九章 鈍色(にびいろ)の天使
身体中を流れていく汗をどうすれば少しでも不快に思わずにいられるか、僕は手に握っている少し大き目のハンドタオルを持て余しながら、いつも通る空き地を左手に見遣った。
ここは普段から子ども達が野球やサッカーでもやっていそうな、そんな空き地であるはずなのに、やはり今日のようにうだるような暑さだからか、人っ子一人いない。
いつも僕がぶらぶらと通る時間には、子ども達はちゃんと皆、学校へ行っているので、野球やサッカーをやっているのを実際には一度も見たことはないのだが。
「今の子ども達は家の中でゲームばかりやって、外で全然遊ばないと京子さんが嘆いてましたっけ」
ついさっき交わした会話を頭の中で反芻する。
「だから、体力が過去最低レベルになっちゃうんですよ。子どもは外で遊ぶべきです」
僕が読み上げた新聞の記事に対して、京子さんがすかさず意見を述べる。
お茶を淹れる京子さんを横目に、僕はいつもそうするようにソファにどっしりと座り込んで新聞を読んでいると、そういった類の横槍を待ってましたとばかりに入れてくる京子さんが、何とも可愛らしい。
「ちょっと矢島先生、先生も歳とるとどんどんと体力が落ちていくんですから、運動しないと‼︎ 注文してある本が入荷したって、うさぎ書房の辻さんから連絡を貰いましたから、散歩がてら取りに行ってください。いつも使う近道じゃなくて、ちゃんと遠回りしていってくださいよ」
僕は一時間ほど前から根っこの生えてしまった重い腰をようやく上げると、はいはい、と言いながら身支度を整えて事務所を後にする。
事務所のドアを一歩出ただけで、どっと汗が噴き出してくる。
一旦部屋に戻り、泣き言を言いながら、京子さんから大きめのタオルを受け取る。
こんな風な猛暑の中へとほっぽり出した京子さんを少し恨めしく思いながらも、僕は一応京子さんの言い付けを守るべく、この界隈を大きくぐるりとヘビのようにその道程を横たえている道の入り口へと向かった。
この道は途中から、情緒はあるが幅はそう広くない小さな川に沿うようにして合流し、合流した途端にその道幅も狭めてこれまた情緒ある小径となる。
情緒、情緒と言うからには、どれだけ趣のある風景だろうと思うだろうか。
けれど、そこは特筆すべき事のない景色が、ただただ続いているだけなのだ。
僕にはこの平凡な風景が何とも性に合う。
何も考えずに惚けた状態でぶらぶらするのには、平凡な風景、まずはこれが第一条件とも言える。
景色が余りに美しいと、目をとられてしまう。
どんなものにも目や心を奪われず、興味を惹かれないこの小径。
完璧だ、この尋常でない暑ささえ無ければ。
ぶつぶつと文句を言いながら、うさぎ書房までの遠い道のりを歩いた。
次から次へと流れ落ちる汗。
タオルで顔と首を拭うのに忙しく手を動かしている。
けれど僕は、はたとその手を止めた。
川べりに一人、男性が立っていて、じっとその水面を見つめている。
背はそうは高くないけれど、身体つきは痩せ気味で細っそりとし、そして背中に哀愁を漂わせている。
「これは何とも珍しい。こんな小さな川で佇むなんて、何を楽しんでいるのでしょうか」
けれども僕は、やはり自分が何にも興味を惹かれてはなるまいという頑なな気持ちでこの散歩へと繰り出した経緯があったため、足を止めることなく、そのままその場を通り過ぎた。
首から流れ落ちた汗が、Tシャツにじわりと染み込んでいくのを肌で感じながら、ただただ歩き続けた。
✳︎✳︎✳︎
「うわあ、これ本当にねえ、むう」
絶句とはこのようなことを言うのだろうか。
あまりの驚きと落胆に、次の言葉が出ない。
そんな僕の様子を見ていた、うさぎ書房の辻さんが、これだけは言わなければなるまいというような力強さで、言い切ってくる。
「矢島さん、今さら要らないなんて、絶対にダメですからね。うちは基本、返品はお断りしているんです。どうしても買ってもらわないといけませんよ」
僕は一冊の本を前にして、頑固に考え込んでいた。
その理由を指で辿る。
アイドル名鑑
本の一番最後の索引。
沢田リコ
そして、そこにある数字をパラパラとページをめくっては探す。
「矢島さん、ニヤニヤしないでもらえます?」
辻氏がすかさず、指摘してくる。
「失礼ですね、生まれつきこの顔ですよ。でもこれ、本当に詐欺ですよ。こんな分厚いのにリコちゃんがたった二ページだなんて。しかも、この値段、あり得ませんよ」
「値段については、この前念押ししたじゃないですか。ちゃんと、買ってくださいよ」
「わ、分かってますって」
辻氏が僕の手から本を取り上げると、レジへとさっさと持っていってしまう。
分厚い本が、無理矢理に紙袋に入れられて封をされ、息苦しそうにしている。
「有難うございましたあ~」
間延びするような語尾を若干斜め上へと伸ばしてから、辻氏がにこりと笑顔を作る。
「じゃあ、また」
渋々の体で手を上げて、僕はうさぎ書房を後にした。
その帰り道の、重い足取りといったら。
「花月くんに頼んで、アケミマートで売ってもらいましょう。たったの二ページに、この値段。悔しさを通り越して何とやらですよ」
アケミマートの若き店主、花月くんはアイドルに詳しい。
店頭に時々、アイドルのカレンダーなどを置いているあたり、本人は否定してはいるが、アイドルオタクじゃないかと思う。
この件については、つねづね世間には厳しい目を向け続けている京子さんにもきっと、賛同してもらえるであろう。
「はああ、この前買ったムック本の方がまだ良心的でした」
僕は独りごちながら、行きにも通ってきた川沿いの小径を進む。
すると、行きに見かけた男性の姿が、まだそこにあった。
奇妙なことに、何ら変わりのない姿で川の水面をじっと見つめている。
僕は、その男性のことが気になった。
それは行きに見かけてからこの暑さの中、小一時間近く経っているのにも関わらず、その場から動いた気配が微塵も無いからであった。
何が何だかわけは分からないが、場合によっては消防に通報して救急車を要請ということも有り得る。
僕は川べりの草に足を取られながら注意深く坂を下り、そして慎重にその男性に近づいていった。
男性の斜め後ろに立ってみる。
それでも彼は僕の気配には一向に気づかず、ただ水面を見つめ続けていた。
彼の視線を辿ってみる。
けれど、アメンボか何かが、その水面に目に見えるか見えないか程度の小さなさざ波を立てている以外、特に何も見当たらない。
