一章 彷徨う(さまよう)
「眠り屋 どのような夢でもご相談ください 矢島」
このような職業を生業としていても、僕自身、今までに一度も「夢」というものを見たことがない。
というより、あまりに深く深く眠り込んでしまうようで、「夢」を見ていたのかどうか、それすらも知り得ないのだ。
それは眠っている間は地震や雷といった天変地異にも何ら反応を示さないというそれらの事実が証明していたし、かたくなに眠り続ける、それが数年前に僕の元を突然に去ってしまった女性が残した、言葉の一つでもあった。
愛用の腕時計を見る。
すると今まで息をひそめていたのであろうか、その秒針がしなやかに時を刻む音が聞こえ始め、次第にその「時間」という概念を、僕へとアピールし始めた。
刻、刻、刻、刻……
永遠に続くであろう一定のリズムを寸分の狂いもなく刻む、繰り返される音の羅列。
心臓の鼓動のような、あるいはピアニストが奏でる白鍵と黒鍵の絡み合いを、規律正しく導くメトロノームのような。
そして僕は今一度、目の前に横たわっている一人の女性の横顔に視線を戻した。
夕焼けで淡いオレンジに染め上げられていく部屋、窓のすり切れたガラスの隙間からはたくさんの光が差し込んでいる。
彼女の頬は、
腕は、
そっと掛けられた毛布は、
その光によって、淡く淡く照らされていた。
肌の細胞一つ一つが、泡立つようにほんのりと色づいている。
しかし今日のそれは、夕暮れになると誰もが感じる虚しさの象徴というよりは、彼女の冷え切った身体と心を包み込む、優しく暖かい焔のように、僕には思えた。
「私が描くはずだった画を、取り戻して欲しいのです」
彼女が吐き出すようにして言った言葉が蘇る。
僕は眠った彼女の横顔から目を離し、ゆっくりと辺りを見渡した。
机の上には絵の具や筆が散らばり、彼女が描いたのであろう画が部屋の一角に寄せられて、窮屈そうに壁に立て掛けられている。
それは風景画や人物画、静物画。
繊細なタッチと色彩で描かれている、彼女が歩いてきた軌跡の全てが、そこに集約されていた。
そして狭そうに肩を寄せ合っている画の塊とは別に、ひとつだけイーゼルに掛けられているカンバスに目が留まる。
白い布が被せられた、描きかけであろうその画は、部屋の隅にひっそりと置かれていた。
✳︎✳︎✳︎
小雨が続いていた二日前のあの日。
とうとう冷蔵庫の食糧が底を尽き、買い物に出なくてはならない僕を、それでもぐずぐずとした天気が足止めしていた昼下がり。
彼女は女性の持ち物とはとうてい思えない真っ黒なこうもり傘をさし、僕の事務所を訪ねてきた。
ピンポンとチャイムが鳴った時、足止めを食って手持ち無沙汰だった僕は、それまでの時間を、窓の外をぼんやりと眺めて過ごしていた。
そして、二度目のチャイムに背中を押されるようにしながら、玄関のドアを開けた。
そこには、眉根を寄せて引きつった表情の、どこかに痛みでもあるのだろうかと思わせるような苦痛の表情を浮かべた女性が立っていた。
色のない、真っ白な顔。
ただただ、ぼうっと過ごしていた僕とは対照的な。
玄関に出た時、僕の顔は相当緩みきっていたのだろう。
そんな僕のふにゃりとした顔を見た途端、緊張で強張っていた彼女の頬はゆっくりとその力を緩めていった。
彼女が一通りの挨拶を終え、最後に自分の名前を告げた時にはもう、これが生来のものであろうという表情と顔色を取り戻していた。
彼女は瑠璃、と名乗った。
僕は普段通りの白いワイシャツにこげ茶のベストという格好で、彼女を部屋に招き入れた。
椅子を勧めると、丁寧に仕立ててある桜の花びらを連想させるような淡いピンクのワンピースを少しだけ持ち上げて、彼女はまるで音もなく座った。
息をする、生命を維持しようとする音さえ聞こえてこない、そんな静けさとともに。
座ると同時に絹糸のような黒髪が一本一本、さらさらとその華奢な肩から滑り落ちていく。
そして、彼女は言った。
「私が描くはずだった画を、取り戻して欲しいのです」と。
そう一言言うと、再びその薄い唇は固く結ばれ、当分の間開かれることはなかった。
僕は口に合うだろうかと考えながら、過日、仕事の礼で貰ったアッサムティーを淹れるため、音をたてないようにそっとキッチンへと入り、珍しくも底が四角い、赤いポットに水を入れて火に掛けた。
✳︎✳︎✳︎
俯いたままの彼女の頬には、半ば伏せられた長い睫毛が深く影を落としていた。
温かい紅茶によって、頬はほんのりと色づいてはいたけれど、その瞳はまるで深淵を覗き込んでいるかのように暗く、暗く、ひやりと冷たかった。
「あの画を、完成させなければいけないのです。私、どうしても描き上げなければ、」
ふいに言葉を失った瑠璃は、顔を上げ懇願するようにして僕を見た。
その拍子に溢れた涙が、夜空を滑るほうき星のように、いくつも頬を走る。
僕はティッシュを取り上げると、箱ごと彼女の前に差し出した。
「すみません、泣くなんて、本当にすみません」
すっと一枚手に取ると、そのまま目元を押さえる。
その白くほっそりとした手の甲。
見えるか見えないかぐらいで浮き上がる細い血管が、彼女の身体の隅々までに張り巡らされ届き、そうしてこの人は儚くともこの世界に存在する。
