十三章 現し身のあなた
俺がその写真を見つけたのは、本当に偶然だったと言っても良い。
父親の書棚や文机ではなく、台所にあるただの食器棚からそれを見つけたのには、何か深い意味があるのだろうか。
色褪せてその原型を保っていないボロボロの封筒。
箸やらスプーンやらが入れられている引き出しの底に眠っているのをたまたま見つけた。
封筒の裏には、最近経営統合して大きくなった大手銀行のかつての名前。
そして、中を見ると、一枚の写真。
それは母でもなく、祖母でもない、俺には見覚えのない女性の姿のものであった。
✳︎✳︎✳︎
元々母親がいなかった俺が、母親が死んでから成人を迎えた現在の二年前まで、傲慢で高潔、厳格な父親に叱責されながら育てられ、よく発狂せずに大きくなったと自分を褒めてから家を出て就職し、やっと人並みの生活を安穏に送れると思った矢先、俺の元へと訃報が届いた。
そんな父親だったから、事故で呆気なく死んでしまったことに、人の生やその意味や何やを考え込むこともなく、そしてそれらを疑問に感じることもなかったから、葬式が滞りなく終わってからも、涙の一滴すら出ることもなかった。
遺品を整理してから一息ついて、すっかり片付いた部屋をぐるりと見る。
父の日記を読んだり写真を見たりと感慨に耽って一日を無駄にしたくない、そう思い込んでいた俺は、手に取るもの片っ端からゴミ袋の中へと放り込んでいった。
手元に残った財産も、地位も、名誉も無い。
「偉そうなこと言って殴ってた割には、大した男じゃなかったな」
母はどんな人だったのだろう、そう思ってアルバムから母の写真を数枚めくって剥がす。
それをジャケットの内ポケットに入れると、あとのアルバムはそのままゴミ袋に入れる。
母親が死ぬ前までの分しか、俺の小さい頃の写真が貼られていないのは、きっと父親が仕事と子育てに追われて、写真なんかを撮ってる場合じゃなかったんだろうと想像は出来る。
けれど、許せない。
頭では理解出来るけれど、心が緩まないのだ。
「いや、理解したいとも思わねえ」
俺はゴミ袋の口を何重にも固く固く結ぶと、そのまま廊下へと放り出した。
✳︎✳︎✳︎
誰もいない部屋に、コチコチと時計の音が響く。
延々と終わらない片付けで結局、貴重な時間を費やす羽目となり、自分のアパートまで帰る終電が無くなるのを腕時計で確認すると、俺はその日この実家に泊まる覚悟を決めた。
もうこの家には戻らない、そう二年前に決心したはずの心の拠りどころのようなものが、意外と脆くも崩れ落ちていく。
適当に布団を敷いて横になる。
父親の布団は使いたくなかったから、自分が二年前まで使っていた布団を押入れから引っ張り出したものだ。
ぐるりとくるまって、目を瞑る。
しんとした静寂と冷静の中でも、目蓋の裏へと躍り出てくるものは、一片も笑ったことの無い父親の顔。
いつの時でも、何に対してでも常に腹を立てていた。
「つまんねえ人生だな」
そして、そう呟く俺も、あまり笑ったことが無い。
学校で数少ない友人に借りた漫画が思いのほか面白かった時と、クラスで唯一気になっていた女子が、俺じゃない他の男子の制服のボタンに長い髪が絡まって、その事件(?)がきっかけで付き合いだした時、そんなマンガみてえなことあるんだなって腹抱えて笑った時と、それくらいの数少ない笑いだったから、安納君はいつも機嫌悪いねって言われるくらいの仏頂面の毎日だったのだろうと思う。
「つまんねえ人生だよ」
そう再度呟くと、俺はもう何も考えたくないと思い、必死になって目を瞑った。
✳︎✳︎✳︎
明け方、まだ早い時間に目が覚める。
冷蔵庫も含めた電化製品は何もかも、コンセントを抜かれて、リサイクルショップの迎えを待っている。
朝食は近くの喫茶店で取った。
家に戻ると、まだ止めていない水道と電気で、コーヒーを淹れて飲んだ。
キッチンでそうやって時間を過ごしている間も、何度となくテーブルの上に投げ出された写真に目がいった。
古封筒に入っていた、古びた写真。
セピア色と言えば聞こえは良いが、薄っすらと茶色みがかった、長い年月を思わせるその姿だ。
一体、この女性は誰なんだろう。
随分と昔のものだけれど、だからと言って着ている服が和服というわけではなく、ワンピースのようなものを上品に着こなしている。
そのワンピースが、白なのか黄色なのかは変色してしまっているので分からない。
薄っすらとプリントされた、水玉か花柄かの模様。
痩身ですらりと腕が長く、小ぶりな両の手が身体の前で重なり合っている。
上半身しか写っていないし、比較となる背景が何も無いので背丈がどれほどであるのかなどの情報は無い。
「本当に誰なんだろうな」
そして、その顔。
