終章 迷い仔は帰る
深夜。昨日と同じ椅子に腰掛けた老人と初老の男は、訝しげな顔で部屋を見回した。
「気付いたか?」
「ああ」
分担して机の上や抽斗、本棚に中央の寝台を確認する事五分少々。
「何も盗まれてはいないようじゃな」
「動かされた形跡があるのは節制の二つのディスク、それにアルカツォネ関係の資料数冊……」
パソコンを起動させて数十秒後、男の眉が微妙に上がる。
――勝手に上がり込んで申し訳ありません。私は暁十字の関係者です。現在、あなた方と同じく団体の所在を探しています。このパソコンのメールアドレスに、後で私が調査した結果を転送します。
カチカチッ。『重要』と件名の打たれた一通のメールを開く。
「成程」
二人にとって目新しい情報は無いものの、協力者の存在は重大だ。
返信メールの画面に切り替え、男が太い指でキーボードを叩く。
――情報提供に感謝します。あなたは十字の研究者ですか?
相手もパソコンを開いているらしく、返事は一分と経たず来た。
――いいえ。幼い頃は施設に出入りしていましたが、十数年間十字とは無縁の生活を送っていました。現在も妹は所属しています。
メールの最後のURLにアクセスする。画面が切り替わり、クローズドのチャットルームが表示される。
『来て頂いてありがとうございます。こちらの方がタイムラグ無く話せると思って招待しました』
『はい。早速ですが、あなたは何故今になって暁十字を探しているのですか?』
二分後。
『父親に訊きたい事があるのです。妹の事でどうしても納得できなくて』
『お父さんは研究者なのか?』
『はい、あなた方も多分御存知のはずです』
「誰の事じゃと思う?」「さあ?」
『ところで娘さんは大丈夫でしたか?』
『心配無い。しかし何故娘の事を?』
『どうも他人とは思えなくて……可愛らしい子ですよね、母親にそっくりで』
『アイシャを知っているのか?あなたは一体何者だ?』
数分の間の後、文章が現れる。
『色々あって今はまだ話せません。また新しい情報が入り次第メールで連絡します』
「悪い人間には思えない」
『こちらでも何か分かったら連絡する。それとくれぐれも身辺には気を付けてくれ。十字の事を調べていると知られれば、君にも害が及ぶかもしれない』
『修羅場は職業柄慣れています。では失礼しました』
念のためにやり取りのログをハードディスクに落とし、見慣れたパスワード入力画面を出した。メールにあった幾つかの単語を打ち込み、嘆息。
「矢張り現時点では無理だ」ディスクを取り出した途端ふぁー、身体中の二酸化炭素が出た。
「こんにちは。あら?」
店先に現れた赤髪のマダムは何故か左手に花束、右手にフルーツ籠を持って立っていた。
「あなた、入院していなくていいの?」
「大丈夫です。傷は友達がきっちり塞いでくれたんで。お客さんこそ、今日は誰かのお見舞いですか?」
するとマダムは悪戯っぽい笑みを浮かべて、真紅のネイルを塗った人差し指を唇の前に立てた。
「あなたのに決まっているでしょうお嬢さん?早とちりで病院を回らなくて正解だったわ」店の奥を覗き込み「お母さんは大丈夫?」
「はい。今は疲れて眠っています」
十数年振りに親子で囲んだ朝食を思い出す。アタシの作った出汁巻き卵を母は今まで食べた物の中で一番美味しいなんて言っていた。もっと早く生きていると知っていたら……悔やんでも悔み切れない。
「疲労にはビタミンがいいわ。勿論美容にもね。はい」
苺、さくらんぼ、蜜柑やキウイ等の小物に、文旦や八朔、中央には何とメロン!勿体無い程上等の木の編み籠、綺麗なピンクのリボン付き。花束は如何にも春らしいピンクのチューリップとスイートピー、間に霞草が可愛らしく咲いていた。
「お客さんに気を遣わせて済みません。高かったですよね?」
「余りお金には頓着しない方だから。もう覚えてないわ」
「あの、上がってもらえますか?ティーセットも見て頂きたいし」
