私は先王陛下の隠し子ですが、再婚を拒む現国王陛下に一年間だけ引き取られました
「陛下。どうか、再婚をお考えください」
海に囲まれた小さな島国、オーデン王国。
一年を通して春のような穏やかな気候に恵まれ、街路には季節を問わず色とりどりの花が咲く。
その王宮の会議室では、開け放たれた窓から柔らかな風が入り込み、長机の上に置かれた書類の端を揺らしていた。
しかし、室内に漂う空気は、外の陽気とは対照的に重苦しい。
議題は、王位継承問題だった。
「その話は何度もしたよ。僕に再婚するつもりはないんだ」
穏やかに答えたのは、国王カイン・フォン・アルヴェルト。
艶やかな黒髪を中央で分けた、二十七歳の若き国王である。
整った顔立ちには柔らかな微笑みを浮かべていたが、その返答には揺るぎがなかった。
「ですが、このままでは王位継承者が……」
白髪の老宰相が、困り果てたように眉を寄せる。
「うん。だから、ひとつ提案があるんだ」
カインは机の上に、一通の書類を置いた。
「先王陛下の娘を、王宮へ迎えようと思う」
会議室が静まり返った。
「……先王陛下の娘、でございますか?」
老宰相が目を見開く。
先王マリクには実子がいないとされていた。そのため、公爵家出身のカインが養子となり、王位を継いだのである。
「正式には認知されていないけれど、先王陛下には娘がいるんだ。今は教会で暮らしているらしい」
「そのような方が……」
「まずは一年間、王宮で学んでもらうつもりだよ。本人が望み、王族としての適性も認められれば、僕の養女として迎えたいんだ」
重臣たちは顔を見合わせた。
平民として育った娘を王族に迎えることには、当然、不安もある。
だが、後継者問題を解決するための選択肢であることも確かだった。
「……まずは、ご本人のお考えを伺うべきでしょうな」
「うん。僕もそう思うよ」
カインは穏やかに微笑んだ。
「だから、僕が直接迎えに行こうと思っているんだ」
その瞬間、会議室がざわめいた。
「陛下自ら、でございますか?」
「使者を遣わせればよろしいのでは……」
「いえ、しかし、先王陛下のご息女となれば……」
重臣たちの声が次々と重なる。
カインはそんな彼らを眺めながら、どこか楽しそうに微笑んでいた。
「せっかくなら、僕自身の目で確かめたいんだ。これから家族になるかもしれない人だからね」
そして、机の上の書類へ視線を落とした。
「彼女の名前は、シュレリアというみたいだ」
⸻
王都の外れにある、小さな教会。
白い漆喰の壁にはところどころ細い亀裂が走り、長い年月を経た木製の扉は、開け閉めするたびに小さく軋んだ。
中庭には野花が咲き、石畳の隙間からも小さな草が顔を覗かせている。
古びてはいるものの、隅々まで丁寧に掃除された、どこか温かみのある建物だった。
「……おかしいわね」
その教会の廊下で、一人の女性が箒を手に首を傾げていた。
シュレリア、二十三歳。
銀色の長い髪を横で三つ編みにし、淡い紫色の瞳をした、美しい娘である。
幼い頃に母を亡くした彼女は、この教会で育てられた。
掃除や洗濯、料理に裁縫。
教会の仕事はひと通りこなせるし、年下の子供たちの面倒を見ることにも慣れている。
なかでも裁縫は得意で、破れた衣服を繕ったり、余った布で小さな袋を作ったりするのが好きだった。
そんな彼女は今、廊下の天井を見上げていた。
「昨日は雨が降っていないのに、どうして床が濡れているのかしら……」
足元には、小さな水たまりができている。
シュレリアはしばらく考え込んだ。
そして、はっと顔を上げる。
「……もしかして、屋根が雨の日を覚えているのかしら?」
「覚えているわけないでしょう!」
背後から鋭い声が飛んできた。
振り返ると、栗色の髪をした若い女性が立っていた。
そばかすのある頬を膨らませているのは、幼なじみのリリスだった。
「それ、昨日の雨が天井裏に残っていたんじゃないの?」
「……なるほど」
シュレリアは感心したように頷いた。
「雨にも、帰るのが遅い子がいるのね」
「水の話でしょう!」
リリスは呆れたように肩を落とした。
そのとき、廊下の向こうから、よく通る声が響いた。
「シュレリア!」
「はい!」
丸みを帯びた体つきの修道女が、こちらへ歩いてくる。
銀縁の眼鏡をかけた五十代の女性、ヌーヴォである。
この教会を取り仕切り、シュレリアを幼い頃から育ててくれた人だった。
「あなた、まだ廊下を掃除していたの?」
「はい。もう少しで終わります」
「そうではなくて。今日は大切なお客様がお見えになるから、身なりを整えておきなさいと言ったでしょう」
「……お客様?」
シュレリアは首を傾げた。
「どなたかいらっしゃるんですか?」
ヌーヴォが深いため息をついた。
リリスが勢いよく口を開く。
「国王陛下がいらっしゃるんですって!」
「……国王陛下?」
シュレリアは目を瞬かせた。
「この教会に?」
「そうよ!」
「……どうして?」
「それを私が知るわけないでしょう!」
リリスは呆れたように両手を広げた。
シュレリアは少し考え込んだ。
「もしかして、屋根の修理について相談に乗ってくださるのかしら」
「そんなわけないでしょう!」
「でも、雨漏りがひどいって、何度もお願いしていたじゃない」
実際、教会の屋根は長年の風雨で傷み、強い雨が降る日には、廊下にいくつもの桶を並べなければならなかった。
子供たちの寝室の壁にも湿気が染み込み、ヌーヴォは修繕費の工面に頭を悩ませていた。
「だからって、国王陛下が直接いらっしゃると思う?」
「……それもそうね」
シュレリアは素直に頷いた。
ヌーヴォは二人のやり取りを聞きながら、こめかみを押さえた。
「とにかく、シュレリア。早く着替えてきなさい」
「はい!」
シュレリアは箒を片づけると、慌てて自室へ向かった。
⸻
それから間もなく、教会の前に一台の立派な馬車が停まった。
磨き上げられた車体には王家の紋章が刻まれ、金色の装飾が陽光を受けて輝いている。
普段は荷車が通る程度の細い道に現れた豪華な馬車を、近所の人々が物珍しそうに眺めていた。
御者が扉を開くと、黒髪の青年が姿を現した。
カイン・フォン・アルヴェルト国王である。
「本日はお越しいただき、誠にありがとうございます」
玄関先で待っていたヌーヴォが、深々と頭を下げた。
「こちらこそ、突然訪ねてしまって申し訳ない」
カインは柔らかく微笑んだ。
「シュレリアという女性に、お会いしたいんです」
「はい。こちらへ」
案内されたのは、教会の小さな応接室だった。
壁際には古い本棚が置かれ、窓辺には庭で摘んだ花が飾られている。
家具は使い込まれていたが、木製の机は丁寧に磨かれていた。
その部屋で、シュレリアは緊張した面持ちで待っていた。
普段より少し上等な、清潔なワンピースを身につけている。
カインが入ってくると、彼女は慌てて立ち上がった。
「は、初めまして!」
深々と頭を下げる。
「シュレリアと申します!」
「初めまして。カイン・フォン・アルヴェルトだよ」
カインは穏やかに微笑んだ。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」
「……はい!」
そう答えたものの、シュレリアの背筋はぴんと伸びたままだった。
カインは小さく笑い、椅子を勧めた。
「今日は、君に大切な話があって来たんだ」
「……大切なお話、ですか?」
「うん」
カインは少しだけ表情を改めた。
「君は、自分のお父さんのことを知っているかな?」
シュレリアは目を瞬かせた。
「……いいえ」
彼女は静かに首を横に振った。
「母からも、詳しいことは聞いていません。母は私が幼い頃に亡くなりましたから」
「そうだったね」
カインは頷いた。
「実は、君のお父さんは、先王マリク・フォン・アルヴェルト陛下なんだ」
「…………」
シュレリアは黙った。
窓の外から、小鳥のさえずりが聞こえてくる。
しばらくして、彼女はもう一度瞬きをした。
「……先王陛下?」
「うん」
「……この国の?」
「そうだよ」
「…………えっ?」
ようやく言葉の意味を理解したらしい。
シュレリアは勢いよく立ち上がった。
「ええええっ!?」
椅子が床を擦り、甲高い音を立てた。
隣に座っていたヌーヴォが、びくりと肩を震わせる。
「シュレリア! お行儀が悪いですよ!」
「す、すみません!」
シュレリアは慌てて座り直した。
しかし、驚きは収まらない。
「で、でも、私……ずっと普通の子だと思っていました」
「もちろん、これまでの君の人生が変わるわけではないよ」
カインは優しく答えた。
「ただ、君には王家の血が流れている。それを知ってもらいたかったんだ」
シュレリアは膝の上で両手を握りしめた。
自分の父親が国王だった。
そんなことを、突然言われても実感が湧かない。
「……それで、陛下」
シュレリアは恐る恐る尋ねた。
「どうして、わざわざ私に会いにいらしたんですか?」
「実はね、君に王宮へ来てもらいたいと思っているんだ」
「……王宮へ?」
「うん。一年間、王宮で暮らしてみないかな」
シュレリアは目を丸くした。
カインは続けた。
「君には、王族として必要な勉強をしてもらいたいんだ。歴史や政治、礼儀作法など、覚えることはたくさんあると思う」
「……はい」
「そのうえで、君が望むなら、正式に僕の養女として迎えることを考えている」
「……養女?」
シュレリアは、ますます混乱した。
国王陛下の養女。
それは、つまり。
「……私が、王族になるということですか?」
「そういう可能性がある、ということだね」
カインは頷いた。
「もちろん、無理にとは言わないよ。君の人生だから、君自身に決めてほしいんだ」
シュレリアはしばらく黙っていた。