美人とも言えるし、そうでないとも言える、独特の顔。
眉は弓なりの良い形であるが少し太めで印象深い。
そんな風に眉にインパクトがあるため、第一印象は彫りが深くハーフなのではと思わせるような顔立ちだった。
けれど、よく見ると鼻は小ぶりで低そうだし、唇も薄く平たい。
眼は一重。
自己主張はしないが、それぞれのパーツはそのバランスを保っていて、とても清々しく好感が持てた。
瞳は……。
一重だと言っても細くなく、それなのに何故かくっきりとその輪郭を描いている。
斜め下の少し外側へと流れている睫毛が半分、その瞳を隠している。
何を宿しているのか分かりそうで分からないというような、神秘的な瞳。
その写真を見つけてからは、俺の中で次第にその瞳がじわじわと容量を増していき、遂には身体中に拡がっていった。
写真にある所々の染みと同じ様に、俺の中のあちこちに、その女性は跡を付けていった。
そして改めて思う。
この女性は一体誰なんだろう、と。
俺はもう冷め切ってしまったコーヒーをちびちびと啜りながら、手持ち無沙汰な時間を、写真と共に過ごした。
この寒々しい家の寒々しいキッチンで、リサイクルショップの担当者が来るまでの長い時間、この物を言わぬ女性と二人過ごしたのだった。
✳︎✳︎✳︎
「おい、本当にそんなこと出来るのか?」
俺が声を掛けると、
「いや、出来るかは分かんねえけど、まあ話だけでも聞いて貰ったら?」
「俺、そんな金ねえぞ」
「大丈夫だよ、そこんとこはちゃんとした人だからさ」
記憶の中にある数少ない、高校の同級生が俺の隣で、俺の短い歩幅に合わせながら、煙草をふかしながら歩いている。
俺が実家の周りをうろうろとしている時に、ばったり会った神谷という男だ。
俺は高校を出て直ぐにも就職してしまったから、そこで高校の同級生とはほとんど縁は切れてしまっていたので、おう安納じゃねえか、と声を掛けられた時には誰だったか直ぐには思い出せず、神谷を記憶から引っ張り出すのに苦労した。
神谷は背が高く、耳にピアスをたくさんあけていた。
「お前、チャラいな」
「何か分かんねえけど、こうなった」
話を聞くと、まだ大学生だと言う。
立ち話も何だからカフェでも入ろうぜ、と言う神谷を、俺んちそこだからと家へと誘った。
キッチンで湯を沸かし、インスタントコーヒーを淹れる。
それを、ずずっと啜ってから神谷は言った。
「俺がバイトしてるところのコーヒーの方が旨え」
「おい、無茶言うなよ。インスタントだっつーの」
近況を簡単に報告し合うと、神谷が神妙な面持ちで、
「お悔やみ、いや、ご愁傷……えっと何だっけ」
と、言った。
俺は、ぶはっと笑い出して、
「そんなんじゃないから、別に良いよ。はは、お前がどう思うかは知んねえけど、俺マジで悲しくも何ともないんだ」
神谷は、そっか、と言って、マグを口につけた。
俺は自分を不思議に思った。
こんなタイミングで、笑うことが出来るとは、と。
俺は本当に、あの父親から解放されたんだな、そう思うと何故か、その笑いに苦味のようなものが混じった。
神谷がキッチンのテーブルの隅に置いてあった写真を手に取って見る。
「これ、お前のおかん?」
「それがさあ、違うんだよ」
そしてその写真の経緯を話すと、神谷が写真を見ながら言った。
「何か、独特な雰囲気だな。なあ、失礼なこと、言って良い?」
俺は直ぐに察して、
「ああ、親父かじいちゃんの浮気相手的な?」
「悪りい、ちょっとそう思った」
何だよこいつ、意外とストレートに言うな。
「俺も、そう思った。やっぱなあ、そうだよな。でもまあ、母ちゃん早くに死んで長いこと親父も独身だったから、浮気とは言えないかも知れないけど、な」
「この写真の古さからいくと、お前の祖父さんの可能性もあるけど、これ、この封筒さあ」
封筒を持ち上げて、裏返す。
「この銀行、祖父さん世代には無かったんじゃねえかな」
俺は少し驚いて、言った。
「何、神谷詳しいな」
「俺んち、父ちゃんが銀行勤めてるから、そっちの話は詳しいっていうか」
「じゃあ、親父の相手ってことか」
俺は自分が両手で握り込んでいるマグカップを、片手に持ち替えると、ぐいっとコーヒーを流し込んだ。
そんな風にして、あれやこれやとその写真について、暫くの間話していると、神谷が驚くようなことを言った。
「お前、この人のこと好きになってねえ?」
俺は最初、その言葉に驚いた自分しかいなかった。
どこを見ても、驚きと動揺しか見当たらなかった。
けれど、その瞬間が過ぎると、何故か冷静さが勝ってきて、神谷の言葉に俺はあっさり納得した。
写真の中の誰とも分からない、正体も消息も分からないような女性に恋なんてするのか?