見続けること自体に、何かの意味があるのだろうか。
「何か、気になることでもありますか?」
僕は斜め後ろから、彼の横へと進み出てから慎重に問うた。
すると男性は、横からちらっと見る限り、青年だと見て取れる、まだ少しだけ幼さの残る表情を崩さずにそのまま俯いてしまった。
時々、短い睫毛が伏せられる。
それでも尚遠くを見つめているような、いや何をも見つめていないような、そんな虚ろな目で今度は自分の足元を見ている。
僕が話し掛けたのが耳に入ったのかどうかの判断を、僕自身に委ねられはしたけれど、僕は構わずその場に座り込んで、手にしていたアイドル名鑑を袋から出して開ける。
先ほどうさぎ書房でそうしたように最後の索引を指先で手繰ることはせず、いきなりがばっと半分ほどの所で二つに広げた。
そこには在籍する人数が多過ぎて、名前を一つも覚えられないアイドルグループの一員である女の子が、笑顔で微笑んでいる。
アケミマートの若き店長、花月くんなら、このアイドルグループにも精通しているであろうにと思う。
そう考えて、やはりこの本はアケミマートに置いて貰おうと、再度心に決める。
と、そこで隣の男性の身体がゆらりと動いた。
けれど、ゆらりとしただけで、そのままの姿勢を崩さない。
僕は諦めて、再度手元の本に視線を戻した。
「その人ね、夢を見ているの」
痩身のこの男性には似つかわしくない、可愛らしい声がした。
僕は振り返り、声の主を探す。
視線を移していくと、そのまま川べりを上がっていった小径に、小さな女の子が笑顔を携えて立っているのを認めた。
腕を後ろに組んでいるからだろう、背筋をぴっと伸ばして、何とも姿勢が良い。
ふわりと軽い印象の、薄い橙色のスカートに大きなポケットが二つという、とても存在感のある洋服を着ている。
襟元に上品なフリルのついた真っ白な半袖のブラウス。
良いところのお嬢さんだと見て取れるような、静かな佇まいだった。
この二人が例え知り合いだったとしても、この男性のTシャツに綿パンという簡易な服装が対照的で。
何か、お互いがお互いの存在を受け入れられていないような、そんな正反対の外見である。
「夢ですか、けれど目は開いているようですよ」
僕が、僕の目線より上にいる女の子へと返事を投げると、今度は女の子が僕の視線まで降りてきて、隣に並ぶ。
こんなにもうだるような暑さであるにも関わらず、転ばぬように慎重に降りてくる足元には、ピアノの発表会にでも履くような黒く光るエナメルの靴。
横に並べば、僕の肩くらいにしか身長が及ばない、歳の頃は十一、二歳程度だろうか。
女の子が水面を見ながら言った。
「眠っているのではなくて、夢を見ているのよ」
人形のような姿に、人形のような喋り方。
僕は不審に思いつつも、話を進めていった。
「それは不思議ですね。あなたのお兄さんですか?」
「ううん、お父様のお友達。スズメさんって言うの」
「あの、鳥の? 雀ですか? 変わった名前ですね」
僕はその名前の響きに薄っすらと笑った。
けれど、そんな僕の様子を、女の子は気に入らなかったようだ。
「そんな事ない‼︎ 可愛い名前よ」
少し強い口調に、怯む。
それと同時に、この少女の青年に対する想いが少しだけ垣間見えた気がした。
「あなたは?」
僕が小さく聞く。
すると、
「私は、」
そこで言い淀む。
少し、間があった。
僕は、改まった声で言った。
「僕は矢島と言います。以後、お見知りおきを」
少女はふふ、と短く笑うと、
「私はテンと言うの」
「動物の?」
「ううん、天使の天」
「それはまた、」
言い掛けて直ぐに遮られる。
荒げられた声が、小さく震えた。
「別に変わってないし、変でもない‼︎」
僕は少女の少し怒った横顔を、少しの間見つめていた。
そして、それから顔を戻し、水面を見ながら言った。
「天ちゃん、可愛らしい名前だと思いました」
心からの感想を正直に伝える。
横で、少女があっと小さく言いながら、俯いたのが分かる。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
「ねえ、アイドル好きなの?」
僕の手元を見てから、顔を上げて聞く。
先ほどからのこの少女との会話を聞いているはずの青年は、それまでと何らの変わりもなく水面を見つめ続けていて、それを不思議に思う。
「これはですねえ、話せば長くなるんですよ」
僕は、はあっとため息を一つ吐いた。
少女はその場に座って言った。
「良いよ、時間はたっぷりあるから」
時間はたっぷりある?
僕は流れ落ちる汗をタオルで拭き取ると、事務所を出る時に京子さんに鞄の中に無理矢理にも押し込められたペットボトルを取り出して、喉へと水分を流し込んだ。
✳︎✳︎✳︎
「ねえ矢島さん、雀さんの夢がどんなだか、調べて欲しいの」
こうなるだろうという予想が的中したにはしたが、僕はそれでも少しの抵抗を見せていた。
「でもこの方、寝てませんよね。僕は眠っている人が見る夢の中へと入るので、起きている人の夢に入れるかどうかはちょっと分かりませんねえ」
「でも一度やってみて欲しいの。出来るかもよ」
僕がここから十五分ほど歩いた町で『眠り屋』という事務所を開いていることを話した。
すると、天ちゃんはいまだ川べりに佇んだまま、その姿勢を変えずに水面を見つめる雀さんとの経緯を話してくれた。
天ちゃんによると、雀さんは友達である天ちゃんのお父さんの家に居候をしているらしい。
天ちゃんの両親は、天ちゃんが幼い頃に離婚しており、お母さんはいないとのことだった。
その家庭環境が複雑と言えば複雑であるが、天ちゃんの話ぶりにそういった悲愴感は微塵も感じられなかった。
それよりもやはりと言うべきか、この青年に対する愛情深い想いが、ひしひしと伝わってきて心を打つ。
それは慕っているなどという中途半端な種類のものではなく、紛れもなくこの少女の根底には、今隣で立っている青年に対する恋慕の情が存在しており、それを僕はその年齢差からか、少し危うく思ったりもしていた。
「一度試してみても良いですが、それには雀さんのご協力が不可欠です。ええっと、この状態はいつまで続くのですか? こうも長い時間だと、熱中症にでもなりかねません」
「うん、多分もう直ぐ目が覚めると思う。目が覚めたら家に帰るだろうから、後をついていって。私は先に帰っているから」