王宮で暮らす。
王族になる。
どちらも、これまで考えたことすらなかった。
やがて、彼女は静かに首を横に振った。
「……申し訳ありません。せっかくのお話ですが、お断りさせてください」
ヌーヴォが驚いたようにシュレリアを見た。
カインも少しだけ目を見開いたが、すぐに穏やかな表情に戻った。
「理由を聞いてもいいかな?」
「私は、ここでの暮らしが好きなんです」
シュレリアはまっすぐに答えた。
「子供たちもいますし、ヌーヴォ様やリリスもいます。王宮へ行けば、きっと今までのようには暮らせなくなりますよね」
「そうだね。覚えることも多いし、慣れない生活になると思う」
「それに、この教会は古くて、修理しなければならないところもたくさんあります」
シュレリアは窓の外へ目を向けた。
中庭では、幼い子供たちが花壇のそばで遊んでいる。
「私がいなくなったら、掃除や洗濯をする人も一人減ってしまいます。そんなときに、私だけ立派な王宮で暮らすなんて……」
彼女は膝の上で手を握った。
「ここは、私を育ててくれた大切な場所ですから」
カインは静かに頷いた。
「なるほど。君の気持ちはよくわかったよ」
そして、隣に控えていた従者へ目配せした。
従者が差し出したのは、王家の紋章が押された一通の封書だった。
「ヌーヴォさん」
「は、はい」
突然名前を呼ばれ、ヌーヴォが姿勢を正す。
「こちらを受け取っていただけますか?」
「……これは?」
「教会の修繕費です。まずは前金として、こちらをお渡しします」
カインは封書を机の上に置いた。
中には、王家の財務官が発行した支払証書が収められていた。
ヌーヴォはその金額を確かめると、眼鏡の奥の目を大きく見開いた。
「こ、これほどの額を……?」
「屋根や窓、子供たちの寝室も傷んでいると聞いているよ。まずは急ぐところから直してもらいたいんだ」
「ですが、陛下……」
「もちろん、シュレリアが王宮へ来るかどうかとは別の話だよ。困っている人たちがいるのなら、王家としてできることはしたいからね」
ヌーヴォは震える手で証書を握りしめた。
「……ありがとうございます。これで、子供たちを雨漏りのする部屋で眠らせずに済みます」
その声は、わずかに震えていた。
シュレリアは、そんなヌーヴォをじっと見つめていた。
「……ヌーヴォ様」
「何ですか?」
「屋根、直せるんですか?」
「ええ。これだけあれば、屋根だけでなく、傷んだ窓も直せるでしょう」
「……子供たちの寝室も?」
「もちろんです」
シュレリアの表情が、みるみる明るくなった。
そして、勢いよくカインへ向き直る。
「陛下!」
「うん?」
「私、王宮へ行きます!」
「…………えっ?」
今度はカインが目を瞬かせる番だった。
「……さっきは、断ると言っていなかったかな?」
「はい。でも、教会を直していただけるなら、話は別です!」
シュレリアは真剣な顔で答えた。
「お勉強も頑張ります! 礼儀作法も覚えます! ですから、ぜひ王宮へ連れていってください!」
ヌーヴォが呆れたようにため息をつく。
「シュレリア……あなたという子は」
「だって、ヌーヴォ様。これで雨の日に桶を並べなくて済むんですよ!」
「それはそうですが……」
カインは二人のやり取りを見つめていた。
そして、とうとう声を立てて笑った。
「ふふっ。君は、本当に面白い人だね」
「……そうでしょうか?」
「うん。王族になれるかもしれないと言ったときよりも、ずっと嬉しそうだ」
シュレリアは少し照れくさそうに微笑んだ。
「だって、ここは私の家ですから」
その言葉に、カインは柔らかく目を細めた。
「そうだね。大切な場所なんだね」
彼は静かに頷いた。
「それじゃあ、改めて。王宮へ来てくれるかな?」
「はい!」
シュレリアは満面の笑みで答えた。
こうして、彼女の王宮行きが決まったのである。
⸻
王宮へ出発することが決まると、教会はちょっとした騒ぎになった。
古い廊下を子供たちが駆け回り、シュレリアの部屋には、荷造りを手伝うリリスの声が響いていた。
小さな旅行鞄の中には、着替えと愛用の裁縫道具、それから長年大切にしてきた聖書が収められている。
「本当に行っちゃうの?」
リリスは寂しそうに眉を下げた。
「うん。でも、ずっと会えなくなるわけじゃないわ」
シュレリアは微笑んだ。
「お手紙も書くし、時々は帰ってくるつもりよ」
「絶対だからね」
「もちろん」
リリスはシュレリアをぎゅっと抱きしめた。
「……頑張ってね」
「ありがとう、リリス」
ヌーヴォも、静かにシュレリアを見つめていた。
「シュレリア」
「はい」
「王宮へ行っても、神の教えを忘れてはいけませんよ」
「はい」
「人に親切にすること。自分の立場を誇るのではなく、与えられた役目を誠実に果たすこと」
シュレリアは真剣に頷いた。
「忘れません」
ヌーヴォは、少しだけ目元を緩めた。
「……それなら、安心です」
そして、そっと彼女を抱きしめた。
「身体には気をつけるのですよ」
「はい。ヌーヴォ様も」
シュレリアは笑顔で答えた。
けれど、その目には少しだけ涙が浮かんでいた。
⸻
教会を出発した馬車は、王都の石畳をゆっくりと進んでいた。
車輪が規則正しく音を立て、窓の外では、花を積んだ荷車や買い物帰りの人々が行き交っている。
シュレリアはしばらく外を眺めていたが、やがて向かい側に座るカインへ視線を向けた。
「あの、陛下」
「何かな?」
「ひとつ、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「もちろんだよ」
シュレリアは少し考え込んだ。
「私、これから陛下の養女になるかもしれないんですよね?」
「そうだね」
「でも、私の父は先王陛下で……」
「うん」
「先王陛下は、陛下のお父様でもあるんですよね?」
「僕にとっては養父だけどね」
「……ということは」
シュレリアは真剣な表情になった。
「陛下のことは、兄上とお呼びした方がよろしいのでしょうか?」
カインは目を瞬かせた。
そして、少し考えてから答えた。
「いや、今はまだ、そういう関係ではないからね」
「そうなんですね」
シュレリアは納得したように頷いた。
しかし、すぐに何かを思いついたらしい。
「では、養女になったあとは、父上とお呼びした方が?」
「……ふふっ」
カインは思わず笑い出した。
「……陛下?」
「ごめんね。君があまりにも真剣だから」
彼は笑いを収めながら続けた。
「僕はまだ二十七歳だよ。君とは四つしか違わないんだから、父上と呼ばれるのは少し不思議な気分だね」
「……確かに、そうですね」
シュレリアも小さく笑った。
カインは、ふと思いついたように口を開いた。
「でも、これから一年間一緒に暮らすのに、ずっと『陛下』というのも堅いね」
「……そうでしょうか?」
「うん。せめて二人のときくらいは、もう少し気楽に呼んでほしいな」
シュレリアは目を瞬かせた。
「では、何とお呼びすればよろしいでしょうか?」
「カインでいいよ」
「……カイン、ですか?」
「うん。呼びやすいように呼んでくれればいいんだ」
シュレリアは少し考えた。
「では……カインさん、でもよろしいですか?」
「もちろん」
カインは嬉しそうに微笑んだ。
「よろしくね、シュレリア」
「はい。カインさん!」
そう答えると、不思議と緊張が少し和らいだ。
⸻
しばらく馬車が進んだところで、シュレリアはもうひとつ、気になっていたことを尋ねた。
「……カインさん」
「うん?」
「どうして、私を養女にしようと思われたんですか?」
カインは彼女を見た。
「王位継承者が必要だから、というお話は伺いました。でも、カインさんはまだお若いですよね」
シュレリアは不思議そうに首を傾げた。
「これからお子様が生まれる可能性も、あるのではないでしょうか?」
カインは少しだけ目を伏せた。
「……そうだね」
その表情が、ほんのわずかに寂しそうに見えた。
シュレリアは、何か失礼なことを聞いてしまったのではないかと不安になった。
「す、すみません。立ち入ったことを……」
「大丈夫だよ」
カインは穏やかに微笑んだ。
「君には、きちんと説明しておくべきことだからね」
彼は少し間を置いてから、静かに口を開いた。
「僕には、妻がいたんだ」
「……奥様が?」
「うん。ユミアという名前でね。とても優しい人だったよ」
カインの声は、どこか懐かしそうだった。
「でも、三年前に病気で亡くなってしまったんだ」
シュレリアは息を呑んだ。
「……そうだったんですね」
「僕たちは、まだ子供を授かっていなかった。だから、今の王家には、僕の跡を継ぐ子供がいないんだ」
カインは窓の外へ目を向けた。
「もちろん、重臣たちからは再婚を勧められているよ。新しい妻を迎えて、子供をもうけるべきだとね」
「……はい」
「でも、僕にはそのつもりがないんだ」
シュレリアは顔を上げた。
「……再婚なさらないんですか?」
「うん」
カインは静かに頷いた。
「ユミアを亡くしてから、誰かともう一度結婚することは考えられなくてね」
彼は少し困ったように笑った。
「国王としては、あまり褒められたことではないのかもしれないけれど」
「……そんなこと」
シュレリアは小さく呟いた。
カインが彼女を見る。
「何かな?」
「……奥様のことを、今でも大切に想っていらっしゃるんですね」
カインは少し驚いたように目を瞬かせた。
シュレリアは続けた。
「私には結婚の経験がありませんから、偉そうなことは言えません。でも……亡くなられたあとも、そんなふうに想ってもらえるなんて、きっと素敵なご夫婦だったんだろうなと思います」
カインはしばらく黙っていた。
そして、柔らかく微笑んだ。
「……ありがとう」
「いえ……!」
