#1
その瞬間、爆発の余波を受けた身体が宙を舞った。
「ぐっ――――――!」
激しく道路に叩きつけられた衝撃で暗視ゴーグルが飛び、わたしの視界が闇に染まる。
いけない。早く動かないと。
身を起こそうとする腕に力が入らない。頭を打ったショックのせいか、思考が霞んでいく。
『ことり、何やってんだ!?』耳に差し込んだイヤホンから流れ込んでくる声もやがて小さくなっていく。
ぼんやりと、そして薄れていく意識の中。
わたしの頭に、なぜかあの日のことが浮かび上がる。
それは、ずっと好きだった人に告白された日。
それは、大の仲良しだった従姉を失った日。
そして、わたしが「ひとりぼっちの防衛者」になった日―――。
【ひとりぼっちの、防衛者】
「ん? ことり来てたの?」
聞き慣れた美咲姉の声に、わたしはごろりと寝返りをうつ。その拍子に、床に散らばる書きかけの絵や原稿用紙がわたしの下敷きになる。
「ことりー、他人様の家だっていうのにくつろぎすぎ」
「だって、学校もないし暇だもん」そのまま床をごろごろとするわたしに、美咲姉はイヤホンを外しながら深々とため息をついてみせる。
「四月からは女子大生になる乙女が、休みの日に従姉の家でごろ寝とはねえ」
「大きなお世話ですー」と、わたしは頬を膨らませてもう一度寝返りをうつ。
大学受験も終わった三月の上旬。わたしたち三年生は学校に行かなくてもいいことになってる。というわけで、わたしは今日も従姉の家に上がり込んでいるというわけだった。
「やれやれ、友達や彼と遊びに行ったりすればいいのに」
わたしの書いた絵や小説の切れ端を拾い上げながら呟く美咲姉。「あ、この男の子の絵、いい雰囲気」
「友達も彼もいないですー」と言いながら、わたしは床に大の字になってみせる。「そういう美咲姉だって、今日も街をぶらぶらしてたんでしょ?」
「あたしのは大事な仕事なの」と絵を見ながら返事する美咲姉に、わたしは「そんな仕事聞いたことないよー」と言ってみせる。
わたしの従姉――わたしはいつも『美咲姉』と呼んでるけれど――は、もうじき三十路に手が届きそうな無職のひとだ。いつも街をぶらぶらしたり、家の中で本を読んだりしてて、仕事をしてる様子が全然ない。数年前まではスーツ姿の彼女を見た記憶があるのだけれど。
「あたしのことはいいの。ことりは年頃の女の子なんだから、浮いた話のひとつふたつあってもいいのにねえ」やれやれと首を振ろうとした美咲姉が、急にぽん、と手を打った。
「そう言えば、ゆうくんとはどうなの?」
幼なじみの名前が出た瞬間、わたしの顔は真っ赤になる。
「なになにー? まんざらでもないみたいね?」
「あ、いや、その」しどろもどろになるわたし。にやにやする美咲姉。
「ことり、頑張らないとダメだぞー。ゆうくん、高校卒業したら自衛隊入るんでしょ? 今のうちにひっついとかないと。姉さんも応援するよ?」
頭の上に降り注ぐ従姉の言葉に、わたしはクッションに顔を埋め、聞こえないふりをしたのだった。
わたし、咲守ことりは、しがない物書き見習いだ。
小さい頃から絵を描いたり、色んなことを頭の中で思い描いては文章にするのが好きだった。小学校の頃はクラスメイトのみんなで絵の見せ合いっこや、お話を書いたノートを交換したりしていて、友人から「ことりちゃんって、絵もお話も上手だね」なんて言われたりしたものだった。
そんな友人たちは、中学になるにつれ少しずつ興味を別のことに移し始めた。わたしは相変わらずだったけれど、自分の書いたものをやがて人に見せなくなり、高校に上がる頃には、クラスメイトにはそんなわたしの趣味を明かさないようになっていた。
そんなわたしの数少ない現在の読者が、美咲姉と、そして幼なじみの裕太くんだった。
「ことりちゃん、次の絵はやくー」と言っていた背の低かった幼なじみは、いつしかわたしよりずっと身長も伸びたけど。今でも「ことりー、最近描いた絵見せてくれよー」と、部活が休みの時、二人で歩く帰り道でわたしにせがんだりする。そんな下校途中のひとときは、わたしにとってかけがえのない時間だった。