すくっと立ち上がると、雀さんのズボンの後ろポケットを探ってスマホを取り出すと、はい、と僕に渡した。
雀さんはそうやって、ポケットをごそごそされても、やはり微動だにしない。
そして、天ちゃんは降りてきた時とは違って、身軽な足取りで川べりを駆けていった。
降りてきた時には気づかなかったが、天ちゃんの所作にはまるで音が無い。
草を踏む音くらいあっても良いのだろうが、それすらも聞こえてこないほどの無音の生だった。
「実に風変わりな依頼を受けてしまいました」
そうぼやいて、隣で鉛筆のように立っている雀さんに目を遣ってから溜息を吐くと、僕は手にしていたアイドル名鑑を開きながら再度汗を拭った。
✳︎✳︎✳︎
突然動き出した雀さんの後についていって、ある一軒の家へと辿り着いた僕は、雀さんが門の簡易な鍵をくるりと回し家の中へと入っていくのを見届けると、近づいていってチャイムを押した。
ピンポーンというのんびりなチャイムが響く。
僕がただの外回りのセールスマンなら、不在ととって踵を返してしまうような時間を待つと、ようやく玄関のドアがガチャと開いて、先ほどまで一緒に居たはずの雀さんが、ぼんやりとした顔を伴って出てきた。
「どなたですか?」
やはり僕を覚えてないらしい。
あなたの横で、あれだけ天ちゃんと大きな声で話していたにも関わらずですよ、そう叫びたい。
天ちゃんには雀さんが帰り出しても声を掛けないでと頼まれていたため、ストーカー候で後をついてきたのだが、それも僕には何だか後ろめたく、けれど僕が雀さんを知っているにも関わらず、こうして知らない振りをしてチャイムを鳴らすのも、更に後ろめたく気が重かった。
雀さんの手にはペットボトルの飲料水が握り締められている。
こんな暑い日にあんな長時間立っているのは、いくら水辺だと言っても自殺行為に等しい。
僕は何度、雀さんに声を掛けようかという衝動に駆られたか。
僕の我慢の限界を超えるかという時にようやく、雀さんは正気に戻ってくれた。
僕は正直、ほっとした。
幾ら天ちゃんに声を掛けないよう言われていたとしても、このまま救急車でも呼ぶ羽目になっては目も当てられない。
「僕は矢島という者ですが、先ほどまで川べりにいらっしゃいましたよね。これ、」
僕はポケットから携帯を出すと、雀さんの前に差し出した。
「落し物です。僕もあの川べりに居たんですけど、あなたがこれを落としていって。後を追って、ぐるぐると探している内にこのお宅に入っていくのが見えました」
雀さんは綿パンの後ろのポケットを探った。
「あ、あれ、本当だ。すみません、全然気がつかなかった」
「やっぱり。良かったです。持ち主が見つかって」
「ありがとうございます、わざわざお手間を取らせてしまって」
じゃあ、と僕が踵を返すと、ちょっと待ってと声が掛かる。
「お礼を、」
そう言って中へと入っていった。
本当だ、天ちゃんの言っていた通り、律儀な人だ。
それにしても天ちゃんは出てこないのだろうか、そう僕が訝しんでいると、ドアが再度開いて、雀さんが出てきた。
何か紙袋を持っている。
「これ、俺が作ったんです。良かったら、どうぞ」
僕の不思議そうな顔を認めると、彼は慌てて説明した。
「クッキーです」
紙袋を開けると、ふわりと甘い香りが鼻をくすぐる。
京子さんが作る庶民派の焼菓子とはまた違って、高級菓子の上品な香りがする。
とは言っても、そんなことを正直に言っては、京子さんの逆鱗に触れるだけなので、帰ったらきっとこの現物だけを渡す結果となるだろうが。
「これは美味しそうです。凄いですね、こんなお店で売っているような物が作れるなんて」
「俺、前は帝洋ホテルのパティシエだったんです。先日、辞めちゃいましたけど」
「それは残念な事です。どれ、」
僕は紙袋の中のクッキーを一つ手に取ると、口の中へと放り込んだ。
一口大がちょうど良い、噛むとほろっと砕けて舌に馴染んでいく甘みと、それが連れてくるこの至福と言ったら。
「うわあ、美味しいですねえ。こんな素晴らしい腕前のパティシエを逃すとは、実に勿体ない話です」
「ありがとうございます、そう言って貰えて嬉しいです。落ち込んでたんで、元気出ますよ」
さっきまで、何時間もぼうっと水面を見ていた青年とは思えない、ハキハキとした受け答えだった。
僕はそのギャップに驚きを隠せないでいた。
天ちゃんに詳細を聞いてなければ、同一人物とは思えないこの豹変ぶり。
僕は懐から名刺を一枚取り出して、雀さんの前に差し出した。
「僕、北町にある事務所で夢に関する仕事をしているんです。こちらにお越しの際にはお寄りください」
「夢?」
途端に不審人物を見る目になる。
こういった反応にはもう慣れてはいるが、僕はそれを苦笑いで返すと、
「これ美味しく頂戴します。ではお元気で」
軽く手を上げると、僕はその場から離れていった。
概要は天ちゃんに聞いて知っている。
雀さんは数ヶ月前から、ああやって眠てはいないのに夢を見ている状態が始まったと言う。
所構わず時間構わずで、そのような休眠状態に陥ってしまうので、その内に仕事にも支障が出るようになり、遂にはチーフに引導を言い渡されて、クビとなってしまったらしい。
雀さん自身には、目を開けながら夢を見ているという自覚は全く無く、周りにお前どうしたんだと言われて気づいたようだ。
そしてどうやら、その休眠状態の時に見た夢の内容は覚えているらしい。
けれどその内容を聞いても、雀さんはそれを上手く説明することが出来ないような、そんな不可思議な夢のようであった。
「天ちゃんの言う通り、夢に入って原因を探った方が良いような気もしますが、」
帰りの途に着いた僕は、もうぐっしょりと湿っているタオルで額の汗を拭うと、
「本人の協力無しでは、それも難しいですからねえ」
と、独りごちてからペットボトルの水をあおった。
✳︎✳︎✳︎
事務所に戻ってから、京子さんが淹れてくれた手作りのレモネードと梅ジュースを一気にあおると、僕は冷房のかかった涼しい部屋のソファで横にだらんと伸びながら、アイスを食べ始めた。
「先生、そんなに冷たいものばかり食べたら、お腹こわしますよ」
そしてその京子さんの予言が当たり、僕は次の日の午前中に腹痛で苦しんだ後ようやく復活し、けれどまだ本調子でないお腹に温かいスープを流し込んでいた時、事務所のチャイムが鳴らされた。
ドアを開けると、そこには雀さんが立っていた。