助けなければ、と思い、僕はそれからティッシュを箱ごとってのは男としてどうなんだろうなあとも思い、薄く苦笑しながらも彼女に向き直った。
「私、毎晩のように同じ夢を見るのです。それはとても不思議な夢で……」
瑠璃が言葉を呑む。
職業柄、この手の沈黙には慣れている。
心を無にして次の言葉を粘り強く待つ場合と、言葉を促すように仕向ける場合とがあるが、瑠璃の場合は早々と言葉を引き出さないと、貝のように黙り込んでしまうような気がして、後者を選ぶ。
「その夢に、あなたの画を奪われたというのですか?」
すると次には、瑠璃はするすると言葉を紡いでいった。
「おかしな話ではありますが、私にはそう思えてなりません。私、美大を卒業してからは趣味と仕事と半々ではありますが、ずっと画を描いてきました。下手な横好きですので、人に話すのは恥ずかしいのですが、子どもの頃から画を描くのが好きで、今までかなりの時間をそれに費やしてきました。白いカンバスを前にすると、いつも自分がどんな画を描きたいのかが自然と湧いてきて……ですが、」
「それが、描けなくなった、ということですね」
「はい、ある日を境にして」
「ある日?」
瑠璃の表情が、雨が降り出す前の空模様のように、みるみる薄暗く曇っていく。
美しく程よい額にも翳りが差し、眉根が寄せられている。
そして突然、その長く黒々とした睫毛が、きつくきつく伏せられた。
「夢です、夢が原因です」
小刻みに震え出す声。
「どうか、私の画を取り戻して下さい。私、何としてでも画を描かなければならないのです。お願いします、どうか……どうか、お願いしま、す……」
激しさを増しながらもそれを必死でおさえて絞り出す声。
次第に小さくなり、ついには消えていった。
僕は次に訪れた沈黙には答えず、不躾であったであろうが構わずに、じっと彼女を見つめ続けた。
言葉の端々からぴりぴりと感じ取れるほどの、瑠璃の内に秘めた激しさ。
僕が「眠り屋」という職についてなければ、結局の所、瑠璃の頭の中で創られた産物でしかない「夢」なるものを、「瑠璃」という個の境界から決して出ることはない「夢」という、言葉にするとこれ程に曖昧なるものを、こんな風に取り乱している瑠璃を前にしてでも、それは君の気のせいだと笑い飛ばしていたに違いない。
しかし、僕も確信する。
やはり、「夢」が全ての元凶であることを。
僕はこの激情の根源が、瑠璃が持つ本来の気質などではなく、つまりは「夢」に起因してのものであると判断していた。
そう、僕はその時点で強く確信していた。
✳︎✳︎✳︎
自分が夢を見ない代わりに、他人の夢へと入り込むことが出来ることに気がついたのは、僕がまだ大学生の時だった。
確かにフロイトの夢判断などを一般科目であった心理学の授業で多少触りはしたが、その時は夢をまるで見ない自分にとっては、好奇心や関心の一欠片にも引っ掛かることはなかった。
しかし、夢によって悩まされていたある友人を救ったことをきっかけに、僕の人生は百八十度転換した。
大学を卒業するのを待たずして、心理学など「夢」に関係のある科目の授業を持ち、かつ「夢」に詳しい専門の大学に入り直して熱心に講義を受講し卒業したし、夢に関する文献を論文のように堅いものから、あまりにバカバカし過ぎて辟易するものまで、昼夜問わず読み漁った。
そうして僕は、「眠り屋」なるものを開業したのだ。
依頼者の夢へと入り込み、何度も下見をしながら直接本人やその関係者とは接触しないよう細心の注意を払いつつ、慎重に慎重を重ねて原因を探り解決へと導く。
時と場合によっては、本人や登場人物との接触も必要になることがある。
そういった事からも、ある意味これは強引な解決方法と言えるのかも知れない。
その点は依頼者に対し、事前にインフォームド・コンセントを行うようにしている。
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瑠璃がすでにぬるくなっているであろうアッサムティーに口をつける。
僕は少し頷き、先を促した。
「それは、どんな夢なのでしょうか」
落ち着きを取り戻した様子の瑠璃が、カップの縁に薄くついたリップを拭ったのだろう、親指をすっとスライドさせてから、僕を見る。
「それが不思議な夢で。画が描けなくなった原因でもあるのに、全然嫌な感覚はありません。そう、夢から覚めると不思議なくらい心が軽くなっているというか……」
「……はい」
「満たされているのです」
瑠璃がほっと小さく息を吐く。
夢の内容を思い出しているのだろうから、この穏やかな表情は瑠璃の「夢」が引き出しているのだろう。
僕は話の内容に付け加えて、彼女のそういった印象を手帳に記していった。
「私はそこがどこなのか、見覚えのない部屋に居ます。最初は決まって部屋の真ん中にある青いソファに座っています。部屋には家具はそのソファ一つしか置いてなく、窓が一つあるだけで、扉がありません。その部屋は殺風景であるはずなのに、なぜか暖かいのです。柔らかい光の中にいるような、そんな感じです」
僕は彼女が夢の内容を思い出しながらすらすらと話を進めているのを、途中で邪魔して中断させたくなかったので、メモに押しつけていたペン先を見つめながら、そのまま続きを待った。
