花薫る君
今日もまた、街を駆け抜けていく。
パン屋さんを右に曲がり、本屋さんを左に。赤いレンガの大きな家の前を通り過ぎて、レストランの裏道に入る。何も変わらない景色。でも、何故だろう。僕の気持ちは、ほんの少しだけちがう。今日はいつもより少しだけワクワクしてる僕がいる。胸の奥を暖かくさせながら足早に駆けていく。
しばらくして、あの丘に着いた。
今日もまた、海の向こうを見ている人がいる。僕が近寄ると、その風を受けて小さな草花と一緒に柔らかい髪が揺れた。
「おはよう。リータ」
その人は僕の名前を呼んで笑った。声を聞いた途端、一瞬風が強くなった。
ルテア。僕に名前をくれた、神様みたいな人。あの日から、こうしてふたりで丘の上でなんでもない話をするのが日課になった。
「おはよう。ルテア」
僕は嬉しい気持ちが伝わってしまわないように風の勢いを弱くして、必死に落ち着いた声で返した。ルテアはその目で僕を長く見つめた。
水面に揺らいだ陽の光のような。暖かくて、優しくて、綺麗な瞳をしていた。
そうしているうちに僕の中に熱が溜まっていく感覚がして、堪らなくなって彼女の目を見ないように視線を逸らした。すると彼女はまた笑った。晴れた日のお日様のような笑顔で、笑っていた。彼女は僕に尋ねた。
「ねえ、あなたはどこから来たの?」
僕は「分からない」と答えた。
「じゃあ、どこに住んでるの?」
僕は少し悩んでから「暗いところ」と答えた。
彼女は困った顔をして言った。
「あなた、お家に住んでないの?」
「お家って、どんなところ?」
「んー、そうねぇ。屋根があって、お部屋があって、ベッドがあって、暖かくて、風の入らない所…かな。」
「それなら僕はそこにはいられないよ。だって僕が''風''なんだから。僕が入ったら風が入って、せっかくのお家が暖かくなくなってしまうでしょう?」
僕がそういうと彼女はまた笑った。この子は本当によく笑う。
「ごめんなさい。そういうつもりじゃなかったの。でも、そうね。そうかもしれない。」
そう言ったあと、なにか思いついたような、悪戯そうな顔をしてこう続けた。
「…風の住むお家って、とっても面白くないかしら?ねえリータ。私のお家に私と一緒に住んでみない?」
僕は勢いで周りに大きな突風を作ってしまうほど驚いた。そのせいでルテアはバランスを崩して、僕は慌てて彼女の体を支えた。体勢を整えて落ち着いたのか、彼女はすぐに笑顔になってこう言った。
「その反応、嬉しいってことでいいの?」
意地悪く笑ったその表情を見ていると、図星をつかれたようで何も言えなくなってしまう。屋根があって、暖かくて、そんな場所があるならばもちろん住んでみたい。けれど、本当にいいのだろうかと僕は迷った。人には家族というものがあると聞いたことがある。同じ家に住んで一緒に生活をする仲間がいると。ルテアも人なのだから、彼女のお家にも家族がいるのではないだろうか。そんな場所に、僕のような冷たい風が入ってしまったら、ルテアが家族に嫌な顔をされてしまうかもしれない。僕はルテアに聞いた。
「本当に僕が行ってもいいの?」
ルテアはまた、お日様のように笑いながらこう言った。
「嫌な人のことを誘うなんてしないわ。」
僕を見つめる瞳は揺らぐことなく真っ直ぐに僕を捉えていた。きっと、嘘なんて一つもついてないんだろうと感じるほどに。僕は彼女を信じてみることにした。小さな声で「それなら、」と呟くと、彼女は満開の花のような表情をして飛び上がって喜んだ。
「決まりね!!」
彼女の弾けた声が、晴れた空に吸い込まれていった。