「……もう一緒に帰れないのかあ」
顔を埋めたクッションの隙間からこぼした呟きに、美咲姉は軽くわたしの肩を叩く。
「一緒に帰りたいのなら、ことりが頑張らないとね」
「頑張れるかな、わたし」そう言って、わたしは美咲姉を見上げた。
「大丈夫だって。ことり可愛いし。それに姉さんの見立てでは……ひっひっひ」
なんかヤな笑い方をする美咲姉。
「それはともかく、よかったら久しぶりにゆうくんと一緒に家に来たらどう? 姉さんちゃんと気を利かしてあげるよ?」
「……信用できない」
わたしの言葉に、美咲姉はさも心外だと言わんばかりに両手を広げてみせる。
「ことりとゆうくんのためなら、姉さん一肌もふた肌も脱いじゃうよ? あ、でも金曜の夜はダメだけどね」
わたしはやれやれと首を振りながら、ふと美咲姉の言葉が気になって訊ねてみる。
「美咲姉、いつも金曜の夜は来ちゃダメって言うけど、何かあるの?」
わたしの疑問に美咲姉は笑顔で答えた。
「ヒミツです」「なによそれー」
抗議の声を上げるわたしに、「オトナにはオトナの事情があるのよ」と、年上の従姉は意味ありげな笑顔で切り返した。
「それよりも、もうすぐ卒業式なんでしょ。ことりも頑張らないと、いい大人のオンナになれないぞー」
いい大人のオンナとやらには別に興味はないけれど。
幼なじみの顔を浮かべながら、わたしは頭の中で卒業式までの日数を指折り数えていた。
街路灯がぼんやりと照らす夜の道を、わたしは踊るように歩いていた。三月の冷たい夜気も気にならないほど頬が熱い。思わず口笛を吹いてしまいそうだ。
ずいぶんと遅い時間になってしまったから、お母さんに怒られるかもしれないな、なんて思いつつ、今日のことを思い出すだけでわたしの頬はゆるんでしまう。
大学の合否結果の報告に、久方ぶりに制服に袖を通して学校に行った時のことだった。
進学校を目指す母校の先生方は、「受かりましたー」というわたしの報告に一堂立ち上がって拍手してくれた。ついでにお茶と饅頭まで出してくれた。
あんまり先生たちと喋ることもなくて少し困っていると、視線の先で校長室の扉が開いた。
そこから姿を現した人影に、わたしは思わず「あ」と声を出していた。
「あ、裕太くん」「ことりじゃないか、何してるんだ?」
そこにいたのは、裕太くんと濃緑色の制服を着た男の人だった。どうやら、自衛隊入隊の挨拶に校長先生を訪ねてきたようだった。
「裕太くん、こちらは?」制服を着た男の人――自衛隊の幹部さん――の言葉に、「自分の幼なじみです」と背筋を伸ばして答える裕太くん。
「ほう、幼なじみか」と言いながら、幹部さんは満面の笑顔を浮かべる。「お嬢さん、これからも裕太くんと仲良くな」
そう言うと、幹部さんは裕太くんの肩を叩いて笑った。「裕太くん、お嬢さんを大事にするんだぞ。何だかんだ言っても、自衛隊は男所帯だからなあ」それだけ言うと、幹部さんは「じゃあ裕太くん、また訓練所で」と手を振って玄関へと向かっていく。
そして後には、裕太くんと、わたしと、お茶と饅頭だけが残った。
「え、入隊式って四月の終わりなんだ」
「そう。だから卒業してもしばらく暇みたいなんだ」
もうすぐ夜の帳が降りてきそうな春の夕べ。わたしは裕太くんと二人、学校からの帰り道を歩く。
自衛隊の幹部さんが帰った後、わたしと裕太くんと先生たちとで話しているうちに、随分と遅い時間になってしまった。と言っても、喋っていたのは主に裕太くんと先生たちで、わたしは裕太くんが話を振ってきた時に受け答えをしてただけだけれど。
まだ肌寒い春の風がそよぐ中を、わたしは裕太君と並んで歩く。
「そっか。でも、四月になったら裕太くんはこの町を出ちゃうんだね」
こうやって歩くことができるのも、ひょっとして最後なのかな。そんなことを思いながら、わたしは小さい声で呟く。
「まあでも出雲の駐屯地だから、そんなに遠くはないよ」と笑いながら裕太くんは、それに親父もよく有給とって家でごろごろしてたよと言葉を続ける。裕太くんのお父さんも自衛隊員で、小さい頃は駐屯地の一般公開によく連れていってもらったものだった。そんな裕太くんのお父さんは、数年前に行方不明になってしまったのだけれど。