けれど、この問いには直ぐにも答えが出た。
逢ってみたいのだ、この人に。
俺は直ぐに神谷の問いに対して、うんと頷いて、本来ならあり得ないような出来事をすんなりと肯定する。
これが、一目惚れってやつか、と。
「探偵とかに頼んで、調べて貰うべ?」
神谷が慎重に言葉を継いだ。
「それ考えたけどな。だけどさ、見つかったとしても、もうおばさんだろ」
「まあ、それは間違いないな。五十代くらいか」
「そんなんで逢ったってなあ」
「そうだな」
「このままの、この人に逢いたい」
俺があんまりしみじみと言うもんだから、神谷は何か考え込んでいるようだった。
こんな馬鹿げた話に笑いもせずに付き合ってくれるとは、高校の時そんなに良さげな奴だったか、などと思い出してみる。
今よりはチャラくないだけの神谷の顔しか浮かばない。
そう考えていると、あのさ、と声が掛かった。
「俺の知り合いに、ちょっと変わった人がいてさ。その人、ちょっと特殊な人で、他人の夢の中に入れるっていうか。あ、全然怪しい人じゃねえよ。その人に、夢で会わせて貰うっていうのは、どう?」
何だか、神谷が良いことを思いついたみたいな顔で言ってくるけれど、その内容は現実離れしていて、受け入れられない。
「はあ、お前、何か宗教にでも入ってんのか?」
「違げえって。まあ、最初は皆んなそういう反応なんだよな。いいや、忘れてくれ」
そして神谷は話題を変えた。
夢で逢える、そう聞いて少しだけぐらりと来たけれど、怪しいものには近づかない方が身のためだと思い、その場はそれで話を収めた。
けれど、実家の片付けが終わって、自分の家に帰って三日程して落ち着いてくると、夢でも逢いたいという気持ちがどんどんと湧いてきて、俺を狂わせる。
こんな風になってしまうのを恐れて、実家にいる間に写真は処分しようと何度もゴミ袋の中へと突っ込んだ。
けれど、突っ込んでは取り出して突っ込んでは取り出してを数回繰り返すと、自分はバカじゃないかと呆れつつ、食器棚の引き出しに戻してみたりした。
ゴミ出しも終わり、食器棚の引き出しに入ったままリサイクルショップに連れていかれるのを待ったけれど、ショップの担当の奴が、これ入ってましたよと最後になって渡してくるもんだから、結局は家に俺と写真だけが取り残されてしまったのだ。
ここで再度、俺はバカかと思いながら、最後にはジャケットの内ポケットに入っている母親の写真と一緒に、自宅に持ち帰ってきたという。
「俺、何やってんだかなあ」
心からの溜息を盛大に吐くと、左手に写真を、右手にスマホを持つと、アドレスのカ行を表示させ、そこを親指でタップした。
そして今、こうやって神谷と並んで歩いている、という訳だ。
一緒についてきてくれる神谷には悪いが、実はもう俺の心の中は止めときゃ良かったっていう後悔が渦巻いていて、自分が言い出したのにも関わらず、重たい足を無理矢理動かしてロボットのように道を歩いていた。
「お前、煙草吸うんだな」
咥え煙草の神谷を横目で見る。
「んあ? ああ、ちゃんと灰皿持ってるからな」
「いや、別に咎めてねえし」
そんな軽口を言いながら、神谷は軽快な足取りで、古めかしいビルのエントランスへと滑り込んでいった。
俺も入ろうとして、足を止める。
数歩、後ろへと下がって、見上げる。
そこには確かに、『眠り屋』なる看板があった。
俺は感覚を研ぎ澄ませて、写真の入った胸のポケットの在り処を確認すると、ひやりとするエントランスへと足を踏み入れた。
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「ちわっす」
軽く頭を下げて、俺を紹介した神谷の前に、丸い眼鏡が印象深い男性が、ひょろりと立っている。
その顔は柔和で、笑っている/笑っていない、の中間くらいの表情を湛えていた。
「初めまして、矢島といいます」
勧められたソファに腰掛ける。
「先生~、紅茶で良いですか~?」
暖簾を垂らしてあるキッチンらしき部屋の奥から、女性の声が聞こえてきた。
それに呼応して、紅茶で良いかを問われる。
「紅茶で良いそうです」
「は~い」
もうそのやり取りだけで、俺は警戒心がぐぐっと身体中に這い上がってくるのを感じた。
それは俺が今まで生きてきた中で、経験したことのないような、緩慢な空気だったからだ。
ぴりぴりと指先にまでその緊張を走らせるような、親父との関係。
その名残りなのか、今就ている職場でも、息を細く吐きながら仕事をこなすことしか出来ていない。
そんな風に生きてきたのに、もうこんな温い空気には浸かれない。
そんな俺の様子を察したのか、矢島さんが僕に声を掛けてきた。
「神谷君の友達ということは、ハタチですか。若いですねえ」
そんな話ぶりから、見かけは幼い風体の矢島さんの歳を、三十後半くらいと見積もった。
けれど、その見積もりも神谷の発言で崩れ去った。
「矢島さんだって、まだ若いじゃないっすか。俺、マジでオーナーと同い歳だなんて、未だに信じられませんって」
「そう言えば、ミケは元気にしていますか?」
「オーナーとまいまいが追っかけ回してますよ。あのオーナーのはしゃぎっぷり、何とかならないっすかね」
俺の知らない話が飛び交う。
それを気にしたのか、矢島さんが俺に話し掛ける。
「うちの猫を神谷君の勤める喫茶店で預かって貰ってるんですよ。可愛いですよ~、喫茶ちぐら、行ったことあります?」
僕が首を横に振ると、矢島さんが乗り出すようにして言った。
「一度行ってみてください。きっと、気に入りますよ」
そして、今度は笑顔と分かる顔をこちらに寄越した。
「こんにちは」
盆を持った女性が、暖簾の奥から現れる。
「京子さんです、事務員さんです」
俺が会釈をすると、目の前のテーブルに紅茶とチョコか何かの一口サイズのケーキのようなものを置いた。
「やったあ! 京子さんのスイーツ! これ、ちぐらでも好評っすよ。宮さんが、スイーツメニュー増やしたいって言ってましたよ」
「ええ、本当? それは嬉しい、宮さんによろしく言っといてね」