「私は立ち上がり、窓に近づいていきます。その時は窓の外を見たい、と思っているようです。カーテンが閉めてあるので、それを両手で開け、ガラス窓を開けようと両手で前へと押しました。あの、分かりますでしょうか、こう真ん中から割れて、手で押して開ける形の……」
瑠璃が水泳の平泳ぎのように、すいと両手を前に出してそのまま広げる。
「はい、分かりますよ。両面の外開き窓ですね」
「そうです、それです。私はその窓を開けようと、こう両手で押した瞬間、見る見るうちにガラスに細かいヒビが入っていくのです。そして、スローモーションのようにゆっくりではありますが、窓ガラスは割れて、飛び散ってしまうのです」
瑠璃の顔が少しばかりの興奮で紅潮する。
「危ない、と思うのですが、とっさに身体を避けたり手で遮ったりする間もなく。けれど散ったガラスが……」
「……ガラス、が?」
「あの、散ったガラスがたくさんの蝶になって……。羽を虹色に光らせながら、そこかしこへと散らばっていくのです。そしてしばらくすると、澄んだ青空へと一斉に羽ばたいていくのです」
瑠璃の表情から、それがどんなに美しい光景かは容易に想像がついた。
瑠璃しか見ることのできないこの光景に、彼女自身囚われている、そんな印象もあった。
「美しいのです。心が洗われるような、美しさなんです。ご理解いただけるでしょうか」
すると、瑠璃はあっと声を上げて、小さく飛び上がった。
「私の夢の中に入られるんですから、矢島先生も見ることができますね」
ここへきて、初めての笑顔。
蕾が急にその花を開花させたような。
そんな瑠璃のはにかんだ笑顔に、僕も笑顔で返す。
「うわあ、よしてください。先生だなんて……でもまあ、そうですね、楽しみです」
瑠璃がほうっと小さく息をつく。
「それからですが、蝶が飛び去るのを見届けると、私は枠だけとなってしまった窓をそれでも閉めようと思います。手を伸ばそうとすると、いきなり何かが飛び込んでくるのです。それは、一匹の黒豹なんです」
息をつくのかと思ったが、瑠璃はすぐにも続けた。
「私は驚いて、慌てて後ろへ下がります。いつも決まってソファに足を取られて倒れ込んでしまうのですが、不思議と恐ろしい気持ちはありません。黒豹は私へと近づき、身体を擦り寄せてくるのです」
「その黒豹は吠えたり、威嚇してきたりはしないのですか?」
「いえ、擦り寄ってくるだけで、私がソファに座ると膝の上に頭を乗せてくるのです。それが甘えて、頭を撫でて欲しいというような様子で。おかしな話ですが、私もなにかしら愛情を感じているようです。なので、何度も撫でてあげるのです、何度も」
ああ、なるほど。それが夢から覚めた時にある充足感、満足感に繋がるのか、そう思ってメモを取る。
「そうしてるうちにどこか遠くの方で鐘の音が鳴り始めます。黒豹は頭を上げて、一度だけ喉を鳴らして唸り声を発すると、鋭い牙を少しだけ見せるのです。そこで決まって夢から覚めます」
「不思議な夢ですね」
「はい、最初見た時には、断片的にしか覚えていなかったのですが、毎晩、寸分違わずに同じ夢を見ていれば、目が覚めても覚えているものですね。そんな風に最初はうろ覚えだったのですけれど、一つだけ確信していることがあるのです」
瑠璃の表情が、みるみる硬直していく。
「その夢を初めて見た日から私は画を描けなくなった。おかしいのです、筆に手を伸ばすことすらできないのです」
そして瑠璃の瞳は、濁ったものへと戻ってしまった。
そう、やはり原因は、ここにある。
僕はペンを置くと、息をついてテーブルの上で両手の指を絡ませて握り込んだ。
「そうですか」
「私、今描きかけで置いてある画を、どうしても完成させなければいけないのです。何とかなりますでしょうか、先生」
✳︎✳︎✳︎
そして僕は今日という日を選んで、瑠璃の夢に入ることを決めた。
横たわって眠りに就いている瑠璃の横顔を見ていると、なぜあんなにも画を描くことに固執するのであろうかと、不思議に思えてくる。
今回は様子を見るだけの試みではあったが、しかしその固執する理由がどこにあるのかを少しでも探ることができれば、などと考えていた。
たったあれだけの夢の内容で、あんなにも歓喜し、けれど反対に憔悴し、疲労し、縋るようにして僕に頼らざるを得ない理由は何だろうか。
何としてでも画を描かなければいけない理由、か。
僕は瑠璃を起こさないようにと細心の注意を払いながら、そっとその手に触れる。
この沢山の画に囲まれた、ちょっとした美術館のような部屋で、夕暮れがすっかり終わり夜のとばりが下り始める外の様子と同じ様な感覚で、瑠璃の夢へと深く誘われる。
そして気がつくと、僕は青いソファに座り、ぼんやりと天井を眺めていた。
刻、刻、刻、刻……
何かの音とも言葉ともとれるような妙な音が響いている。僕はその規則正しいが、奇妙でもある音を唐突に、頭の中で数え始める。
いち、にい、さん、しい……
すると途端に音が止む。
夢の始まりを悟った僕は、すぐに瑠璃が話していた窓のそばに近づき、カーテンを翻してその中へと身を隠した。
窓は腰より上の高さだが、カーテンは足元まで伸びている長いものだ。
窓とカーテンの大きさに矛盾がある点。