「おや、こんにちは。昨日はクッキーをどうもありがとうございました。美味しかったですよ、僕の知り合いもレシピ教えて貰いたいって言ってましたよ。とにかく好評でした」
僕がにこっとして、中へと招き入れると、雀さんは恐縮した様子で入ってきた。
実は僕は雀さんが作ったクッキーの余りの出来の良さに嬉しくなり、僕の元依頼者件お茶友達である画家の瑠璃さんという女性や、うちに良く遊びに来るマキちゃんという女子高生に食べさせたりしていたのだった。
もちろん、京子さんにもだ。
スイーツ=女子。
この普遍的な公式は、未来永劫滅びまい。
雀さんが作ったクッキーだというのに、僕はさも自分が作ったというような自慢顔で、それを配っていった。
勿論のこと、それはどこへ行っても絶賛の嵐で、誰が作ったのかを根掘り葉掘り聞かれる羽目になったのだが。
そんな様子を軽い興奮状態で僕が話すと、
「浮き粉が入っているんで、食感が軽くなるんです」
と言う。
僕は、ほうっと頷くと、愛用の手帳に「浮き粉」を記入する。
「これは良いヒントを貰えました。女性陣にもこの戦果を直ぐに伝えねば」
僕がウキウキしている様子を見て、雀さんは思わずと言って良いような雰囲気で笑った。
ここへ来て初めての笑顔に、僕はようやく自分の立ち位置を思い出し、そして雀さんの話を聞くべく、体勢を整えた。
声に出して言いにくいことではあるが、僕がお腹を壊した原因の一つでもある冷たい梅ジュースを用意する。
帝洋ホテルのパティシエに出すなんてと怒られそうではあるが、京子さん手作りのマドレーヌ。
そして、温かみのある灯のスイッチをつける。
それらの準備が整うと、僕は尋ねた。
「今日はどのようなご用件でしょうか」
詳細については天ちゃんから聞いてはいるが、その事については口外できない。
それが天ちゃんとの約束の一つだからであった。
彼女とは幾つも取り決めを交わさせられて、今も知らんぷりを貫くというかなり不自由な思いをしているが、それを苦痛に思うこともなく、僕は話を聞くべく姿勢を正した。
✳︎✳︎✳︎
雀さんの話は大方、天ちゃんの話していた通り予想していた通りであったが、二点ほど食い違いがあった。
一つは帝洋ホテルのパティシエとしての仕事は、クビになったわけでなく、自分から望んだ自主退社であったというのだ。
これは天ちゃんの思い違いであろうか。
それとも訊き間違いであろうか。
「職場の皆んなにまで迷惑を掛けていると思うと、申し訳なくて。突然、睡眠状態が襲ってくるので、何度も手が止まってしまうんです。その度に同僚が手を止めて、揺り起こしてくれて。最初はこの病気を理解して貰えて有り難いと思いましたが、実際忙しい時なんかは俺に構ってる暇なんて無いんですよ。皆んなの足を引っ張りたくなくて、自分から辞めました」
寂しそうな表情を浮かべる。
身体つきから想像できる、その性格にも線の細さが伺えた。
「今、病気と仰いましたが、病院などで診て貰ったのでしょうか?」
「はい、でも精神的なものだって、心療内科を紹介して貰いました。でも俺、心療内科なんて……」
「お気持ちは分かりますが、事実として申し上げます。それが一番手っ取り早い方法なんですよ。原因が心因性のものであるならば、ですけど」
そして、二つ目。
雀さんは何の躊躇もなく、さらりと言った。
「ずっとこのかた独り暮らしですが、それが何か?」
この件に関しては、僕はうーんと唸ることしか出来なかった。
一体どういう事だろう。
天ちゃんは、間違いなく一緒に住んでいると言っていたではないか。
ここへ来て彼女の話は、その真実味を失っていった。
「恋人は、と、これはプライベートの質問ですね。すみません、これには答えなくて良いです」
僕が慌ててひとりツッコミをすると、雀さんは、
「別に大丈夫ですよ。ここ数年彼女は居ません、寂しいもんですよ」
あはは、と苦く笑う彼の瞳。
天ちゃんの影が微塵も見当たらないことが少し気にはなったけれど、手帳のカレンダーを開いて日にちを確認する。
「分かりました。では、五日はどうでしょう。普通に眠っている時に見る夢では意味がありませんから、丸一日一緒に行動して、雀さんが休眠状態に入った時に僕が夢の中へ入るということにしましょう。それで大丈夫ですか?」
「はい、それで良いです」
やはり夢の内容は覚えているのだが、どう言葉で説明して良いのか分からないようで、そこも引っかかる所である。
これは夢に入った時に、僕が自分自身の目で確認するしかない、そう思う。
そして、いつも依頼者を夢へと誘う時に使う花びらの用意は、今回はどうやら必要ないようだ。
そう思った時、ピンポンと玄関のチャイムが鳴り、玄関のドアを開けると、そこに京子さんが立っていた。
「帝洋ホテルのパティシエさん、いらっしゃってます? 急いで駆けつけました。レシピを教えて頂きたくって」
顔や首に薄っすらと汗を浮かべて、京子さんはずかずかと勢い良く入ってきた。
その時、はっきりとした違和感を覚えた。
僕は携帯電話を持っていない。
京子さんに雀さんの来訪をいつの間に、そしてどのように告げたのだろう、と首をかしげる。
けれど、京子さんの、
「先生、早くご紹介ください‼︎」
という声。
はいはい、わかりましたよと返事を返し、京子さん達スイーツ女子の中では巨匠の扱いであった雀さんを紹介したりしていたら、そんな違和感は何処かへ飛んで消え去ってしまった。
「初めまして、黄金のレシピ、是非ご教授お願いします」
その京子さんのスイーツへの猪突猛進な執着ぶりに、僕の依頼者が怯んだことに間違いはない。
そしてその五分後、更にチャイムを鳴らし瑠璃さんが来訪。
苦笑いを終始浮かべながら、あれやこれやと説明している雀さんに、教えて貰ったレシピを二人が書き終えた頃、学校を早退したのだろう女子高生のマキちゃんが、バタバタと駆け込んできた。
早退を京子さんに諌められながらも、
「だって、幻のレシピが手に入るんだよ‼︎ もう学校なんて、どうでも良いです‼︎」
スイーツ=女子。
この公式に間違いがない事が、本日証明されたのだった。
✳︎✳︎✳︎
「どうして嘘を?」
僕の横にちょこんと座る天ちゃんに目をやると、僕は途端に口から出た言葉を呑み込んで引き戻したい気持ちに駆られた。
天ちゃんは、そのふっくらとした唇をむうっと噤んでしまって、何も返してこない。