ここで神谷の交友の広さに、羨ましさを感じた。
チャラい外見からも分かる社交的な性格に加え、神谷はしっかりした大人への道を着々と進んでいっているようで、要領の悪い俺は同じ年齢にも関わらず俺だけその場に取り残されて置いていかれるような、そんな風に考えてしまう自分の愚かさと浅ましさを突きつけられて凹む。
「それで今日はどのようなご用件でしょう」
そう問われて、我に返る。
自分が感じていたこの落差に、今日俺が相談しようとしている件が、途端に子供じみた愚かしい事だと思えてきて(まあ実際そうなのだが)俺が言いあぐねていると、神谷が話を進めた。
神谷が話をしている間中、どれだけアホな事を相談しに来たのだと思われるだろうかと、俺はいたたまれない気持ちで一杯になり、途中からは顔を伏せてしまっていた。
矢島さんの顔を見られなかった。
顔を両手で覆い隠してしまいたかった。
家へと逃げ帰りたい気持ちになっていた。
「写真を拝見しても良いですか?」
その言葉に俺は顔を上げないまま、胸のポケットから写真を一枚取り出した。
テーブルの上に置く。
「おぉ、美人ですねえ」
思いも寄らない言葉に、顔を上げる。
「私も見せて貰っても良いですか?」
事務の女性に声を掛けられ、俺は視線を逸らしながらも頷く。
「本当だ、美人さんですね」
「でっしょ~、独特な雰囲気っつーか、のまれるっつーか。美人っすよね」
神谷が、ワントーン明るい声で言う。
「これは一目惚れしてしまっても不思議ではありません」
「目元が印象的って言うか、一度見たら目が離せないですね」
そんな内容を口々にしているから、俺はそれだけで少し安堵した。
一目逢いたいという一心で、勢いづいてここまで来たものの、途中からは自分の愚かさに気がついて、絶対にバカにされると思っていたからか、少しだけ拍子抜けする。
そんな冷たい空気は全く無かった。
けれど少しすると、矢島さんの表情がみるみる曇っていった。
「けれど、大変申し訳ないのですが、この件はお断りせねばなりませんねえ。神谷君の友達ということでしたので、是非とも力になりたかったのですが、今回の件はちょっと」
「あれれ、矢島さんでも出来ないこと、あるんっすね」
やはりそうかと、結果は見えていた。
落胆と言うよりも、納得。
「いやあ、この人が夢に出てきたら、安納さん、もっと好きになっちゃうでしょ。そうなると困ることになりはしないかと思うんです。この方、現実ではもうお歳をかなり召しているということですし、居場所もまだ分からないんですよね。そうなると例えば、現実に存在する女性を好きになる、と言うよりも、創造上の人物アニメのキャラとか、そういった空想の世界で恋をすることになってしまうんです。現実の恋愛としては成り立たないでしょ。そこが難しい所です。諸手を挙げて賛成出来ない理由なんです」
思わぬ時に、思わぬ所から、胸を貫かれたような痛みがあった。
「人を好きになる気持ちは素晴らしいものです。けれど、それが現実で成就しないとなれば、ご本人が深く傷つくことになりますから。今回の件は、結果が見えているようなものです。勿論、その反対の結果もあり得ますが」
「反対……?」
俺がここへ来てようやく絞り出せた言葉だった。
「安納さんの気持ちが逆に冷めてしまう、という事も考えられます」
「そ、それは、」
「はい、たぶんあり得ませんよね」
矢島さんはにこっと笑った。
「もうあなたはこの方を心底、愛してしまっているようです。だからこそ、僕はお勧めする事が出来ない。夢で会えたとしても、それは決して現実でなく、それによってあなたが苦しむのは分かり切っていますから」
そうして、俺は自宅に戻った。
どうやって帰ったのか覚えていないほどの衝撃だった。
神谷からの大丈夫かという気遣いのメールにも、直ぐには返事が出来ないくらいだった。
俺はもうそんなにも、この人を好きになっていたのか。
今日初めて会った、赤の他人にも分かってしまうくらい、俺はのめり込んでしまっているのだろうか。
こんな写真一枚の、存在であるのに。
自分を冷静に分析することは苦手だ。
今までは、ただ単に「生きる」ことに必死だったから。
親父をどう回避するか、親父をどう理解するか、自分をどう納得させて収めるべきか、親父を前にして、どうその日一日を乗り切るのか、それだけに必死になって生きてきたから。
俺は急いで、敷きっぱなしの布団の中へと潜り込んだ。
何も考えたくない、今日のことを思い出したくない、自分の今までの生き様を反芻したくない。
俺は目を瞑って、頭の中で羊を数え始めた。
終わりのない数字の羅列を、眩暈がするほどの永遠を感じながらも、それを振り払うようにして、必死で数えていった。
✳︎✳︎✳︎
『眠り屋』へ神谷と相談に行ってから、俺は一ヶ月を普段通りに過ごしていた。
それは、見かけは、ということに過ぎないということは自分でも分かっていた。
眠ろうとして目を瞑ると、写真の彼女の顔が目蓋の裏に鮮明に蘇ってきて、俺を誘惑する。
そして、それは毎晩のように現れて、俺の睡眠を削っていった。
みるみる目の下には隈が広がっていき、ここまで憔悴するとさすがに、普段は必要最低限の会話しかしない上司や同僚が心配そうに声を掛けてきた。
あれから神谷が一度、俺の様子を見に来てくれた。
手には、雨月庵のプリン。
「俺が余計なこと言ったから。悪かったな、悩ませちまって。軽率だった、すまん」
平謝りする神谷が可笑しくて、失礼ではあるけれど、俺は笑いが込み上げてくるのを意図的に抑えなかった。
「お前の口から、軽率って、何か笑えるな」
神谷に久しぶりに会った時に笑って以来、会社でも家でも何も面白おかしいことも無かったから、これが半月ぶりの笑いとなる。
そう気づくと、更に笑いを抑えられなくなった。
「すまん、久々に何か分かんねえけど、笑える」
「お前、笑い過ぎだぞ。何がそんなにウケんだよ。一個も面白れえこと言ってねーっつーの」
神谷が不服そうな顔をして、自分が買ってきたプリンを開けている。
おい、お前が食うのか?
