十章 真白(ましろ)
馴染みのベーカリーへと向かう道の途中に、一軒の花屋がある。
築年数がかなり経っているのか、建て構えはレトロだが味があり、そこも良い。
とにかく、僕はその花屋が醸し出している雰囲気が好きだった。
けれど、実は。
オープンしているのを、このかた見たことが無いのだ。
僕は、いつもこの花屋の側を通る度に、店中の様子が気になって仕方がなかった。
それは、僕が構えている事務所の周辺に、その店以外の花屋が見当たらないということと、僕が生計を立てている『眠り屋』の仕事で季節の花々を仕事道具として使っているということの二点の理由から、気軽に寄ることの出来る花屋を心から欲していたからだ。
仕事で使う、依頼者を眠りへと誘う花のほとんどは、道端や空き地から調達している。
たまに、無論断りを入れてからだが、他人の家の庭などから拝借してきて事足りてはいるものの、やはり事務所の近所に花屋があれば、それはそれで助かるだろうと、ここ最近はずっとそう思っていた。
事務所に置いてある電話帳によると、事務所から一番近い花屋は、ここを除くと一つ隣の町にある。
隣町までは歩いて行けなくはないので、どんなものだと一度足を運んだことがあった。
けれど、その花屋の広くて煌びやかなことと言ったら。
どれを選んで良いのか永遠に迷わせるような、色とりどりの花が所狭しとどっさり並べられ、そしてそれは水を張ったバケツに隙間無く、窮屈そうに詰め込まれていた。
花用のショーケースには高価極まりない花の代表格であるバラなどがずらりと揃えられていて、色合いなどはまるで無視された色狂いの様相を呈している。
天井に掛けられたフックには、数十種類のリボンが無尽蔵に垂らされていて、そして丸められ横向きになって行儀良く整列している、包装紙の数。
それはもう、辟易する程の美しさだった。
そんな色の世界が僕には毒々しく思え、この花屋が到底、僕が享受することの出来ない類の店だと分かると、どれだけ仕事に使う花の調達に頭を悩ませても、この店を二度と覗くことは無かった。
そんな全国展開しているチェーン店との経緯もあって、僕は心から質素な花屋を欲していたのだ。
いつも決まった曜日に予約を入れているバゲットを手にした帰り道、そのこぢんまりとした花屋を覗いてみる。
今日も開いていない。
普通はカーテンかブラインドなどで店内は見えなくしたりするものであるが、この店は一切、そういった装飾の類を嫌っているようにも思える。
と言うよりは、店主や住人を失った寂しい花屋というような佇まいが、僕の興味を誘って止まない。
こんなにも空は晴れて、気持ちの良い昼下がりなのに。
覗き込んだ店内は、その外の健全さと裏腹に、薄暗く陰鬱であった。
そして、誰彼からも忘れ去られたように、そして誰の記憶にも残らないようにというようなそんな店内の雰囲気が、とても冷ややかで寒々しかった。
僕は暗闇が一筋差し込む店内を覗き込むのを止めると、足先を事務所へと向けた。
「このお店の本来の姿を見てみたいものです」
呟くと、手には余りある長さのバゲットを持ち直し、ようやく歩き出した。
✳︎✳︎✳︎
毎年この頃になると一度や二度、必ず降る激しい雨が原因で桜の花びらが完全に散らされた後。
葉桜と姿を変えて初夏の香りが少しだけ風に乗って香ってくる頃。
僕はいつものようにバゲットを買ってから、知り合いの画家が画を出品している画廊へと足を運んでいた。
僕の仕事『眠り屋』の元依頼者であり、お茶友達である瑠璃さんの幻想的な画を堪能した後、満たされた気持ちでほくほくとしながら花屋の横を通ると、なんと店の明かりが灯されている。
僕は驚きながらも、近づいていき、中を伺い見た。
更に驚くことに、優美な花たちが肩を寄せ合いながら盛られて並んでいる。
カーネーション、デイジー、ガーベラ、チューリップ、ストック、かすみ草
照明の柔らかな光に照らされて、アンティークなバケツの中で謙虚に息をしている花々の姿を見て、僕は心底美しいと思った。
店主を失って冷え冷えとして薄暗かった店内の、今現在の何と暖かで華やかな姿だろう。
けれどそれは決して行き過ぎた「華美」では無く、控え目で気持ちの良い華やぎであった。
シンプルな店の外装に合わせてあるのだろうか、内装もレトロな棚やバケツ、ジョウロなどで飾られてはいるが、不必要な物は殆どと言って良いほど置かれていない。
その割り切り方に気持ち良さを感じる位であった。
僕は嬉しさから小躍りしたいような気持ちでドアに手を掛けた。
自動ではなく、手動の横滑りのシンプルな硝子戸。
カラカラと軽快な音をさせて……開くはずだった。
けれど、硝子戸はびくともしない。
鍵が掛かっている。
「あれ、開いてないですね」
何度手に力を込めて、横に滑らせようとしても、その度にカギがガチャリと音をさせるだけで動かない。
硝子戸の内側に掛けてある小さな焼杉で作られた看板には、確かにまあ、「closed」とあるのだが。
店の中やその辺りを見渡してみたが、店員らしき姿も無い。
「まあ良いでしょう、オープンは間近のようですから、次の機会にでも。また来ます、その時にはやっていてくださいよ」