「え?あんな事があったのに用意できたの?」
「それも友達が。どうぞ」
硝子戸を開け居間に彼女を通す。緑が見えた方がいいと思い、縁側への障子を開ける。丁度中庭の花水木が小さな白い花を咲かせていた。
戸棚にあった家で一番高い玉露と、唯一のお菓子龍商会饅頭(せめてういろうの一本もあれば!)を出す。お客さんは流石綺麗な姿勢で正座していた。
「あら、龍商会のお饅頭。これ美味しいのよね」親指と人差し指でちょんと摘まんで、ぱくり。お茶をすすす。「うちの坊やも好きなのよ」
ティーセットの入った木箱を湯呑みの隣に置く。上蓋を開け、中身がよく見えるよう包み紙を広げた。
「では検めさせて頂くわ」
マダムは真剣な目付きで手に取ったカップを観察し、ゆっくりと横に、さらに縦にも一回転させた。他の三つにも同じ検査。ティーポットは蓋を取り、内部を慎重に点検していた。
音も無くポットを元あった位置に戻し、紙で丁寧に包んで蓋を閉じた。
「お気に、召しましたか?」
アタシの目から見れば文句無しの最高級品だ。誠が選んだだけあって並大抵の物とはセンスが一段違う。仮令彼女の気に入らなくても、店先に三日も置いておけば必ず買い手がつくだろう。
「完璧だわ……前の物以上に魅力的で、且つ実用的な……」
ほうっ。真っ赤なルージュの唇から感嘆の溜息を吐く。
「その友達も古美術や骨董の方面に明るい人?」
「いえ。審美眼はかなりの物だと思うけど、勉強はしていないはずです」
「へえ、少し興味が沸いてきたわ」マダムはウェーブした髪をくるくる指に巻き付ける。「坊やの良い話し相手になってくれそう」
「息子さん、もしかして病気なんですか?」元気なら直接連れてきて選ばせるだろう。そうしないのは、
「ええ……ずっと臥せがちで、家からも月に何度かしか出られないの。だから長く家を空けるのは心配で……」
眉間に小皺を寄せ、とても不安そうな顔。
「入院はさせないんですか?ずっと付きっきりじゃお客さんの身体が保たないです」
「気遣ってくれてありがとうお嬢さん。でもいいの。あの子は私の生きがい、世話は全然苦じゃないわ。それに医者には定期的にきちんと診せているから」
ふふふ。
「こんな事誰かに言ったのは初めてよ。あなた聴き上手ね」
今日は過ごしやすい陽気になるそうですよ、などど世間話をしながら貰った花束を花瓶に生け、玄関横に飾った。スイートピーが甘く香る。
「ところであの小箱、ちゃんとあなたの手に渡った?」
「あ、ああ……あの偽物の」
“燐光”とは言わず、とある客から預かっていた高級ダイヤだったが、昨日ちょっとした事故で壊れてしまったと説明した。
(あの後が大変だったんだけどね……)
頭から信じ込んでいたウィルはその場で失神し、半日家で魘されていた。夕方になってようやく夢でも幻でもないと理解した途端、誠の手を引いてお爺さんが待っていると叫び飛び出していった。どうもあの様子だと一昨日の電話の時、事件の話は一切しなかったようだ。もしかしたら先週も、先々週の事も話していないのかもしれない。
「どうもイミテーションの硝子玉だったらしいです。そのお客さんは現在行方不明なので、こっちが今すぐ責任を追及される事は無いと思います」
座ったまま頭を下げる。
「済みませんでした。危険な目に遭わせてしまったみたいで……アタシがあんな事さえ頼まなければ」
「構わないわ、良い運動にもなったし。だけどあの鋏の子、まだこの辺りにいるのかしら?指名手配の連続殺人犯なんでしょう?まさかあなた達をあそこに監禁したのも……」
マダムは真っ赤な唇を戦慄かせた。
「心配しないで下さい。ちゃんと警察に話して、しばらくは重点的に巡回してくれるそうです」
これは本当。昨日宝爺が警察署まで行って頼んできてくれた。店に出入りするお客さんが襲われたら大変だ。
「ならひとまず安心ね。だけど戸締りはしっかりしておいた方がいいわ。お母さんも回復にしばらく時間が掛かるでしょうし」