突っ込んで、更に笑った。
「いや、良いんだ。お前のおかげで目が覚めたっていうかな。そりゃ、そうだろって思ったよ。あの矢島さんの話さ。現実を見ろってことだよ」
「まあ、そうだけど」
「でも、感謝してる。ちゃんと、認めてくれた、俺のことさ。変わってるけど、良い人だな」
「そうだな」
俺がプリンを掬って、一口目を口へと運ぶ頃には、神谷はプリンをすっかり空にしていた。
二個目に手を伸ばそうとしている手首をがっと掴んで、阻止する。
神谷の手首には、スポーツタイプの腕時計に加え、沢山のミサンガや皮のデザインのブレスレットが付けられている。
「お前、俺に持ってきてくれたんだよな。三個しか無い場合、普通、俺が二個だろ」
「何だよ、お前そんなに心の狭い男だったか?」
「お前だって、そんなに軽いチャラ男だったかよ?」
俺は残った最後のプリンを取り上げると、冷蔵庫の奥へと突っ込んだ。
机に戻って、食べ掛けだったプリンを口へと流し込む。
スプーンを口に咥えたまま、カップをゴミ箱へ捨てようと立ち上がった時に、神谷が言った。
「これ、理由があんだよ」
俺は振り向いて、神谷の食べたプリンカップに手を伸ばしながら聞いた。
「何が?」
「ピアスとミサンガさ」
「オシャレじゃねえの?」
「俺、ゲイでさ」
俺は驚いて、カップを落としそうになった。
「で、こうやってカムアウトすると、皆んなきめえって言うんだ。そんで、俺はその度に傷ついて、その度にピアスを開けんだよ。最初に開けたのは、父ちゃんに話した時だった」
俺は両手にカップを持ったまま、
「み、ミサンガ、は?」
問うた。
けれど、上手く声が出せずに、言い直した。
それは勿論、口に咥えたままのスプーンの所為にも出来る。
神谷はそんな俺を気にする風でもなく、表情を変えずに言った。
「カムアウトしても、ひかれなかった時に一つずつ増やすんだよ」
俺はもう一度、神谷を真正面に見直した。
沢山のピアスの数。
そして、ミサンガの数。
「まあ、心配すんな。一応、人は選んで話してる。ピアスを開けるスペースが無くなるってな事態にはならねえ……と思う」
「……そっか」
神谷は、数秒前にはそこにあったプリンのカップの面影を見つめていた。
「んで、ピアスとミサンガ、どっちの数が多いのか、死ぬ時に数えてみんだ。そん時に、俺の人生が決まる予定。良い人生だったのか、悪い人生だったのかがな」
「何でピアスなんだ?」
神谷は、ふっと軽く吹き出してから、笑って言った。
「こんなこと言うのもダセぇけどさ、痛みを忘れないようにってやつ。それにピアスだと、鏡を見る時に否が応でも目に入るだろ。そうやって、一日一回は思い出して、俺自身が逆に他人を傷つけないようにって、気をつけるようにしてるんだ。でも、ミサンガはさあ、常に見える位置だろ? 俺が他人に救われた数だと思うと、それだけで俺も救われるんだ。まあ、そうやって足し算引き算で自分を保ってるんだよ」
「お前、強いな」
「そんなんじゃねえよ。ミサンガの方を救いにしてること自体、自分には甘いっていうことなんだけどな。手首の方が、普段目に入るだろ。ピアスは鏡がねえと、見えんからな」
ふっと、鼻を鳴らして自嘲の笑みを浮かべる。
「そっか」
「そんなわけで、次はお前の話だけど。お前の人生はお前だけのものだから、お前が思うようにやれば良いと思う」
「そっか、そうだな」
そうだ、俺を支配し続けた親父は、もうこの世にいない。
神谷が話してくれた話は、俺の根底へと沈み込んでいって、強い根を張っていった。
それは、チャラいと思っていた同級生が実はチャラくなかったということでもなく、俺が抱えてきた闇が神谷のそれには遠く及ばなかったということでもない。
俺が神谷のようにピアスを開けるとしたら、『父親』という穴が一つ開くだけで、けれどそういうピアスの数がどうだとかの話じゃないことも、俺には分かっていた。
「心配掛けて悪かったな、神谷」
「ああ、」
そして、プリンカップをゴミ箱へとスローインしてから、俺は両手で顔を盛大に擦ると、
「俺、そんな酷でえ顔してっか?」
神谷は笑って言った。
「ああ、お前、クソみてえな顔してっぞ」
俺は腹を抱えて笑った。
✳︎✳︎✳︎
それから俺は、現在は不動産会社が掲げていった『売り家』のポスターが所狭しと並んで貼られている父親の家の近所を、一軒一軒訪ね歩いていた。
手には勿論、あの一枚の写真。
どうしても、どうしても逢いたかった。
逢ってどうするんだと問われれば、あなたが好きですと伝えるつもりだと答えるだろう。
たとえそれが、もう歳を取ってしまって外見はこの写真とは程遠い、あなただったとしても。
そして、彼女が奇妙な顔をして首を傾げたらこう言おう、親父の引き出しの中からあなたの写真を見つけて、そしてあなたに一目惚れしたんです、と。
父親の名前を出せば、みんな玄関先へと出て来てくれて、次々と神妙な顔つきでお悔やみの言葉を掛けてくれる。
この実家は元々、父親の父、俺からしてみれば祖父の代からであったから、社交的だった祖母の性格の良さもあってか、この家がこの界隈に根付いていたのだと見て取れた。
「寂しくなるねえ、家も売るんだろ?」
「はい、俺、隣町に住んでるんで」
「あんたが住めば良いのに」
「いえ、俺は会社がそっちなんで、ここからだと通えないんで」
「そうなの、なら仕方がないねえ」