これは僕がよく使う手法で、身を隠す場所をあらかじめ作っておくやり方だ。
今回も瑠璃が眠りに入るきわに、カーテンを足下までのものにしておいてください、と耳元で囁いた結果だった。
この方法で、二つほどなら夢の中に必要なアイテムを置いたり、夢の中のディテールを変化させたりすることができる。
けれど、やはりそれも夢自体を作り変えてしまわないよう、改ざんが最低限で収まるように慎重に検討し、実行するのだ。
カーテンからちらりと覗いてみる。
ソファには先ほどまで僕が座っていたのと同じようにして、瑠璃が座っていた。
夢の中の瑠璃は現実の瑠璃よりも儚く、しかしそれは見ようによっては、魂のない人形のような瑠璃であった。
部屋にもまるで存在感というものがない。
そんなジオラマ化された部屋の真ん中で、ぽつんと座っている瑠璃の様子を見て、僕は異様な感覚を覚えた。
違う、これは瑠璃の夢じゃない。誰かによって、夢がすり替えられている。
どういうことだ、今までに起こり得なかったケースを前にして、僕は激しく動揺していた。
危険と判断すれば、すぐに夢から出て、瑠璃を目覚めさせなければならない。
そう考えを巡らせているうちに、瑠璃はその魂が宿ってはいない抜け殻のような身体を動かし始めた。
ソファを離れ、僕が隠れているカーテンに近づいてくる。
想定内ではある。すり替えられた夢であるということ以外は。
瑠璃はゆっくりとした動作で、カーテンを開けていく。
僕のすぐ近くに瑠璃の横顔を認める。
窓に手を掛けた時、瑠璃の唇が何かを囁いた。
私を どうか 連れていって
僕の耳に言葉が届いた瞬間、ガラスにヒビが入る音が聞こえ始めた。
ピキピキと、耳をつんざくような嫌な音をそこら中にばらまき散らして。
僕は思わず耳を手の平で押さえつけた。
その音とともに身体中に悪寒が走り回るような、そんな不快な音なのに、瑠璃はまるで平気な顔をしている。
やはりこの夢自体、他人が見せている夢と判断して間違いない。
そして遂にガラスは割れ、そこかしこへと飛び散った。
しかし、今度は無音の爆発だった。
そう、すでに砕かれたガラスは、虹色の美しい蝶になっていた。
それは、息を呑む美しさだった。
蝶はきらきらと光る鱗粉を散らしながら、虹色の羽を目一杯に広げ、羽ばたいている。
散りじりになって飛び、あるいは舞い、あるいは螺旋を描くようにして上昇していく。
瑠璃の髪にその羽を絡ませながら、ばたつく蝶。
その度に瑠璃の黒髪は、風に解き放たれた蜘蛛の糸のような儚さで、その身を散らしていた。
美しい、美しい。
言葉を失う。そして沢山の色をまとっているはずの蝶の群れは、青く澄んだ空の色に邪魔されることなく、徐々に舞い上がってその色を浮かび上がらせていった。
まるで緻密なステンドグラスが創り上げられていくように。
僕はいつの間にか目の前の光景に見入ってしまっていた。完全に自分の役割を忘れ去ってしまっていた。
だからであろう、目の前から音もなく飛び込んできた黒い影に気づけずに大仰に驚いてしまったのは。
僕はしりもちをついてしまうほど、後ろに飛びのいてしまっていた。
頭から被って絡ませていたカーテンを押し退けて、瑠璃を目で探す。
すると瑠璃はソファに横たわり、目を伏せていた。
気を失っているようにも、眠っているようにも見える。
そうだ、これは瑠璃じゃない。
そして、そんな偽物の瑠璃を守るようにして、一頭の黒豹が側に寄り添っていた。
『……お前は、何だ』
低い唸り声とともに、問い掛けてくる。
しかし、返事を待たずして、僕の方へと身をひるがえしてきた。
あっという間に音もなく近づき、飛びつかれる。
「ちょ、待ってください!」
僕は腕を前に出して、顔を覆った。
しかし、上半身は倒され、頭をごつんと打ってしまった。
痛みで涙がじわりとにじみ出る。
構わず、黒豹の牙が僕を威嚇する。
僕は降参というように、両手の平をかかげて言った。
「る、瑠璃さんを助けに来ました‼︎」
黒豹は少しの間を置いて、僕の上からのいてくれた。
そしてその場で行ったり来たりを繰り返すと、のろのろと瑠璃の身体に寄り添って、身を落ち着かせた。
僕はほっと息をつくと、体勢を立て直し、服を正してから立ち上がった。
「僕は眠り屋というものです。あなたは夢魔ですね」
間髪入れずに黒豹が返す。
『どうしてここにいる、なぜ、ここにいられる』
その長くビロードのように美しい尻尾でソファを何度となく、ピシリピシリと叩く。
低くうなり続けながら、宝石のように輝くエメラルドグリーンの瞳を、こちらに向け続けている。
「僕は瑠璃さんの依頼で来ました。僕もお訊きしたいです。これはどうやっているのですか?」
瑠璃の依頼と聞き、何かを思案しているように頭を揺らす。
しかし長い沈黙の末、遂には黒豹が口を開いた。
『瑠璃の夢を、私が創り上げた夢と交換しているのだ』
「でも、瑠璃さんは自分が見ている夢と思っていますよ。ちゃんと内容も覚えています。まるで自分の目で見たかのように」
『お前、何を言っているのだ』
黒豹は馬鹿にするようにして喉を鳴らしながら笑った。
『私は夢に巣食うものだぞ。瑠璃の本物の夢とすり替えるだけだ、それ位は容易にできる』
「それは、なぜ、」
僕が口を出そうとすると、黒豹は言葉をかぶせてきた。
