか?」
「ヨリが柏木は金持ってるって、言ってただろ? あいつ、他の奴らからも目つけられて、金パクられてるって。いいカモっつーわけ。だから、俺らも混ぜて貰おうぜ」
背中でこの会話を聞いた時、俺はとてつもなく嫌な気持ちになった。
どす黒いものが俺の中へと広がっていき、イライラとした気持ちを抑えきれずに、俺は廊下に置いてあるゴミ箱を思い切り蹴飛ばした。
ゴミ箱は蓋を飛ばして転がっていき、空き缶をいたるところにぶちまけた。
俺はその様子を冷えた目で見ていた。昼休みが終わる頃、少しだけ冷静になって、空き缶を拾ってゴミ箱へと戻した。
ゴミ箱には、蹴飛ばした時についた、亀裂が走っていた。
それから俺は、彼女を見るようになった。
すると、誰もかれもが彼女から金をむしり取っていく。
女は化粧品や菓子やドリンクを買わせ、男は金を借りに来て返さない。
彼女は上手に断ることが出来ずに、財布から金を出し続けた。
俺は彼女を憐れんでいた。
けれど、口下手で小心者な俺は、彼女に話し掛けることも、奴らに制裁を加えることも出来ずに、胸のモヤモヤだけを抱きながら、彼女を見ていた。
ずっと、見ていた。
✳︎✳︎✳︎
僕が山崎さんのアパートへと行く日、再度オシロイバナを手に入れる為バス停に寄ると、この前と同じおばあさんに出会った。
「ああ、こんにちは。今日は乗り過ごしていませんか?」
僕が話し掛けると、彼女は怪訝そうに僕を見て言った。
「どなただったかねえ。私はバスを待っとるけど、あんたもか?」
話が噛み合わないのを奇妙に思いながらも、話を続ける。
「いえ、私はあの花を見に来ました」
先日より開花の数が増えている一角を指差し、そして言う。
「今日はバスに乗り遅れないようにしないといけませんね」
すると、おばあさんは途端にそわそわし始めた。
「そうなんじゃ、私がここで待っとるのに、停まらずにいつも行ってしまう。酷い運転手なんだよ。バス会社に電話したらにゃいけん」
僕はもしかして、と思った。
その時、おばあさんが斜めにかけているポシェットに彼女の名前らしき札が下がっているのに気づいた。
そして、電話番号の記載。
どうやら、認知症を患い、ここら辺を彷徨っているようだ。
僕は携帯電話を持っていないので、通り過ぎた女性に声を掛けてその番号に電話してもらい、そのおばあさんの娘とやらが迎えに来るのを待った。
恐縮しながら迎えに来た娘におばあさんを預ける。
それから、僕は山崎さんのアパートへと向かった。
夏が始まり、肌がちりちりと日差しを感じて薄っすらと汗をかく、そんな日だった。
✳︎✳︎✳︎
俺は彼女を見ていた。
金を巻き上げられる彼女の様は、羽をむしり取られるような鳥のように、みるみる弱っていくように見えた。
暗かった表情も、今では闇の中で彷徨っているようなものに変わっていったし、元々そんなには持ち合わせてはいなかっただろうが、生きる活力なる要素の中のただ一つの欠片でさえも、どこにも見出せなかった。
最初はどうしてはっきりと断れないのかと、俺は相当イライラしていた。
そして、心から可哀想にと憐れんでいた。
それなのにどうして、俺は。
いつの間にか、彼女を助けたいと思うようになっていた。
時々、自販機の前でコーヒーを美味しそうに目を細めて味わっている横顔を、綺麗だと思うようになっていた。
綺麗だと、思っていた。
「どういうつもりですか? これ、お返しします」
彼女はバスの中で僕が渡したものを、可愛らしいネコのついた封筒で返してきた。
強い口調で問われた時、何だこんなにもはっきりと言えるんじゃないか、そう思ってしまった。
声は小さいけれど、ちゃんと意思を持って発した言葉に、俺は小さな感動を覚えたくらいだった。