「まあ、別に良いんですけど。怒っているわけじゃありませんからね」
何度目かの怒っていないアピールをした時に、ついに天ちゃんは口を開いた。
「ごめんなさい、嘘を吐いたわけじゃないのだけど」
うだるような暑さの中、川べりで天ちゃんと話した日から、一週間ほど経ったが暑さはそれほど変わらずに、まだまだ汗を拭く手が止められないこの日。
僕は再度川べりで座り込んでいた。
過日と何が違うかといえば、そよそよと少しだけ風が吹いているという事だけであった。
時折、ざざっと川べりの草草を大仰に揺らし、川のこちらからあちらへと風が走っていくのを感じられる。
けれど、風もまたその温度と言ったら、熱風と言っても過言ではない暑苦しいものであった。
僕は何度もタオルで汗を拭った。
横に座る天ちゃんの涼しげな表情。
相変わらず、何ら音をさせずに遠くを見つめている。
そこで僕は気づいた。
天ちゃんの涼しげな様子は、この我慢の限界を超えるような強烈な暑さを一つとして表していない。
その額には、一粒の汗も見当たらないのだ。
その不思議な事象を言葉にしようとした時に、天ちゃんが話し始めた。
「幼馴染なの。歳は私の方が十個も下だけど。私、雀さんの家の近所に住んでて。小さい頃から良く遊んで貰ってたの」
「天ちゃんは幾つなんですか?」
「十五」
えっ、と僕は声を上げてしまった。そんな歳にはまるで見えない。
まだ小学生かと思っていた僕は、慌てて口を噤んだ。
「良いの、矢島さん。でも、驚いた? 私、見かけがこんなんだし、実際歳も十個離れていたから、雀さんにも妹みたいにしか見て貰えなくて」
「……好きなんですね」
僕は丁寧にその言葉を口にした。
「うん、好き」
天ちゃんも丁寧に言った。
そんな彼女の控え目な様子が、僕の心を捉えて離さない。
「ずっと雀さんを見てきたけど、今が一番、可哀想」
僕はその言葉の言い方に少しだけ違和感を感じはしたが、原因不明の病を患い、と言って良いのかは判断がつかないけれど、そして更に仕事を失って失意のどん底にいる雀さんを見ての言葉であろうと、僕も悲しく思った。
「全力を尽くしてみます。天ちゃんはあまり心配しないように」
不安が漂う顔をこちらへ向けると、彼女はにこっと笑った。
それはこの信じられない暑さの季節の中にでも、その力強い姿を見せて人々を勇気づける、向日葵のような明るい笑顔だった。
この笑顔に雀さんが惹かれないわけがない、そんな風に僕は思いもしたのだった。
✳︎✳︎✳︎
「まるでこれはデートのようですねえ」
口にしてから、あ、すみませんと謝りを入れる。
雀さんと常に一緒にいた一日はあっという間に何事もなく過ぎてしまい、遂には今日、三日目に突入してしまった。
「これが可愛い女の子だったら良かったですね。むさ苦しい男に付き合って貰って、本当に申し訳ないです」
「いえ、こちらこそすみません。失言でした。仕事という事を忘れてしまっていました」
僕が申し訳ないというように頭を掻くと、雀さんも笑って言った。
「でも俺、仕事辞めてから半分引きこもりっぽかったんで、良かったですよ。人と話すの、やっぱ楽しいですね」
「京子さん達がご迷惑をお掛けして」
「いやあ、矢島さん、羨ましいですよ。あんなに美人に囲まれて」
「はあ、囲まれて苛められてるだけなんですけどね。初めて雀さんを川で見掛けた時も、京子さんに外にほっぽり出されたんですよ。僕に対しては容赦ないんですよ、本当」
愚痴を言い出したその時、僕ははっとした。
そう言えば、あの時手にしていたアイドル名鑑は何処に置いたのだったっけ。
事務所の中を隅々まで思い返してみたけれど、その姿は無い。
アケミマートに持って行って、花月くんに預けたのだっただろうか。
僕が黙り込んだのを見て、雀さんが声を掛けてきた。
「お腹空いてませんか? 俺、何か作りますよ」
愛用の腕時計を見ると、すでに正午を過ぎていた。
「お願いします」
そう言うと、僕はにこっと雀さんへと笑顔を投げた。
雀さんが何かを言い掛けた時。
それはやってきた。
まるで時が止まったような、そんな雰囲気で雀さんは動きを止めた。
どうやら雀さんが休眠状態に入ったようだ。
今まで光を宿していた瞳は少し伏せられると、すぐに暗く濁ってその光を失ってしまった。
リビングとキッチンの中間ぐらいの位置で、立ち止まっている。
その身体はぴくりとも動かず、僕を心配させる。
その脳は、心臓は、動いているのだろうか。
そして、身体中を巡る血液は両の手の指先まで、足の爪先まで、届いているのだろうか、と。
けれど、今、雀さんは夢の中にいる。
そう思い直して、その傍に座り込む。
僕はその夢へと足を一歩、また一歩と踏み入れていった。
✳︎✳︎✳︎
「これは、言葉で説明出来ないわけです」
僕は心の中で呟いた。
そこら中がグレーの世界。
壁が、床が、天井が、四方八方その全てが、グレーだった。
それは美しい艶のある鈍色で、何かぶよぶよとした質感がある。
触れてみると、つるりとした肌触りが、僕の背中をぞくりとさせた。
そして不思議なことに、その世界に雀さんは存在していなかった。
今まで僕は僕の事務所へと足を運んできた依頼者の夢へと幾度となく入ってきたけれど、本人不在の夢はこれが初めてだった。
ぐるっと辺りを見回すと、壁まで一定の距離があるはずなのに、その質感からか圧迫感が半端ない。
壁が迫り上がってきて、まるで覆い被さってくるような錯覚に捕らわれ、僕を圧倒する。
そして、それを振り払うようにして更に辺りを見回すと、そこにはトンネルのようにして、先へと進む道があった。
僕はそれを慎重に一歩一歩進んでいった。
そして、ぶよぶよとした床を靴下を履いた足の裏に感じながら、次第に幅も高さも狭くなる道を軽く中腰の姿勢になって歩いていった。
途中から足の裏に異変を感じる。柔らかかった床が、いつの間にか硬いものになっていた。
「一体これは何でしょうか」
声にしないように呟きながら、それでも進む。
濃い灰色であった色の世界にも変化があった。
どんどん、黒に近づいていくような、そんな変化。
そして、それは。
そこにあった。
行く手を阻むようにして、横たわっている、黒々とした塊。
僕はそれに釘づけになった。
何故だか目を離すことが出来ない。
意識をちゃんと持って、僕はそこに居るのに、この黒い塊から一ミリも離れることが出来ずにいた。
これは、何だ?