『瑠璃にこれ以上、画を描かせたくない。こうして美しい世界を見せていれば、画を描くことへの執着を忘れてくれるだろう』
黒豹は瑠璃の腕に顔を擦り寄せた。
その頬が瑠璃の肌に触れるか触れないかの近さで、そっと。
偽物の身体に生身のような体温は感じられないはずなのに、その温かみを少しでも感じ取ろうと、目を細めて神経を研ぎ澄ませている。
そして僕は悟った。
彼は、彼女を愛しているのか。
「でもどうして、画を描かせないように?」
さもおっくうそうに、黒豹は頭をもたげて身体を起こし、ペロリと舌で口をなめると、再度その上半身をその場に落ち着かせた。
『お前は一体何をしにきた。瑠璃のことを何も知らぬのに。愚かにもほどがある、それで助けに来たなどとな。くくっ』
黒豹が喉を鳴らして低く嘲笑する。
僕は少しだけムッとした。
「瑠璃さんは画が描けなくて、失意のどん底にいます。画を描きたいと心から望んでいます。大切な生きがいなのに、どうして取り上げるようなことをするんですか。そっと見守るだけでは、だめなのですか」
僕が言い終わらないうちに黒豹が立ち上がり叫んだ。
『ここから出て行け‼︎』
威嚇をはらむ低く地響きのような声に、僕がびくりとして動けないでいると、
『今描きかけの画が完成したら、瑠璃は自ら命を絶つつもりでいる。瑠璃の意志は固い、お前に一体何が出来るというのだ? 二度とここへは来るな』
そう言うと、瑠璃に寄り添うようにして目を閉じた。
黒豹に聞きたいことは山ほどあったが、どこか遠くの方で鐘の音が鳴り始め、僕は夢の終わりが近づいていることに気がついた。
僕はひざを抱えて座り、黒豹と同じように目を閉じて、覚醒を待った。
✳︎✳︎✳︎
それは男性の顔らしかった。
まだ目も鼻も、いや命そのものを吹き込まれてはいない、描きかけの画。
イーゼルに立て掛けてあった唯一の画。
眠りからまだ覚めやらぬ瑠璃の横顔に一言詫びを入れてから、覆われている白い布をめくり上げて、その画を見た。
あなたは誰ですか。
この画が完成したら、瑠璃は自らの命をその手で終わらせようとしている、と夢魔は言っていた。
白い布を元どおりに掛け直すと、僕は少しの時間が経ってもまだ眠りから覚めない瑠璃の家を辞した。
そっと扉を閉めて出た明け方の町は、空気がしんと張り詰めている。
瑠璃はもう今頃は、早起きが得意な小鳥のさえずりにでも起こされているだろうか。
帰る間際にいまだ目覚めぬ瑠璃を見た。
僕に邪魔をされた時間取り戻すようにして、夢魔が少しでも長くと瑠璃と一緒の時間を過ごしているのだろうかと思うと、胸が締めつけられるように痛かった。
そんな黒豹の深い愛情に僕は少し泣いた。
涙をぬぐった跡に風が当たって、冷える。僕の心も、そうやって冷えていった。
✳︎✳︎✳︎
『何をしに来た、今すぐ帰れ』
いらいらとした怒りを隠しもせず、黒豹は牙をむく。
瑠璃の側に寄り添う時間を邪魔されたくないという、黒豹の気持ちが痛いほど伝わってくる。
僕は過日、二度目の試みを瑠璃に頼んでいた。
前回から一週間ほどしか経っていないにもかかわらず、瑠璃の暗い表情は、一層暗闇の底へと沈んでいるように見えた。
夢魔が見せた至福の夢もただいっときの安らぎに過ぎず、あの日以来考えていた通り、このままこの状態、すなわち絵を描くことができないという状態を続けることで、瑠璃に及ぼす悪影響への僕の憂慮が、現実にもたらされていたことに間違いはなかったのだ。
この、疲れ切った表情。
自分の一部分となるまで、絵を描き続けてきたライフワークなるものを突然奪われ、心身ともに疲れ切ってしまった瑠璃が、そこにはいた。
「今度は、上手くいくと良いのですが……あ、いえ、直ぐには解決はしないと分かっております」
成果の出なかった前回の、僕の失態を責めているのではないというように、口調を優しげにする。
しかし、あれは僕自身が、いや他の誰しもがはばからず、僕の失態であったと明言してもいいものだった。
僕は僕自身を激しく叱咤したし、後悔もしていた。
もっと、ましなやり方があったのではなかったか、と。
「お手間を取らせて申し訳ないのですが、どうぞよろしくお願いします」
僕の丸い眼鏡の奥にある何かを感じ取ろうとしているのか、じっと見つめられ多少狼狽してしまったが、
「それでは、お願いします」
と僕が言うと、はい、と軽く頷き、すぐに眠りに入ってくれた
さあ、次にはやり方を違わぬようにしなければ。
そうして僕は今、黒豹と相対している。
「今日はお願いをしに来ました。あなたに頼みたいことがあります」
今後、瑠璃を助けるには、この瑠璃を愛して止まない哀れな夢魔の協力が必要となる。
どうか折れてくれと、心で強く願う。
『無知で愚かな男よ、このままここでお前を食い殺すこともできるのだぞ』
鼻に皺を寄せて牙を見せつける。
低くうなる声は腹の底へと響き、野生の獣に対して感じる恐怖を目覚めさせた。
けれど、ここで引くことはできない。
瑠璃は前のようにソファに横たわり、その目を閉じていた。
夢魔が余計なものを見せたくないのであろう、瑠璃は深い眠りの中にいた。
「瑠璃さんに、画を返してあげてください」
ここまで言うと、黒豹はぐわっと口を開けて飛びかかってきた。