「でもなあ、入隊したらことりの絵とか小説とか、読めなくなるんだよなあ」裕太くんはため息混じりに呟いた後、何かを思い出したかのようにわたしの方を向いた。
「そう言えば、ことり、前に読ませてもらったあれ、続き書いたのか? ほら、ゾンビになった恋人に会いに、女の子が塀に囲まれた街に行く話」
「ああ、それなら―――」
美咲姉の家にあるよ、と言いかけた時。
『よかったら久しぶりにゆうくんと一緒に家に来たら?』
美咲姉の言葉が急に頭に浮かび上がる。
『一緒に帰りたいのなら、ことりが頑張らないとね』
頭が急に熱くなってくる。
『あの話なら美咲姉の家にあるよ。あ、今から読みに行く?』
簡単な一言。五秒もかからず言える言葉だ。
わたしは一瞬唾を飲み込んだ。
「ごめん、まだ全然書いてないんだ。それより、あれはゾンビじゃなくて夜行人です。前も説明しなかったっけ?」
「あ、ゾンビじゃなかったか。そうかー、恋人に会った続きが知りたかったんだけどなあ」
残念と呟く裕太くんの隣で、わたしは心の中で大きな大きなため息をつく。
ばかだ、わたし。
今日で最後かもしれない、二人での帰り道。
次にいつ会えるか分からない、わたしと裕太くん。
なのに。
そんなわたしの様子に気づいていないのか、裕太くんは腕を組んで唸っている。
「うーん、自衛隊に入隊したら、あの話の続きも、ことりの新しい絵も見れないんだなあ」少しがっかりしてる様子の裕太くん。
「おれ、ことりの絵と話、大好きなんだけどなあ」
その言葉に、わたしは笑顔をしてみせる。
「じゃあ、メールで送るよ。見づらいかもしれないけど」
「悪いな、ことり。楽しみにしてるよ」
そう言って片手でわたしを拝む裕太くんに、まかせなさいとばかりに自分の胸を叩いてみせるわたし。
……卒業して一緒に帰ることができなくなっても、裕太くんとの縁が切れちゃうわけじゃないんだよね。
だったら、それでいいよね。
地面に視線を落としながら、わたしは足を進めていく。
その時だった。
「……あー、違う。俺は本当に馬鹿だ」
え。
視線を移した先には、顔を真っ赤にして、頭をぼりぼりとかいている裕太くんの姿があった。
「ことり、俺な、そういうことが言いたいわけじゃないんだ」
わたしの前で、ひとり首を横に振る裕太くん。
わたしは何と答えていいのか分からず、ただ彼の顔を見上げていた。
「俺、ことりの絵や話が大好きだけどさ、そういうことじゃないんだ。ああ、何て言うのかな」
それだけ言って黙り込む裕太くん。
そんな裕太くんを、ぽかんと口を開けて見ているわたし。
いくばくかの時間が、わたしたちの間を流れていった後だった。
「ことり、俺さ、ことりの絵や話、大好きだよ」
さっきと同じことを、裕太くんはさっきよりも真っ赤な顔で言った。
「うん」こくこくと首を縦に振るわたし。
「でもな、絵や話よりも、俺、俺さ」
裕太くんの言葉が一瞬途切れ、
そして。
「俺、ことりのことが大好きだ。小さい頃から、ずっと」
裕太くんの真っ直ぐな目がわたしを見つめていた。
こういう光景を本で漫画で、わたしは何度も見てきた。そんな時、きまって主人公の女の子はぽろぽろと涙を流してたものだった。
そしてわたしも、胸の奥の方からこみあげてきたもので一杯になって、何も言葉に出すことができずに、ただただ泣いてしまった。
そんなわたしを見ておろおろする裕太くん。
裕太くんの前で泣きじゃくるわたし。
夜の帳が降り始めた学校からの帰り道、わたしたちは二人、お互いにただただ立ち尽くすばかりだった。
わたしたちはその後、顔を真っ赤にしたまま、マックに行ったり、映画館に立ち寄ったりした。
マックでは、いつものようにポテトの取り合いっこをしたり。
映画館では、いつものように自分でホラー映画が見たいと言いながら寝てしまう裕太くんをつねってみたり。
いつもどおりで、何も変わらない時間だけれど。
