第8話 絶望の涙と一夜の安らぎ
夜の訪れを待ち焦がれながら、ジュリエットは静かに窓辺に佇んでいた。
「駿馬よ、太陽を引いて、西の空へと駆けて……あの人を、私のもとに連れてきて……」
その声はかすかに震え、胸の奥に溢れる愛と期待が、頬を紅潮させていた。
今宵こそ、新たな夫との初めての夜──ジュリエットは少女としてではなく、妻としてロミオを迎えるはずだった。
だが──。
「お嬢さま!」
慌ただしく扉が開かれ、乳母が飛び込んできた。
「ティボルト様が……それに、ロミオ様が……!」
息も絶え絶えに言いかける乳母の様子に、ジュリエットの胸が一気に凍りつく。
「ロミオが、死んだの……?」
「い、いいえ……ロミオ様が……ティボルト様を……」
ジュリエットの足元が、音もなく崩れた。
ふらりと倒れ込む彼女を、乳母が支える。
震える唇がかすれた声を漏らす。
「……嘘よ……あの人が、そんなこと……」
怒りと悲しみが一気に噴き出し、ジュリエットは叫ぶ。
「ロミオなんて、なんて酷い人! どうして、どうして……!」
それは、従兄ティボルトへの愛しさと、夫ロミオへの信頼とが、引き裂かれるような痛みとなってほとばしる叫びだった。
だがその怒りも、次第に静まり、代わって呟きが落ちる。
「……でも、あの人を悪く言う資格なんて、私にはない……だって、私の……夫なのだから……」
ジュリエットは静かに顔を上げた。目には涙が浮かんでいたが、その瞳は確かに前を見ていた。
「お願い、乳母様。あの人に伝えて……私は今も、変わらず、彼を……信じていると」
震える指で外した指輪を、彼女は乳母の掌に託す。
「これを、ロミオに……渡して」
乳母は、少女の想いを確かに受け取り、深く頷いた。
「今夜、必ず……彼をここに連れてまいります」
一方、モンタギュー邸からも遠く離れた町外れの教会では、ロミオが絶望に沈んでいた。
「追放だと……? 死刑のほうがまだマシだ!」
ロレンス神父の前で、ロミオは顔を覆い、床に崩れ落ちる。
「ジュリエットは……きっと、俺を軽蔑したはずだ。あんなひどいことをして……もう、顔向けもできない……」
「ロミオ、落ち着きなさい。君は命を失わずに済んだのだ。それがどれほどの奇跡かわかっているのか?」
「神父様にはわからない……ジュリエットと生き別れるくらいなら、いっそ……!」
ロミオは、腰に差した短剣を抜いた。その瞳は涙で滲み、だが確かに本気だった。
「もう、どうにもならないんだ……!」
「やめなさい、ロミオ様!」
駆け込んできた乳母が、息を荒げながら叫んだ。その手には、ジュリエットの指輪が握られていた。
「お嬢さまは、あなたを愛し、あなたを許し、あなたに会いたがっています!」
短剣の動きが止まり、ロミオの目が揺れる。
「……ジュリエットが、俺を……?」
乳母は、震える手で指輪を差し出した。ロミオはそれをそっと受け取り、握りしめた。
「……まだ、俺を……」
彼の瞳に、一筋の光が差し込んだ。
ロレンス神父は、その変化を静かに見届け、やがて厳かな声で語った。
「ロミオ。今夜、密かにジュリエットのもとへ行きなさい。ただし夜明けにはこの町を去り、マントヴァで身を隠すのだ。事態が落ち着いた時、君たちの結婚を公表し、両家を和解させる。それが、君たちの未来だ」
ロミオは、涙を拭い、力強く頷いた。
「ありがとう、神父様……乳母様……俺は、行きます。ジュリエットのもとへ」
夜の帳が下り始める頃、ロミオは教会を飛び出した。
希望と愛を胸に──そして最後の夜が、静かに始まろうとしていた。