#009『周波数の合わない影たちへ』
『周波数の合わない影たちへ』
三月の遠軽は、春という言葉の響きからはほど遠い、ガラスの破片のような冷気に満ちていた。
日中にわずかに融けかけた雪は、夕暮れとともに再び凶暴な硬さを取り戻し、道を歩くたびにブーツの下で「ギュッ、キュッ」と悲鳴のような音を立てる。息を深く吸い込むと肺の奥がツンと痛み、口の中には微かに鉄の味が広がった。それは、この土地特有の空気が凍る匂いだった。
段ボール箱が積み上げられた六畳間には、長年染み付いたストーブの灯油の匂いと、古い紙が発する埃っぽい匂いが淀んでいた。私は部屋の中央にぽつんと残されたちゃぶ台の前に座り、手元の小さな紙片をじっと見つめていた。
片道切符。
明日の朝、ここから札幌を経由して、東京へと向かう列車の切符。
指の腹で縁をなぞると、新券特有の鋭い紙の感触が、指先に微かな痛みをもたらした。この小さな長方形の紙片が、私の二十五年間の人生をこの町から切り離す、絶対的な契約書なのだという実感が、じわじわと胃の腑を重くしていく。
荷造りはほとんど終わっていた。最後に残ったのは、部屋の隅で毛布を被せられていた木箱のような物体だった。
毛布をめくると、飴色に変色した分厚い木製の古いラジオが姿を現した。祖父の代からこの家にある、真空管の入った重たいアナログラジオだ。
私は冷え切った指先で、ひんやりとしたプラスチックのダイヤルに触れた。電源のツマミを右に回すと、「カチッ」という重々しい手応えとともに、ラジオの奥底から低い唸り声のような音が響き始めた。
数秒の空白の後、スピーカーから吐き出されたのは、激しい砂嵐のようなノイズだった。
ザーッ……ザザッ、ピーッ……
微調整のダイヤルを回す。指先に伝わるダイヤルの抵抗感。チリチリとした静電気の匂いが、鼻腔をかすめる。
ノイズの波間に、遠くの国の言葉や、切れ端のような音楽が浮かんでは沈んでいく。特定の周波数に合わない、行き場のない音の羅列。
その無機質な音の奔流を聞いているうちに、私の意識は急激に、七年前のあの日の夕暮れへと引きずり込まれていった。
「お前さ、いつも足元ばっかり見てるよな」
ノイズの向こう側から、朔の呆れたような声が聞こえた気がした。
七年前の三月。今日と同じように、空気がひび割れるほど冷たい夕暮れだった。
高校を卒業したばかりの私と朔は、町外れにある雪に覆われた空き地で、ひどく子供じみた遊びをしていた。影ふみだ。
西に傾いた強烈な夕日が、雪原の上に私たちの影を異様なほど細長く引き伸ばしていた。まばゆいオレンジ色の光が雪の結晶に反射し、網膜をチカチカと焼く。
防寒着の擦れるシャカシャカという音と、雪を踏み砕く乱暴な足音だけが、静寂に包まれた雪原に響いていた。
「待ってよ、朔! 影、長すぎるって!」
「長い方が踏まれやすいんだから、お前にとっては有利だろ。ほら、来いよ!」
朔は白い息を荒く吐き出しながら、雪の上を器用に逃げ回る。私は必死にその後を追ったが、どうしても彼の影の先端にすらブーツの底を乗せることができなかった。
冷たい空気を吸い込みすぎて、喉の奥から血の匂いが立ち昇ってくる。太ももの筋肉が熱を持ち、手袋の中の指先は逆に感覚を失うほど冷え切っていた。
朔はいつもそうだった。
私の一歩先、いや、三歩先を歩き、決して私に自分の影を踏ませなかった。彼はずっと遠くを見ていた。雪に閉ざされたこの小さな町ではなく、山の向こうにある、見知らぬ巨大な街の光を。
「……捕まえた」
不意に、私の背後から声がした。
振り返るよりも早く、私の足元に伸びていた長い影の首元のあたりを、朔の黒いブーツが容赦なく踏みつけていた。
「また私ばっかり。ずるい」
私が膝に手をついて肩で息をしながら文句を言うと、朔は悪びれもせずに笑った。
「結希はさ、自分がどこに向かって走るかじゃなくて、俺の影がどこにあるかばっかり見てるから転ぶんだよ。だから、踏まれる」
その時の彼の、少しだけ冷めたような、それでいてひどく透明な瞳の色を、私は今でも鮮明に思い出すことができる。
彼は私の影を踏みつけたまま、ポケットから一枚の紙切れを取り出した。