シュレリアは慌てて首を振った。
「それでね」
カインは穏やかに話を続けた。
「僕が再婚しない以上、別の形で王位継承者を確保する必要があるんだ」
「……それで、私を?」
「そうだよ」
カインは頷いた。
「君は先王陛下の実の娘だ。もちろん、血筋だけで王族にふさわしいかどうかを決めるつもりはないけれど、君にはその可能性があると思っている」
「……なるほど」
シュレリアは真剣に頷いた。
「でも、僕は君を無理に王族にしたいわけじゃないんだ」
カインは続けた。
「一年間、王宮で暮らしてみてほしい。勉強もして、いろいろな人と出会って、それから自分で決めればいい」
「……はい」
「もし王族になることを望まなければ、教会へ戻っても構わないよ」
シュレリアは少し安心したように微笑んだ。
「ありがとうございます」
それから、少し考えて口を開いた。
「……でも、私が王族になることを決めたら、カインさんは安心できるんでしょうか?」
「そうだね。王国の将来について、ひとつ心配事が減ると思うよ」
「それなら、頑張りたいです」
シュレリアはまっすぐにカインを見つめた。
「私に何ができるかわかりませんけれど、せっかくいただいた機会ですから、精いっぱい勉強します」
カインは微笑んだ。
「うん。期待しているよ」
シュレリアも笑顔を返した。
⸻
やがて、馬車は王都の中心部へと入っていった。
窓の外には、美しい石造りの建物が立ち並んでいる。
広場には噴水があり、道沿いには花を売る店が並んでいた。
シュレリアは興味深そうに外を眺めていた。
そのとき、ふとカインの袖口が目に入った。
「あの……カインさん」
「何かな?」
「袖のところ、少し糸がほつれていますよ」
カインは自分の袖を見下ろした。
「ああ、本当だね」
「よろしければ、あとで繕いましょうか?」
「君が?」
「はい。お裁縫は得意なんです」
シュレリアは嬉しそうに答えた。
「教会では、子供たちの服をよく直していましたから」
カインは小さく笑った。
「ありがとう。でも、王宮には仕立てを担当する者もいるから、大丈夫だよ」
「そうなんですね」
シュレリアは少し残念そうに頷いた。
カインはその様子を見て、微笑んだ。
「でも、君がそう言ってくれたことは嬉しいよ」
「……本当ですか?」
「もちろん」
シュレリアはぱっと顔を輝かせた。
「それなら、また何かありましたらおっしゃってくださいね」
「うん。頼りにしているよ」
そんな話をしているうちに、馬車は大きな門の前で速度を落とした。
「……あっ」
シュレリアは窓の外を見て、思わず声を上げた。
目の前には、白い石造りの壮麗な宮殿が広がっていた。
高い塔。
美しく整えられた庭園。
噴水の向こうには、色とりどりの花々が咲き誇っている。
「……ここが、王宮……」
シュレリアは呆然と呟いた。
教会とは、何もかもが違っていた。
「気に入ってくれると嬉しいな」
カインが微笑む。
シュレリアは慌てて振り返った。
「は、はい! とてもきれいです!」
カインは笑った。
「それならよかった」
馬車が停まり、扉が開かれた。
カインが先に降り、シュレリアへ手を差し出す。
彼女はその手を取り、そっと馬車から降りた。
目の前に広がる王宮を、もう一度見上げる。
これから一年間、ここで暮らすのだ。
王族になるための勉強をして、知らない人たちと出会って、今までとはまったく違う毎日を過ごす。
不安がないわけではなかった。
けれど、それ以上に、胸が高鳴っていた。
シュレリアは隣に立つカインを見上げた。
「……カインさん」
「うん?」
「これから一年間、よろしくお願いします」
カインは穏やかに微笑んだ。
「こちらこそ、よろしくね。シュレリア」
こうして、教会育ちの少女シュレリアの、思いもよらない王宮生活が始まったのである。
♢ ♢ ♢
「シュレリア様、こちらへどうぞ」
王宮の大広間へ足を踏み入れたシュレリアは、思わず立ち止まった。
高い天井から吊るされた燭台には無数の硝子飾りが輝き、磨き上げられた大理石の床に光の粒を落としている。長い食卓には純白の卓布が掛けられ、銀の食器と季節の花々が美しく並べられていた。
今夜は、先王マリクの娘であるシュレリアを貴族たちに紹介するための晩餐会が開かれることになっていた。
正式な王女としてのお披露目ではなく、王家に近しい者だけを招いた小規模な会だという。
「……これが、小規模なんですか?」
隣の侍女に尋ねると、彼女は微笑んだ。
「はい。正式な祝宴では、この三倍ほどのお客様をお招きいたします」
「三倍……」
シュレリアは広間を見渡した。
これだけの人が三倍も集まったら、椅子が足りなくなるのではないだろうか。
もしかすると、王宮では立ったまま食事をするのが正式な作法なのかもしれない。
そんなことを真剣に考えていると、広間の奥から声がした。
「シュレリア」
振り返ると、カインがこちらへ歩いてきた。
濃紺の礼装の胸元には王家の紋章が輝き、整えられた黒髪が燭火を受けて艶めいている。
教会で出会ったときは親しみやすい青年だと思ったのに、こうして見ると、やはり一国の王なのだと実感した。
「よく似合っているね」
カインはシュレリアの姿を見て、嬉しそうに微笑んだ。
彼女が着ているのは、淡い藤色のドレスだった。柔らかな生地には銀糸で小さな花が刺繍され、編み込んだ銀髪には真珠の飾りが添えられている。
「ありがとうございます。でも、こんな立派な服は初めてで……」
「緊張する?」
「はい。汚してしまわないか心配です」
「ふふっ。君らしいね」
カインが笑うので、シュレリアもつられて微笑んだ。
「カインさんも、とても素敵です」
「ありがとう」
さらりと返された笑顔が眩しくて、シュレリアは胸元のリボンへ視線を落とした。
「今夜は僕のそばにいればいいよ。知らない人ばかりだろうからね」
そう言って、カインは腕を差し出した。
シュレリアは一瞬迷ったあと、おずおずとその腕に手を添える。
広間を進み始めると、周囲から小さなどよめきが起こった。
突然現れた先王の娘を、国王自らがエスコートしているのだ。注目されるのも無理はない。
思わず肩を縮めたシュレリアに、カインがそっと声をかけた。
「大丈夫。僕が一緒だからね」
その一言で、張り詰めていた気持ちが少し和らいだ。
⸻
晩餐会が始まると、シュレリアは次々と紹介される貴族たちの名前を覚えるのに必死だった。
侯爵、伯爵、子爵。
聞き慣れない家名ばかりだったが、彼女は一人ひとりに丁寧に挨拶した。
「教会では、どのような暮らしをなさっていたのですか?」
ある伯爵夫人に尋ねられ、シュレリアは答えた。
「掃除や洗濯、お料理のお手伝いをしていました。裁縫も好きで、祭壇の布に刺繍をすることもありました」
「まあ、刺繍を?」
「はい。お花の模様が得意なんです」
「それは素敵ね。今度ぜひ拝見したいわ」
穏やかに会話を交わしていた、そのときだった。
「カイン!」
甘く澄んだ声が響いた。
振り返ると、桃色の巻き髪を揺らした美しい令嬢が立っていた。
深紅のドレスには宝石が縫い込まれ、首元には大粒の真珠が輝いている。
彼女はシュレリアへ一瞥をくれると、当然のようにカインの隣へ歩み寄った。
「もう、ようやく見つけましたわ。昔からそうですけれど、あなたはいつも私を探させるんですもの」
「久しぶりだね、アリシア。元気にしていたかな?」
「ええ。カインこそ、少しお痩せになったのではなくて? 王太子になったばかりの頃も、私が何度休むように言っても聞かなかったでしょう?」
「そうだったかな」
カインは微笑んだが、話を広げようとはしなかった。
「そうですわ。あなたのことは、私がよく存じておりますもの」
アリシアは親しげに言い、ちらりとシュレリアを見た。
「シュレリア、紹介するね。こちらはアリシア・フォン・ローゼンフェルト。僕の従妹なんだ」
「初めまして。シュレリアと申します」
シュレリアが頭を下げると、アリシアは優雅に微笑んだ。
「ええ。お噂は伺っておりますわ。先王陛下のお嬢様が、教会で暮らしていらしたなんて驚きましたの」
「私も、自分の父が先王陛下だと知って驚きました」
「……そうでしょうね」
アリシアは扇を開いた。
「王宮には独特の作法がございますもの。慣れるまで、さぞ大変でしょう?」
「はい。食器の種類だけでも、こんなにあるんですね」
「まあ。お食事の作法も、これからお勉強なさるのね」
「ええ。ひとつずつ覚えたいと思っています」
シュレリアが素直に答えると、アリシアはわずかに眉を動かした。
「……そうですの」
そして、再びカインへ向き直る。
「ねえ、カイン。今度、昔のように二人でお茶でもいかがかしら? あなたの好きだった焼き菓子も用意させますわ」
「ありがとう。用件があるなら侍従に伝えておいてくれるかな」
「……相変わらず、お忙しいのね」
「そうだね」
カインは軽く頷いた。
「それじゃあ、アリシア。僕たちはほかの方にも挨拶しないといけないから」
「あら、もう?」
「またね」
アリシアは一瞬唇を引き結んだが、すぐに微笑みを取り戻した。
「ごきげんよう、シュレリア様」
「ごきげんよう、アリシア様」
その場を離れてから、シュレリアは小さく呟いた。
「とてもおきれいな方ですね」
「アリシアは昔から華やかな人なんだ」
「カインさんとも、ずいぶん親しいんですね」
「従兄妹だからね。幼い頃から知っているよ」
カインはそれだけ答え、次の招待客へと歩き始めた。
シュレリアもその隣を歩きながら、先ほどのやり取りを思い返した。
自分の知らないカインの昔を、アリシアはよく知っているらしい。
けれど、そのときはただ、長い付き合いなのだろうと思っただけだった。
⸻