僕はそのビロードのように美しい毛並みを持つ、しなやかな身体を両手で押しのけながら、精一杯叫んだ。
「瑠璃さんの、描きかけの、画を見ました‼︎ あれは、瑠璃、さんの、恋人でしょう‼︎」
引っかかれながらも黒豹の身体を押し戻していた両腕から力が抜ける。
黒豹は僕から素早く飛びのいてくれた。
僕はフゥと息を細くはくと、引っかかれた痛みを少しでも和らげようと、ミミズ腫れが走った両腕をさすった。
『……あれは、瑠璃の夫だ。死んだ、夫の顔だ』
呟くような、小さな声で。
痛みを伴った、苦しげな声で。
愛しい者に、愛しい存在があったという現実が、そうさせるのだろうか。
その夢魔の痛みと同時に、愛しい人を失って彷徨う瑠璃の苦しみに、僕の心もずくんと痛みを覚えた。
僕の遠い記憶の中にもある、似たような傷。
僕の持つ傷と、瑠璃の持つ傷に、黒豹という借り物の姿でしか、愛しい人に触れることさえ叶わない夢魔の痛みが共鳴して、僕の心を揺さぶる。
涙が頬を伝った。
『何のつもりだ。それは一体、何のための涙だ』
あざわらうようにして、低く言う。
黒豹は音を立てず静かに瑠璃へ近づくと、その透明な頬へとそっと鼻を近づけた。
まるで、大切にしている者へ贈る、キスのように。
そして瑠璃を起こさないようにと、そっとソファの上に飛び乗り、寄り添うようにして身体を横たえた。
どこか遠くの方で鐘の音が鳴る。
僕は急がなくてはと、黒豹に話し掛けた。
ゆっくりと、正確に。もう二度と、間違えないようにと。
僕が話し終わると、黒豹は愛しそうにもう一度だけ瑠璃の頬に鼻を近づけ、やはり瑠璃を起こさないようにとソファからそっと降り、のろのろと窓へと向かって歩いていった。
歩くたびに背中で動く、しなやかな肩。
僕はいまだに頬を伝って落ちる涙をそのままに、その黒く美しいビロードの背中を見つめていた。
✳︎✳︎✳︎
「矢島先生、ありがとうございます。あれから私、すっかり画を描くことができるようになりました。私、治ったんですね。本当に良かった」
僕の事務所を訪ね、両手を合わせて喜んでいる瑠璃の顔は、内からにじみ出る健康そのもので埋め尽くされていた。
初めて僕の前に座った時に見せた、儚く消え去ってしまいそうだった彼女の姿は今、至福の色で染め上げられ、生き生きと光り輝いている。
そんな瑠璃も美しい。
こんな姿を見せられては、夢魔が恋をし惹かれる気持ちも理解できる。
合わせた手の、白く張りのある皮膚に、それがまるでカンバスのようであるかのように、絵の具の染みが点々とついている。
色とりどりの、そしてあの虹色の蝶のような散らばり。
「そうですか、それは良かった」
「今日は謝礼を持参しました。取り決めにあった金額で、本当によろしいのでしょうか」
僕は差し出された封筒を貰うと、中を見て確認し、領収書に金額と名前を記入し、手渡す。
「これで結構です、どうぞご機嫌よう」
瑠璃はにこりと微笑むと、踵を返してドアへと進み出た。
しかし、つと立ち止まると、
「ですが、まだあの夢を見ることがあるのです。時々、ですけれど。何か意味でもあるのでしょうか。このままにしておいても大丈夫でしょうか」
そう、瑠璃の夢と画は返された。だが、もちろん夢魔が、すんなりと瑠璃を諦められるとは思っていない。
「大丈夫ですよ、何か不自由に思っていることがなければ」
「いえ、今のところは、」
「では、お気になさらずに。ただの無害な夢と思ってください。そう言えば……」
僕は今までの会話の自然な流れを断ち切らないようにと、慎重に問いかけた。
「描きかけだった絵は、完成したのですか?」
「ああ、はい、昨日の夜に何とか」
一瞬、表情に暗い翳りが差した。
依頼を受けてから、僕が見逃して、夢魔が見逃さなかった死の翳り。
それは目の前を横切っていく雲雀の飛行のように一瞬で飛び去っていき、あっという間にその姿をくらませてしまった。
そう、次にはもう、瑠璃は微笑んでいた。
身体の奥底からみなぎるようなエネルギーが溢れ出し、その集大成がここにある、この輝くような笑顔。
弧を描く眉、盛り上がる頬。
この健全さはどうだ。
こんなにも、身も心も健康そのものであるはずなのに、その命は突然に、自らの手で断ち切られるのか。
どこからどう見ても健全なる瑠璃を見て、予告も無く逝ってしまった夫の画の完成をどれだけ待ち望んでいたか、その完成がどれだけ彼女を喜ばせているのか、僕は矛盾する公式を二つ同時に思いも寄らずに抱えてしまったような、そんな複雑で暗たんたる気持ちのまま、瑠璃を玄関まで見送る。
今夜は自身で描いた夫と二人きりの、至福の時間を過ごすに違いない。
僕はリビングに戻ると、ティーカップに二杯目のお茶を注ぎながら、彼女の虹色で飾られた手を思い出していた。
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「どうされたのですか、先生、突然」
僕は瑠璃に謝礼を貰った日の夕方、アポイントなしで瑠璃を訪ねていた。
窓から差し込む夕陽の光が、初めて瑠璃の夢へと入ったあの日と同じように、しかし今度は瑠璃ではなく、玄関に立つ僕の横顔をオレンジに染め上げている。
ほんのりと暖かい感触。