けれど、俺は何も言えなかった。
いつものように、口は鉛のように重く開かない。
そして、沈黙が続いた。
彼女の横に座っているというのに、バスの窓は気持ちよく開け放たれて、彼女の髪をさらさらと巻き上げているというのに、俺はこんなにも重苦しい気持ちにさせられている。
俺はそれをなかなか受け取らなかった。
拳を握って、受け取らなかった。
そうしている内に、いつもの橋に差し掛かり、俺は右手を胸ポケットに入れた。そして、中のものを取り出すと、彼女が持つネコの封筒の上に重ねるようにして、ぐいっとねじ込んだ。
そして、バスを飛び降りるようにして出る。
背中には、ちょっとっ、という彼女の慌てた声を感じていた。
✳︎✳︎✳︎
「お金を、紙幣を渡しているように見えました」
僕が見た夢の内容をそう結んで終えると、山崎さんがようやく口を開いてくれた。
「だ、大体その通りです。それで、起きたら……財布から、ほんとに金が無くなってて」
「実際、無くなっているわけですか。財布を開けたりという記憶は無いのですか?」
「全く、身に覚えが……」
「なるほど、と」
僕は手帳を閉じて、慎重に言った。
「すみません、何度も繰り返しで申し訳ないのですが、もう一度夢へと入らせてください。次で終わりにしましょう」
すると途端に山崎さんの様子がおかしくなってしまった。
「え、終わりって? もう、夢を見なくなるんですか? そ、そ、それは困ります。嫌です、止めてください」
僕は山崎さんの彼女への恋慕の情を想って、苦く笑った。
金を無心される彼女を放っておけなく、自分のお金を渡してしまうまでに愛情を昇華してしまっていたのだ。
「好きなんです。横に座りたいんです。夢でも、夢だけでも。金のことはもう良いです」
涙が零れ落ちるのを見て、僕ははっとした。
何という、涙だ。
邪なものが何一つ含まれない、透明な。
「大丈夫です。彼女には会えますよ」
僕がにこっと笑うと、彼は拳で涙を拭って、僕を見た。
✳︎✳︎✳︎
「これは単なる悪戯でしょうか、それとも」
僕の問い掛けを途中で塞ぐように、言葉は投げられた。
「俺たちは彼女を助けたいだけだ‼︎ お前、邪魔するな‼︎ 邪魔すると、痛い目を見るぞ」
「そうだっ、邪魔するなっ‼︎」
僕は山崎さんの夢へと入って三度目のこの時、夢のカラクリを明らかにしようと、多少なりともそういう決意で臨んでいた。
そして、そうではないかと踏んでいた通りの、この「夢魔」の仕業。
「夢魔」とは、人の夢に巣食う存在で、人間の夢から夢へと渡り歩いて、その夢を食い散らかしては生きる糧としている妖魔だ。
その中には良い性質のものもいれば、悪いのもいる。
性格も違うし、容姿外見などもそれぞれ違って、個性的だ。
職業柄、僕はこの夢魔という存在に遭遇する率が極めて高い。
初めて夢魔に出逢ったのは、薄幸の女性画家の夢であった。
それは僕が初めて経験した、夢魔が宿主に恋をする珍しいパターンであった。
そして、今回もそんな夢魔が絡んでいるのではと、当たりをつけていた。
画家の時は、夢魔は「黒豹」の形だった。
けれど今回は、僕のイメージから言うところの、「小鬼」である。
それも、「双子の小鬼」だ。
「何だ、早く出て行けっ‼︎」
「出て行けよっ‼︎」
頭頂部の角のようなものをこちらに向かって突きつける。
僕は両手を上げて、降参のポーズを取った。
「待ってください、彼を使って彼女にお金を届けさせるのは止めて貰えませんか? そんなことをしても、彼女の件は解決しないと思います」
小鬼たちはお互いを見合った。
それから、再び僕を怪訝そうな目で見た。
「何を言っている」