晩餐会が終わる頃には、シュレリアはすっかり疲れていた。
慣れないドレスに、初めての料理、次々と紹介される貴族たち。
楽しかったけれど、教会で過ごす一日とは比べものにならないほど緊張した。
「シュレリア様。お部屋へご案内いたします」
侍女に促され、シュレリアは広間をあとにした。
王宮の東側へ続く廊下には、歴代の王族を描いた肖像画が並んでいる。
その一枚に、シュレリアは目を留めた。
金色の額の中で、淡い金髪の若い女性が穏やかに微笑んでいる。深い青色のドレスをまとったその姿は、ほかの貴婦人たちの肖像画に比べると、どこか親しみやすい印象だった。
「……こちらの方は?」
「亡くなられた王妃様、ユミア様でございます」
シュレリアは馬車の中で聞いた話を思い出した。
三年前、病気で亡くなったカインの妻だ。
「ユミア様は、社交界のご婦人方の中では、容姿が親しみやすい方でいらっしゃいました」
侍女は懐かしそうに肖像画を見上げた。
「ですが、とても頭の回る聡明な方でした。陛下が公務でお悩みのときには、よく相談に乗っていらしたそうです。使用人にも気さくに接してくださって、皆に慕われておりました」
「そうなんですね」
シュレリアは肖像画をもう一度見た。
「素敵な王妃様だったんですね」
「はい。本当に」
侍女は静かに頷き、再び歩き始めた。
シュレリアもそのあとに続く。
カインが大切にしていた人なのだろう。
そのときは、ただそう思っただけだった。
⸻
案内された客室には、天蓋付きの大きな寝台が置かれ、窓辺には応接用の卓と椅子が並んでいた。
壁には花を描いた絵画が飾られ、足元には柔らかな絨毯が敷かれている。
「……ここが、私のお部屋ですか?」
「はい。シュレリア様がお使いになるお部屋でございます」
「こんなに広いお部屋を、一人で?」
「もちろんでございます」
シュレリアは室内を見回した。
教会では、リリスと二人で小さな部屋を使っていた。寝台も机も必要最低限だったが、それでも十分に幸せだった。
侍女が退出すると、シュレリアは寝台へ腰を下ろした。
柔らかな寝具が身体を包み込む。
窓の外には、月明かりに照らされた庭園が広がっていた。
「……本当に、ここで暮らすんだ」
シュレリアは荷物の中から母親の形見が入った小さな木箱を取り出し、枕元へ置いた。
「お母さん……私、王宮に来ちゃった」
返事はない。
けれど、どこかで母親が微笑んでくれているような気がした。
⸻
翌朝。
シュレリアは窓から差し込む陽光で目を覚ました。
見慣れない天蓋を眺めて、しばらく首を傾げる。
「……そうだった。王宮に来たんだったわ」
寝台から降りて窓を開けると、庭園には朝露に濡れた花々が咲き、遠くで庭師たちが働いていた。
その景色を眺めていると、扉が控えめに叩かれた。
「シュレリア様。本日は朝食のあと、家庭教師の先生がお見えになります」
「家庭教師……?」
「はい。陛下のご意向で、本日から王族としての教育を始めることになっております」
「……今日からですか?」
「はい」
シュレリアは小さく息をついた。
王宮の暮らしは夢のようだったが、どうやら夢を見ているだけでは済まないらしい。
⸻
朝食を終えたシュレリアが案内されたのは、王宮の一角にある書斎だった。
大きな窓のそばには机と椅子が置かれ、壁一面に書物が並んでいる。
そこで待っていたのは、銀縁眼鏡をかけた初老の男性だった。
「初めまして、シュレリア様。わたくし、本日より教育を担当いたしますエドモンドと申します」
「初めまして。よろしくお願いいたします」
エドモンドは机の上に数冊の本を並べた。
「まずは、王国の歴史と王家の系譜から始めましょう」
教会でも読み書きや計算は教わっていたが、王国の歴史を本格的に学ぶのは初めてだった。
シュレリアは真剣に耳を傾け、説明の途中で手を挙げた。
「先生。先王陛下が港を整備なさったことで、王都の商業が発展したということですか?」
「その通りです。よく理解されましたね」
「教会にも港から運ばれてくる品物がありましたから、想像しやすかったんです」
「なるほど。実際の暮らしと結びつけて考えるのは、よいことです」
シュレリアは嬉しそうに微笑んだ。
王族の教育と聞いて身構えていたものの、知らなかったことを学ぶのは楽しい。
こうして、王宮での勉強は順調に始まった。
⸻
数日後の午後。
授業を終えたシュレリアが廊下を歩いていると、向こうからアリシアがやってきた。
「まあ、シュレリア様。お勉強の帰りですの?」
「はい。今日は王国の歴史を教わりました」
「それは結構ですわ。でも、王宮では知識だけでは足りませんのよ」
アリシアは扇を開いた。
「身のこなし、言葉遣い、社交の作法。どれも一朝一夕で身につくものではございませんわ」
「そうですね。これから頑張って覚えたいと思います」
「……カインのおそばにいらっしゃる以上、相応の振る舞いをしていただかなくては困りますもの」
「はい。ご迷惑をおかけしないようにします」
真剣に頷くシュレリアを見て、アリシアはわずかに眉を寄せた。
もう少し気落ちするかと思ったのに、まるで助言を受けたような顔をしている。
「……まあ、せいぜいお励みになることね」
そのとき、廊下の向こうから声がした。
「アリシア、シュレリア」
振り返ると、カインが侍従を伴って歩いてくるところだった。
「カイン!」
アリシアの表情が明るくなる。
「こんなところでお会いできるなんて。王太子宮にいらした頃も、よくこうしてお会いしましたわね」
「そうだったかな」
カインは軽く微笑み、シュレリアへ視線を向けた。
「お勉強はどうだった?」
「はい。とても勉強になりました」
「それはよかった。ちょうど庭園へ行こうと思っていたんだ。少し散歩しないかな?」
「ぜひ!」
思わず弾んだ声が出て、シュレリアは少し照れた。
アリシアがすかさず口を開く。
「カイン、私もご一緒してよろしいかしら?」
「ごめんね。今日はシュレリアと話したいことがあるんだ」
「……そうですの」
アリシアは笑顔を保ったまま、扇を握り直した。
「それでは、ごきげんよう」
彼女が去ると、カインはシュレリアへ顔を向けた。
「アリシアに何か言われた?」
「王宮では、勉強以外にも覚えることがたくさんあると教えていただきました」
「そう」
カインは少し考えてから言った。
「彼女は言い方が厳しいこともあるけれど、無理に我慢しなくていいからね」
「ありがとうございます」
シュレリアは微笑んだ。
彼が自分のことを気にかけてくれているのが、素直に嬉しかった。
⸻
庭園には色とりどりの花が咲き誇っていた。
白い石畳の小道の両側には整えられた花壇が続き、噴水の水音が風に混じって聞こえてくる。
「まあ、きれい……!」
シュレリアは青い花の前で足を止めた。
「この花、教会の庭にも咲いていました」
「そうなの?」
「はい。ネモフィラです。日当たりのよい場所を好むんですよ」
シュレリアは花びらを傷つけないよう、そっとしゃがみ込んだ。
「こちらはカモミールですね。乾燥させると、お茶にも使えるんです」
「詳しいんだね」
「ヌーヴォ様に教わりました。教会では庭のお手入れもしていたんです」
「僕は毎日この庭を歩いているのに、知らないことばかりだよ」
カインは彼女の隣へしゃがみ込んだ。
「今度、ほかの花についても教えてもらえるかな?」
「もちろんです!」
シュレリアは顔を輝かせた。
「私でよければ、いくらでも!」
「ありがとう。楽しみにしているよ」
カインが笑うと、目元に柔らかな皺が寄った。
シュレリアは、その表情を少しだけ長く見つめた。
いつも穏やかな人だけれど、今は本当に楽しそうだ。
自分の話でそんな顔をしてもらえたことが、なんだか嬉しかった。
⸻
庭園の奥にある東屋で、二人は少し休むことにした。
白い柱には蔓草が絡まり、長椅子には木漏れ日が落ちている。
「ここは、ユミアも好きだった場所なんだ」
カインが静かに言った。
「よく二人で散歩していたよ。彼女は花の名前もたくさん知っていたんだ」
シュレリアは、廊下で見た肖像画を思い出した。
「ユミア様は、きっとこの庭がお似合いだったでしょうね」
「そうだね」
カインは懐かしそうに微笑んだ。
「……カインさんは、今でもユミア様のことを大切に想っていらっしゃるんですね」
「うん。今でも大切な人だよ」
「素敵だと思います」
シュレリアは穏やかに答えた。
「亡くなってからも、そんなふうに想ってもらえるなんて」
カインは少し驚いたように彼女を見た。
それから、静かに微笑む。
「ありがとう、シュレリア」
「今度、ユミア様がお好きだったお花も教えてください」
「うん。そうしよう」
風が吹き抜け、シュレリアの銀髪がふわりと揺れた。
頬にかかった一房を耳へかけると、カインがこちらを見ていることに気づく。
「……カインさん?」
「ん?」
「どうかなさいました?」
「いや。君と話していると、時間が経つのが早いなと思って」
シュレリアは目を瞬かせた。
「……私も、カインさんとお話しするのは楽しいです」
「それならよかった」
カインは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、シュレリアも微笑み返した。
王宮へ来たばかりの頃は、国王と二人きりで話すことなど想像もできなかった。
けれど今は、こうして過ごす時間が楽しみになっている。
⸻
それから数日後。
昼食を終えたシュレリアは、自室へ戻る途中で侍女たちの話し声を耳にした。
「アリシア様、また陛下をお茶に誘われたそうよ」
「昔から陛下のことがお好きだったものね」
「でも、もう婚約は解消されているのに……」
シュレリアは足を止めた。
……婚約?