彼女はそう言ってドレスの裾から小切手帳を取り出した。「ところでお幾らかしら?まだ訊いていなかったわ」
「全部合わせて百九十万です」
深紅の瞳が思案するように動く。
「サービスしなくていいのよ?私が好きであげたの」籠から蜜柑を取り、片手でくるくる回して戻した。「それとも迷惑料も込み?見縊られたものね」
「でもそんな、お客さんに気を遣わせて悪いです……」
「持ちつ持たれつよ。お嬢さんが私の願望を叶えてくれたお礼。それじゃいけないかしら?」
そう言って小切手に二百二十万と書いて破り、アタシの手の中に強引に押し込んでしまった。
「どうしてそこまで親切にしてくれるんですか?アタシはまだまだ半人前です。このティーセットだって見つけたのは友達で。なのに何で」
問いに彼女は温かい笑顔で、似ているからよ、そう答えた。
「健気で頑張り屋さんのあなたを見てると、坊やと同じで放っておけないのよね。思わず手を差し伸べたくなるの、嫌?」
「い、いいえ!そんな事は……」
どう返せばいいのか言葉に詰まってしまう。緊張で咽喉が渇き、お茶を一気に飲み干した。
トン、トン……。
「済みません。母が起きてきたみたいです」
「御挨拶しても構わない?」
「どうぞ。母も喜ぶと思います」
ガラガラ……。
「アイザ……良かった、そこにいたの。ああ、あなたは確か昨日の」痩せこけた身体を一杯まで折り曲げて頭を下げる。「本当にありがとうございました。あなたは娘の命の恩人です」
「お顔を上げて下さいお母様。娘さんと私はとっくの昔に友達同士ですもの。あれぐらい当然ですよ」吃驚するアタシにウインクして、「まあ女同士立ち話も何ですからお座りになって下さい。丁度美味しいお茶と御饅頭が揃っている事ですし、ね?」
座布団に慣れない母は、膝から下を外側へ不自然に曲げて正座した。
「お母さん、こう。こうすれば疲れないで座れるよ」
「え、ええ……ごめんなさい」
「謝る事ないよ。痛かったら言ってね、座椅子取って来るから」
監禁生活のせいか、母は昔よりずっと弱気になってしまった。いつも怯えて、少しの物音でも吃驚して。アタシが傍にいる時でさえそうなのだ、当分一人にできるはずもない。
ぎゅっ。アルカツォネの握力でしがみ付くようにアタシの腕を掴む。正直少し痛いけど言わないでおこう。
「具合はどうですか?」
「ぐっすり眠ったお陰で、大分良くなりました」
「嬉しいわ。昨日は凄く顔色が悪いから心配していたんですよ?」フルーツ籠を示し「美容にはまずビタミンです。娘さんと食べて下さい」
「ありがとうございます」
「あと、一度美容院で髪を整えて、一日一度は外出された方が健康的です。折角御近所に何でも揃う所があるんです、行かないと勿体無いですよ?」
「そうだよお母さん。出掛けるにしてもまず服とか靴とか揃えなきゃ」理由が理由だけに宝爺も気前良く前借させてくれるはず。「欲しい物があったら何でも言って」
「そんな、私は……アイザと一緒に暮らせるだけで充分よ?他に望む事なんて……」
うー。困惑の色しかない。ショックから立ち直って昔みたいに戻るには時間が掛かりそう。それでも母はぎこちなく微笑み、ありがとう、と囁いた。
マダムが立ち上がり、そろそろお暇するわと言った。
「今日は本当にありがとうございました、何から何まで……また何時でもいらして下さい」
「ええ。あなたこそお母様を大事にね」
流れるような仕草で一礼し、「お母様も御身体を大事になさって下さい。ではまた」
長い赤髪が玄関を抜け颯爽と遠ざかっていくのを見送りながら、横目で母の様子を窺う。
(この人はアタシが守らなきゃいけないんだ……仮令)
頭を振って考えを追い出した。彼女の肩に手を置く。
「寝巻きだけじゃ寒いよお母さん。掛ける物取って来るね」
「……ええ」
母はとても小さな声を出して頷いた。