そう「closed」の看板に話し掛けて、花屋を後にする。
僕はその日はそのまま、大人しく事務所に帰った。
✳︎✳︎✳︎
次の日、運を天に任せるような気持ちで、僕は花屋へとやって来た。
今日は特に何の帰りでもなく、ただひたすらこの花屋のオープンを願いつつ、足を運んだ。
昨日と同じで、明かりは灯されている。
けれど、残念なことに扉には「closed」の文字。
ガラスに手をかざすと、何故か虚しい気持ちがやってきた。
こんなにも近くに、生き生きとした花が咲き誇っているのに。
切り花だから、生き生きとという表現は間違っているのかも知れない。
けれど、この並べられた花たちの様子を見ると、ここの店主にとても大切にされている、そんな気がしてならなかった。
「今日も空振りですね、非常に残念です」
その時、がっかりと落胆した僕の背中を哀れと思ったのか、声を掛けてきた人がいた。
「その花屋はねえ、やってないよ」
その声の方へと顔を遣った。
「いつ開店するのでしょうか。ここ最近は、お店の準備をしているようですが」
近所の人だろうか、上下ジャージの中年男性が腕を後ろに組んで立っている。
「いや、多分ね、当分やらないよ」
言っている意味が分からなかった。
「やらないって、オープンはしないって事ですか?」
「そうそう、多分ね」
僕は再度、店の中を覗いてみた。
店内の装いは、後はオープンを待つだけ、のように見えるのだが。
「でも、お花が準備されていますよ。ここまでやって、オープンしないってどういうことでしょうか」
中年男性が顔をしかめる。
「言っても良いのかなあ、ここの人ね、」
ちらっと店内に目を遣る。
話すのを躊躇している様子を見せたが、実際はそうでもないようだ。
するすると言葉が出てくる。
「病気なんだよね、心の病ってやつ。だから、ここんとこ、花は用意して準備するみたいだけど、開いたことないんだよねえ。毎年、夏の初めくらいから開けるんだけど、結局は途中でダメになっちゃうみたいだよ」
「駄目に、」
「そうそう、花屋って客商売じゃない。だからさあ、接客っていうの? 人と話すのが、ちょっと難しいんだろうな。調子の良い時と悪い時の差が激しいみたいだよ。ま、これはうちのカミさんの話だけどね」
「そうですか」
僕は心底、残念に思った。
ずっと心待ちにしていたのに、そういう事情を知って、いつかはオープンするだろうという薄っすらとした希望も砕かれてしまった。
「だからねえ、待ってても、多分無理だと思うよ」
話好きの男性はそのまま、何事も無かったように去っていった。
ウォーキングだったのだろうか、腕を勢い良く振って早足で歩いていった。
けれど、僕はそんな話を聞いても尚、その場から離れ難かった。
こんなにも花々が純粋に美しいのに。
この店内の雰囲気も、僕にとってはとても落ち着く、そんな柔らかい場所なのに。
「このお店の店主はどのような人だろうかと、楽しみにしていたのに」
硝子戸に手を当てて、少しの間その場に佇んでいた。
✳︎✳︎✳︎
「このお店は、まだ開店しませんよ」
僕の背中に声が掛かった。
次にも、噂話の好きな近所のおばちゃんであろうか、そう思って振り返ると、薄っすらと微笑をたたえた女性が立っていた。
切れ長の黒い瞳が印象的な、美しい人だった。
買い物袋を肩から提げ、その重みで体が少し傾いている。
黒髪が肩の線で整えられ、歳は幾つくらいだろう、と思ったところで、
「すみません、このお店は夏までは開けないのです」
その一言で、僕は知った。
この人が、この花屋の店主であると。
「このお店の方ですか」
そして、僕は相手のことを考える前に、鬱積していた自分の気持ちが、口から溢れ出してしまった。
「僕はこの花屋さんのオープンを、長い間待っていました。このお店はとても素敵な花屋さんです。花もとても美しいです。無茶を言うようですが、僕のためだけでも、開店して貰えませんか?」
何という暴挙に出てしまったのか。
言ってから、僕は僕の我儘が、相手に無理難題を押し付けていることを悟り、深く深く後悔した。
しかも、今日初めて会った相手に対して、だ。
慌てて、僕は詫びを言った。
「すみません、僕、初対面の方に。自分本位で大変失礼なことを言いました。お詫びします」
女性は最初は驚きの顔を見せていたが、それから首をかしげると、ふっと吹き出して言った。
何とも、その笑顔からは小花でもぽぽんと飛び出してきそうな、そんな可憐な笑顔。
「そんなにお待ち頂いていたんですね」
その返事に、慌てて返す。
「は、はい。心待ちにしていました」
彼女は口元に手を遣って、もう一度笑った。
「ふふ、よくお店の前でうろうろされてましたもんね」
あれ、バレていましたか、頭を掻きながら頷くと、
「では、明日でもいいでしょうか、どうぞいらっしゃってください。十二時に」
僕はそれだけでもう嬉しくなって、
「はいっ」
弾むように返事をした。
そして、彼女は軽く会釈をすると、硝子戸の鍵を開けて、中へと入っていった。
店内の優しい光の中へと溶けていくようにして。
そう、花たちに包み込まれるようにして。
ドアが閉まると、ふわり、と花々の香りが漂ってきた。