「幼い頃からの約束だったのでしょう? 簡単には諦められないのかもしれないわね」
侍女たちはそれ以上話さず、仕事へ戻っていった。
シュレリアも廊下を歩き始めたが、耳にした言葉が頭から離れなかった。
アリシアは、かつてカインの婚約者だった。
だから、あんなにも親しげだったのだ。
そう納得したはずなのに、なぜか気持ちが落ち着かなかった。
彼女は無意識に歩みを緩め、胸元へ手を添えた。
「……そうだったんだ」
誰もいない廊下に、小さな声が落ちた。
⸻
王宮での暮らしが始まってから、二か月が過ぎた。
シュレリアは毎朝決まった時刻に起き、歴史や政治を学び、午後には礼儀作法や舞踏の練習に励んでいた。
舞踏は相変わらず苦手で、長い廊下では時折道に迷った。
それでも、学問の成績はエドモンドを驚かせるほど伸びていた。
ある日の授業で、エドモンドはシュレリアの答案を見て目を見開いた。
「……素晴らしい。すべて正解です」
「本当ですか?」
「ええ。しかも、解き方が非常に合理的です。複数の事柄を関連づけて考える力に優れていらっしゃる」
シュレリアは嬉しそうに微笑んだ。
そのとき、書斎の扉が開いた。
「失礼するよ」
「カインさん!」
シュレリアは思わず椅子から立ち上がった。
「お勉強の邪魔をしてしまったかな?」
「いえ。ちょうど終わったところです」
カインはエドモンドへ尋ねた。
「どうかな、彼女の様子は?」
「陛下。実に素晴らしい理解力をお持ちです。教える側としても、たいへん楽しゅうございます」
「それはすごいね、シュレリア」
カインは感心したように微笑んだ。
「頑張っているんだね」
「先生の説明がわかりやすいおかげです」
そう答えながら、シュレリアは頬が熱くなるのを感じた。
褒められるのは嬉しい。
けれど、カインに褒められると、それだけでは済まないような気がする。
彼女は照れ隠しに机の上の本を揃えた。
「……ありがとうございます」
⸻
授業が終わると、カインはシュレリアを庭園の東屋へ誘った。
卓には紅茶と焼き菓子が用意され、午後の陽光が白い卓布を照らしている。
「最近はどう? 王宮の暮らしには慣れたかな?」
「はい。まだ覚えることはたくさんありますけれど、毎日楽しいです」
「それならよかった」
「ただ、舞踏だけはなかなか上達しなくて……」
「そうなんだね」
「先生には、相手の足を踏まないようにと言われました」
カインは思わず笑った。
「それは大切なことだね」
「はい。踏まれた方は痛いですものね」
シュレリアが真面目な顔で頷くと、カインはもう一度笑った。
その笑い声を聞いているうちに、シュレリアの肩から力が抜けていく。
しばらく穏やかに話したあと、彼女は紅茶のカップを置いた。
「……カインさん。ひとつ、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「もちろんだよ」
シュレリアは膝の上で指を組んだ。
「アリシア様は、以前、カインさんの婚約者だったんですか?」
カインは一瞬目を瞬かせたが、すぐに頷いた。
「そうだよ」
「……そうだったんですね」
「誰かから聞いたのかな?」
「はい。侍女の方々がお話ししているのを、偶然耳にしてしまって……」
「そうか」
カインはカップを置き、少し考えてから口を開いた。
「アリシアとは従兄妹同士でね。僕が王太子になる前から、家同士の話し合いで婚約が決まっていたんだ」
「そうだったんですか」
「でも、一緒に過ごすうちに、考え方の違いがはっきりしてきてね」
カインは庭園へ視線を向けた。
「アリシアは貴族としての伝統や格式をとても大切にする人なんだ。僕は、身分に関係なく人と接したいと思っている。どちらかが悪いというわけではないけれど、夫婦として歩んでいくには難しいと感じたんだ」
シュレリアは静かに耳を傾けた。
「それで、婚約を解消されたんですね」
「うん。彼女にとっては納得しがたいことだったと思う。幼い頃から、僕と結婚するのが当然だと考えていたはずだから」
カインは少しだけ目を伏せた。
「傷つけてしまったことには、今でも責任を感じているよ」
「……そうですよね」
シュレリアは頷いた。
アリシアの態度にも、理由があったのだ。
「……ユミア様とは、そのあとに出会われたんですか?」
「そうだよ」
カインの表情が、ふっと柔らかくなった。
「ユミアは外国へ留学していてね。帰国して初めて社交界に出たとき、僕もその舞踏会に出席していたんだ」
「舞踏会で?」
「うん。最初は少し話しただけだったんだけど、とても聡明で、話していて楽しい人だったよ」
カインは懐かしそうに微笑んだ。
「それから何度か会ううちに、もっと彼女のことを知りたいと思うようになったんだ」
「……素敵ですね。まるで物語みたいです」
「ふふっ。そんなに劇的な出会いではなかったけれどね」
カインは小さく笑った。
「でも、僕にとっては大切な思い出だよ」
シュレリアはその横顔を見つめた。
亡くなった妻との思い出を大切にし、かつての婚約者についても悪く言わない。
その誠実さが、とてもカインらしいと思った。
「……カインさんは、優しいんですね」
「そうかな?」
「はい。アリシア様のことも、ちゃんと考えていらっしゃるんですもの」
「優しいというより、僕が決めたことだからね。責任はあると思っているんだ」
カインは少し困ったように微笑んだ。
シュレリアも微笑み返したが、ふと視線を落とした。
ユミアの話を聞いているときは、ただ温かな気持ちになれる。
それなのに、アリシアとの婚約を知ってからは、彼女の名前が出るたびに妙に気になってしまう。
カップの取っ手を握る指に、知らず知らず力が入った。
シュレリアは紅茶をひと口飲み、その理由を考えないようにした。
⸻
その夜。
シュレリアは寝台に横たわり、天蓋の内側をぼんやりと見つめていた。
窓の外では、夜風に揺れる木々の葉が静かな音を立てている。
昼間の会話を思い返すと、アリシアの姿が浮かんだ。
美しく、気品があり、王宮での暮らしにも慣れている令嬢。
カインとは幼い頃からの知り合いで、かつては結婚する約束までしていた。
それに比べて、自分はまだ舞踏の足運びすら満足に覚えられない。
「……どうして比べちゃうんだろう」
シュレリアは寝返りを打った。
そもそも、比べる必要などないはずだ。
カインは国王で、自分は王族としての教育を受けるため、一年間王宮で暮らすことになった娘なのだから。
それなのに。
晩餐会で腕を差し出してくれたこと。
庭園で一緒に花を眺めたこと。
今日、勉強を頑張った自分を褒めてくれたこと。
思い返すと、どれも不思議なほど鮮やかに浮かんでくる。
シュレリアは枕元の木箱へ目を向けた。
教会にいた頃は、誰かの言葉ひとつを、こんなに何度も思い返すことなどなかった。
「……明日も、お勉強があるのに」
小さく呟いて目を閉じる。
けれど、最後に浮かんだのは、今日の午後、楽しそうに笑っていたカインの顔だった。
その表情を思い出したシュレリアの口元が、そっと緩む。
自分の中で何かが少しずつ変わっている。
けれど、その変化に名前をつけるには、まだ早かった。
♢ ♢ ♢
シュレリアが王宮へやってきてから、九か月が過ぎた。
一年を通して春のような陽気が続くオーデン王国では、季節の移ろいは花壇の彩りで知ることができる。
王宮の庭には、シュレリアが初めて訪れた頃とは違う花々が咲き、白い石畳の小道を甘い香りが包んでいた。
その九か月の間に、シュレリアの暮らしも大きく変わった。
王国の歴史や政治、経済については、家庭教師のエドモンドが舌を巻くほどの知識を身につけた。
貴族たちとの会話にも臆することがなくなり、晩餐会では正しい食器を迷わず選べるようになった。
礼儀作法の教師からも、今ではほとんど注意されることがない。
もっとも。
「きゃっ!」
王宮の廊下に、甲高い声が響いた。
シュレリアは絨毯の端に靴先を引っかけ、見事に前のめりになった。
抱えていた書物が宙を舞い、磨き上げられた床へばさばさと落ちる。
「シュレリア様!」
後ろを歩いていた侍女が駆け寄った。
「お怪我はございませんか?」
「だ、大丈夫です……!」
シュレリアは床に手をついたまま、恥ずかしそうに笑った。
「絨毯が少し浮いていたみたいで……」
「まあ、すぐに直させますね」
侍女が心配そうに手を差し伸べる。
「ありがとうございます」
シュレリアはその手を借りて立ち上がった。
九か月かけて立ち居振る舞いは見違えるほど上達したものの、こうしたうっかりしたところだけは、どうにも直らなかった。
