虚無の奔流
壁のシミが、遠い国の地図に見えた。男は、規則的で単調な腰の動きを続けながら、その見知らぬ大陸の海岸線をぼんやりと目でなぞっていた。汗がこめかみを伝い、シーツに落ちて小さな円を描く。妻の吐息は短く、どこか義務的だった。それは彼自身の喘ぎの反響音のようでもあった。
何も感じていないわけではない。身体の芯には、鈍く、しかし確かな熱が渦巻いている。だが、その熱はかつてのように心を焦がす炎ではなく、古い暖房器具が放つような、ただそこにあるだけのぬるま湯だった。かつて、この行為の先には、目も眩むような光と、すべてが溶解するような恍惚があったはずだ。愛している、という言葉さえ陳腐に思えるほどの、魂の結合があった。
男――高橋亮介は、目を閉じた。瞼の裏に浮かんだのは、妻の顔ではなく、明日提出しなければならない設計図の青白い光だった。クライアントの無理な要求。後輩のミスの尻拭い。積み重なる疲労が、快感の神経を一本ずつ蝕んでいるようだった。
「…出る」
亮介は短く告げた。妻の身体が、合図を受け取ったようにわずかにこわばる。彼は最後の数回、腰の速度を上げた。思考が停止し、身体の命令だけが脳を支配する。熱い奔流が身体の奥からほとばしり、暗く湿った場所へと注ぎ込まれる。
その瞬間、亮介を包んだのは、解放感ではなく、むしろ巨大な虚無だった。すべてが終わってしまった、という感覚。祭りのあとの静けさとも違う、ただただ空っぽの静寂。彼は妻の身体から抜け出し、隣にごろりと横たわった。天井の木目が、風雪に耐えた老婆の皺のように見えた。
「シャワー、浴びる?」
妻の声は、壁一枚を隔てた向こうから聞こえてくるようだった。
「ああ」
短い返事だけを返し、亮介は寝返りを打った。シーツに残った生ぬるい湿り気が、彼の孤独を証明しているかのようだった。
翌朝、亮介は理由もなく会社を休んだ。智子がパートに出かけるのを見送った後、彼は電車に乗り、漫然と窓の外を流れる景色を眺めていた。そして、ふと、昔住んでいた街で降りた。
駅前の商店街は、ところどころ新しいチェーン店に姿を変えていたが、空気には昔と同じ、惣菜屋の油の匂いと古本屋の埃っぽい匂いが混じっていた。亮介と智子が同棲を始めたのは、この街の、駅から十五分ほど歩いた木造アパートの一室だった。
坂道を上り、記憶を頼りに角を曲がる。錆びた鉄の階段を持つそのアパートは、まだそこにあった。二階の角部屋。あの部屋で、二人はどれだけ互いを求め合っただろうか。給料日の前には、二人で百円玉をかき集めて一本の缶ビールを分け合った。未来への不安よりも、隣にいる温もりだけが世界のすべてだった。
あの頃の射精は、祝祭だった。愛の言葉の最終形であり、明日への生命力の確認だった。行為の後、二人は裸のまま抱き合い、どちらからともなく笑い合った。疲労感さえもが心地よく、満ち足りた眠りへと誘ってくれた。
亮介はアパートに背を向け、近くの公園へと歩いた。夕日を眺めたベンチは、ペンキが剥げ、ささくれ立っていた。そこに腰を下ろすと、まるで昨日のことのように、智子の笑い声が耳元で聞こえる気がした。
何が、僕たちを変えてしまったんだろう。
時間、だろうか。日常という名の、穏やかで退屈な毒が、少しずつ僕たちの身体を蝕んでいったのだろうか。子供ができなかったことへの諦め。親の介護。家のローン。一つ一つは些細な棘でも、積もり積もれば、かつて柔らかだった心はハリネSズミのようになる。
家に帰ると、智子がベランダで小さな植木鉢の世話をしていた。今年の夏から育て始めたミニトマトだ。赤く色づいた実が、西日に照らされて宝石のように輝いている。
「おかえりなさい。会社、大丈夫だったの?」
「ああ、ちょっとな」
亮介は革靴を脱ぎながら、曖昧に答えた。智子はそれ以上何も聞かず、一つだけ赤く熟れた実を丁寧に摘み取った。
「見て。今年最初の」
彼女は亮介の前に、その小さな赤い実を差し出した。子供のように無邪気な笑顔だった。亮介はそれを受け取り、口に放る。甘酸っぱい果汁が、乾いた喉にじわりと染み渡った。それは、紛れもない生命の味だった。
亮介は、智子の背後から、ためらうようにそっと腕を回した。彼女の肩が、驚きに小さく震える。パート先のスーパーの匂いと、土の匂いが混じり合って、彼の鼻孔をくすぐった。
「どうしたの、急に」
智子の声は、戸惑いながらも、拒絶の色はなかった。亮介は答えなかった。言葉にする代わりに、腕の力をわずかに強めた。彼の頬に、彼女の髪が柔らかく触れる。
次の射精が、かつてのような祝祭に戻ることはないだろう。失われた時間は戻らない。だが、それはもう、虚しいだけの終焉ではないのかもしれない。この腕の中にある温もりを、ベランダで育つ小さな命を、慈しむこと。熱狂的な歓喜ではなく、静かで、確かな愛しさを確かめること。
夕日が、二人の影をベランダに長く、一つに伸ばしていた。亮介は目を閉じ、妻の温もりと、口の中に残る甘酸っぱい生命の余韻を、ただ静かに感じていた。