僕は鼻の奥へと届いた幸せに、満足した気持ちを抱えて帰途についた。
何という奇跡だ、店主に会えるとは。
今日は良いことがあったぞと、帰り道の足取りも軽かった。
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昨日から続いている、ふわふわとした気持ちで、朝を迎える。
気持ちの持ちようとは、上手く言ったものだと思う。
こんな朝は身体のどこもが軽い。
「何だかすっきりと目が覚めました。んー、気持ちの良い朝です」
直ぐにバゲットと卵といういつものシンプルな朝食を取り、外へと飛び出す。
飛び出してから、約束の時間まで何処へ行くのかを決めていなかったことに気づいて、苦笑する。
適当に、うさぎ書房やアケミマートで時間を潰すと、その続きで花屋へと足を向けた。
ぴったりと言って良い、約束の時間に到着する。
すると、扉の看板に「open」の文字。
僕は嬉しくなって、身体中を震わせた。
横に滑るドアをカラカラと音を立てて開ける。
「いらっしゃいませ」
その声が、さらに僕に喜びをもたらす。
「こんにちは」
僕がにこっと笑うと、美しい店主も笑った。
そのままの笑顔で、どうぞ、と手で花を勧めるジェスチャーをする。
その優雅な所作に、思わず僕は見惚れてしまった。
空色のTシャツに濃紺のジーンズ、そしてシンプルな帆布で出来た生成りのエプロンをつけていて、そのエプロンのポケットには園芸用の軍手、切り鋏の柄、ハンドタオルがそれぞれ顔を出している。
それは完璧と言える程の、花屋の店主。
昨日、店の前で出会った時に着ていた花柄の明るいワンピースとは、またがらっと違った雰囲気だ。
「どのような花をお探しですか?」
僕は、僕が仕事で花を使うことと、今は残念ながら仕事を請け負っていない旨を、簡易に説明した。
「あら、ではお花は必要ありませんね」
「いえ、今日は違う用途の花束をお願いしたいと思います」
「はい、どうぞ」
「家族の命日が明日なので、白い花束を」
女店主は、先程まで花のようなそれだった表情を、少しだけ曇らせた。
睫毛が半分伏せられて、その切れ長の瞳に覆いかぶさった。
心無しか、その瞳の光も鈍く、変化したように思えた。
その様子を見て、僕は慌ててしまった。
「あ、大丈夫です、もう乗り越えました。お気遣いなく」
そう言うと、彼女は直ぐに頭を少し下げて、言った。
「お悔やみ申し上げます」
そして、手を伸ばして一本の花を引き寄せる。
「ホワイトレースフラワーです。いかがですか?」
「とても可愛らしい花ですね。家人も喜びます」
「では、これを基調に花束を作りますが、ご予算は?」
僕は、墓参りで花を持って行くのに、このように一から作って貰ったことがなかった。
いつもは出来合いの仏花を、二、三千円の予算で買っていると言うと、
「では、そのようにお作りしますね」
と言ってから、色の薄い花を指で手繰っては重ねていき、最後にその周りをかすみ草で埋め尽くすと、こんな感じでいかがでしょう、と僕に顔を向ける。
「うわあ、お上手ですね。とても可愛いです」
そして。
ふと。
彼女の、その花束を持つ指に目が留まった。
花束の根元に絡められた細くすらりと長い指が。
象牙のような乳白色に変色し、血の気の無い肌の色となっている。
真白。
それを見つけてしまった僕が、どう言葉を掛けて良いのか躊躇していると、彼女は薄っすらと笑って言った。
「すみません、気持ち悪いでしょ。持病があって、こうなっちゃうんです。少しこれ、持っていて貰えませんか」
白を基調に淡い色合いで集められた花たちを手渡される。
僕は、その花束より真っ白な指に、触れるか触れないかで握り直すと、彼女を見た。
女店主は側にあったハロゲンストーブのスイッチを入れると、そのオレンジ色に発光する暖かい器具に手をかざす。
その手の指はその付け根から、少し距離を置いたこの場所からも見て取れるほどに、真っ白だった。
僕は仕事柄、あまり他人の事情に足を踏み入れないようにと、普段から気を配っている。
けれどこの時、この人は問い掛ければ答えてくれる、独りよがりであるかもしれないが、そんな気持ちの疎通があるように思えて、僕は敢えて問うた。
「大丈夫ですか」
すると、暖められて白い指に血が通い始めたのか、指の先がほんのりとピンクに色づいてきた。
次には指全体が白とピンクのまだら色になり、徐々にピンクの部分がその面積を増やしていく。
「暖めれば、大丈夫なんです。ご心配をお掛けして」
ほら、と手をこちらに向けて、指をにぎにぎする。
その色は赤味がかった生来の血色と肌色を取り戻していた。
僕の方へと近付いてきて、花束を受け取る。
そして、茎の長さを鋏で揃えると、そこへ水で湿らせたスポンジのようなものをあてがい、銀紙で巻いた。
最後に、丸められた包装紙を引っ張り出して、くるりと覆う。
可愛らしい花束は、女店主によって、あっさり出来上がった。
僕がお代を払おうと、財布を出したところで、声が掛かる。
「もし宜しければ、お茶でもどうですか?」
僕は、すかさず頂戴します、と答えて、彼女を笑わせた。