「柏木さんが職場でイジメに遭っている件です。彼女、お金を巻き上げられていますよね。それを君たちが助けようとしている。けれど、山崎さんのお金をあげても、彼女は受け取らないし、イジメも無くなりませんよ」
「受け取ったぞ」
「そうだ、受け取っていた」
僕は上げていた両手を腰に当てた。
「それは無理矢理、押しつけているだけだからですよ。現に彼女、封筒に入れて、返そうとしていたでしょ。覚えていませんか? ネコの封筒に入っていたの、あれ多分山崎さんがあげたお金ですよ」
小鬼たちは、更にお互いを見て、何かヒソヒソと話し始めた。
構わず、僕は話を続けた。
「夢を見せながら、現実でも人間を操れる夢魔には、初めて会いました。凄いですね、どうやっているのか知りませんが、山崎さんは全て夢だと思っていますよ」
「俺が男に夢を見せている」
「俺が女に夢を見せている」
思いも寄らぬ手法が判明し、僕は感嘆の声を上げた。
「うわあ、それ本当ですか。では、山崎さんだけではなく、柏木さんにも同じ夢を見せているのですか? 同時に?」
小鬼がふんっと鼻から息を吹いたのが聞こえた。
「同時にな」
「そうだ、同時にだっ‼︎」
「山崎さんはマキタ自動車の本社で働いているし、柏木さんは部品工場で働いている訳ですから、普段は会うことのない二人を、夢の中で巡り会わせているのですね。君たちは柏木さんがイジメに遭ってることを、夢で山崎さんに知らせようとした。それで、お金を渡すよう、山崎さんを操っているわけですか」
「男は時々、女の工場へとやって来る。二人は同じバスに乗って帰る。その時に夢を見せているのだ」
僕は更に感嘆の声を上げた。
今までに無い事例に、興奮の気持ちが湧き上がってくる。
「うわ、夢の部分はその帰りのバスの中だけ、ということですか。夢でお金を渡しているように思わせて、実際にもやり取りをさせるなんて、本当にスゴ技ですねえ。けれど、両人が夢だと思っていても実際問題、山崎さんは手元のお金を失い、柏木さんの手元には現実、正体不明のお金が握られている。その矛盾にお二人が気づいて困惑してしまうことなんて、少し考えれば分かるじゃないですか」
「金をあげれば、喜ぶと思って」
「喜ぶと、思って」
僕は大仰に溜息を吐いた。
「まあ、良いでしょう。でもどうして、君たちはそのお金を運ぶ人に、山崎さんを選んだんですか?」
「男は、女をよく見ていた。良い印象を持っていると思って選んだが、間違いだったか?」
「間違いだったか?」
小鬼たちが揃ってこちらを見る。
「いえ、間違ってはいないようですよ」
僕は、再度はあっと溜息が自然と出てしまうのを、止められなかった。
「そうですか。山崎さんと柏木さんの現金の受け取りに関して、彼らが夢だと思い込んでいるとなると、僕も迂闊に説明云々は出来ませんねえ。きっと、柏木さんも混乱しきりでしょう」
小鬼たちは、表情を変えずにいる。
けれど、その言葉のトーンで、反省(?)しているようだった。
「金を渡すのはもうよそう。それで良いか?」
「それで良いか?」
僕は、取り敢えず満足する答えが返ってきて、にこりと微笑むと、もう一つの僕の願いを口にした。
その願いを聞いた小鬼たちは、やはりその表情を変えずに問うた。
「どうして、そんなことをするのだ?」
「なぜだ?」
僕は小鬼たちが満足する言葉を伝える。
「彼女が幸せになる方法です。是非とも、ご協力ください」
✳︎✳︎✳︎
「な、何で、」
「良いから、良いから」
小鬼がもたらしている夢から醒めて、訝しむ山崎さんを無理矢理連れ出して、僕が二度、寄り道をして通ったあのバス停へと向かう。
咲き誇るオシロイバナを横目で見ながら、僕はバス停へと歩を進めた。
今日もおばあさんが、佇んでいる。
「おばあさん、こんにちは。今日も良い天気ですね」
