第6話 秘密の結婚式と束の間の幸せ
朝の光がヴェローナの街に差し込み、キャピュレット邸の窓を淡く照らしていた。
ジュリエットは部屋の中を行ったり来たりしながら、窓の外を何度も覗いた。
「まだ戻らないのかしら……」
乳母は、夜明けとともにロミオの元へ向かった。
彼の返事──彼の愛──そして今日という日のすべてが、彼女の胸を満たすはずだった。
やがて玄関から軋むような音がし、厚い靴音が廊下に響いた。
「おばさま!」
ジュリエットは階段を駆け下り、乳母に飛びついた。
「はあ、はあ……。もう少しで、息が絶えそうでしたよ……」
乳母は額の汗を拭いながら腰をさすった。
「そんなことより、ロミオは何と? 私に……私に何と?」
「ま、まあ、あわてなさんな。わたしのこの足、雷に追われてでもいたら、きっと昨日より十年は老けてたに違いありませんよ」
「お願い、早く……!」
ジュリエットが身をよじるようにせがむと、乳母はようやく口を開いた。
「お嬢様──今日の午後、ロレンス神父の教会で、式を挙げなさいます」
一瞬、時が止まったようだった。
次の瞬間、ジュリエットの瞳にぱっと光が差し、両手で顔を覆って小さな歓声をあげた。
「……ほんとうに? あの方が? 今日?」
乳母は微笑んで頷き、ジュリエットの手を取りそっと握った。
「本当ですよ。さあ、お支度をなさいな。遅れたら、せっかくの花婿が待ちくたびれてしまいますよ」
*
午後。ロレンス神父の教会は、ひっそりと静けさに包まれていた。
小さな礼拝堂の前には、ロミオが一人、胸を高鳴らせて立っていた。
神父は祭壇に準備を整え、静かに祈りを捧げていた。
その背後には、年月の重みを感じさせる木の十字架が、穏やかな光に包まれている。
扉がそっと開く。
控えめなドレスに身を包み、わずかに紅を差したジュリエットが、乳母に手を引かれて姿を現した。
ロミオはその姿に息を呑み、自然と歩み寄った。
「君は……まるで、天使だ」
「あなたも、今日が初めてなの?」
「ええ。だけど、こんなに幸せな気持ちになるなんて、思ってもいなかった」
ふたりは手を取り合い、祭壇の前に立った。
ロレンス神父がゆっくりと語り始める。
「お前たちの愛は──家を越え、憎しみを越え、今ここに実を結ぼうとしておる。
されど、激しい喜びは、時に激しい結末を招く。慎み深き者に、天は微笑む。
……この誓い、神とこの証人の前にて、真実の愛とするか?」
「はい」
ロミオが真っすぐに頷いた。
「はい」
ジュリエットの声は小さく震えながらも、芯の強さを帯びていた。
二人はそれぞれ、指輪の代わりに、細い白い糸を互いの指に結び合った。
それは誓いの証──誰にも知られぬ、ただふたりの秘密の印。
「では、天の加護のもとに、この契りを祝福しよう。
ロミオとジュリエット、汝らは今より夫婦である」
沈黙が流れた。
その静寂の中で、ふたりはゆっくりと見つめ合い、微笑んだ。
涙ぐんだ乳母がそっと顔を拭く。
「まったく、うちの小さなお嬢様が、こんなにも立派になられて……」
ジュリエットがロミオの肩にそっともたれかかり、囁くように言った。
「夢みたい……でも、本当に夢じゃないのね」
「夢じゃないよ、ジュリエット。君は僕の妻だ。僕は君の夫だ。
もう何があっても、心は離れない」
ふたりの間には、やさしい沈黙が流れた。
ロレンス神父は祈るように言った。
「願わくば、この結びが──ふたつの家に平和をもたらさんことを」
そして、夕暮れがゆっくりと街を包み始めた。
ふたりの幸福は、まるで短く咲いた花のように、しんとした光に照らされていた。
だがその幸福が、どれほど儚いものであるかは、まだ誰も知らなかった──。