身体は動かないが、思考は自由のままだ。
その頭で必死になって考える。
その時、何処からか、笑い声が聞こえてきた。
囁きのように軽い声と、悪戯っ子がイタズラを仕掛けた時の笑い、それとが混ざり合う。
それは張り巡らされた蜘蛛の糸のように、僕の身体に纏わりついてくる。
身体中のそこかしこで、僕はその声を聞いていた。
「テン、」
そして、若い男の声。
もう一度。
「テン、」
僕の脳にも直接に、それは入り込んできた。
声の主は、雀さんのようだ。
それはキリキリと僕の心を締め上げるような、切なさを含んでいた。
そして、女の子の笑い声。
次には、元気に笑う、健康的な声。
「これは、天ちゃんのものですね」
僕はそんな笑い声にまみれながら、考えていた。
天ちゃんにあの河原で出逢ってから感じていた小さな違和感たち。
一滴も汗をかかない、音も無く生きる少女。
切れたネックレスから落ちる細かいビーズのように、その違和感は僕の足元に散らばっていた。
そうなのだ。
これは、僕の夢だ。
そう答えが出た途端に、鈍色の壁や床が足元から崩れ落ちていった。
僕も一緒になって落ち、そして意識を手離した。
✳︎✳︎✳︎
ソファから起き上がると、軽い頭痛がある。
この長ソファは、この事務所を開く時、知り合いの家具屋で見つけて、購入したものだった。
滑らかな皮の手触りが眠りを誘うのにちょうど良いと気に入り、この長ソファと一人用のソファとを対で買った。
起き上がって座り直すと、完全に騙されたと、僕は苦く笑った。
一体どこから、僕の夢であったのだろう。
「雀さんが居ないと分かった時点で、気づくべきでしたねえ」
どこぞの夢魔の仕業だろうが、夢から醒めたばかりの頭では思考は働いてはくれない。
僕はしばらくの間、頭を両手で抱えてうな垂れた。
そして、きょろきょろと大体の感じで部屋を見回すと、何処にもアイドル名鑑の姿が見当たらないことに気づく。
僕は大きな大きな溜息を吐いた。
「はああ、そうですか。もうそこから、僕の夢だったわけですね。京子さんに放り出されるところからとは。何とも間抜けな話です」
そして、僕は立ち上がって、まだふらふらする身体に鞭を入れて事務所を出た。
そして、急ぎ足で一軒の家へと向かう。
夢とは言え、地図は正確であったらしい。
汗だくになりながらも、玄関の前に着くとピンポンとチャイムを鳴らして、家主を待つ。
一分ほど待ったであろうか、再度チャイムを押そうとしたところで玄関のドアが開いた。
「何だよ、新聞ならいらねえからな」
ボサボサの茶髪の頭を掻きながら、起き抜けの顔で出てきたスウェット姿の青年に僕は声を掛けた。
「雀さんですね、僕は矢島と言います」
「誰だあ? 勧誘か何かか? うぜえんだよ、消えろよ」
ドアを閉めようとするところに、僕は叫んだ。
「天ちゃんに頼まれて来ました‼︎ 少し話を聞いて貰えませんか‼︎」
閉められようとしていたドアが動きを止める。
「お前、何だ。天ならもう死んでんぞ。気味悪いこと言うな‼︎」
「雀さん、最近奇妙な夢を見るでしょう。それが原因でお仕事をお辞めになってますよね。どうか、話を聞いて貰えませんか? あなたに危険が迫っているかもしれません」
止まったドアが動きを取り戻す。
それは、大きく開けられた。
雀さんがずいっと中から出てくる。
「何でそんなこと知ってんだ? お前、一体何なんだ」
そして、僕は両の手を握り込んだ。
汗が額から一筋流れ、顎へと伝って、落ちていった。
今度は、全身の肌に汗が幾筋も伝っていく感覚がある。
そして、ここへ来てようやく、現実を感じられた。
✳︎✳︎✳︎
部屋に上げてもらい、本物の雀さんと対峙する。
僕の夢に出ていた線の細い優しい雀さんとは正反対の、身体つきや顔はそのままだけれど、もう一度言うが立ち居振る舞いは正反対の粗暴な青年を前にして、僕はどう説明して良いのかを言いあぐねていた。
「で、何だよ、一体どうなってんだよ、お前誰なんだ」
「僕は矢島と言います。こういう者です」
懐から名刺を出そうとして、はたと手を止める。
夢から醒め、その緊急性を知らされた僕は、何も持たずに事務所を飛び出した事を思い出す。
「すみません、名刺を忘れてしまいました。僕は『眠り屋』という夢を扱う仕事をしている者です。信じられないかもしれませんが、僕は他人の夢の中に入ることが出来るので、それを基にして夢に悩まされている人の手助けをしています」
「んあ、何だそれ」
こういった反応には慣れているので、そのまま話を続けていく。
「今回の依頼者は天ちゃんという女の子でした」
「……さっきも言ったけどな、天は随分前に死んでるんだ。天が十五の時、病気でな。もう五年も前になる。どうして、天のこと知ってんだ? お前本当に、怪しいな」
夢の中で出逢った優しい雀さんのイメージをまだ手放せずにいたので、そのギャップに戸惑ってしまう。
「天ちゃんの漢字って、天使の天ですよね。教えて貰いました、僕の夢の中で」
「え、あ、そうだ、天使の天だっつって、よく言ってたなあ」
「天ちゃんが雀さんはパティシエだって言ってました」
けれど、これには反応は無かった。
固まっている、そんな表現がぴったりの姿を晒している。
少しの沈黙の間を置いてから雀さんがこちらを向いて、胡座を正座に変えて座り直した。
「なあ、あんたの話、信じるよ。俺のこともこの家のことも知ってたみたいだしな。俺のストーカーってわけでもねえだろ。さっきのパティシエっていうやつなあ、よく天に俺、パティシエになりたいって話してたんだ。クッキーとかマドレーヌとか作ってたんだぜ、俺。笑えるだろ。でも、天が死んでからはなんもやる気が無くなっちまって」
雀さんが鼻を啜った。
「そんで、今のくだらねえ俺が出来上がったってわけだ」
僕は黙って聞いていた。
天ちゃんが雀さんのことをパティシエだと話した理由がここにあるような気がして。
「で、天が何をあんたに話したんだ?」
僕は少しほっと力を抜くと、僕も姿勢を正して座り直した。
「天ちゃんが僕に見せたあなたの夢ですが、とても不思議な夢でした。辺り一面がグレーの世界の、」
そう言いかけた途端に少し荒げられた声で遮られる。
「そうっ‼︎ そうなんだよ‼︎ 全部、灰色なんだよ‼︎ 俺、自分でも知らねえうちに眠り込んで夢見てるみてえで、何度も親方や同僚に怒られてんだ。ぷっつり糸が切れたみたいに意識が無くなっちまうんだよ。仕事も手につかねえし、そんであんま怒られっから辞めちまったっつうか。あ、俺、左官屋だったんだ。ほら、新築の家の土壁とか塗ったりする」
「大工さんですか?」
「いや、ちょっと違げえ。でもまあ、いいや」
雀さんの印象はかなり違いがあるが、雀さんが見る夢に関しては天ちゃんの話とそうは違わないようだ。
僕はそう確信すると、僕の雀さんの夢に関する見解を話し始めた。
「最近、頭痛に悩まされることはありませんか?」
「頭痛ねえ、別に無いかな」
「天ちゃんが僕に見せたあなたの夢ですが、あのグレーの世界は雀さん、あなたの脳の中ではないかと思うんです」
「俺の脳?」
「はい、そこに存在した黒い塊のようなもの、それは腫瘍か何かではないかと」
「えっ‼︎」
雀さんが絶句した。