そして、僕がお願いした花束を器用にも作り上げていった彼女の手が、今度は要領良くコーヒーを淹れていくのを、差し出された丸椅子に座って、じっと眺めていた。
湯気の燻るコーヒーカップを、こちらに差し出しながら、彼女は話し始めた。
「膠原病の一種なんです。レイノー症と言って、寒さや冷たさで、指があんな風に真っ白になってしまうんです。脳が寒さを感じるだけで、一気に血液が指先に回らなくなってしまって……原因不明の病気なんです」
カップがカチャンと音を立てる。
「あ、まだ今のところ命に別状はありませんから。お気遣いのないようにお願いしますね。冬は症状が酷いのであちこちにストーブを置いてあります。けれど、夏は大丈夫なんですよ。気温が暖かければ白くならないんです。だから出来るなら、暖かい場所に住みたいんですよね。もう沖縄にでも引っ越したいくらい」
彼女はふふ、と笑って、自分のコーヒーカップを取り上げた。
「それで、夏の間だけの花屋さんなんですね」
僕は、差し出されたコーヒーカップに伸ばした手を、はっと止めた。
「ふふ、お聞きになりました?」
「すみません、ご近所の方でしょうか、教えてくださいました」
「心の病、みたいなこと言ってませんでした?」
僕はバツが悪いような面持ちで、カップを取って一口啜った。
「はあ、まあ」
言葉を濁しても意味がない。
けれど、そうでもしなければ、僕は途端に居たたまれなくなり、その場を離れてしまいたい気持ちになっただろう。
「良いんですよ、噂には尾ひれがつくものです。皆さんが仰ることの、半分は当たり。半分はハズレです」
コーヒーを美味しそうに飲む。
彼女のそれは、ミルクがたっぷり入れられたカフェラテ。
まだ淹れたばかりで、ミルクとコーヒーの色が混じり合っていない、そのマーブルの模様が徐々に崩れていく。
「夏にはお店を開けるのに、冬には引き籠ってしまう。調子の良い時と悪い時がある、うつ病などと同じ様に見えるのでしょうね。冬の間は、本当に引きこもりです。テレビを見たり、本を読んだりするぐらいで。それに冷たい水が大敵の、レイノーの私が花屋をやろうっていうのが、到底無理な話なんです。ふふ、花屋のくせに、秋と冬は花の名前すら知らないんですから。おかしい話ですよね」
「そんなことはありません。僕にも知らないことはいっぱいあります。それに、冬には冬の楽しみ方がありますよ。冬の間に、部屋の中で出来ることが沢山あるはずです。そうだ、図書館で図鑑を借りてきて、秋や冬の花の名前を覚えるっていうのはどうですか?」
彼女はきょとんとした表情を見せてから言った。
「そうですね、そんな風に考えたことは……秋や冬の花の名前なんて、私には不要だと思って、気にもしませんでした」
そして、何かを考えるようにして俯く。
そんな彼女の様子を見て、僕は良いことを思いついた、というようにして言った。
「では、こうしたらどうでしょうか。夏はあなたが外へ出て、冬は僕があなたの元に訪れましょう。それで僕をあなたの話し相手にするというのは?」
女店主は、驚いた表情を見せた。
目を見開いて、僕をじっと見ている。
その目の持つ意味に突然気づいた僕は、慌てて言い直した。
「わ、すみません。何かプロポーズみたいでしたか。そんなつもりは全然無いんですけど」
あわあわとして、言い訳を探す僕を見て彼女は何と、腹を抱えて大笑いをした。
あはは、と大口を開けて笑っている顔は、その端正な顔立ちが台無しになるような、そんなくしゃくしゃの笑顔だった。
目尻に深い皺が出来、涙が滲んでいる。
「はは、ふふ。あーおかしい。ごめんなさい、そんな風には思わなかったんですけど」
そして、また笑い始めた。
今度は、くくっとおかしさを抑え込むような、そんな笑い方をして。
僕はつられて照れ笑いを浮かべながら言った。
「え、あ、うわあ。僕、めちゃくちゃ恥ずかしいこと言ってますね。馬鹿だなあ、」
「お名前、お訊きしてもいいですか?」
顔に笑いの余韻をたたえながら彼女が突然、思いも寄らぬことを訊くので、僕は小さく驚いた。
その驚きと共に、答える。
「矢島と言います。あなたは?」
「私は、」
暫しの沈黙。
けれど、まだその顔には薄っすらと微笑が漂っている。
「小野です」
「小野さん、宜しくお願いします」
そして、花束の代金を払って帰る間際、彼女は言った。
「今年の冬には、花の名前を覚えてみたいと思います。夏の間はお店を開けますので、是非お立ち寄りくださいね。今日はありがとうございました、矢島さん」
そして、僕はそんな花屋の小野さんとの出逢いを胸に抱いて、翌日墓参りに行った。
ホワイトレースフラワーの花束を持って。
僕は生涯、僕の隣で笑いながら寄り添ってくれるはずだったリエコさんと息子の七緒の墓の前で、佇んでいた。
病気とはいえ、彼女と彼女のお腹の中で育まれていた息子を同時に失った痛みは、想像を絶するもので、立ち上がるのに数年、立ち上がってから一歩を踏み出すのに、さらに数年を要した。
やっと今、こうして墓参りの場に辿り着き、少しだけ微笑むことが出来るようになった。
けれど、その傷は僕の中に今もどしりと腰を下ろして、僕の生を苛み続ける。