それと同時に、彼女を前にしての、痛いほどの感覚。
「いや、近くで用事を済ませてきましたので、そのついでに」
「ですが、昼間にお会いした時には、そのようなことはひと言も……」
夫との二人きりの時間を邪魔されたからか、不服そうな面持ちで、中へと招き入れる。
振り返るその瞳が怪訝そうに僕を見る。
僕は構わず、帽子を取りながら、笑顔で玄関に入った。
通されたリビングには、あの時と同じ場所に、あの時と同じ状態で、白い布をかぶったカンバスが立て掛けられている。
きっとこれが、亡き夫の肖像画。
僕はどんな男が彼女を愛したのか、そして今夜にでも彼女を冥府に連れていこうとしている男の顔に、興味を持たざるを得なかった。
しかし、僕が亡き夫の顔を見る必要はなく、昨夜完成したこの画は、夢魔が瑠璃の夢の中から、その目を通して見ているはずだった。
夢魔が見ているのなら、それでいい。
瑠璃を救うのは僕ではなく、あの哀しみと深い愛情に満ちた黒豹なのだ。
コーヒーを二つ、盆にのせて運んできた瑠璃を遠くに見ながら、僕は当たり障りのない世間話をした。
コーヒーを盆から下ろして一つを僕に差し出し、ミルクや砂糖、そして自分のコーヒーを置いてからようやく座った瑠璃に向かって、僕は軽く握りしめていた手を差し出す。
「何ですか、先生?」
僕は笑顔を向けただけで、声は発することなく、瑠璃を眠りへと誘っていった。
僕の一本ずつ開かれていく指を最初、彼女は怪訝そうに見つめていたが、最後の指が開かれて、中から赤い花びらがひらひらと落ちていくのを目で追ったのを最後に、机に置いた腕の上に頭を預けて深い眠りへと入っていった。
僕はここへ来る途中、美しい庭先でひっそりと咲いていたアネモネの花を見つけると、詫びを言ってから花びらを一枚分けて貰った。
花言葉は、儚い恋。
そして、赤いアネモネのそれは、
君を愛す
夢を見る者と夢に巣食う者とが、現実の世界で交わることはあり得ないのだ。
自分が創り上げる偽物の世界でしか愛しい者に触れることが叶わない、夢魔の哀しい宿命。
まして、瑠璃が自ら命を絶ってしまっては、その夢自体も無となって消え去ってしまい、もう二度と、二度と触れられなくなる。
僕は瑠璃の痛々しい過去と、今にも千切れそうな夢魔の想いに、胸が締めつけられ苦しかった。
あの砕け散ったガラスを虹色の蝶にして空高くに放ったのは、瑠璃の心を一瞬でも奪いたいという欲望の表れなのだろうか。
『このまま、夫の画を描くことを、忘れていってくれればと、願っている』
僕はテーブルの上にぽつんと落ちている、このアネモネの美しい花びらが、一陣の風にでも運ばれてゆき、黒豹の元に届いたならと願った。
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机に顔を横たえて、長い時間眠っていた瑠璃の目に光るものがあり、僕はそれがこぼれて机の上へと落ちるさまをじっと見つめていた。
その透明な美しさは、水晶の欠片のようであり、また葉に溜まった朝露のようでもあった。
小ぶりで形の良い鼻を伝って、何度も落ちては机を濡らしていく。
僕が机に落ちた水滴に手を伸ばそうとした時、突然瑠璃の目が開かれた。
それはまるで、一輪の花が咲き誇る季節を間違えて開花してしまったというような、驚きの中での目覚めだった。
丸く見開かれた瞳が僕をゆっくりと捉える。
瑠璃はそのまま勢いよく立ち上がると、部屋の片隅に置いたイーゼルに乗せてあるカンバスに歩み寄り、かぶせてあった白い布を取り去った。
そこには、僕が想像していた顔に近くもあり、遠くもある一人の男の顔が、実に丁寧に描かれていた。
そして胸が痛む。これほどの愛情に。
夫へのできる限りの想いを、織り込んでいくように、丁寧に、丁寧に、そして大切に。
瑠璃は床に擦るほどの白い布を手にぶら下げたまま、それは長い時間カンバスをじっと見つめていた。
最初は驚きの瞳であった。
しかしそれはすぐに、深い穴をさらに深く掘り下げるような、鋭く厳しい視線に変わっていった。
しばらくして、一つのため息をつくと、瑠璃は僕の方に振り返り、頭を下げた。
「先生、すみません。私、眠ってしまったようで。申し訳ありませんでした」
そしてまた姿勢を戻すと、カンバスに白い布を掛け始めた。
斜め後ろから見る、ほっとしたというような、安堵の表情。
「いえ、構いませんよ。とても美味しいコーヒーをいただいていました。これは、キリマンジャロですか? それともブルーマウンテン、かな……」
瑠璃はふふと笑うと、コーヒーの味に本当は詳しくない僕に、失礼に当たらないようにと、軽い口調で言った。
「いえ、これはモカという豆です」
ああ、そうですか、と頭をかいて世間話に失敗し苦笑いをしている僕に、彼女は向き直って訊いた。
「私、先ほど夢を見ていました。先生がなさったのですか?」
「何のことでしょう」
思ったより強い口調で僕が返したためか、瑠璃は言葉を改めた。
「あ、いえ、あの……し、死んだ主人が夢に出てきたのです。そんなことは、初めてでしたので、それで……」
「ご主人を亡くされていたのですか、……すみません、気が回らずに。ご事情を知りませんでしたので」