声を掛ける。
すると、おばあさんは振り返り、そして笑った。
「こんにちは、良い天気だねえ。バスに乗るのかい? さっき、行ったばかりだよ」
そして途端に不機嫌な口調で、話し始める。
「あのバスの運転手、また私を乗せずに通り過ぎちまったよ。本当に不親切な運転手だよ。電話して文句の一つでも言わないと」
僕がニコニコと話を聞いているので、山崎さんが、あの、と声を掛けてきた。
その体躯には不釣り合いな、不安そうに揺れる瞳。
僕は何をも説明せずに、山崎さんをここへと連れ出していた。
あの夢魔である小鬼たちとの対峙から醒めた僕は、こんなことはまず珍しいのだが、僕より先に目を覚ましていた山崎さんの不安そうな瞳を認めていた。
夢であっても彼女に会えなくなるのは嫌だと、駄々をこねるようにその気持ちをシンプルに口にした山崎さんに、その不安を取り除く良い説明の仕方が思いつかず、結局はこうして連れ出しているだけで、僕は何の役割も果たしてないことに気づく。
「すみません、もう少し待っててもらえますか」
「ああ、ええよ」
山崎さんに言ったつもりが、おばあさんがそう答えて、苦笑する。
見ると、山崎さんも苦く笑っていた。
そして、オシロイバナの花言葉は、疑いの恋。
僕は確かめなければいけない。
それが本当に、疑うべき恋なのかを。
✳︎✳︎✳︎
バスが来る。
いつも通勤に使っている市営のバスでは無い。
けれど、見慣れた会社のロゴが車体にプリントされている。
工場の送迎バスか、そう思った瞬間、俺は夢を思い出していた。
そうだ、これは夢の中でも俺が乗っていたバスだ。
俺は本社勤務だから、普段はこのバスには乗らないが、月に二度、本社から工場へと職員の勤務状況の確認に行かされている。
帰りは直帰で家に帰るれるため、この送迎バスを利用して、今居るこのバス停で降りていた。
そしていつもは、このバスの一番後ろに、彼女が乗っている。
バスが停まって、俺は恐る恐る後ろの方の窓に目を遣ってから、直ぐに俯いた。
居ない。
俺はそのことに気がついて、もうそれだけで深く落ち込んでしまった。
彼女がそこに居ないというだけで、奈落の底というものがあるのなら、俺はもうそこに落っこちるしかないなどと思って落胆する。
後ろの窓には、見たことのない年配の女性の顔がある。
俺が奈落の底へと落ちる準備をしていると、バスのドアがガコッと開いた。
そして、一人、人が降りてきた。
それは、薄グレーの作業服に包まれている、とても美しい人。
俺は驚きのあまり、固まってしまった。
その女性を降ろすと、バスはそのドアを閉めて走り去った。
真っ直ぐに見たその顔は、俺が夢の中でも現実でも、逢いたくて逢いたくて、死にそうなくらいに恋い焦がれた顔だった。
「これ、お返しします」
ネコのイラストが描かれた封筒をずいっと差し出す。
俺はそれを見て更に驚き、何が起こっているのか分からず、混乱していた。
あれは夢だったのでは、夢だったはず、と困惑した。
説明を乞おうと、眠り屋の矢島さんを見る。
けれど、矢島さんの姿はどこにも無かった。
周りを見回す。
バス停のベンチで、おばあさんが座っている。
俺は更に慌てると、どうして良いのか分からずにもっと混乱した。
さっきまでは奈落の底へと落ちそうになっていたが、今は穴があったらそこから入ってこの場から逃げ出したい。
「あの、これ」
更に、封筒を差し出してくる。
俺はその封筒をしばらくの間、頑固に見つめていたが、それを受け取ると同時に、彼女の顔を盗み見た。
見惚れてしまうような、その唇。
その鼻、鼻梁、その伏せられた睫毛、さらさらと風になびく絹のような黒髪、その瞳。
その瞳、美しい瞳。
くっきりと描かれているその二重の瞳。
