プロローグ
おかしい、と思ったのは起きてからだった。
何故だかいつも以上に怠くて、起き上がろうとして持ち上げた上半身がグラリと揺れる。
反射的に体を支えるために手を伸ばして布団の上に置いたが、腕に力が入らず、肘が曲がって結局倒れてしまった。
自然と閉じていた目を細く開けて、視界に映るものが何かを確認するより先に襲いかかる重力に瞼がゆっくりと落ちていく。
そのまま意識が飛んだと自覚することなく眠りに引きずりこまれた。
そうして次に目を覚ました時、僅かに体が軽くなっていた、かもしれない。
依然体は怠く、重いままで、気を抜けばまた眠ってしまいそうだった。
ただ、耐えられるか耐えられないかの違いなのだろう。
そこでふと思い立って時計を見れば、短い針はほとんど動いておらず、長い針が四つほど数字を越えていた。
そこまでの時間が過ぎたわけではないようだと息を吐く。
でも今日は挨拶ができなかったので、もしかしたら少し心配をかけているかもしれない、とベッドの角に寄りながら考えた。
まあなんにせよ、遅刻はしないで済みそうだ、とベッドを降りる。
なんてことはない、ただ普段朝の読書に使っている三十分から二十分削られただけなのだ。
「……んっ…」
扉を開こうとして力を込めるが、扉が重く感じて眉を寄せる。
細く開いた隙間から体を横にして入り込み、右半身を軽くぶつけつつ部屋を出た。
振り返って扉を閉めるのにも軽く力がいることを、その時はまあいいかと特に気にしていなかった。
全ての準備が終わった時、本来なら余るはずの十分から更に五分が削れてしまっていた。
体が重くて少しだけ動きが遅くなったからだろう。
途中疲れたように立ち尽くしてぼーっとしていたこともあり、どうせ読書しても集中できないだろうからと鞄を持って玄関に向かう。
流石に何度か扉を開けたり閉めたりしたからか、力を込めるのにも大分慣れた。
振り返って家の鍵を取り出し、鍵を閉める。
それからガチャッと捻って扉が開かないことを確認し、ふと。
きっとあの優しい二人が家にいたなら、心配して休ませるんだろうなと考えついて、思わず頬が緩んだ。
そうして学校へと歩き出すが、数歩目でいつもより歩調が緩いことに気が付き、五分早めに出て良かったかもしれないと息を吐く。
「あれ?珍しいね、いつも同じ時間に登校するあんたがこの時間にここにいるなんて」
足音と共に後ろから懐かしい声が聞こえてきたのは、いつもより二、三分遅れて校門を潜った時のことだった。
振り返ろうとして、今の自分は表情筋が上手く動かないからと振り向くことなくゆっくり歩きながら返事をする。
「やだなあ、あたしだって人間ですよー?たまには遅刻しますって」
顔にいつもの媚びるような笑みではなく、軽薄な笑みを浮かべていることを自覚してはいたが、直すのも抑えるのも面倒臭かったのでそのままにした。
きっと隣の男はいつものようにワントーン高い声を薄い笑顔で軽く聞き流しているのだろう。
ああ、そういえば、この人と会うのは久しぶりな気がする。
いつも先輩と呼んでいたから、名前を忘れてしまったけど、どんな名前だったっけ。
どんな顔をしていたっけ。
薄い笑顔とはどんな表情だったっけ?
なんて、戯けるように心の中で呟いてみた。
いつも意識的に名前を呼ばず、顔を見るフリして首元を見てはいたが、それはただ罪悪感と僅かな照れ隠しからやっていただけで、ちゃんと名前も顔も覚えている。
でも、いっそわからないことにしてしまったら、面白いだろうか?
なんて、自分でも本気か冗談かわからないことを言ってみるが、心の中でなので、勿論先輩には届かない。
「ははっ、そりゃそうだな。……んで?あんたはいつこっちを向くわけ?」
いつもはすぐにこっちを向いてあの気持ち悪い笑顔を見せるくせに、と言われた気がした。
実際に言われたわけじゃないのに、声に込められた僅かな悪意に目が回る。
その悪意こそが救いなのに。
気をしっかりと持って、慣れたように媚びた笑顔を作るが、上手くできている自信はないので、振り向くことなく返事をする。
「先輩?たまにはあたしにだって前を見ていたいと思う日があるんですよー」
戯けたようにそう言ったが、無意識で一瞬低く下がった語尾に気付いて焦り、バレないよう飽くまで自然に高く上げた。
気付かれただろうかと少し様子を伺うが、特に気付かれてはいないようで、ホッと胸を撫で下ろす。
だが先輩は振り向かなかったことがお気に召さなかったようで、一度その言葉を鼻で笑い、馬鹿にするような声音で言う。
「いいからこっち向、け…」
肩を掴んで強引に振り向かせるつもりだったのだろう。
数瞬前までは肩があった位置に先輩の手は置かれたままで、けれどそこに私の肩はない。
どうしてか体がグラリと揺れ、先輩の手がある方向とは逆の方向に倒れる。
そこで反射的に支えに出した左足が、今度は膝から折れることなく地面を踏みしめた。
それは結果的に左足を踏み出したという状態になったので、そのまま何事もなかったように右足を出して歩き出す。
その後ろで左手を僅かに伸ばしたまま呆然と立っている先輩が、後ろから一人の生徒が訝しげに視線を寄越して通り過ぎたことで我に返った。
後を追いかけるように先輩は校舎に入ったが、それを予測していたのでこれ幸いと逃げるように足早に校舎へ入り、すぐ近くの女子トイレへ逃げ込んだ。
勿論靴は履き替えたと言いたいが、腰を屈めて起き上がった瞬間に目眩に襲われたので、上履きを片手に靴下で女子トイレに一歩入り、片足ずつ履いた。
それから奥へと進み、チャイムが鳴るまでここに居ようと決め、鞄を置いて鏡を見る。
鏡の中の人物は一度笑い、真顔になって次は媚びたような笑みを浮かべた。
そして、やっぱりダメかと真顔になって眉を寄せる。
口端が引き攣るように震えていた。
「………ふぅ」
鏡の少女が軽く息を吐き、天井を仰ぐ。
そこで不意に脳裏に浮かんだ整った顔に思わず顔を顰めた。
それから心配かけたんだろうな、とぼんやり思う。
優しい彼はきっと、例え嫌いな人でも体調を崩しているとなれば心配するのだ。
心配をかけただろう罪悪感と、優しくされるだろうことへの罪悪感が積もり、僅かな嬉しさが埋もれていく。
そんな資格はないのに。
鏡の中の少女が――私が、自嘲するように笑った。
初の連載スタート!
五話くらいで終わると思います。
……ところで、媚びたような笑みってどんな笑みですか?←