「そうでした、話しておりませんでしたね。半年前に、事故で亡くしました。夫は私の見る夢には一度も出てきてくれなかったものですから、お話ししなくてもいいと思いまして」
言葉の端々から、夢でもいいから夫に会いたいという気持ちが痛いほど伝わってくる。
夢魔も彼女に寄り添いながら、この痛みに耐えていたのだろうか。
「お悔やみ申し上げます。それで、ご主人とは話せましたか?」
少しの時間を置いて、瑠璃の目から再度、涙がこぼれて落ちていった。
「『僕の顔はこんな風だったか?』と、苦笑いをしていました」
「苦笑い……」
「夫を囲むようにして、あの虹色の蝶が舞っていました。すごく綺麗でした。すごく綺麗で、私……」
言葉が呑み込まれる。
けれど、すぐにも瑠璃は僕を真っ直ぐに見据えた。
「先生、私亡くなった主人の顔を描いてみたのです。先ほどの画がそれです。先生もご存知でしょうが、夢に画を奪われてからは、まるで描けなくなり困惑しました。けれど、先生のお力をお借りして、昨日何とか描き上げて。そう、完成したのです」
僕が頷くのを見て、少しほっとしたような表情を見せる。
「出来上がった時には、主人が生き返ったように上手く描くことができた、と喜んでいました。でも、先ほど夢の中の主人に『僕の顔はこんな風だったか?』と問われ、もう一度画を見てみると……主人の顔が違っているように思えてきて、」
「人間の記憶には曖昧な部分が存在します。そういった曖昧な部分がないと、自分で自分を生かしにくくなるのでしょうね。けれど愛情というものは、曖昧のようにみえて、実際はそうではありません。あなたがご主人を想うのと同じくらいに、ご主人もあなたを想っているのでしょう。夢とは、人の想いの結晶ですから」
瑠璃はそのままにしていた涙を、服の肩口の部分でぐいっと拭い、横着してすみませんという照れたような笑いをすると、僕の前に手を差し出した。
「主人の顔、もっとちゃんと思い出すことにします。あの人、少し怒ったような顔もしていましたから。それから、あの虹色の蝶も。私が見たあの幻想的な世界も、描いてみたいのです。出来上がったら、見に来てくださいますか?」
「もちろんです、楽しみに待っています」
僕は差し出された手を軽く握ると、机の上に乗せてあった帽子を被り、玄関へと向かって歩き出した。
この人を、あの夢魔が救ったのだ。
亡き夫の顔を借り、虹色の蝶を放ち、氷のように頑なであった彼女の心を解かして暖めた。
精一杯の愛情で。
そしてその愛情は、瑠璃と、そして瑠璃の亡き夫のそれらが、本来あるはずのない世界で交わり昇華する。
僕は玄関を出ると、すでに薄暗くなった道すがら、ポケットに入れてあったアネモネの花びらを取り出した。
そして、心に染み込んでくるような深く濃い赤色が、簡単に掻き消されてしまうような宵闇へと、風に乗せてそっと飛ばした。
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季節が夕陽を暖かく感じさせたあの頃とは真逆になり、少し肌寒く周りで軽い風邪が流行り出した頃、僕の元に一通の招待状が届いた。
事務所宛に、それは飾りも何も無いシンプルなもので、ここからさほど遠くない画廊の住所と差出人の名前のみが書かれていた。
僕は馴染みのベーカリーショップで、決まった曜日に予約を入れてある絶品のバゲットを一本受け取ると、その足を画廊へと向けた。
透明なガラスと擦りガラスが複雑な模様を作り上げているレトロなドアの前に立つ。
バゲットを持つ手を替えてからそっとドアを開ける。
中には誰も居なかった。
係りの者も直ぐに戻るつもりであろうか、マグカップからは湯気がくゆり、コーヒーのほのかな香りがする。
手近にあった何かのリモコンで押さえつけられた、読みかけの本。
何もかもがそのままにしてあるようだった。
色彩を解き放ってそこにある、数々の絵画、物言わぬ彫刻たち。
漂うように、薄っすらと流れるショパンの『雨だれ』。
時が止まったこの部屋で、僕は一枚の画の前に近づいていく。
それは僕が瑠璃を通して見た、あの虹色の蝶の群れ。カンバスを埋め尽くさんとして、愛しき蝶が舞っている。
羽ばたきは七色。
それは混じり合わず、それでいて色と色とが寄り添っているような不思議な技法で描かれていた。
けれど所々に、色と色とが混ざり滲んでいる部分を見つけると、瑠璃と瑠璃が知るはずもない夢魔の愛情が、盲目的に触れ合っているのだろうかと思われて、少し嬉しく、そして哀しく想った。
しばらく足を止めてから、僕はその画からそっと離れた。
係りの者であろうか、扉の透明な部分のガラスの向こうに、袋を下げて小走りで向かってくる男が見える。
僕はポケットから招待状を出し、留守の店に無遠慮に入ったことを詫びるつもりで、ドアに近づいていった。
そして、見つけた。
もう一枚の画。
扉の横に、ひっそりと掛けられている画を。
そこには瑠璃と僕とが共有したあの虹色の蝶と共に、一頭の黒豹がこちらをじっと見つめる姿が描かれていた。
憂いを含むエメラルドグリーンの瞳。
そしてそのビロードの背中に愛らしい手を伸ばし、黒豹と同じようにして、こちらを見つめる少女。
僕はその少女が瑠璃自身であることを願いながら、ゆっくりと扉に手を掛けた。