それを乗り越えていくのに、僕は「眠り屋」の仕事をその糧としてきた。
たくさんの人との出逢いや美しい想いにまみれながら、僕はやっとのことで生きている。
花束を墓の前に置く。
この花の花言葉には、可憐な心、細やかな愛情、繊細などの意味がある。
「全てが、あなたに当てはまります、リエコさん」
そう呟くと、リエコさんがはにかむように笑ったような気がして、僕は嬉しくなった。
この花を選んでくれた花屋の店主に感謝したい。
「七緒と一緒に、また一年眠っていてください。来年、また会いに来ますね」
別れを告げる。
温く気持ちの良い風に髪を弄ばれながら、僕は事務所のある町へと僕を運んでくれるバスを待つ、停留所へと向かって歩き出した。
✳︎✳︎✳︎
日中になると、肌が少しだけ汗ばんでくるのが心地良い季節のある日、仕事の関係で花が必要となり、僕は夏だけ開店するあの花屋へと向かっていた。
お店の前で、「open」の文字を確認すると、僕は嬉しくなって扉を開けた。
すると、リンリンと鈴のなる音がする。
見上げると、ドアベルがその音の名残りを漂わせていた。
これは前回お邪魔した際にはついていなかったように記憶している。
「矢島さんがいつ来られても分かるように、つけてみました。いらっしゃいませ」
「それは嬉しいですね、今日は仕事で使う花をお願いします」
「分かりました、どのような花を?」
どのような花をと聞かれると、仕事の内容をしなければ通じない。
そんなわけで、プライバシーに抵触しない程度に今回の依頼の内容を話し始めた僕に、話の腰を折らないようにと控え目に椅子を勧めてくれた小野さんは、香りの良い紅茶とチョコレートを僕の目の前に用意してくれた。
「不思議なお仕事をしていらっしゃいますね」
依頼者の夢の中へと入って、その依頼者が抱えている問題を解決に導く。
こう説明すれば大体は不審がられるこの仕事ではあるけれど、僕は必要な時には何時でも誰にでも、臆する事なくこの仕事内容を話している。
「眠りに入る時に花びらを使うんです。その花びらが依頼者に寄り添ったものであると、これはまあ、気持ちの問題ですけど、そういった花びらを使うことによって、僕が依頼者に寄り添うことが出来るというか。だから、花言葉を大切にしています」
「では、この前のご家族の命日の時にお作りした、ホワイトレースフラワーの花束は、」
「可憐な心、細やかな愛情、繊細。どれも彼女にピッタリの意味で、僕はとても嬉しかったですよ」
「良かったです。それを聞いて、ほっとしました。私、不勉強なもので。それで矢島さんは花言葉にもお詳しいんですね。この前も、ガーベラの花言葉の話をしていましたものね」
「ああ、はい。白のガーベラが珍しかったもので。あまり他では見かけませんよね」
「いつも花の色を見て仕入れているので。うちのような小さなお店は、あまり種類とか揃えられないので、在庫のある花で花束を作らなきゃいけないし、そうなると配色とかがどうしても限られてきちゃうんです。なるべく、お店にある花の色を考えて仕入れるんで、あまり色味の強いものを何種類も揃えられなくて」
「なるほど、それでこの落ち着いた色合いになるんですね。僕はそれが嬉しくて仕方ありませんでしたけど」
ここで、隣町にあるチェーン店との経緯を話す。
「品揃えも豊富ですし、良いとは思うんですけど、落ち着かないっていうか」
「ふふ、矢島さんには合わないかもですね」
「そうなんですよって、僕が地味だって言いたいんですね。まあ、それは否定しませんけど」
「地味」の特徴の一つでもある丸いガラスの入った眼鏡をかちゃりと指で上げる。
小野さんはあははと笑って、チョコレートを口にぽいっと放り込んだ。
ここでフォローが無いあたり、どうやら本心のようだ。
僕がむうっと唇を突き出していると、小野さんは笑いながら立ち上がり、奥へと入っていった。
直ぐに戻る。
手には、一本のピンクの花。
粒と言って良いほどの小さな花がぎっしりと並ぶ、可愛らしいものだった。
「ドライフラワーにもよく使われるスターチスです。花言葉は、確か『変わらぬ心』だったか、今調べますね」
園芸や切り花、果ては華道の本まで並んでいる本棚から、一冊の本を引っ張り出して、パラパラとめくり出す。
「一応、仕入れる花のことは調べるんですよ。訊かれたら困りますから。でも、すみません、ちょっとど忘れしちゃって。歳の所為にでもしたいところですけど、花屋失格ですねえ」
本から目を離さずに言う小野さんの表情は真剣だった。
「ああ、やっぱりそうです。『変わらぬ心』、ピンクのスターチスは、『永久不変』ですね。なんとまあ‼︎ 今回のお仕事にピッタリじゃないですか‼︎」
「本当です、ピッタリですよ」
小野さんの「なんとまあ‼︎」にやられはしたが、僕は苦笑を浮かべつつも、スターチスを受け取った。
「花びらを使うって仰っていましたけど、これは花びらというか、」
小さい粒のような花なので、このまま数個拝借して使うか、と心で思いながら、
「このまま使いますから大丈夫です。では、こちらを五本ください。数が少なくて申し訳ないですが」