「俺、来週、東京に行く」
夕日を背にした彼の手の中で、それは風にパタパタと煽られていた。 東京行きの、片道切符だった。
「……え?」
「親父のツテで、向こうの工場で働くことになった。だから、もうこの町には戻らない」
その瞬間、世界からすべての音が消えたようだった。
遠くで鳴っていたはずの除雪車のエンジン音も、風が枯れ枝を揺らす音も、すべてが真空に吸い込まれた。ただ、彼の足の下で踏みつけられている自分の影だけが、そこから動けずに悲鳴を上げているような錯覚に陥った。
「戻らないって……ずっと?」
「ああ。俺はこの雪の中に埋もれて死ぬのはごめんだからな」
朔の言葉は氷柱のように鋭く、私の胸の柔らかい部分を突き刺した。
彼は私の影を踏みつけたまま、私をこの町に縫い留め、自分だけが軽やかに遠くへ飛び去ろうとしている。
私は彼を引き留める言葉を持っていなかった。冷たくなった頬に一筋の涙が伝い、それが顎の先で凍りつくような冷え切った感覚だけが、確かな現実として肌に残った。舌の上にしょっぱくて苦い味が広がった。
一週間後、彼は本当に片道切符を握りしめ、ディーゼルエンジンの重低音と、むせ返るような排気ガスの匂いを残して、駅のホームから去っていった。
私は彼を見送ったあとも、ずっと遠軽の町に残り、町役場の非正規職員として、昨日と同じ今日を繰り返すだけの時間を生きた。
朔が踏みつけていった私の影は、七年間、ずっとあの雪原に縫い付けられたままだったのだ。
私は新しい誰かを愛することも、この町を出ることもなく、ただ古いラジオのノイズに耳を傾けるように、記憶の中の朔の残響だけを反芻して生きてきた。
「ザーッ……ザザザッ……『――明日の道内は、高気圧に覆われ……』」
不意に、目の前の古いラジオのノイズが晴れ、アナウンサーの無機質な声が部屋に響いた。 ハッとして我に返る。
真空管の放つ微かなオレンジ色の光が、薄暗い部屋の中で私の顔を照らしていた。
ラジオから流れてくるのは、過去の幻影ではなく、紛れもない「今の時間」を告げる明日の天気予報だった。
私はゆっくりと視線を落とし、ちゃぶ台の上の片道切符を見た。
それは朔が持っていたものと同じ、後戻りのできない契約書だ。
七年かかった。私が、自分の足で自分を縛り付けていた影から一歩を踏み出すまでに、七回の長く厳しい冬を越えなければならなかった。
私はダイヤルに手を伸ばし、ゆっくりとラジオの電源を切った。
「プツッ」という音とともに、オレンジ色の光が消え、スピーカーからの音も完全に途絶えた。
部屋には再び深い静寂が戻ってきた。しかし、不思議とあの息苦しい閉塞感はなかった。
立ち上がり、窓のカーテンを開ける。 外はすっかり夜の闇に包まれ、街灯の冷たい光が、凍りついたアスファルトを青白く照らし出していた。
窓ガラスに手を触れると、指先から骨の髄まで凍りつくような圧倒的な冷たさが伝わってくる。けれど、それは確かに、私が今ここで生きているという輪郭を手触りとして教えてくれる冷たさだった。
私はちゃぶ台の上の片道切符を手に取り、財布の奥深くにしまった。
明日の朝、私はこの町を出る。
朔のいる東京へ行くわけではない。彼に会いに行くわけでもない。私が選んだのは、彼が向かったのとは逆の方向、南の島への切符だった。
「もう、踏まれてないよ」
私は、窓ガラスに映る自分の姿に向かって小さく呟いた。
部屋の蛍光灯に照らされた私の影は、私の足元から壁に向かって、誰にも踏まれることなく自由に伸びていた。
荷物をまとめ終え、部屋の電気を消す。
玄関のドアを開けると、三月の身を切るような夜風が、埃っぽかった私の肺の中の空気を一気に入れ替えた。
鼻腔を抜ける冷たく鋭い空気の匂いの中に、ほんのわずかだけ、雪の下で眠る湿った土の匂い――春の気配が混じっているのを感じた。
鍵を閉める金属音が、暗い夜道に響く。
私はブーツの紐をきつく締め直し、自分の影を踏み越えるようにして、凍った道を駅へと向かって歩き出した。
雪を踏みしめる「ギュッ、ギュッ」という確かな音が、今の私の、前へ進むための唯一の周波数だった。




