第9話 夜明けの別れと父との衝突
まだ陽が昇る前の、静かで柔らかな時間。キャピュレット邸の部屋には、窓からかすかな夜気が流れ込んでいた。
「ねえ、ロミオ……今のって、夜鳴き鶯の声よ。朝のヒバリじゃないわ」
ジュリエットはベッドの中で、ロミオの肩にそっと頬を寄せながら、か細い声で言った。
「いや、違うよ。あれはヒバリだ。もうすぐ夜明けだ……俺は、行かなきゃならない」
ロミオの言葉に、ジュリエットの瞳が揺れる。
この一夜は、夢だったのかもしれない。
ふたりだけの、短くも永遠に思えた時間。それが、もう終わろうとしている。
「少しだけ……もう少しだけ、いて……」
「ジュリエット……気持ちは同じだよ。俺だって、ずっと君のそばにいたい。
だけど、見つかれば……処刑される。そうなれば、君に二度と会えなくなる」
彼の腕が、優しく彼女を抱きしめた。別れの予感が、部屋中に満ちていた。
「私……絶対に忘れない。この夜も、あなたも」
「俺もだ。君を、永遠に愛してる。マントヴァの町から、必ず迎えに戻る。だから……生きていてくれ」
ロミオは名残惜しそうにキスを交わし、バルコニーの窓辺へと向かう。東の空には、うっすらと朝の気配が差し始めていた。
「……さようなら、私の愛しい人」
「また会おう、俺のすべて」
ロミオが姿を消した直後、ジュリエットはゆっくりとベッドに腰を下ろし、両手を胸元に当てた。
彼の温もりが、まだそこに残っている気がした。
けれど――
「ジュリエット? 入っていい?」
部屋の扉が開き、キャピュレット夫人が入ってくる。
ジュリエットは慌てて涙をぬぐい、表情を整えた。
「どうかしら、少しは落ち着いた? ティボルトの死で、あなたも辛いでしょうけど……いい知らせがあるの」
母の言葉に、ジュリエットは目を見開いた。
「いい知らせ……?」
「あなた、すぐにパリス様と結婚なさるのよ。父上がそうお決めになったの。今週の木曜日に、盛大に式を挙げましょう」
「……な、何ですって?」
ジュリエットの顔が真っ青になる。
「無理です! そんなこと、できません!」
「何を言ってるの? 今のあなたには、慰めが必要なのよ。パリス様はとても優しくて立派な方――きっと幸せになれるわ」
「そんなの……嫌! 私は、結婚なんてしたくない!」
怒りと悲しみが入り混じった声に、キャピュレット夫人は眉をひそめた。
「この子……悲しみで気が動転してるのね。ちょっと父上に相談してくるわ」
足音を響かせて部屋を出ていく母。そのわずか数分後――
バンッ!
部屋の扉が荒々しく開かれ、キャピュレット卿が怒鳴り込んできた。
「ジュリエット! 聞いたぞ! 結婚を拒んだそうだな!」
「お父様、私には……私には、どうしてもできません……」
「黙れ!」
その一喝に、部屋の空気が凍りつく。
「いいか、言うことを聞かぬなら、お前など勘当だ! 飢え死にでもすればいい!」
「お父様……お願い……聞いて……!」
ジュリエットは父に縋りついたが、その手は無情にも払いのけられた。
「見苦しいぞ!」
「旦那様、どうかお静かに……お嬢様もお疲れなのです」
乳母が慌てて止めに入るが、キャピュレット卿の怒りは収まらない。
「黙れ、下女が口を挟むな!」
ジュリエットは必死に涙をこらえた。だがその瞳には、深い絶望が宿っていた。
父が出ていき、母も「好きにしなさい」と冷たく背を向けて部屋を去った。
静まり返った部屋で、ジュリエットはただひとり、肩を震わせた。
「乳母……どうしたらいいの?」
すがるように問いかけたその声は、どこか幼さを残していた。
だが――
「……お嬢様、パリス様とご結婚なさいませ。ロミオ様は、もう戻って来られません」
「……え?」
心臓が、凍りつく。
この人まで、私を裏切るの?
「そう……わかったわ。そうするしか、ないのよね」
ジュリエットは微笑んだ。けれどそれは、まるで仮面のような笑顔だった。
乳母が満足げに部屋を出ていくと、ジュリエットはゆっくりと立ち上がり、窓の外を見つめた。
(もう、誰も……私の味方はいない)
でも、ひとつだけ信じられる人がいる。
「ロレンス神父……どうか……導いてください。もし、どうにもならないのなら……」
その先の言葉は、風に消えていった。
少女は決意を胸に、夜の教会へと歩き出す。