「いいえ、でもこのまま、矢島さんがお持ちくださったバゲットと交換でも良いですよ」
僕が持参した、いつも朝食にしている絶品バゲットを指差して提案する。
けれど、僕は仕事で使う花を大切にしたかった。
そして、この花屋の花を、この目の前の女性がそうするように大切に思いたかった。
「ありがとうございます。けれど、花の代金は支払わせてください。そこはきちんとしなければいけません」
「そうですか」
「はい、バゲットは美味しい紅茶とチョコレートで相殺に。お願いします」
小野さんはにこっと微笑むと、この場は引いてくれた。
この人との距離感はとても気持ちの良いものだった。
僕はそれ以来、何度かこの店を訪れては花を買って帰った。
仕事の依頼もぼちぼちしか無く、よって花の購入も頻繁ではない。
しかも何十本も数が必要なわけでないので、毎回寄る度に出して貰うお茶を頂くのも申し訳ないような、そんな付き合いではあった。
けれど、小野さんはいつも明るく出迎えてくれるし、それに僕が仕事で落ち込んだ時なんかも、話を親身になって聞いてくれ、僕が元気を取り戻すのに効果的な助言もしてくれた。
この花屋は僕にとっては大切な憩いの場であった。
そして、何度目かに訪れた時、最近になってから少し気になっていたことを口にしてみた。
「もうかなり秋が深まり出しましたが、いつ頃に休業に入るのですか?」
そう、季節は肌寒さを通り越して、すでに初冬を迎えようとしていた。
小野さんの周りにぽつんと一つだけだった電気ストーブも、一般家庭にはまだ早過ぎるだろう、ファンヒーターがその身体を揺らしていた。
設定温度はいつも緩く設定してあり、うつうつとしてしまいそうな気持ちの良い室内が保たれている。
「秋ですよねえ、本当」
見回すと、秋を代表する花の秋桜や菊、木の実をつけたものなどを残して数を減らし、種類も少なくなってきていた。
洗い物をした後など、ふと気づくと、小野さんの手の指が真っ白になっている時がある。
僕はその度に、早く暖めてくださいと、急き立てていた。
「今週末くらいで、お休みに入りましょうかねえ」
自分に言うようにして、呟く。
僕が答えあぐねていると、
「なかなか楽しい夏でした。矢島さんもよくお越し頂いて、ありがとうございました」
僕の方を見ないで言う。
「お店はお休みでも、お喋りしに来ても良いですか?」
僕が以前小野さんに言った、今でもまだあのプロポーズみたいなねとからかわれる、冬には僕があなたの元へ訪れます、のくだり。
同じ内容だなと頭の中で考えながらも、僕はそれを口にした。
そしてそれを僕は、彼女の方を真っ直ぐに向いて言った。
それほどまでに真剣に。
その空気感に気づくと、彼女は振り返って僕を見た。
笑顔だった。
「……はい、お待ちしております」
小野さんはこの店の二階に住んでいる。
店外に二階へ続く外階段があり、そこを上がって行く度に指が真っ白になってしまうんです、と苦笑いをしていた。
僕は冬の間は、僕はその階段を上がっていって小野さんに会いに行くのだと、その時は思っていた。
✳︎✳︎✳︎
例年よりも厳しい寒さで冬が始まろうとした時、僕の事務所の玄関のチャイムが鳴った。
ドアを開けると、マフラーをぐるぐる巻きにして顔を半分ほど埋もれさせた小野さんが、今にも泣き出しそうな顔で立っていた。
口元を隠していたマフラーを、ぐいっと下げた手には、ざっくりと編まれたニットの手袋が被せられている。
小柄な小野さんには、そのマフラーも手袋も大き過ぎる印象があった。
僕は慌てて、暖かく保たれていた事務所の中へと招き入れソファに座らせてから、直ぐに温かいスープを作った。
そのカップを手渡そうとした時、触れた指が氷のように冷たく、驚くほど冷え切っていた。
僕はカップを横に置き、思わず手を握った。
指は、真っ白で血が通っていないのが目に見えて分かる。
僕はその氷のような彼女の手を前にしてどうしたら良いかと焦ってしまった。
小野さんの冷え切った手は、先程まで暖かい部屋でぬくぬくとしていた僕の手の体温をも、直ぐに奪っていった。
僕はその凍った彼女の手を引いて、僕が長年愛用している、マッチで火をつける型の古めかしいストーブの側へと促した。
そして、温かいスープのカップを両手に持たせる。
彼女は一口飲み、そしてほっと息を吐いた。
「矢島さん、大丈夫ですから、ちょっと落ち着いてください」
「僕は、落ち着いてますよ」
ドアの前に立っていた小野さんの泣きそうだった顔は、今は苦い顔を作っている。
そして、次には薄っすらと微笑んだ。
「矢島さんがあんまり慌てるもんだから、何だか笑えてきましたよ。逆に私が落ち着きを取り戻しました」
「だって、いきなり来るから。何事かと思うじゃないですか」
「今日はお話があって」
俯いた彼女の横顔を見て、僕は嫌な予感しかしなかった。
僕の勘は良く当たる。
僕が黙っていると、小野さんがその空気を破るようにして、明るく言った。
「どさくさに紛れて、手を握られてしまいました~」
ぺろっと舌を出して笑う彼女は、心底透明で美しいと、僕は思った。
✳︎✳︎✳︎
「すみません、私、結婚しているんです」
僕は黙って、話を聞いていた。
