第4話 バルコニー越しの愛の誓い
キャピュレット邸の庭は、舞踏会の喧騒が去ったあとも、静かに月の光に照らされていた。
大広間の灯りが消え、屋敷は眠りに落ちている。だが──その庭に、ひとつの影が忍び込んでいた。
ロミオだった。
壁をよじ登るようにして庭に入り込み、彼は高い木の陰に身を隠す。
まるで夢の続きを求めるように、彼は仮面を脱ぎ捨て、深く息を吸い込んだ。
「心が……ここに引き寄せられる。あの娘の声が聞きたい、姿が見たい──」
命の危険など、思考の外にあった。
敵の屋敷に忍び込むということが、どれほど無謀かなど、彼にはもう分からなかった。
そのとき──
上階のバルコニーに、灯りがともった。
静かに扉が開かれ、白い影が現れる。
ジュリエットだった。
彼女はまだ舞踏会の装いのまま、夜風に身をさらして立っていた。
誰もいない空へと向けて、ぽつりと呟く。
「ロミオ……ロミオ、あなたはどうしてロミオなの?」
その声音は夢うつつのようにか細く、けれど確かな切なさを帯びていた。
「モンタギューという名を捨ててくれたなら……そうすれば、私はあなたを愛せるのに」
ロミオはその言葉に息を呑んだ。
自分の名が、彼女の心を苦しめている。
それでも、彼女の声は優しく、胸の奥を温めてくれる。
「聞いていたのかしら、風が──それとも……」
ジュリエットがさらに小さく囁いたそのとき。
「風ではない。僕だ」
彼女の下から、ロミオの声が返った。
ジュリエットははっとして身を乗り出す。
「……誰!?」
「恐れないで。僕だ、ロミオだよ。君を見たくて、いてもたってもいられなくなって……」
「こんなところに来て……見つかったら、殺されるわ!」
「かまわない。君のひとことを聞けるなら、命など惜しくはない」
ロミオは堂々と立ち上がり、月明かりの下で顔を見せた。
その姿を見たジュリエットの顔が赤く染まり、胸元に手を当てた。
「なぜ、あなたなの……」
「なぜ、僕は君を知る前に、生まれたのだろう……」
ふたりは見つめ合い、まるで時が止まったかのような沈黙が流れる。
「あなたは、本気で私を……?」
「誓うよ、月に。いや、月は変わるから……君自身に誓おう。僕の心は、もう君以外を見ない」
ジュリエットは少し困ったように微笑んだ。
「あなたの言葉は甘くて、まるで夢みたい。でも……本気なのね」
「明日、修道士に頼んで婚姻の段取りを整える。だから……僕に、信じる時間をくれ」
ジュリエットはうなずいた。
「なら、明日。私の乳母を使者に送ります。準備ができたら、伝えて」
その瞳には、不安と希望が揺れていた。
こんなに早く決断するには、あまりにも危うくて、あまりにも純粋だった。
けれど、若さゆえの情熱は、ときに理屈を凌駕する。
「でも……もう行って。誰かに見つかったら、本当に……」
ジュリエットの声が震える。
「あと少しだけ……君の声を聞いていたい」
ロミオの声は低く、優しかった。
バルコニーの上から、ジュリエットがそっと手を伸ばす。
ロミオもまた、その手を追いかけるように伸ばす──だが、届かない。
「……離れたくない」
「わたしも。こんなに、別れが辛いなんて思わなかった」
そのとき、屋敷の奥から乳母の声が響いた。
「お嬢様、もうお休みください!」
ジュリエットは肩をすくめたようにして笑う。
「何度呼ばれても、あなたと話していたいのに……」
ロミオは微笑みながら、一歩下がった。
「明日、必ず使者を。君の言葉があれば、僕はどこへでも行く」
「必ず」
ふたりはもう一度見つめ合い、そして静かに別れを告げた。
ジュリエットはバルコニーの扉へと消えていく。
ロミオは夜の静けさの中を、振り返ることなく歩き出す。
けれど、ふたりの心は確かに結ばれていた。
敵同士という宿命に抗ってまで、愛し合うことを選んだ、若く真っ直ぐな魂が。
それは、夜の帳の下でひそやかに交わされた、誰にも知られぬ誓いだった。