「まあ。ずいぶん賑やかなこと」
背後から、涼やかな声がした。
振り返ると、桃色の巻き髪を揺らしたアリシアが立っていた。
薄紅色のドレスに身を包み、手には繊細な扇を持っている。
「シュレリア様。王宮にいらして九か月にもなるのに、まだ廊下で転んでいらっしゃるの?」
「……お恥ずかしいところをお見せしました」
シュレリアは落ちた本を拾いながら頭を下げた。
アリシアは扇で口元を隠した。
「知識だけは立派になられたそうですけれど、品格というものは、そう簡単に身につかないのですわね」
侍女の表情が曇った。
「アリシア様。絨毯がめくれていたのでございます。シュレリア様の不注意ばかりではございません」
「まあ。あなた、主人の失敗を庇うおつもり?」
「事実を申し上げただけでございます」
別の侍女も一歩前へ出た。
「シュレリア様は、私どもにもいつもお優しく接してくださいます。お勉強にも大変熱心でいらっしゃいますし……」
「私はそんなことを聞いているのではありませんわ」
アリシアは苛立たしげに扇を閉じた。
王宮へ来たばかりの頃、何も知らずに頭を下げていた娘が、今では侍女たちから慕われている。
それが、彼女には面白くなかった。
「あなた方、下がりなさい。私はシュレリア様とお話ししているのです」
侍女たちは不安そうにシュレリアを見た。
「大丈夫です。ありがとうございます」
シュレリアが微笑むと、二人は少し離れた場所へ下がった。
アリシアは満足したように顎を上げた。
「……あなた、随分とカインに気に入られているようですわね」
「カインさんには、いつもよくしていただいています」
「ええ、存じておりますわ。お庭を散歩なさったり、二人でお茶を飲んだり。まるで恋人同士のようだと噂する者までおりますのよ」
シュレリアの頬が、わずかに赤くなった。
その変化を見逃さず、アリシアは目を細めた。
「まさかとは思いますけれど、カインに取り入って、あわよくば男女の関係になろうなどと考えていらっしゃらないでしょうね?」
「……え?」
シュレリアは目を見開いた。
「そんなことは……」
「そうでなければ結構ですわ。でも、覚えておかれることね」
アリシアは勝ち誇ったように微笑んだ。
「カインは亡くなったユミア様を今でも忘れられないのです。再婚するつもりなど、これっぽっちもございませんわ!」
その言葉に、シュレリアは息を呑んだ。
胸の奥が、ひやりと冷たくなる。
けれど、次の瞬間には、まっすぐアリシアを見つめていた。
「……アリシア様」
「何かしら?」
「私は、カインさんに取り入ろうとしたことなど、一度もありません」
いつもの柔らかな声とは違う、はっきりとした口調だった。
「カインさんには、とても感謝しています。王宮で勉強する機会をくださったことも、教会を修繕してくださったことも。だからこそ、ご期待に応えられるよう努力してきたんです」
「……それは、そうでしょうけれど」
「それに、カインさんがどなたを大切に想っていらっしゃるかは、カインさんご自身がお決めになることです」
シュレリアは一歩も引かなかった。
「私の気持ちを勝手に決めつけたり、カインさんのお気持ちを代わりにお話ししたりするのは、おやめください」
アリシアは言葉を失った。
まさか、いつも素直に頷いていた娘が、これほどはっきり言い返してくるとは思わなかったのだ。
「……ずいぶん、生意気になられたのね」
ようやくそれだけ言うと、彼女は扇を握り直した。
「失礼いたしますわ!」
足早に立ち去る背中を、シュレリアは黙って見送った。
やがて、小さく息を吐く。
「……ちょっと、言いすぎたかしら」
「いいえ!」
侍女の一人が、すぐさま首を横に振った。
「とても立派でございました!」
「私ども、嬉しゅうございました」
シュレリアは驚いて二人を見た。
「……ありがとうございます」
そう言って微笑んだものの、胸の奥には、アリシアの言葉が小さな棘のように残っていた。
⸻
廊下の曲がり角の向こうに、カインが立っていた。
公務の合間に書斎へ戻る途中、偶然シュレリアたちの声が聞こえてきたのである。
アリシアがシュレリアを侮辱し始めたときには、止めに入ろうと思った。
しかし、彼女が毅然と顔を上げたのを見て、足を止めたのだった。
「……強くなったね」
カインは小さく呟いた。
王宮へ来たばかりの頃のシュレリアは、何を言われても素直に受け止めていた。
今もその優しさは変わらない。
けれど、自分が大切にしているものを傷つけられたときには、きちんと自分の言葉で反論できる。
その姿が、カインにはとても好ましく思えた。
彼はしばらく、シュレリアが侍女たちと話す様子を眺めていた。
やがて侍従に促され、静かにその場を離れた。
⸻
その夜。
シュレリアは寝台の上で膝を抱えていた。
窓の外では、月明かりが庭園を淡く照らしている。
昼間の出来事を思い返すと、アリシアの言葉が耳の奥に蘇った。
『カインは亡くなったユミア様を今でも忘れられないのです。再婚するつもりなど、これっぽっちもございませんわ!』
「……再婚、しないんだ」
シュレリアは小さく呟いた。
それは、以前から知っていたはずのことだった。
カインは亡くなった妻を今でも大切に想っている。
だからこそ、跡継ぎを迎えるために自分を王宮へ呼んだのだ。
何もおかしなことはない。
それなのに。
「……そっか」
声にしてみると、胸の奥が少しだけ痛んだ。
カインが再婚しないことを、どうして自分が残念に思うのだろう。
シュレリアは枕へ顔を埋めた。
答えは、もう薄々わかっていた。
ただ、それを認める勇気がなかった。
⸻
数日後。
シュレリアはカインと二人で、久しぶりに教会を訪れることになった。
王宮へ来るときに約束していた修繕工事が、ようやくすべて終わったのである。
王都の通りを抜け、見慣れた石畳の道へ入ると、シュレリアは馬車の窓から身を乗り出しそうになった。
「あっ、見えてきました!」
「懐かしい?」
「はい! もう、ずっと帰りたかったんです」
カインは嬉しそうに微笑んだ。
やがて馬車が教会の前に止まると、シュレリアは扉が開くのも待ちきれない様子で降り立った。
「……わあ!」
目の前には、見違えるほど美しくなった教会があった。
傷んでいた屋根は新しい瓦に葺き替えられ、ひび割れていた壁には白い漆喰が塗り直されている。
古びた窓枠も新しくなり、磨かれた硝子が陽光を受けて輝いていた。
「すごい……!」
シュレリアは胸の前で両手を組んだ。
「カインさん、本当にありがとうございます!」
「喜んでもらえてよかったよ」
そのとき、教会の扉が勢いよく開いた。
「シュレリア!」
「リリス!」
栗色の髪を揺らして駆けてきたリリスを、シュレリアは思いきり抱きしめた。
「会いたかった!」
「私もよ! もう、九か月も帰ってこないんだもの!」
「ごめんね。お勉強が忙しくて……」
「知ってるわよ。ヌーヴォ様が、あなたからの手紙を何度も読み返してたんだから」
「まあ、そうなの?」
「リリス。余計なことを言うんじゃありません」
扉の向こうから、聞き慣れた声がした。
「ヌーヴォ様!」
シュレリアは駆け寄った。
眼鏡をかけたヌーヴォは、少しだけ目元を潤ませていた。
「お帰りなさい、シュレリア」
「ただいま帰りました!」
二人はしっかりと抱き合った。
「……元気そうで安心しましたよ」
「はい。ヌーヴォ様もお変わりなくて……」
「さあ、そんなところで泣いていないで、中へお入りなさい」
ヌーヴォは照れ隠しのように言い、カインへ丁寧に頭を下げた。
「陛下。このたびは、本当にありがとうございました」
「こちらこそ。シュレリアがずっと大切にしていた場所だからね。きれいになってよかった」
カインは穏やかに微笑んだ。
⸻
教会の中も、すっかり様変わりしていた。
雨漏りしていた天井は修繕され、礼拝堂の長椅子も磨き直されている。
子供たちの寝室には新しい寝台が並び、冬に備えて暖房設備まで整えられていた。
「こんなに立派にしていただいて……」
シュレリアは何度も感嘆の声を上げた。
「これなら、雨の日も安心ですね!」
「ええ。もう桶を並べる必要もありません」
ヌーヴォが笑う。
「あなたが王宮へ行ってくれたおかげですよ」
「そんな……」
シュレリアは首を横に振った。
「カインさんが助けてくださったんです」
そう言って彼を見ると、カインは少し照れくさそうに微笑んだ。
「君が喜んでくれるなら、僕も嬉しいよ」
その笑顔に、シュレリアの胸が小さく跳ねた。