「矢島さんが冬になって、私の家に来てくださる前に言わなければいけないと、そう思って」
「では、二階の自宅にご主人が、」
問うているのか、ただ呟いているのか分からないような小さな声で、僕は言った。
「いえ、主人は本宅に居ます。私、事実婚というか、婚姻届は出してなくて、そういう曖昧な、妻なんです」
僕の耳は、彼女の話を、言葉を聞いて受け取っている。
けれど、僕の脳は、ただ聞いている振りをしているように、見せかけているだけだった。
きっと、僕の目も遠く濁っているだろう。
「冬の間の生活費は、というか夏もそんなに売り上げがあるわけではないので、まあ一年中って事ですが、その生活費を貰っていますし、主人は社長さんですから、こんな話をするのも何ですけど、お金には困っていません。だから、花屋も適当にやってました」
彼女は話し続けた。
そうでもしないと、呼吸が続かないのではないかというような、そんな風に急いて。
「冬だけでなく、生きることも、適当でした」
そのまま続ける。
「主人は仕事が忙しい人だから、持病のある私に構う余裕もなくて。それに私、正式な奥さんでもないから。ここ一年くらい、会ってはいません。会いに行っても……五分だけだぞ、それで用は何だ、って言われるんです。会いに行く意味がないから、もう随分と会ってないんです」
「はい、」
僕はそれこそ息継ぎのように、返事を入れた。
「でも、」
その彼女の言葉を受けて、僕は眼を。
眼を、閉じた。
「愛してはいるんです。自分でも、もう止めたいと思っているのに」
痛いほどのものが、どんどんと伝わってくる。
彼女の身体のそこかしこから。
そう、その白い指先からも。
僕は顔を上げた。
そして再度、返事をした。
「はい、」
「矢島さん、また来年の夏にはお店にいらっしゃって貰えませんか。今年の夏は、とても楽しかったんです。本当に、心から楽しかった」
そして鞄を持って立ち上がると、僕が答える前に玄関へと歩いていった。
僕からの返事を待ちはしないというような、そんな拒絶も混ぜて、勢い良く歩いていく。
僕は来客にはいつもそうしているように、玄関まで見送った。
マフラーを肩に掛けたまま両端を垂らしているのを、不躾とは思ったが、僕はその両端を取り上げて前で交差させ、ぐるりと首に回して背中へと垂らした。
その時少しだけ、顔が近づいた。
彼女は睫毛をふるっと震わせてから、僕がマフラーから手を離すまで、そのまま大人しく、首を少し前へと傾けていた。
彼女は細く息を吐いた。
同じように僕も吐いた。
「お元気で」
僕が言う前に、彼女が言った。
それに答えて、僕も言った。
「お身体を、大事にしてください」
大き目の手袋でドアを押す。
そして、彼女は帰っていった。
僕の中には、何かぽっかりと穴が開いているような、空虚な空間があった。
そしてここでようやく、愚鈍な僕は気がついたのだ。
僕が彼女を好きになりかけていたことに。
彼女は僕より先に、僕の気持ちに気がついて、釘を刺しにきたのだ。
そして、いや、と考え直す。
釘を刺すなどと、そういうことではない。
彼女は純粋に、直向きにこのことを伝えに来たのだ。
真っ白な雪のような人だ。
雪のような人、そんな風に思って僕は薄く笑った。
決してその手に触れさせてはいけない、冷たさだ。
まだこの時期、雪は降らない。
テレビを点けて、ちょうど画面に現れた天気予報に耳を傾けながら、僕は彼女が残していったスープのカップをキッチンへと運んだ。
✳︎✳︎✳︎
どんよりとした雲の大きな塊を追いやるようにして冬の空が去り、薄い青空に温い風が吹くようになった頃。
ここ数ヶ月コンスタントに入っていた仕事をすっかりと片付けて、ほっと一息ついたある日の午後、僕は小野さんの花屋へと赴いていた。
去年と同じように、そのドアには「closed」の文字。
「もうすぐ、夏ですよ」
今年の夏も、この店は開くのだろうか。
そして、僕はまた去年のこの頃と同じように、オープンを心待ちにしているのだ。
彼女には、すでに振られているというのにこの愚かな僕は、と頭を掻きたくなる。
けれど、僕はやはりお気に入りのバゲットを買った日。
うさぎ書房の古書セールで数冊本を購入した日。
そして、瑠璃さんが開いた個展に寄った日などの帰り道、いつも小野さんの花屋に向かっていた。
そして、「open」の看板が掛かっていた土曜日の夕方、僕は扉を開けた。
リンリンと鳴る、懐かしいドアベルの音。
香り立つ花々の匂い。
花、それぞれの顔。
その彩。
そして、その中に。
満面の、笑顔の女性。
「いらっしゃいませ」
けれど、その笑顔は直ぐにもくしゃりと歪んでしまい、その長い睫毛も伏せられてしまった。
その伏せられた睫毛から、涙が伝って落ちていく。
手で口を押さえると、その細っそりと長い指の間から嗚咽が漏れた。
そして、その指は、白くなかった。
✳︎✳︎✳︎
「小野さん、お久しぶりです」
僕が声を掛けると、彼女はポケットから桜色のタオルを出し、涙を拭いた。
「矢島さん、お元気でしたか」
「元気ですよ。あなたもお元気そうですね」
「はい、」
「しつこいようですが、ここのところ、またもやオープンを願って通っていました」