高齢であるが、ハキハキとした物言いで、こんな歳なのにしっかりしていて、まだ元気だなと思う。
俺の家の並びの一番端の家主であるこの男性は、俺の祖父と同級生だと言う。
この家に辿り着くまでに、一軒一軒この写真を出してみたけれど、この女性を知っている人にはついぞ出会わなかった。
「あの、ところで、この方のこと知りませんか?」
「ん、ああ、この人、知ってるよ。えっと、名前何だったかな」
親父の相手だと思い込んでいたのもあり、この年代から情報が得られるとは思ってもみなかったので、俺はかなりの驚きを隠せずにいた。
「名前が出てこんけど、えっと、あそこの、」
老人が指を指す方向を一緒になって見る。
「あの、書道教室の、」
よく見ると古めかしい看板がある。
俺が今立っている道の先の角を、右に曲がるようにと太い矢印が指示している。
そしてそこには確かに、『書道教室』とあった。
そう言えばその看板は、思い返してみると俺が子供の頃からそこにあったような気もする。
指を額に当てたり、こめかみに当てたりして思い出そうと苦悩している老人に礼を言ってその場を辞すると、俺はその足で書道教室へと向かった。
探偵なぞに頼むのは最終手段で、しかもこんなにも簡単に見つかるとは思っていなかった。
俺の心は躍った。
結婚しているだろう、歳を取っているだろう、孫もいるかも知れない、迷惑を掛けるかも知れない、けれどきっと、この写真の面影は何処かに残しているはずで、俺は俺の中にあるこの激情の少しの欠片であっても、その面影に直接に伝えたかった。
現し身のあなたに逢える、それだけでもう俺の頭は煮えてしまって、心は急いて堪らなくなった。
あなたに逢える、逢える、逢える。
小走りに運ぶ足は空を蹴っているように、軽かった。
息が上がって、心臓が踊り狂ったように、拍子を刻む。
顔が紅潮して、頬が火照ってくるのを感じながら、俺はその看板の先へと駆けて行った。
手を伸ばすと、曲がり角が直ぐそこに見えてくる。
更に手を伸ばして、その角をこちらへと近づけるように、俺は空を掴んだ手で引き寄せた。
あなたに逢いたい。
こんなにも、俺は。
この角を曲がれば、俺はあなたに逢える。
そして、俺はその足を止めることなく、角から道路へと飛び出した。そこへ運悪く、軽自動車が走ってきて、俺を突き飛ばしたのだった。
✳︎✳︎✳︎
「大丈夫ですか」
か細い声が掛けられて、俺は瞑っていた目を開けた。
空は晴れて、青い。
そこへ太陽の射す光が目に飛び込んできて、俺の目の前はゆらゆらと揺れた。
「大丈夫ですか、轢かれてはいないと思いますけど」
もう一度問われ、俺はがばっと飛び起きて、声の主を真正面に見据えた。
俺の突然の動作に驚いたような表情の、白髪の老婦人。
その短く切り揃えられている滑らかな髪は、丁寧に後ろへと流されて、所々に黒髪も混じってはいるが圧倒的なその白髪の量が、名のある寺の枯山水のような美しさを彷彿とさせている。
白いブラウスに薄桃色のカーディガンを羽織り、脚を折って片膝をついているパンツはキャラメル色の細っそりとしたデザインだった。
上品な老婦人。
けれど、それだけではない。
俺の胸ポケットに存在する写真から抜け出したような、その顔。
写真の中の彼女そのものだった。
勿論、目尻や口元の皺は深く刻まれていたし、肌はカサカサと乾燥し、所々に粉を吹いている。
けれど、そのまま歳を重ねて、そしてこれからもそのまま歳を取っていく、それが確信出来るような、この俺の目の前の老い。
奇跡のようだった。
俺は直ぐに写真をポケットから取り出すと、彼女へと差し出した。
不思議そうな表情を浮かべてそれを受け取り、その写真を見た瞬間、
「あらあ、懐かしい。私も随分と歳を取ってしまいましたね」
そう言って、僕に笑い掛けた。
その笑顔は、俺が一生忘れ得ないものとなった。
✳︎✳︎✳︎
「和男さんの所の、お孫さんでしょ」
祖父の名前に頷くと、差し出された湯呑みを手に取り、口元へと運ぶ。
その俺の手には、大きな絆創膏が貼られていた。
俺が角から飛び出した時、向こうから走ってきた軽自動車は、実はそんなにスピードを出しておらず、ぶつかるという手前で俺の足は急ブレーキをかけてそれが間に合い、けれどその勢いのまま軽自動車の通り過ぎた後へと転がり込んで、俺は見事に転倒したのだった。
そうとも知らず、軽自動車は走り去り、俺はそのまま道路に横たわった。
書道教室の縁側から、とよ海さんがその一部始終を見ていて駆けつけてくれた、ということだった。
俺はその話を身体を起こしながら、そして服についた土埃を両手で払いながら聞くという、恥ずかしい失態に耐え忍んだ。
そして、まだその気恥ずさの名残りを抱えていて、差し出された湯呑みを何度も手にしては机に置くという挙に出ているのだった。
「お父様は早くにお亡くなりになって、残念です。寂しくなりますね、御愁傷様でございます」
僕は手に持っていた湯呑みを机に置いて、慌てて頭を下げた。
「あなたは大丈夫ですか?」
二十歳という若さで両親や身内が居なくなり、天涯孤独となった俺を気遣っての言葉。
俺が一人っ子だということも、この近所では知られているらしかった。
俺もそうそう黙ってはおれず、掛けられた気遣いに感謝の意を伝えた。
「ありがとうございます。でも俺、もう社会人なんで、一人でやってけます。大丈夫です」