わたしたちは二人、手をつないで街を歩く。
たったそれだけの違いが、わたしはたまらなく嬉しかった。
四月になったら、裕太くんは少し遠いところにいってしまうけれど。
この手の温かさを思い出せば、いつまでも幸せでいられる、そんなふうにわたしは思った。
「ことり、送っていかなくて大丈夫か?」
裕太くんの家の前。その言葉に、わたしは大丈夫だよと軽く手を振ってみせる。
映画を見て駅から歩いてきて、家の前でしばらくの間おしゃべりをして。
それでも名残惜しかったけど、わたしは「おやすみ」と別れの挨拶をして裕太くんに手を振った。
「あ、ことり」
手を振り返そうとして、動きを止める裕太くん。
「?」
「明日も、どっか出かけないか?」
――――――――――っ。
わたしは大きく首を縦に振る。「うん、また明日ね」と大きく手を振って、一人家路へと足を向ける。
角を曲がって見えなくなるまで、わたしは何度も何度も振り返り、街灯の下に佇む裕太くんにその度ごとに手を振り続けていた。
街路灯がぼんやりと照らす夜の道を、わたしは踊るように歩いていた。三月の冷たい夜気も気にならないほど頬が熱い。思わず口笛を吹いてしまいそうだ。
ずいぶんと遅い時間になってしまったから、お母さんに怒られるかもしれないな、なんて思いつつ、今日のことを思い出すだけでわたしの頬はゆるんでしまう。
ふと気がつけば、わたしはいつの間にか自分の家を通りすぎてしまっていた。
いくらなんでも浮かれすぎだ、と思った時だった。
『姉さんも応援するよ?』
にっこりと笑う美咲姉の顔をわたしは思い出す。
ここからなら、美咲姉の家までちょっとだし、寄っていこうかな。裕太くんから告白されたよー、なんて言ったら美咲姉は喜んでくれるかな。
そんなことを思いながら、わたしは従姉の家へと足を向けた。
それが、わたしと世界とを分かつことになるなんて、露にも思わずに。
いつもと同じように合鍵で美咲姉の家に上がり込むと、わたしは片っ端から灯りを付けた後に彼女の部屋に入る。「ことりー、家中の灯りをつけるのはもったいないと姉さんは思うなあ」なんてよく小言を言われるけど、帰りの遅い美咲姉をお迎えするつもりで、わたしはいつもこうしているのだった。
灯りで家中が満たされたことに満足したわたしは、上機嫌のままいつもごろごろしてる部屋に転がり込む。鞄を放り出し、ベッドに飛び込んでお気に入りのクッションに抱きつくと、今日の出来事が頭に浮かんでくる。
『ことり、明日もどっか出かけないか?』
裕太くんの言葉が耳元に残ってる。
街の中を歩いたときに握った手の感触を思い出して、わたしは仰向けになって腕を伸ばし、手のひらをじっと見つめる。ああだめだ、どうしても顔がほころんでしまう。美咲姉になんて話そうかと考えながら、わたしはベッドの上をごろごろと何往復もしてしまう。
―――――――――――あ。
そのとき、わたしは今日の日付を思い出す。そういえば、今日は金曜日だったかな、と。
『金曜の夜はダメだけどね』
ある時から、美咲姉は金曜日にわたしが来るのを断るようになった。なぜかは分からないけれど、「オトナには色々あるのよ」という言葉に何となく納得して、わたしは金曜日の夜だけはここに来ないようにしていた。
怒られるかなあ、なんて思いながら、わたしは先に連絡しておこうと鞄から携帯電話を取りだし、仰向けになりながらメールを打とうとした。
その時だった。
携帯電話の向こうに見える天井が、きらきら、と少し光った。
? なんだろう?
目をこらすわたしの視線の先で。
きらきらとした光が、ゆっくりと天井の一部から降り注いでくる。
光の粒が少しずつ、さらさらと、わたしが普段寝そべって絵や物語を書いているカーペットの辺りに落ちていく。
細かな光の粒子が降り積もっていき。
やがて何かの形をなしていく。
そして、それが一つのはっきりとした形となり、光が薄くなったときだった。
「―――――――みさき、姉?」
そう。
わたしの目の前にあったのは、全身を切り刻まれ、体中から血をこぼす、わたしの従姉の姿だった。