「すみません、あまり驚かせずに伝えたかったのですが、急を要するようでしたので、直球でいきました。天ちゃんがあなたにそれを知らせようとして、夢で表現したんだと思います。けれど、あなたには伝わらなかった。だから、今度は僕にその夢を見せた、そういうことだと思っています」
仕事柄、夢に関してはどんなことでも僕は有りのままを受け入れているので、僕には具体的な夢を見せやすいのだろう。
その点については、以前から夢魔にそう評価されている僕の能力の一部でもあった。
多分、現実的な雀さんより僕の方が、具体的で詳細に夢を見させやすいとの判断があったに違いない。
けれど、どうして天ちゃんは、雀さんの脳の中に腫瘍があると直接伝えてこなかったのだろうと、疑問も残る。
回りくどい、今回のやり方しか無かったのだろうか。
「それって、天の幽霊とかって話か?」
「そこまでは分からないんです。けれど、そういう話になってしまっても仕方がありません。僕は夢を見させられただけですから。けれどそれはそれで、僕は享受したいと思っています。そして同じようにあなたにも、受け入れて欲しいと思っています」
雀さんが俯いて、何かを考え込んでいる。
当たり前だ、こんな話信じられるはずもない。
けれど、僕は訴えた。
「とにかく、病院で検査を受けて頂けませんか? 僕には天ちゃんが必死に伝えようとしていたような気がしてならないんです。もし僕の気のせいだったのなら、それはそれで良いので。その場合は病院でかかった検査料をお返しします」
「どうして、そこまで」
雀さんが顔を上げて呟くようにして言った。
その表情は曇っていて、本心は見えない。
けれど、僕には天ちゃんとこの目の前にいる雀さんの間に、何か特別な繋がりがあるような気がしてならなかった。
天ちゃんの、雀さんに向けられたあの直向きな感情。
彼女は妹のようにしか思って貰えなかった、と悲しそうに言った。
けれど、本当にそうだったのだろうか。
僕の中で創り上げられた雀さんのイメージ。
優しさと愛で満ち溢れ、僕も良い印象しか持たされなかった。
そして、雀さんの脳の中で聞いた声。
楽しそうに笑う天ちゃんと、そして天ちゃんの名前を切なげに呼ぶ、雀さんの声。
そこに真実があるような気がして。
天ちゃんが病に冒されて亡くなる時、いまわのきわに雀さんの事を夢魔に託したのかも知れない。
僕がかつて愛したリエコさんが、僕を見守るようにと夢魔に頼んで逝った時のように。
そう心の中でこの不思議な出来事に決着をつける。
「天ちゃんのこと、」
少しの躊躇と懸念を含んで、僕は問うた。
「天ちゃんを、愛してましたか?」
僕は再度、直球を投げた。
そして雀さんが、ゆっくりと驚きの表情を僕に見せた。
それから、それをくしゃりと歪ませた。
歪んだ顔が全てを語っている。
もうそれで、僕は満足だった。
「どうか、病院へ行ってください。それでもう、突然夢を見ることは無くなるはずです」
そして、雀さんの家を辞した僕は、またうだるような暑さの中へと放り込まれた。
僕の心は、あちらこちらへと迷い子のように漂い惑っていた。
天ちゃんの、美しい心を雀さんの元へと持っていけたような気がしてほっとしている自分と、そしてそれと同時に戸惑う自分と。
そう、僕は雀さんを傷つけているのかも知れない。
過去を掘り返して、その目の前へと突きつけることで。
僕は足取りの重い帰り道、道端の畑の脇で咲く向日葵の花びらを数枚拝借し、潰さないように手を軽く握って事務所へと持って帰った。
✳︎✳︎✳︎
「予約していた本が入荷したそうですよ。うさぎ書房の辻さんから連絡がありました」
京子さんが冷たい飲み物を運んできてくれた。
その言葉に、デジャヴかと思うこの刹那、僕は雀さんのことを思い返していた。
「二三日中に取りに来てくださいとのことです」
分かりましたと、生返事と言える声で返す。
そして、テーブルの上に置いてくれたガラスのコップを手に取った。
すると、冷やりとした手の感触に、これが夢ではなく現実だということを強く確信する。
そして更に言うと、これが夢ではないという証拠が、このコップに水滴を浮かべている「麦茶」なのである。
実は京子さんは、酸味のあるものが苦手で、梅やレモンといった酸っぱい物を敵視している。
「この世から抹殺したいくらいです」
この言葉に戦慄を覚えながらも、僕は梅ジュースなら甘味が強いしどうですか、と提案したことを覚えている。
「どれだけ身体に良いと言われても、口に入れる前から見るだけで拒否反応が出るんです。口の中に唾液がべしゃーって。これはもう一種のアレルギー反応ですよね、そう思いませんか、先生」
その唾液べしゃーを理由に、瑠璃さん手作りの梅ジャムを、丁重に断っていたこともあった。
そんな京子さんが、梅ジュースやレモネードを手作りするはずが無かったのだ。
僕の頭の中にはその「梅ジュース」というキーワードが強く残っていたのだろう。
それであの天ちゃんが見せた僕の夢の中で、僕は京子さん手作りの梅ジュースをがぶ飲みしてお腹を壊したようだ。
京子さんと梅ジュースの組み合わせで、おかしいと気づくべきだったが、そこで気づいてしまっては天ちゃんの真意は見えなかっただろうから、結果オーライである。
夢とは奇妙なもので、辻褄を合わせようとすれば幾らでも合わせられるし、無理に合わせなくてもその内に辻褄が合っていくという不思議なものだ。
信じられないようなトンチンカンな夢であっても、そこにはその人それぞれの人生が裏付けにある。
あの夢が、天ちゃんが夢魔を使って僕に見せた夢だとしても、夢を見ているのは僕自身である。
パティシエという言葉に反応し、その結果の京子さん他スイーツ女子の登場であったに違いない。
そして、梅ジュースやレモネードも然り。
「スイーツ=女子、か」
僕がそう呟くと、京子さんがキッチンから大きな声で言葉を寄越す。
「いえいえ、スイーツ=先生、ですよ」
はあ、と頭を掻きながら、冷たい麦茶を一気に飲んだ。
「先生、あんまり冷たい物ばかり飲んでると、お腹壊しますよ」
これもデジャヴの一つであったが、大人しく、はいはいと返事をしておいた。
✳︎✳︎✳︎
天ちゃんに夢を見せられてから三ヶ月ほど経った頃、あの殺人的な猛暑が嘘のように消えてなくなり、肌寒く長袖の上着が必要となった季節のある日。
僕の事務所に来客があった。
ドアを開けて、少しだけ驚く。
紙袋を下げて立っている、雀さんだった。
Tシャツに綿パンのシンプルな出で立ち。
茶色に染めてあった髪色は黒に変わり、ほとんど坊主と言っていいほど短く刈られた頭は、その上から淡い橙色のニット帽が被せられていた。
その帽子を見て、僕は問うた。
「天ちゃんの好きな色ではないですか?」
天ちゃんが履いていたスカートを思い出した。
甘酸っぱい蜜柑のような、人の心を癒す温かみのある色。
「矢島さんは、何でもお見通しなんっすね」
僕は事務所に彼を招き入れ、僕が横になり天ちゃんの夢を見たソファへと促した。
雀さんはそのソファに座ると、少しの間を置いて話し始めた。
「腫瘍でしたよ。でも初期のものでそれも小さいうちに発見できたので、手術で取り除けました。後遺症もほとんど有りません。矢島さんのお陰です、ありがとうございました」