「心待ちにしていてくださいましたか?」
涙を拭きながら、悪戯っ子の顔をして、笑う。
「勿論です」
「矢島さん私、冬の間に花の名前を沢山覚えたんです。花言葉も。図書館から、こんな分厚い図鑑を借りてきて」
手と手を合わせるようにして出し、その両手の間に空間を作る。
その間から僕を覗き見て、そして、また笑った。
いつまでも流れ続ける涙を、今度はそのままにして。
僕はこの人は一生このまま変わらないのだろうと思った。
きっと、何ら変わらずに、僕の前に居続けてくれる。
僕も笑って言った。
「小野さんの下の名前って、何て言うんですか?」
「京子です」
「では、今日から京子さんとお呼びします」
「シャレですか?」
くすっと笑う。
「ご主人のお名前で呼びたくないんで」
僕がむうっと唇を結び、横へと視線をずらすと、京子さんはおや、という顔をした。
「あらやだ、矢島さん。横顔、金魚みたい」
そして、続けて優しく言った。
「小野は旧姓です。主人の名前ではありません」
そして、
「『元』主人ですね。もう、別れてきました」
京子さんはさらっと言って、僕を惚けさせた。
そして去年の夏、いつも座っていた丸椅子を持ってくると、
「コーヒー淹れますね。矢島さん、夏を待っていてくれて、本当にありがとうございます」
そして、僕を正面に真っ直ぐ見ると、
「私、この冬、沢山のことをやってみました。さっきも言いましたが、花の名前と花言葉、たくさん覚えました。それから、色々なお菓子を作りました。マドレーヌとか、クッキーとか。これ、というレシピも手に入れました」
「美味しそうですね」
「美味しいですよ、今度ご馳走します。後は、主人のことを沢山考えました。考えた末、結論を出して、そして別れてきました。これが一番大変でした。お金ももう貰えませんから、しっかり働かなくては」
苦笑いを寄越す。
「私、ずっと自分は独りぼっちだと思って生きてきました。主人とも心を通わせることもなく、冬なんかは病気もあって、特に暗く引きこもってしまっていました。本当に自分は孤独だと思っていました。でも、違うんです。本当の私は、独りぼっちではなく、これはただの依存だと気がついて」
一気に話した、というように、小さく息継ぎをする。
「私、主人に依存していたんです。私の全てを、主人と病気のせいにして生きていたんです。そのことにようやく、気づきました」
そして、もう一度、小さく。
「……本当の意味で独りぼっちで生きるということは、確かに寂しくて辛いことなのかも知れないけれど、誰のせいにもせず、ちゃんと自分の足で立って生きていくことなんだって、」
差し出されたコーヒーを見る。
ミルクがたっぷりのカフェオレ。
京子さんの手元に視線を運ぶと、同じくカフェオレが。
同じものを飲んでいる、僕はそれだけで何故か、ほっとした気持ちになった。
「矢島さん、私あなたを好きになりたいんです。マドレーヌなんかを焼いている時、あなたに食べさせてあげたいって、何度も思いました」
伏せられる睫毛。
「……けれど、今の私はあなたには決して、お勧め出来ない私なんです。私がたとえ独りでも、ちゃんと自分を立ち上がらせてしっかりと歩くことが出来るようになるまで、どうか見守っていてくれませんか。夏は花屋を開きますので、あなたがいらっしゃってください。でも冬は、」
そして、京子さんが顔を戻して、僕を見る。
真っ直ぐに。
僕を。
今にも泣きそうな、そんな複雑な微笑を浮かべながら。
「私が、あなたの元を訪れます」
僕は、ふっと吹き出して言った。
「はは、それはプロポーズでしょうか」
「いえ、違います」
僕は眼を少し丸くしてから、苦笑した。
京子さんはひとくち飲んだカフェオレのマグを机の上へと置くと、僕の眼を再度、真っ直ぐに見て言った。
「すみません、これは私が本当の意味で生きるための、数ある計画の内の一つです」
さっきまで、今にも泣き出しそうだった京子さんの表情は。
とても清々しい笑顔になっていた。
僕は雨上がりに雲の隙間から太陽が差し、次第に青い空が垣間見えてくる、そんな風景を思い出し、そしてその根底にある力強さを感じていた。
「でもね、それが……それが、最重要課題なんです。矢島さん、私、自信を持ってあなたの下のお名前を呼べるようになるまで、矢島さんのこと、先生とお呼びしますね」
「え、何で先生だなんて、」
突然の提案に驚き、僕が不服の旨を言い掛けると、直ぐにも強く遮られた。
「だって、色々なことを教えてくれた、私の先生ですもん。あなたはぼんやりと座り込んでいた私の手を引っ張って、明るい場所へと連れていってくれた。そして、手を……真っ白で冷え切った手を暖めてくれた。待っていてください、私、ちゃんと先生の……あなたの隣で、歩いてみせますから」
そして、にこっと笑った。
信じられないくらいの美しさ、真っ白な。
その笑顔は僕の中で、限りなく透明になっていき、そして隅々にまで染み渡っていった。
僕はまた、この人を好きになり始めても良いのだろうか。
自分に良いように解釈して、微笑む。
そして力強く頷くと、僕も京子さんと同じように、カフェオレを啜った。