「あらあら、和男さんに似ず、しっかりしていらっしゃいますねえ」
笑うと、目尻の皺に深みが増して、一層自分との歳の開きを感じた。
写真の女性に会ったら、自分はどう思うのだろう。
どう感じて、どう考えて、どんな顔をするのだろう。
夜眠る時、目を瞑ってしまえば、羊を数える以外はその事ばかりが頭を占めていた。
もし会えたら伝えようと思っていた恋慕の情も、いざ彼女を前にすると、口が噤んでしまって出てこない。
それは自分が想像していたより、彼女が高齢だったことに起因するのだろうか。
父親の相手だと思い込んでいたのもあって、まさか祖父の同級生だとは、思いもしなかった。
俺は頭の中で祖父の歳を計算し始めてしまっていた。
それが僕の中にあったはずの、この目の前に存在する女性に抱いた恋しさを裏切ってしまうような、背信の行為のように思えて仕方なかった。
それなのに数を数えることを止められない。
葛藤の末、祖父の歳を再確認して、俺はがっくりと落ち込んだ。
純粋で綺麗だった何かを自分の手で汚してしまったような気もして。
そんな俺の胸の内を知らずして、とよ海さんは話を進めていった。
「和男さんとは小学部から同じで、机を並べて勉強していました。家も近所だし、よく川原なんかに出かけては、川に石を放って、どちらが遠くまで飛ばせるか競争したりして」
思い出話を聞きながら、祖父の顔を思い浮かべる。
「私、その頃は勝気でお転婆だったから、男の子が寄ってこなくて。それに加えて、私は今風に言うハーフとやらでしたから、男の子の友達は、和男さんだけでした」
ふふ、と笑って、手元の湯呑みを取り上げた。
手の甲の皺や血管が、その薄い皮膚に広がり張り巡らされている。
「ハーフ、」
「はい、父が北欧の方で。国は分からないんですよ、母は捨てられたと言っていましたから、訊くに訊けなくて」
それで納得した。
どうりで、その日本人離れした顔立ち。
その話を聞いて、日本と北欧の特徴を併せ持っていることに納得を得た。
「写真を、持っていてくれたんですね。これを渡した時には、大事にすると言ってくれました。私には親切で優しい人でしたけれど、あなたにはどんなおじいちゃんだったのかしら?」
口角を上げて、僕に微笑みかける。
「俺にも優しいじいちゃんでした」
俺の父親はともかく、祖父は、と心の中で付け加える。
「私は独り身ですので、子どもとか孫とか、よく分からないんですけど、うちに来る生徒さんのような感じかしらと、いつも思っています」
「独身、ですか」
「はい、まあ、」
そして、ここで話を変えられてしまった。
「私、この書道教室で習字を教えているんです。あなたのお父様もこちらに通わされていましたよ。嫌々だったようで、いつもお母様と言い争いをしていました」
「父は、どれ位通ったんですか?」
「そうですねえ、十年ほどでしょうか。小学校から始めて高校まで続けられたので、十二年ですか。嫌々の割には長続きしたこと」
彼女は手を口元へと持っていき、笑った。
「段もお取りになって、もう直ぐ師範をという所でお辞めになってしまいましたけど。そこまでやったのに勿体ないって、何度もお話ししました」
俺は俺の中で、ある一つの考えが、むくむくと芽生えて大きくなっていくのを感じていた。
「結婚を申し込まれませんでしたか?」
途端に彼女の顔色が変わった。
つい先程までにこにことした柔和な表情が、厳しい表情へと移行していくのを、俺はそれをスローモーションのように見ていた。
「何か、お聞きになっているんですか?」
言葉を選んだのだろう、随分と間があってからの返答だった。
俺は自分で問うたにも関わらず、祖父に、それとも父に、もしくはその両方のどちらに求婚されたのかをはっきりとは口にしなかった。
そんな曖昧な問いではあったが、彼女が簡単にその問いに答えてくれるだろうと、高を括っていた。
そして祖父と父、その両方ともに同じ血が流れていて、それは今、俺の身体中をも巡っている。
この血管の中を脈打ちながら流れている。
三世代続けて、同じ女性を愛するなどと。
そう心で、思いながら。
俺は、彼女を見た。
そして、そこにある非情に打ちのめされた。
その彼女の表情。
そこには苦悩と悲哀と憤怒が誰にでも見て取れるような、そんな深い傷跡が残されていた。
そしてその傷跡というものが、一生治ることのない、ぐずぐずと膿んだ傷だということを知らしめていた。
そんな顔はしていないはずなのに、まるでそれは般若のような面を連想させた。
「けれどもう、話したくはありません」
そして彼女は唇を引き結んでしまった。
写真を突き返しながら。
俺は彼女の前から去らねばならなかった。
頑なに口を閉じる彼女を前にして、何も言わずに俺は退散するしかなかった。
三人の過去に、何があったのだろう。
想像通りなのか、それとも想像を上回るのか、俺はとぼとぼと帰りの道を引き返すしかなかった。
自分の心を、自分によって背負わされたまま。
近所のはずなのに、家に辿り着けなかった。
永遠に、何にも辿り着けないような気がした。
✳︎✳︎✳︎
「はいよ、宮さんの特製ミックスサンド」
「ああ、サンキュ」
喫茶ちぐらの縁側に案内されると、俺はそのまま裏手の森をぼんやりと見つめていた。
このまま、バカになりたい、そんな打ちのめされてうな垂れている俺の膝の上を、ミケがお構いなしに横切っていく。