「いや、天ちゃんのお陰ですよ。僕は夢を見せられただけです」
「天は、元気でしたか? あ、いや、それはおかしい質問ですよね、すんません」
「可愛らしい人でした。あなたのことをとても注意深く見ていました。それで病気のことにも気づけたのかも知れませんね」
実際見守っていたのは、天ちゃんではなく夢魔なのであろうが、そこは敢えて伏せておく。
夢魔だと思うのは、僕の主観でしかなく、この世界ではそれが真実かどうかは分からないからだ。
「それなのに、見てたはずなのに。左官の俺をパティシエだなんて」
雀さんが両手を握り締めるようにして前で組む。
その手をじっと見つめたまま、視線を離そうとしない。
今、彼は自分を見つめている。
恐らく、自分自身を深く。
僕はそっと立ってキッチンへと入ると、京子さんが僕のおやつにと余分に作ってくれたマドレーヌを小皿に盛りながら、アイスコーヒーを一から淹れるべく、薬缶に水を入れて火にかけた。
ぼおっと炎が上がる。
僕は僕で、その薬缶がぴいっと笛を鳴らすまで、その炎を見つめ続けた。
✳︎✳︎✳︎
「俺、実は大学出て直ぐに帝洋ホテルにパティシエ見習いで入ってるんです。大学出でよく雇ってもらえたなって今でも思うんですけど。小さい頃から甘いもん作るの好きで、よく天にも作ってやってたんです」
ふふっと、微笑を浮かべる。
「あいつ、あんまりうまそうに食べるから、俺も嬉しくて。その天の顔を見て、大学行ってる途中で決めたんですよ、パティシエになろうって。帝洋ホテルに就職した時は、すっげえ喜んでくれて」
雀さんは一呼吸ついてから、俯いた。
「でも……それから三年もしない内に、突然死んじまった。信じられます? まだ、十五だったんですよ」
肩を震わす。
「俺、好きだったんです。小さい頃から、天のこと。でも、キモいじゃないですか、十も離れてんのに。嫌われたくなくて、作った菓子をやる時以外は、必死になって距離取ってました。でも天が大人になったら、ちょっとは付き合える可能性出てくるかもしんねえって、そう自分に言い聞かせ、て、待って、待って。いつまでだって、待つつもりで」
次々に零れ落ちる涙が頬を伝って流れていく。
肩を震わせて、嗚咽を零す。
そしてその涙の粒は、顎へと伝って、ぽとりぽとりと彼の握った拳の上へと落ちていった。
「天が死んで、もうそれで俺は駄目になっちまって。俺ら両方、母親がいないんですよ。だから、天が小さい頃から支え合ってたっつうか、はは、俺だけ支えられてたのかも知んないですけど。俺、そっから帝洋も辞めて、最近までずっと引きこもりだったんすよ。んで、これじゃあダメだと思って外出て、やっとありつけた左官の仕事も、怒られんのが嫌で辞めちまって。情けねえったら。天が俺のこと見ててくれたんだったら、こんな体たらくのバカみてえな俺をどう思ったか、そう思うと本当に恥ずかしくて、情けなくて」
右腕でぐいっと目元を拭う。
「左官屋さんのお仕事は、病気の件が影響していますので、仕方がありませんよ。ご自分を責めてはいけません」
いや、これは昔の自分にも言える事だ。
僕が愛したリエコさんと七緒が逝ってしまってから、僕だって雀さんと同じように自分を責め続けた。
気持ちは十二分にも分かる、僕の胸にも同じような痛みがある。
「左官って、ケーキにクリームを塗っていくように、土壁を塗り上げていくんですね。僕、あれから左官の仕事を調べたんです。そしたら京子さんが、えっと事務所のお手伝いの方なんですけど、その方もスイーツを趣味で作ってて。その京子さんが、ケーキ作りに似てるって」
「あはは、まあ実際やってみると全然違うんですけどね。塗り上げていくっていう部分は、似てるかも知れねえ。そんなこと考えたこともなかったですけど」
「天ちゃんもあなたを、好きだと言っていました」
実はこの事を伝えるべきかどうか、僕はかなりの間、迷いに迷った。
愛情というものは、他人の口を通すと、その温度を一気に失ってしまう。
そんな冷めてしまった生気の無い、けれどこんなにも尊い言葉を、僕の口を通して伝えるべきであろうか。
しかもその相手は、心底痛恨の極みであるのだが、もうこの世に存在しない。
この言葉が、雀さんのこれからの未来の足取りを重くさせる枷になるのか、それともそれを軽くする翼のような役目となるのか、それはこれからの雀さんに姿勢に委ねられる。
そう、僕は卑怯なことに、ただ押しつけるだけなのだ。
僕は次に、僕が持つその何とも形容し難い気持ちを素直に口にした。
「すみません、言うかどうか迷ったんですが。でも、天ちゃんが自分は妹のようにしか見て貰えなかったと、思い違いをしていたので。両想いで、良かったです」
雀さんの目に涙が溢れる。
唇を震わせながら。
「天が、俺のことを? ……まじですか、嬉しい、めちゃくちゃ嬉しいです」
一呼吸置いて続ける。
「すげえ嬉しいです、それ聞けて。両想いかあ、なんだ、良かった。本当、良かった」
噛みしめるように呟いた雀さんは、瞳から涙を溢れさせながら、笑った。
「俺のこの命、天に助けて貰った命なんで、今度はちゃんとしようと思います。天に心配ばっか掛けられねえから」
そして、雀さんは帰っていった。
悲しみや痛みをたくさん抱えて。
天ちゃんと雀さんと僕の三人で一生懸命に掘り起こしたものが、いまその三人それぞれの足元に横たわっている。
これをどうやって運ぶのか、それとも運ばずに自分の中に抱え込むのか、それともこの掘り起こしたばかりの穴へと捨ててしまうのか。
雀さんは雀さんしか、そして僕は僕にしか、分からないのだ。
けれど、今度は向き合えるのではないかと思う。
きっと、それを真正面に捉えることが出来る。
真っ直ぐに。
そして、真摯に。
僕は、雀さんが座っていたソファを見た。
途中から、隣に天ちゃんが座っている気がしてならなかった。
向日葵のように笑っているような、そんな気がしていた。
✳︎✳︎✳︎
僕の最も苦手とする冬が終わりを告げる頃、春が待ち遠しくて仕方がなくなりそわそわと毎日を過ごしていた日々、その数ある日常の中のある一日、雀さんが事務所に寄ってくれた。
ドアを開けると、雀さんは開口一番こう言った。
「矢島さん、俺、もう一度パティシエ目指します」
そして、紙袋を差し出した。
中を覗くと、透明なビニールに行儀良く並んだクッキーが、美味しそうにくるまれている。
その袋には、帝洋ホテルのロゴ。
僕は帝洋ホテルの懐の深さに、拍手を送りたい気分になった。
実は雀さんが手術後、初めてここへとやってきた時にも、同じように紙袋に入った手作りのクッキーを持ってきてくれていた。
「この前のより、ずっと美味しいですよ」
そう言うと雀さんは、照れ笑いも混ぜて、にかっと笑った。
そう、まるであの向日葵のように。
僕もつられて笑ってしまった。
向日葵の笑顔には、そんな不思議な力がある。
夏の小径に凛として咲く、そんな向日葵の花言葉のように、きっと天ちゃんがあなたを見守っている。
貴方だけを見つめています
僕は心からの満足と共に、振り返って手を上げて帰っていく雀さんの後ろ姿を、いつまでも見送っていた。




