第二十一話 何故殺すのか
その雄叫びは大地を揺らすかの如く、轟き人間達を震え上がらせた。
その叫びには紛れもない怒りが織り交ぜられている。イーナ達はそれを見据える。生き残る事は難しいかもしれない。漠然とそんな気持ちが一同の心に湧き起こる。
四足歩行でありながら、前足が長くまた人間のように指が綺麗に別れている。指の先には研ぎ澄まされた刃の如き爪。灰色と茶色の彩を身に纏う。毛色は硬くそして太い。
「ゴリアテ…。」
男が呟いた。かつて、世界を支配していたと言われる大型動物の子孫にして、現在は頭数が減り、見かける事が少なくなった動物でもある。
それは何故か。そのゴリアテの生態は詳しく解明されてはいない。だが、雌が雄よりも強く、特に子育てを始め、子持ちのゴリアテは無類の凶暴性を持っている事が判っている。その凶暴性は、村や街を破壊しつくすほど。
過去300名が惨殺された史上最悪の動物災害もまたゴリアテによるものである事を、冒険や荒事を知る者達として、勿論イーナ自身も情報としては知っている事であった。
ゴリアテの別名は暴君。
怒り狂った一頭に街や村の自警団では歯が立たたず、騎士であっても衛兵であっても蹴散らす力を持つ。その暴れまわる様はまさに古より受け継がれる支配者の血のためだろうか。
魔力を有し、魔法をも使うとも言われるゴリアテはまさしく暴君と呼ぶに相応しい風体を持ってイーナ達の目の前に姿を現していた。
数年前に目撃情報があっただけで近年は村などへ襲撃する事もなくなっていたはずであった。ギルドは討伐対象での最高難易度に指定してはあるが、基本的には縄張りを持ち、そこに誤って侵入した人間であっても、姿を見せて、威嚇、警告行動をするために、早々襲われる事はなかった。
ゴリアテが人を襲う理由は人間側に問題があるのだ。威嚇などを無視した場合。密猟者などによる攻撃。子供に近づく。等々。だからこそ、今、何故そのゴリアテが街道に姿を見せているのか理解できなかったのである。
相手は威嚇でもない声を挙げているからして、何かあった事は明白だった。戦士である男達は苦虫を噛み潰す。何処かの馬鹿が暴君の怒りを買ったのだ。そのツケがあろうことか、全く関係ない自分達に来ている。その事に対する怒りと絶望。
「嬢ちゃん。やれそうか。」
戦士達は動けない。うかつに動けばゴリアテを刺激してしまう。それこそ、全面対決で人間が惨殺されるだけなのは眼に見えている。硬い毛に覆われていると共に、毛皮や筋肉の異常硬質化がゴリアテの最大の特徴であり、ゴリアテの繰り出す。前足。既に手であるが、その攻撃は鉄を纏う馬に轢かれる以上の衝撃を与えるとも言われている。
受け切れるかどうかすら怪しいものであった。戦士である男達は決して、弱くはない事をイーナはここまで一緒に護衛をしてきた仲として十二分に理解している。それでも尚、目の前にいる存在が場違いなのだ。
ファンベルンの騎士団でも6人で討伐できるか怪しい所だというのがイーナの素直な感想だった。
対抗手段は遠距離からの攻撃。近づかせないようにし、魔法によって徐々に削っていくのである。故に、今、イーナだけが相手に傷を負わせる可能性がある。そして、イーナ自身、足どめなら出来る自信があった。
水と土によって簡易落とし穴を作り、風によって押し込めばそれなりの時間稼ぎができるだろう。
「策があります。万が一は動きを。」
男達はその言葉を聞いて覚悟を決める。動かなければどちらにせよ死ぬだけだろうという気持ちからであった。
イーナは、そう言った後に杖を振るう。水土の無詠唱によってゴリアテの地面を泥に変える。だが、無詠唱によるために威力が出ずに沈めきれない。
ゴリアテが動く前に戦士達がゴリアテに向かい刃を振り下ろすが、ゴリアテは何事もないかのように右手の張り手で三人を吹き飛ばすと共に、移動しようとする。
だが、イーナが戦士達が一蹴されている時に詠唱を終え、風魔法を発動させる。先ほどの無詠唱ではない、威力のある魔法にゴリアテは泥へと一気に沈み、足の第一関節部までを埋める事に成功した。
さらに追撃の水土を詠唱する。這い上がるまでの時間を利用して、もがくごとに沈めるようにするためであった。だが、詠唱が終わる瞬間にゴリアテは抜け出て来る。
―――速い!
