題名のない短編
夢の中で目覚めるというのも変な言い方だが、目を開けた時、僕はこれが夢だということが、はっきり分かった。
シティホテルのような狭い部屋のベッドの上に、僕は横たわっていた。
ベッドから起き上がり、周りを眺める。本当は全然違うのだろうけど、学生時代に一人旅をした時に訪れた、青森のシティホテルだと思った。
何も持たずに、部屋を出る。
どうやって辿り着いたのかは分からないが、次の瞬間には一階のフロントに立っていた。目の前には後頭部が禿げた、年を取ったオジさんが並んでいる。
「チェックメイト」
無人のフロントに向けて、オジさんが叫んだ。
僕は彼に向けて、ちがいます、チェックアウトですよ、と説明した。
すると彼はこちらを向いて、そうか、と頷いた後、
「チェックメイト!」
と、また言った。
違いますよ、チェックアウトですよ、と僕はまた説明した。
彼はそうか、とまた頷いた後、
「チェックメイト!」
と、また間違ったことを言った。
僕はイライラしてしまい、オジさんを殴り飛ばしてやろうかという、乱暴な気持ちになった。現実で、人など殴ったことがないのに。
結局、僕はオジさんを憮然とした表情で眺めた後、黙ってその場を後にした。
「チェックメイト!」
オジさんは、また叫んでいた。
そこで気が付いた、あぁ……彼は……妻のお父さんだったか。
駐車場に出ると、愛車のTOYODAのPRADIOを見つけた。
妻には大きすぎると言われたけど、どうしても僕が欲しかった贅沢な車。
「家族が増えるんだし、いいじゃない。君が好きな、大きな犬も乗せられるよ」
今から二年前、三十二歳の時にそうやって押し切って買った、ホワイトパール色の僕の車。扉の柄を掴むと、ピッと音がしてロックが解除された。
乗り込んで電源を入れる。ブルンと素晴らしい音がして、ウイーンとハンドルが、自動で運転し易い位置まで上がってくる。
子供が玩具で遊ぶみたいに、僕は喜んだ。
そうだ、早く帰らなくちゃ、と思いながら車を動かす。
ナビを見ると長野だった。知らない道を車で走る。高速道路を見つけて登った。
高速道路では、車が一台も走っていなかった。サービスエリアに滑り込んで、休憩しようとすると、助手席にはいつの間にか妻が座っていた。
簡潔で優雅で、淋しい人。
ポケットに手を突っ込んでいるのが似合う、僕の妻。
「疲れたわ」
妻が言った。
「そうだね」
僕が応えた。
「早く帰りましょう」
僕は珈琲が飲みたかったけど、車から降りないで、また高速道路に戻った。
いつの間にか道は、見知った愛知の――地元へと続く道になっていた。
妻は、助手席から姿を消していた。
アクセルを踏み込む。
三トン近い重量の車を、唸りを上げて走らせる。
地元に着くと、直ぐに小学校に向った。
投票日のようで、駐車場には空きが少なかった。
車から急いで降りて、体育館脇を通り過ぎようとする。見知った顔が、選挙の手伝いをしているのに気付いた。
「おい、どこいくんだ?」
緑のスリッパを履いた彼が、僕に声を掛けてくる。
「ちょっと奥さんと約束してて!」
昔、小学校の頃に妻のことを好きだった彼が、眩しい物を見るように笑った。
僕は学校の敷地内を走り、渡り廊下を横切り、グラウンドに急いだ。
グラウンドの脇で、小学六年か、五年の頃の姿をした妻が待っていた。
「遅かったわね」
妻が、僕を見ながら言う。
昔から妻は変わらない。小学生の時も、大人みたいな字を書いて、大人みたいに世界を認識して、大人みたいに一人だった。
僕はそんな妻のことが、昔から気になっていた。
「ごめん、ちょっと用事があって」
先程まで仕事の片づけをしていたのだ、と説明すると、妻は静かに、そう、と言った。僕から無言で、視線を移す。
妻の前には、小さな石を乗せた、お墓があった。
「死んじゃったわね」
「え……?」
そうだった。言われて思い出す。そうだった。
僕の娘は、妻から生まれる前に、死んでしまったのだった。
どうして、忘れていたのだろう。
小学生の姿をした妻が、僕をじっと見る。
「なぜ、死んでしまったの?」
何かを答えようと思ったが、僕の中に言葉はなかった。
俯いて言う。わからない……と。
「そう」
妻は泣きそうな顔になって、顔を曇らせた。
いじめられていた時も、そんな顔をしなかった妻が。
そして僕に尋ねる。
「あなたは、大人なのに?」
自分の悲しみを見つめるような目だった。
お腹にそっと手を当てる、小学生の姿をした妻。
「大人だからって、全部、わかる訳じゃないよ」
僕は曖昧に笑いながら応える。
沈黙が僕らの間を、泳いでいった。
妻と対面すると、いつもこうなってしまう。
ある時から、そうだった。どうしようもなく、そうだった。
欠落していた。隙間が空いていた。存在の数値が分からなかった。
決して嫌い合っているわけでも、憎み合っている訳でもない。
ただ、お互いが近くにいることで浮き上がる想いが、お互いを押し潰すから。
だから決めたんだ、僕たちは……。
突然、桜の花びらが僕たちの間に降ってきた。
目の前の妻は、大人になっていた。
白衣を着た姿が、とてもよく似合う妻。
ポケットに手を突っ込んで、見るともなくお墓を見ている。
「こんにちは」
僕たちの傍を、市民病院の知り合いが通り過ぎた。
放射線技師の男の人だ。
「こんにちは」
そう返しながら、僕は振り向く。
男の人は、子供と奥さんを連れていた。三人ともちゃんとした格好をしていた。
そういえば今日は、小学校の、入学式の日だった。
きゃっきゃっきゃっきゃと、男の奥さんと子供が戯れている。
妻に視線を戻すと、彼女は微かに口元を引き絞り、下を向いていた。
「ねぇ」
妻が顔を上げながら言う。
「なに?」
僕が応える。
「もう、起きた方がいいわよ」
「え……?」
そうして僕は夢から目覚めた。
昼寝をしていたようで、自分の部屋のベッドで横になっている自分を見出す。
「…………夢か」
ナイトテーブルの上。ビール缶の横に置いてある携帯電話を手に取ると、時刻は、十四時三十二分を指していた。
日曜日の午後。昼寝をするなんて、久しぶりだった。
物憂げに立ち上がり、机に目を向ける。
たっぷりと時間を置いた後、机の椅子に腰かけた。
机の上には、一枚の緑色の用紙があった。
妻の欄には、必要事項は全て記載されているように思えた。
僕は机の隅に飾ってある、写真立てに収められた、二人の写真を眺める。
あまりいい写真ではなかった。
結婚した後、暫くして、長野に二人で旅行に行った時に撮った写真だ。
僕は半笑いしているし、妻は無愛想なりに笑おうとして、とてもおかしなことになっている。
鼻から息を優しく抜いて、僕は写真立てを手に取った。
「どうしようもないことも、あるんだね」
誰にともなくそう言って、ゆっくりと写真立てを元の場所に戻す。それから僕は、字を覚えたての子供みたいな慎重な手つきで、離婚届に、名前を書き始めた。