⸻
昼食のあと、シュレリアはリリスと二人で、懐かしい庭を歩いていた。
以前は雑草だらけだった花壇には、新しい苗が植えられている。
「それで、王宮の暮らしはどうなの?」
リリスが尋ねた。
「毎日お勉強ばかりだけれど、とても楽しいわ」
「陛下とは?」
「カインさん? とても優しくしてくださるわ」
「ふうん」
リリスはにやりと笑った。
「で、もう陛下と寝たの?」
「……えっ!?」
シュレリアは真っ赤になった。
「な、何を言っているの、リリス!」
「だって、あんな素敵な国王陛下と毎日顔を合わせているんでしょう?」
「そ、それはそうだけれど……!」
「じゃあ、まだなのね」
「まだとか、そういう問題じゃないわ!」
リリスは声を上げて笑った。
彼女は昔から、こういうことを平然と言う性格だった。
教会で一緒に暮らしていた頃も、恋愛の話になると、いつもシュレリアをからかっていたのである。
「でも、好きなんでしょう?」
その一言に、シュレリアは黙り込んだ。
リリスは目を丸くした。
「……あら。本当に?」
「……わからないわ」
シュレリアは俯いた。
「ただ、カインさんと一緒にいると、とても嬉しいの。お話ししているだけで楽しくて、褒めてもらえると、一日中そのことを考えてしまうの」
「それ、好きってことじゃない」
「……そうなのかしら」
リリスは呆れたように笑った。
「あなた、昔からそういうところは鈍いんだから」
シュレリアは困ったように微笑んだ。
けれど、胸の奥では、何かが静かに形を持ち始めていた。
⸻
帰りの馬車の中。
窓の外には、夕陽に染まった王都の街並みが流れていた。
シュレリアは膝の上で指を組み、隣に座るカインをちらりと見た。
「……カインさん」
「何かな?」
「少し、お聞きしてもいいですか?」
「もちろんだよ」
シュレリアは迷ったあと、小さく口を開いた。
「……再婚は、なさらないんですか?」
カインは少し驚いたように彼女を見た。
「どうして?」
「いえ……以前、そんなお話を聞いたことがあって」
「そうなんだね」
カインはしばらく窓の外を眺めていたが、やがて穏やかに口を開いた。
「僕はね、好きでもない女性を、どうしても抱けそうにないんだ」
「……っ!」
シュレリアの頬が、一瞬で熱くなった。
カインは気づかない様子で続けた。
「でも、せっかく僕のもとへ嫁いでくれたのに、夫婦として大切にできないのは失礼だろう?」
「……はい」
「だから、最初から再婚しないつもりだったんだ」
カインは少し寂しそうに微笑んだ。
「ユミアを亡くしてから、誰かをまた好きになるなんて、考えられなかったからね」
シュレリアは静かに頷いた。
なんて誠実な人なのだろう。
好きでもない相手と結婚して、王家の跡継ぎをもうけることだってできたはずなのに。
それをしないのは、相手の女性を傷つけたくないからだ。
その優しさが、たまらなく愛おしく思えた。
けれど、同時に。
……やっぱり、私には無理なのかしら。
胸の奥が、少しだけ沈んだ。
ふと、昼間のリリスの言葉が蘇る。
『で、もう陛下と寝たの?』
シュレリアは慌てて窓の外へ顔を向けた。
そんなこと、考えたこともなかった。
……いいえ。
本当は、少しだけ考えてしまった。
もし、いつか自分が誰かとそういう関係になるのなら。
初めての相手は、カインがいい。
そう思ってしまった自分に、シュレリアは驚いた。
「……シュレリア?」
「は、はい!」
「顔が赤いけれど、大丈夫?」
「だ、大丈夫です! 夕陽が……!」
「夕陽?」
「夕陽が、とても赤いので!」
カインは窓の外を見た。
それから、くすりと笑った。
「……そうだね。きれいな夕陽だ」
シュレリアはますます顔を赤くし、膝の上でぎゅっと指を握った。
⸻
それから、さらに数週間が過ぎた。
王宮では、シュレリアの一年間の教育を締めくくるため、重臣たちによる会議が開かれることになっていた。
彼女を正式に王家へ迎えるかどうか。
その決定が、いよいよ下されるのである。
会議が開かれる日の朝。
シュレリアは、カインの私室へ呼ばれた。
「……こちらでございます」
侍従に案内され、シュレリアは重厚な扉の前で足を止めた。
カインの私室へ入るのは、初めてだった。
いつもは書斎や庭園で会っている。
けれど、ここは彼が日々を過ごす、もっとも私的な場所なのだ。
そう思うと、なぜか胸が落ち着かなかった。
「どうぞ」
扉が開かれた。
室内には、深い緑色の絨毯が敷かれ、大きな書棚と暖炉が置かれていた。
窓辺にはゆったりとした長椅子があり、卓の上には読みかけの本が置かれている。
華美な装飾は少なく、落ち着いた雰囲気の部屋だった。
「おはよう、シュレリア」
窓辺に立っていたカインが微笑んだ。
「おはようございます、カインさん」
シュレリアは丁寧に頭を下げた。
「突然呼び出してごめんね」
「いえ。何かご用でしょうか?」
「うん。今日の会議のことで、君に話しておきたいことがあるんだ」
カインは椅子を勧め、自分も向かい側に腰を下ろした。
「今夜の会議で、君を正式に王家へ迎えるかどうかが決まる」
「……はい」
「この九か月、君がどれだけ努力してきたか、僕は見てきたつもりだよ」
カインは穏やかに続けた。
「勉強にも真剣に取り組んでいたし、周りの人たちにも分け隔てなく接していた。エドモンドからも、君の成長について何度も報告を受けている」
シュレリアは照れくさそうに微笑んだ。
「ありがとうございます」
「だから、僕は君に、ぜひ王族になってもらいたいと思っているんだ」
その言葉に、シュレリアの胸が温かくなった。
九か月間の努力を認めてもらえた。
それだけで、十分に嬉しかった。
「……私でよければ、これからも精一杯頑張ります」
「ありがとう」
カインは嬉しそうに微笑んだ。
シュレリアは少し考えてから、首を傾げた。
「……では、養子になったら、カインさんのことは『父上』とお呼びすればよろしいですか?」
カインは一瞬、言葉を失った。
それから、思わず笑ってしまった。
「……ふふっ。そうなるのかな」
「でも、カインさんはまだお若いですし、父上というのも変ですね」
「そうだね。僕も、君にそう呼ばれるのは少し不思議な気分だよ」
二人は顔を見合わせて笑った。
やがて、カインは少しだけ表情を改めた。
「……シュレリア」
「はい?」
「実はね、養子ではなく、別の形で君を王家へ迎えたいと考えているんだ」
「……別の形、ですか?」
「うん」
カインは彼女をまっすぐ見つめた。
「もちろん、君さえよければ、だけれどね」
シュレリアは首を傾げた。
養子以外に、王家へ迎える方法などあるのだろうか。
もしかすると、遠い親戚として認めてもらうのかもしれない。
「……わかりました」
シュレリアは真剣に頷いた。
「どのような形でも、カインさんのお役に立てるなら嬉しいです」
カインは少し困ったように笑った。
「……ありがとう」
その笑顔には、どこか照れくさそうな色が混じっていた。
けれど、シュレリアは気づかなかった。
⸻
その日の夕刻。
王宮の会議室には、重臣たちが集まっていた。
長い卓を囲む大臣たちの前で、カインは静かに口を開いた。
「今日は、シュレリアの今後について話し合いたいと思う」
室内が静まり返った。
「彼女が王宮へ来てから、まもなく一年になる。教育については、エドモンドからも十分な成果があったと報告を受けている」
大臣たちは頷いた。
シュレリアの聡明さや人柄については、すでに多くの者が耳にしていた。
「そこで、僕は彼女を正式に王家へ迎えたいと思っている」
「それは、養子縁組ということでございますか?」
宰相が尋ねた。
カインは静かに首を横に振った。
「いや」
そして、はっきりと言った。
「僕は、シュレリアを妻に迎えたい」
会議室が、ざわめきに包まれた。
「……陛下!」
「それは、あまりにも突然ではございませんか!」
「シュレリア様は、先王陛下の実のお嬢様でいらっしゃいますぞ!」
カインは落ち着いた表情で、大臣たちを見渡した。
「僕と彼女に、血のつながりはないよ」
「しかし、陛下は先王陛下の養子でいらっしゃいます。形式上は、兄妹にあたるのでは……」
「先王はシュレリアを正式に認知していない。彼女は、法的には王家の一員ではないんだ」
カインは静かに続けた。
「もちろん、先王の娘であることを知る者もいる。だからこそ、君たちの意見を聞きたいと思っている」
一人の大臣が口を開いた。
「しかし、国民に知られれば、倫理的な問題として受け取られるおそれもございます」