本物の彼女を前にして、驚きもあったし、動揺もあったし、俺の内側からせり上がってくる恋心もあって、俺はやはり何も言えなかった。
「どういうつもりですか」
思いも寄らぬ言葉に、俺は動揺して揺れた。
「可哀想なやつだと思って、んっ」
言葉に詰まると、みるみる目に涙が溜まってくる。
さっきまで澄んでいた瞳が、ぐにゃりと歪んだ。
「ど、同情でっ、んっ、うぅっ」
俺は焦って、違う、と言いたかった。
同情なんかじゃないと、伝えたかった。
けれど、やはり俺は小心者で、口下手で、何て言っていいかも分からなくて、どうしようもないやつだと自分をなじった。
「お金、なんて、酷いっ、んっ」
しゃくりあげるのを我慢するように、けれど涙は次々に流れて流れて、地面に落ちる。
それを掬うようにして、手の甲を必死で押しつけていた。
遠くで大型の車が近づいてくる音がした。
それがバスなら、それに乗って君は去ってしまうだろう。
恐る恐る顔を上げる、そこへガガガッと音を上げてトラックが凄いスピードを出して横切っていった。
俺は、ホッと息を吐いた。
けれど、その後からトラックを追いかけるようにして走ってくる、市営のバスの姿が目に入る。
彼女が振り返って後ろを向く。
行ってしまう、バスに乗って去ってしまう。
消えてしまう、夢でも夢じゃなくても、こんなにも愛しているのに。
バスが横づけされる。
スローモーションのように、ドアが開いた。
彼女が一歩、ドアへ向かって踏み出そうとした瞬間、声がした。
「行ってしまうよ」
その言葉に突き動かされて、俺は後ろから彼女を抱きしめた。
目をぎゅっと瞑って、一生懸命抱きしめた。
苦しくないだろうか、そう思って腕の力を少し緩めた。
けれど、離さなかった。
ネコの封筒は、俺の手で握り締められて、ぐちゃりと潰れている。
「あーあ、また行っちゃったわい」
おばあさんが呟くと、俺は声を絞り出して言った。
あなたが好きです、と。
✳︎✳︎✳︎
娘さんがおばあさんを迎えに来たのを確認すると、僕はそっとその場を離れた。
オシロイバナの茂みの後ろの縁石の部分に腰を下ろしている姿はまさに不審者候で、おばあさんを早く迎えに来て欲しいと切に願って座り込んでいたけれど、実は僕は山崎さんの恋が叶えられる瞬間には立ち会えなかった。
携帯を持つ人を、うろうろと探し回っていたからだ。
もう直ぐ日が暮れると思うと、もちろん依頼者である山崎さんの件の方が気になってはいたものの、おばあさんが家に帰れなくなると困ると思い、居ても立っても居られなくなった。
僕が携帯を持つサラリーマンに頼んで電話してもらい、バス停へと戻る頃には、山崎さんと柏木さんは二人寄り添っていた。
大きな身体の山崎さんの腕の中にすっぽりと収まっている女性は、僕が夢へと入った時に見た柏木さんそのものだった。
きっと、これで心無い者たちの彼女への金の無心も収まるだろう。
あんな大男が彼氏では、誰も手を出すことはできまい。
僕は、山崎さんとおばあさんの二つの件が何とか解決したのを見届けると、ほっと一息ついて宵闇の空を見上げた。
まだ星は少なく、けれどその色は濃い藍色で染められていく。
「さあ、もう君たちの出番は無いですよ。柏木さんをバス停まで連れてきてくれて、ありがとうございました」
そして、苦く笑う。
「僕も、今回は本当に役立たずでした。それに花言葉が意に沿わない花を、使ってしまいました……」
いつも依頼者を眠りに誘う花は、その依頼者の心に寄り添う花言葉の花を使っている。
けれど、今回は全くの見当はずれ。僕は苦々しく笑った。
疑いの恋
そう、疑う余地など無かった。
恋心は、正真正銘、真実だ。
心には苦味が残ったけれど、風が吹いていったのを心地よく感じた。