イーナの予想を上回る速度で行動するゴリアテはイーナをもっとも危険な敵と認識し排除に移った。突進が来るのを黙って見るわけもなく、イーナは横に飛び退くが、こうなってしまえば対処のしようがない。
無詠唱魔法を放つがゴリアテは物ともせずに突っ込んでくる。飛び掛かるゴリアテにイーナは回避が間に合わないと悟る。次の瞬間イーナは地面に叩き付けられる。だが、イーナには意識があった。咄嗟に自身のスキルを発動。即効性スキルである付与型防御スキルを使ったのであった。一時的に身体に膜を展開させてあるために本体に攻撃が届かない。代わりにこうした叩きつけなどには本体に衝撃自体が加わるために、無傷ではないのだが、そんなことに構っていられる余裕はない。一時的に凌げてももはや逃げられない。
だが、次の瞬間、戦士が駆けた。ゴリアテの目の前から。その事に気づくゴリアテは押さえつけていない左手で迎撃する。
戦士は巨大な面積を誇るゴリアテの張り手を受けた。受け止めたのである。男の身体の周りには真っ赤に燃える小さな球体が無数に浮遊していた。
感染付与型であることはイーナには理解できたが、効果は眼を見張った。ゴリアテの一撃を受け止めたのである。自身の身体で持って。男は受け止めると跳躍した。狙いは眼球。男の切っ先がゴリアテの右目を突き刺した。
激しい痛みに叫び声を挙げるゴリアテはイーナの拘束を解くと即座に男に襲いかかる。男はゴリアテの掴みを的確に避けると腕を斬り付ける。攻撃が貫通する事はなくても、ゴリアテは嫌がっている事が判った。男は再度、隙を見てもう一つの眼を潰そうと躍起になっている。その顔には余裕がない。恐らくは使用スキルに制限があるのだろうか。
ゴリアテは持ち直し、怒りに震える叫び声を挙げる。次の瞬間、男は吹き飛ばされた。
―――速すぎる。
男は遠のく意識の中でそう呟いた。今までと比べモノにならないほどの速度で肉薄し、そのまま掴み投げられたのである。感覚が消えていき、心臓の脈動が全身から聞こえてくる現状を男は理解し、意識を手放した。
既に生き延びているものは商人とイーナ。そして戦士二人であった。一人は初動で吹き飛ばされたが足と腕を折る程度で助かっていただけにすぎない。
絶望的状況だった。全員がゴリアテの圧倒的な素早さに対応できないでいた。あまりに巨躯な肉の塊が小鳥の如く軽やかに動き回る。
ここで、全員が殺される覚悟をした時、唐突にゴリアテは村の方を見つめた。風が吹いたのである。鼻を動かすゴリアテはゆっくりとイーナ達を無視して村へと移動する。
一体何が、おこったのか、イーナには判らなかった。その視線の先にハルカを見つけるまでは。
「ハルカ!」
叫んだ。
ハルカは動じない。そしてゴリアテもまた、動きを止めた。奇妙な空気が流れ始めている事に生きている者は感じ取っていた。最初にイーナは風だと感じた。だが、それは濃い霧のようにも感じられるように変化している。
「判らない。何が良くて、何が悪いのか。」
ハルカの眼が輝いていた。炎のように、揺らめき何か強大な力の光を宿している。
「何を殺し、何を生かす。」
全員が唖然とする。ハルカの周囲に漂っていた白むほどの何かが魔力である事に気づく。人が感知できないほど薄くなった魔力が俄かに力を増していく。
ゴリアテは動かなかった。いや、動けないのかもしれない。
内包されている魔力があふれ出ていくかのように、霧は濃くなっていく。ゴリアテとハルカはやがて、白む空間に喰われていく。イーナ達はそれをただ、見つめている事しかできなかった。
否。全員の心には恐怖が芽生えていた。
その光景を騎士はハルカの後ろから見つめていた。騎士も動く事ができなかった。魔力を感じていたのも当然ある。
しかし、これ以上一歩でも先に進めば、自分が死ぬ。
本能なのかもしれない。騎士は今まで決して少なくない数の戦場や戦闘を経験してきている。その身体が、思考が、動く事を猛烈に拒む。
「どうして。どうして?」
ハルカの独白だけが聞こえてくる。
「貴方はどうして殺すの。貴方はどうして生きるの。」
誰に向けるのか。獣に向けるのか。その言葉を。答えは出ず。何も判らず。ただ、ハルカは呟く。言い知れぬ。表現の出来ない身体の内部に眠る何か。頭の中に知らない誰かを感じ取る。
「逃げる事も出来ず。どうすべきかも判らず。ただ、歩く。私は―――。」
その瞬間。白みが姿を変える。数多の。数多の刃がそこにはあった。
「殺す。」
たった一言。
その一言で、ゴリアテは数百、数千もの刃に貫かれる。硬く堅牢な外殻とも取れるような獣の皮も毛も。もろともせずに。
刃は、巨躯な獣の魂を何の迷いもなく食い潰した。
「何のために。私は殺すのか。」
後に残るのは、意識を失い、倒れたハルカと数千の穴から鮮血を流す肉の塊。ただその光景を生き延びた者達が見つめているだけだった。
普通にゴリラという名前よりはマシかと思ったので…。