「その点については、慎重に考える必要があるね」
カインは頷いた。
「ただ、彼女が先王の娘であることは公にはされていない。国民に知られていない事実を、こちらから広める必要はないと思っている」
「……なるほど」
別の大臣が静かに口を開いた。
「わたくしは、賛成でございます」
一同の視線が集まった。
「シュレリア様は、この九か月で素晴らしい成長を遂げられました。学問だけでなく、使用人や民に対しても分け隔てなく接しておられます」
「わたくしも同意見です」
別の大臣が頷いた。
「王妃に必要なのは、血筋や格式だけではございません。民を思いやる心と、国王陛下を支える聡明さも大切でございます」
「しかし……」
反対派の大臣が言いかけたところで、カインが静かに口を開いた。
「僕は、シュレリアを大切に思っている」
その声に、室内が静まり返った。
「彼女は僕にとって、ただの後継者候補ではなくなったんだ」
カインはまっすぐ前を見つめた。
「もちろん、王妃としての資質も十分にあると思っている。けれど、それ以上に、僕は彼女と人生を共にしたい」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、宰相が静かに頷いた。
「……陛下のお気持ちは、よくわかりました」
そして、重臣たちの意見が改めて確認された。
反対する者もいたが、シュレリアの人柄を評価する者は多かった。
結果、婚姻を進める方針は賛成多数で承認された。
カインは深く息をついた。
「ありがとう」
その表情には、安堵と、わずかな緊張が浮かんでいた。
⸻
会議が終わると、カインはその足でシュレリアの部屋へ向かった。
扉を叩くと、すぐに返事があった。
「はい!」
扉が開き、シュレリアが顔を覗かせた。
「カインさん。会議は終わったんですか?」
「うん。少し話してもいいかな?」
「もちろんです」
シュレリアは彼を部屋へ招き入れた。
窓辺には、教会から持ってきた小さな木箱が置かれている。
その隣には、シュレリアが刺繍した花模様の布が飾られていた。
カインはそれを見て、穏やかに微笑んだ。
「……君らしい部屋だね」
「ありがとうございます」
シュレリアは少し照れたように笑った。
「それで、会議はどうなったんですか?」
カインは彼女へ向き直った。
「シュレリア」
「はい」
「僕は、君を正式に王家へ迎えたいと思っている」
「……はい」
シュレリアは緊張した面持ちで頷いた。
「でも、養子としてではないんだ」
「……?」
カインは一歩近づいた。
「僕の妻として、迎えたい」
シュレリアは目を見開いた。
「……え?」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「……つ、妻……?」
「うん」
カインは優しく微笑んだ。
「僕と、結婚してくれないかな?」
シュレリアは口を開いたまま、固まってしまった。
「……カインさんが、私と……?」
「そうだよ」
「……でも、カインさんは、再婚なさらないと……」
「そう思っていたよ」
カインは静かに頷いた。
「ユミアを亡くしてから、もう誰かを好きになることはないと思っていた」
彼は少しだけ目を伏せた。
「でも、君と過ごすうちに、気持ちが変わったんだ」
シュレリアの胸が、大きく跳ねた。
「君は、いつも一生懸命で、誰に対しても優しい。時々、驚くようなことを言うけれどね」
カインは小さく笑った。
「一緒にいると、自然と笑顔になれるんだ。君の話をもっと聞きたいと思うし、君が嬉しそうにしていると、僕まで嬉しくなる」
彼はシュレリアをまっすぐ見つめた。
「気づいたら、君が僕にとって、とても大切な人になっていた」
シュレリアの瞳に、涙が浮かんだ。
「……私も」
小さな声が漏れた。
「私も、カインさんと一緒にいるのが大好きです」
カインは優しく微笑んだ。
「それは、嬉しいな」
「でも……」
シュレリアは涙を拭いながら、顔を上げた。
「……本当に、私でいいんですか?」
「君がいいんだよ」
迷いのない言葉だった。
シュレリアは唇を震わせた。
「……はい」
そして、涙をこぼしながら微笑んだ。
「私でよければ、喜んで……!」
カインはほっとしたように笑った。
「ありがとう、シュレリア」
そっと差し出された手を、シュレリアは両手で包み込んだ。
その温かさが、胸の奥まで広がっていくようだった。
⸻
それから数か月後。
オーデン王国の王宮では、盛大な結婚式が執り行われた。
白い花々で飾られた礼拝堂には、王族や貴族、重臣たちが集まり、柔らかな陽光が色硝子の窓から差し込んでいる。
純白のドレスに身を包んだシュレリアは、緊張した面持ちで祭壇へ向かっていた。
銀髪には繊細なレースのヴェールが掛けられ、胸元には小さな真珠が輝いている。
祭壇の前では、カインが待っていた。
いつもの穏やかな笑顔で。
シュレリアはその姿を見た途端、胸がいっぱいになった。
教会で暮らしていた自分が、まさか国王の妻になるなんて。
あの日、カインが教会を訪れなければ、きっとこんな未来は想像もしなかっただろう。
「シュレリア」
カインが優しく声をかけた。
「とてもきれいだよ」
「……ありがとうございます」
シュレリアは頬を赤らめた。
「カインさんも、とても素敵です」
二人は微笑み合った。
やがて誓いの言葉が交わされ、指輪が贈られた。
礼拝堂に祝福の拍手が響く。
その中には、涙を拭うヌーヴォと、満面の笑みを浮かべるリリスの姿もあった。
「……幸せになりなさい、シュレリア」
ヌーヴォが小さく呟いた。
リリスは隣で、嬉しそうに笑った。
「まさか本当に王妃様になるなんてね」
⸻
結婚式からしばらくして。
王宮の廊下には、新しい肖像画が飾られていた。
銀髪を美しく編み上げ、淡い藤色のドレスをまとった若い王妃が、穏やかに微笑んでいる。
その絵を見上げた侍女たちは、嬉しそうに顔を見合わせた。
「シュレリア様、とてもおきれいね」
「ええ。本当に」
以前、その場所に飾られていたユミアの肖像画は、王宮の収蔵室へ移されていた。
決して忘れ去られたわけではない。
王宮の大切な歴史の一部として、丁寧に保管されている。
カインがユミアを愛した日々も、彼女と過ごした時間も、消えることはない。
けれど、今、彼の隣に立つのはシュレリアだった。
その日も、王宮の庭園では色とりどりの花が咲いていた。
「カインさん!」
庭園の向こうから、明るい声が響く。
振り返ると、シュレリアがこちらへ駆け寄ってくるところだった。
「そんなに急がなくても大丈夫だよ」
カインが笑う。
「はい!」
そう答えた次の瞬間。
「あっ!」
シュレリアは石畳のわずかな段差につまずいた。
カインが慌てて腕を伸ばし、その身体を受け止める。
「……危なかったね」
「す、すみません……!」
シュレリアは真っ赤になった。
カインは彼女を支えたまま、くすりと笑った。
「本当に、君は変わらないね」
「……王妃になったのに、お恥ずかしいです」
「いいんだよ」
カインは優しく微笑んだ。
「僕は、そんな君が好きなんだから」
シュレリアは目を丸くした。
それから、嬉しそうに微笑んだ。
「……私も、カインさんが大好きです」
春の陽射しが、二人を柔らかく包み込んでいた。
完
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
最初は国王陛下の養子になるはずだったシュレリアですが、気づけばお嫁さんになっていました。
……あれ? 王族教育って、そういうことでしたっけ?(笑)
そしてカイン陛下。
「もう再婚はしない」と決めていたはずなのに、しっかり恋に落ちてしまいました。
作者としては「陛下、あれほど再婚しないとおっしゃっていたではありませんか!」とツッコミたいところです(笑)
一方のシュレリアは、勉強も礼儀作法も立派に身につけたのに、最後まで転ぶ癖だけは直りませんでした。
王妃になっても、きっと侍女たちは毎日ハラハラしていることでしょう。
そんな二人ですが、これからも仲良く、幸せに暮らしてくれたらいいなと思っています。
少しでも「面白かった!」「二人が幸せになってよかった!」と思っていただけましたら、ページ下部の☆☆☆☆☆から評価していただけると嬉しいです!
ブックマークやご感想も、作者が飛び跳ねて喜びます(笑)
二人の物語に最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!