このぬるい雰囲気といい、働いている従業員の優しさといい。
「お前の職場なあ、何だよ、これぇ」
俺は思いっ切り、はあっと盛大な溜息とともに、ごろんと縁側に転がった。
「はは、良いだろ~。遠慮せずにゴロゴロしていけよっ! 金はちゃんと取るけどなっ」
神谷に、立てて膝で合わせていた両足をバシッと叩かれる。
くっそ~と心で毒づきながら、俺はそのまま腕を伸ばし、んんっと背伸びをした。
俺がとよ海さんを見つけた時の詳細は、すでに神谷には話してあった。
だからであろう、このプチケーキと紅茶のお代わりは。
俺はそのまま天井を見つめた。まさか、三世代に渡って同じ女性を好きになるとは。
けれど俺は……。
やはり、写真の中の彼女を好きだったのだ。
歳を重ねた彼女を前に、確かに好感を持てる人ではあったけれど、この激情を伝えるまでには至らなかった。
現実の現実を見せられて、俺の恋は時間を飛び超えることが出来なかったのだ。
そこまでの激情では無かったのかと、落胆を隠せなかった。
本当にそんなことが出来るのかどうかはまだ半信半疑ではあったけれど、神谷と行った『眠り屋』で、もしも夢の中とはいえ写真のままの彼女に会っていたら、俺は間違いなくこの恋に狂ってしまっていただろう。
「これで良かったんだなあ」
カウンターで料理待ちの神谷には聞こえないように呟く。
するといつの間にか隣に座り込んで丸くなっていたミケが、にゃあと応えた。
✳︎✳︎✳︎
それから一ヶ月程うだうだと過ごしていた頃、訪ねてくるような友人の一人も居ない俺のアパートのチャイムが珍しく鳴った。
最初は控え目に、けれど二度目は強い意思を持って鳴らされたような気がして怯む。
俺は咥えていた歯ブラシを慌てて口から引っ張り出し、水で口をゆすぐと、タオルを掴んで口を拭きながら、玄関のドアを開けた。
そこには思いも寄らぬ、とよ海さん本人が立っていて、余りの驚きに、俺は固まってしまった。
「突然来てしまって、すみません。これ、少しですが良かったらどうぞ」
頭を軽く下げて、紙袋を差し出してくる。
紙袋には雨月庵のロゴ。
けれどそんなことより何より、俺は驚きが大き過ぎてしまって、言葉が一つも出てこなかった。
素直に紙袋を受け取る。
「この前は失礼いたしました。嫌な気分でお帰ししてしまい、あの後とても後悔しました。本当にごめんなさいね」
俺はドアを押して、中へと促した。
けれど、玄関に入ったまま、ここで良いですからと言って、服を正す。
俺は今まで家の中にいて気づかなかったが、どうやら外は軽く雨が降っているらしかった。
ハンカチを取り出して、肩を払う。
そして、小ぶりな鞄から封筒を出した。
「これ、どうぞ貰ってください」
受け取った封筒は、シルバーで草花模様の縁取りがされた上品なものであった。
真ん中にはエンブレムのようなものがデザインされている。
封には蝋を溶かしてその上から印を押す、古いの西洋の封書のように閉じられていた。
俺の祖父の時代にこのような洒落た封筒を手に入れることは難しかっただろう。
一見で、その中身を大切にしていたことが窺い知れた。
「開けて良いんですか?」
とよ海さんは鞄の中から折り畳み傘を取り出すと、
「私が帰ってから、見てください」
そしてもう一度丁寧に詫びると、あっさりと帰っていってしまった。
ここのアパートの住所は、父親の家の隣人にしか教えていない。
何かあったら連絡をしてくださいとお願いをして、携帯の番号とこのアパートの住所を渡してあった。
その家主に聞いて、来たのだろうと思う。
俺は1LDKの部屋の中央に置いてあるローテーブルの前に座ると、テーブルの上に封筒を持った手を投げ出して、そのままその封筒を見つめていた。
そして、しばらく見つめていた目を外して深呼吸をし、またその視線を戻すと、封筒の印を指で取った。
封筒の中身を取り出す。
想像していたものだった。
二枚の古びた写真。
一枚は祖父、もう一枚は父。
俺が見つけた彼女の写真と同じような古さ。
けれど父の写真は勿論のこと、それよりは少し新しかった。
きっと、この二人と写真の交換をしたのだろう。
お互いに好意を持って。
けれど、祖父と父は違う女性と結婚し、とよ海さんは独身を貫いた。
とよ海さんのあの憎しみや哀しみを含んだ表情。
けれど、二人の写真は大切に保管されていた。
愛していたのだ。
祖父や父が彼女をではなく、彼女が祖父と父を。
祖父や父は彼女に好意を持ち、写真を交換するまでに至ったが、直ぐに気が移って、違う女性と結婚した。
彼女は二度も裏切られたのだ。
浅はかな親子によって、二度も。
交換したはずの彼女自身の写真は、一枚は失われ、一枚は銀行の封筒に入れられて、食器棚の引き出しなぞにその存在を許されていた。
スプーンやフォークの下に隠されていた秘密の恋などではなく、ただ忘れ去られていただけだったのだ。
俺はそれに気がついて、愕然とした。
こんなにも、彼女の封筒は良い香りをさせているのに。
大切に封をされ、恭しく彼女の手によって守られていたというのに。
何故か、涙が溢れてきた。
その理由はまだ、分からなかった。
複雑な気持ちが絡み合って、俺はそれを一つ一つ解いていくのにかなりの時間が必要だろうことに気がついた。
そしてそれに気づくとまた、俺は大声を上げて泣いた。